今年は庭のリンゴが豊作である。
たぶん300個ぐらいは実をつけたと思う。
品種はフジ。
10年以上前に僕が植えて、この庭で最初に自分で植えた木だ。
冬の間に枝を選定するぐらいで特に手入れはしていない。
ニワトリエリアにあるからだろうか、鶏糞で栄養たっぷりなのだと思う。
間引きをするわけでもないが、大きい実がたわわに成る。
実は甘く、蜜がたっぷり入っている。
だが全体の半分ぐらいは虫に食われている。
と言っても、切る時にそこの部分だけ除ければ済む程度の話だ。
だが商売物としては駄目だろう。
店に出回っている物はやはり農薬とか使っているんだろうなあ。
家の近所に大きなカリンの木の家がある。
今年はそこの庭先にダンボール箱が置かれ、カリンが入れられ後丁寧にレシピまでコピーして入れてあった。
使う人は勝手にどうぞ、というわけだ。
散歩の時にそこを通ったら、箱ごと持って行けとたくさんのカリンをいただいた。
その家の人とも言葉を交わすのは今回が初めてだ。これもロックダウンのおかげだな。
カリンのお返しにうちのリンゴをいくつか持っていった。
梨も収穫の時だったので、次の日は梨という具合に持っていった。
その翌日に郵便受けに、お礼の手紙と手作り黒スグリのジャムが入っていた。
カリンのお宅の人がリンゴと梨のお礼にと、散歩のついでに置いて行ってくれた様だ。
黒スグリはブラックカラントと言う、フランス語ではカシスだ。
頂き物のジャムは甘すぎることがよくあるのだが、これは絶妙のバランスでとても旨い。
次の日にまたリンゴを持っていって、ジャムのお礼をした。
向こうもうちのリンゴは甘くて旨いと大喜びだ。
庭のリンゴは熟して風の強い日はボタボタ落ちるので、先日全て収穫した。
今年はカリンのお宅を見習って、大小30個ほどダンボールに入れて家の前に置いてみた。
ロックダウンで散歩をする人が多いからか、数日で全て無くなった。
仲の良い友達とか目に見える人にあげるのも良いが、こうやって見知らぬ人におすそ分けをするのも良い。
よく家で取れたものを無人販売で売る家はある。
そうやって子供の小遣い稼ぎにするのであろう、それはそれで否定はしない。
だが我が家では自分の庭で取れたものは売らない。
僕はかなり気前良く人にいろいろなものをあげるが、お金は受け取らない。
これは自分のポリシーであり生き様である。
そしていただく物も遠慮なくいただく。
自分が色々あげた人、そうでない人、関係なくいただく時はいただく。
いただいた時は「すみません」ではなく「ありがとう」なのだ。
人に物をあげる時に気をつけることは、自分の心の中に「自分はこれだけあげているのに」という見返りを求める感情を持っていないかどうか。
それがあるならやらない方が良い。
基本は相手が喜んでくれるかどうか、その行為が媚になっていないか。
そして何かあげたらその事を忘れる、これが無償の愛というものだと思う。
本田健という作家がユーチューブで話をしているのを見て、ナルホドなと思うことが多々ある。
その中で彼が視聴者に言った言葉で、今なにをするべきかという質問に答えた。
「人にあなたが持っているものをあげてください。あげるものを持っていない人は笑顔をあげてください。」
世の中はグチャグチャになってしまっているが、そこに光があるならばこれだと思うのである。
人間の行動は元をたどれば、愛か恐れかどちらかになると言う。
恐れというものはそこから不安、恐怖という感情になっていく。
そしてまた不安や恐怖は人から人へ移る。
感染するのだ。
病気は感染しなくても、不安はネットやテレビなどを通じて感染する。
そういう人の書き込みはなんとなく分かるので、最近は見ないようにしている。
思うに、笑いやユーモアというものは恐れや不安を中和するのではなかろうか。
笑いというものが病気を治すと言うのはすでに実証されている話だ。
こんな時だからこそ、笑いとユーモアが大切なのではなかろうか。
ただそれも受け取り手にも関係がある。
ある事柄一つでも笑える人と笑えない人はいることだろう。
そこで必要なのがバランスとタイミングだろうな。
まあなにを見ようが聞こうが、悪く取る人は悪く取るし、笑い飛ばす人は笑うだろう。
僕が2ヶ月前に作った歌も、今では当てはまる人が多すぎて公表できない。
そのうちに落ち着いたらまた宴会芸で歌うことにしよう。
ちなみにその歌のタイトルは
『あんたの心が感染源』
リンゴの話がとんでもない方向に行ってしまった。
まあいいか。
恐怖は伝染するが、その反対側にある愛というものも、人から人へ伝わる。
物をいただいてお礼を返すこともあるが、そのお礼の気持ちを別の人へ贈り、そこからまた次へと繋がることもある。
そういう繋がりがある時には、何かほのぼのと暖かいものを感じるのだ。
きっと我が家のリンゴも、散歩する人にもらわれてその家を幸せにすることだろう。
たぶん300個ぐらいは実をつけたと思う。
品種はフジ。
10年以上前に僕が植えて、この庭で最初に自分で植えた木だ。
冬の間に枝を選定するぐらいで特に手入れはしていない。
ニワトリエリアにあるからだろうか、鶏糞で栄養たっぷりなのだと思う。
間引きをするわけでもないが、大きい実がたわわに成る。
実は甘く、蜜がたっぷり入っている。
だが全体の半分ぐらいは虫に食われている。
と言っても、切る時にそこの部分だけ除ければ済む程度の話だ。
だが商売物としては駄目だろう。
店に出回っている物はやはり農薬とか使っているんだろうなあ。
家の近所に大きなカリンの木の家がある。
今年はそこの庭先にダンボール箱が置かれ、カリンが入れられ後丁寧にレシピまでコピーして入れてあった。
使う人は勝手にどうぞ、というわけだ。
散歩の時にそこを通ったら、箱ごと持って行けとたくさんのカリンをいただいた。
その家の人とも言葉を交わすのは今回が初めてだ。これもロックダウンのおかげだな。
カリンのお返しにうちのリンゴをいくつか持っていった。
梨も収穫の時だったので、次の日は梨という具合に持っていった。
その翌日に郵便受けに、お礼の手紙と手作り黒スグリのジャムが入っていた。
カリンのお宅の人がリンゴと梨のお礼にと、散歩のついでに置いて行ってくれた様だ。
黒スグリはブラックカラントと言う、フランス語ではカシスだ。
頂き物のジャムは甘すぎることがよくあるのだが、これは絶妙のバランスでとても旨い。
次の日にまたリンゴを持っていって、ジャムのお礼をした。
向こうもうちのリンゴは甘くて旨いと大喜びだ。
庭のリンゴは熟して風の強い日はボタボタ落ちるので、先日全て収穫した。
今年はカリンのお宅を見習って、大小30個ほどダンボールに入れて家の前に置いてみた。
ロックダウンで散歩をする人が多いからか、数日で全て無くなった。
仲の良い友達とか目に見える人にあげるのも良いが、こうやって見知らぬ人におすそ分けをするのも良い。
よく家で取れたものを無人販売で売る家はある。
そうやって子供の小遣い稼ぎにするのであろう、それはそれで否定はしない。
だが我が家では自分の庭で取れたものは売らない。
僕はかなり気前良く人にいろいろなものをあげるが、お金は受け取らない。
これは自分のポリシーであり生き様である。
そしていただく物も遠慮なくいただく。
自分が色々あげた人、そうでない人、関係なくいただく時はいただく。
いただいた時は「すみません」ではなく「ありがとう」なのだ。
人に物をあげる時に気をつけることは、自分の心の中に「自分はこれだけあげているのに」という見返りを求める感情を持っていないかどうか。
それがあるならやらない方が良い。
基本は相手が喜んでくれるかどうか、その行為が媚になっていないか。
そして何かあげたらその事を忘れる、これが無償の愛というものだと思う。
本田健という作家がユーチューブで話をしているのを見て、ナルホドなと思うことが多々ある。
その中で彼が視聴者に言った言葉で、今なにをするべきかという質問に答えた。
「人にあなたが持っているものをあげてください。あげるものを持っていない人は笑顔をあげてください。」
世の中はグチャグチャになってしまっているが、そこに光があるならばこれだと思うのである。
人間の行動は元をたどれば、愛か恐れかどちらかになると言う。
恐れというものはそこから不安、恐怖という感情になっていく。
そしてまた不安や恐怖は人から人へ移る。
感染するのだ。
病気は感染しなくても、不安はネットやテレビなどを通じて感染する。
そういう人の書き込みはなんとなく分かるので、最近は見ないようにしている。
思うに、笑いやユーモアというものは恐れや不安を中和するのではなかろうか。
笑いというものが病気を治すと言うのはすでに実証されている話だ。
こんな時だからこそ、笑いとユーモアが大切なのではなかろうか。
ただそれも受け取り手にも関係がある。
ある事柄一つでも笑える人と笑えない人はいることだろう。
そこで必要なのがバランスとタイミングだろうな。
まあなにを見ようが聞こうが、悪く取る人は悪く取るし、笑い飛ばす人は笑うだろう。
僕が2ヶ月前に作った歌も、今では当てはまる人が多すぎて公表できない。
そのうちに落ち着いたらまた宴会芸で歌うことにしよう。
ちなみにその歌のタイトルは
『あんたの心が感染源』
リンゴの話がとんでもない方向に行ってしまった。
まあいいか。
恐怖は伝染するが、その反対側にある愛というものも、人から人へ伝わる。
物をいただいてお礼を返すこともあるが、そのお礼の気持ちを別の人へ贈り、そこからまた次へと繋がることもある。
そういう繋がりがある時には、何かほのぼのと暖かいものを感じるのだ。
きっと我が家のリンゴも、散歩する人にもらわれてその家を幸せにすることだろう。