20代の頃から心に思い浮かべている映像がある。
自分という存在は1本の木である。
自分がこの地で生きながらやっている様々な物事はその根っこだ。
ニュージーランドという国で、友と遊び酒を飲み飯を食らう。
人とケンカをすることもあれば、見ず知らずの人と挨拶を交わす。
友達もたくさん出来たが、疎遠になる人もいる。
山を歩き森に触れ、雪山を滑り洞窟にもぐり、時には自転車に乗り、カヤックという物も漕いだ。
友達に誘われヨットでセーリングしたこともあれば、小さなゴムボートで湖に浮かぶ小島に渡り朝のコーヒーを飲んだこともある。
昔つきあっていたガールフレンドの実家の牧場で羊や牛を追ったこともあれば、酔っぱらいにからまれながらバスの運転をしたこともあった。
ワイン用のブドウを収穫したこともあり、ホワイトベイトを捕ったこともあった。
人に話すほどのこともない日常のささいな行いから、自慢できるほどの武勇伝まで。
これは自分という木の根っこである。
ボクがいろいろな事をやり、見て、考え、感ずるほどに、その根は深く、深く、大地の奥へ伸びていく。
根は地中深く伸びていくが、その姿は誰からも見えない。
ただ自分のみがその存在を感じている。
ねが深く伸びるほどその上にある木は大きくなっていく。
そして大きくなった木には大きな花が咲くであろう。
今シーズン初めにトーマスと会って酒を飲み話をした。
トーマスとは10年近くのつきあいになるだろうか。
ヤツが初めてNZに来た時、近くの牧場で七輪焼き肉酒池肉林の宴をしてトーマスと命名した。
アーサーズパスを一緒に歩き、クラブフィールドで滑り、フィヨルドランドを登り、あちらこちらで共に酒を飲んだ。
僕らはつかず離れず、いろいろな事を一緒にやった。
そういった経験は僕らの根となり地中深いところでからみあっている。
そういった共通の根とは別にヤツ自身の根も深く深く育っている。
テンプルベイスンで大ケガをしたり、マウントクックやフィヨルドランドでガイドをし、グレイマウスで学んだ。
その間に結婚、子の誕生というドラマもあった。
今ではヤツはフィヨルドランドで鳥の保護の為に働いている。
これはフツーの日本人では出来ないことだ。
トーマスなればこそ出来ることであり、それがヤツという木の根っこなのだ。
先日トーマスが日本に帰った際、ある山歩き専門のツアー会社と関係を結び、NZにツアーで訪れる人のツアー料金の一部から鳥の保護に寄付を回すという話にこぎつけた。
その会社のパンフレットにはヤツが書いた鳥の保護の話が載せられている。
日本の私企業とNZの公の機関であるDOCとの大いなる一歩をヤツが作ったわけだ。
こんな事は他の何人たりともできやしない、ヤツだからこそできることであり、見方を変えればヤツがやるべくしてやったことなのだろう。
トーマスがやってきたいろいろな経験、人里遠く離れた無人の海岸線のゴミ拾いや、登山道もないような所へ入り込み害獣のワナをしかける仕事。
ボクは話を聞くだけだが、それがヤツの根っこだと感じていた。
その根の上に木が育ち、日本のお客さんとこの国での自然保護のつながりという花が咲いた。
ボクはこんな友を持ったことに誇りを覚える。
ヤツはまだまだ活動を続け、これからも花を咲かせることだろう。
それには根をもっともっと深く伸ばすことも忘れてはいけないが、トーマスはそれをやり続けるであろうし、そんな友を見ているのもボクの楽しみだ。
自分という木の根は、かなり深くまで伸びているのを感じる。
40も超えて、その木の幹もどんどん太くなり葉が茂っているのも感じる。
だがボクの木の花はまだ見えてこない。
これからどんな花が咲くのか自分でも楽しみだ。
その時が来るまでボクは根を伸ばし続けることだろう。
その根が深くなるほどに大きな花が咲くのが分かっているから。
自分という存在は1本の木である。
自分がこの地で生きながらやっている様々な物事はその根っこだ。
ニュージーランドという国で、友と遊び酒を飲み飯を食らう。
人とケンカをすることもあれば、見ず知らずの人と挨拶を交わす。
友達もたくさん出来たが、疎遠になる人もいる。
山を歩き森に触れ、雪山を滑り洞窟にもぐり、時には自転車に乗り、カヤックという物も漕いだ。
友達に誘われヨットでセーリングしたこともあれば、小さなゴムボートで湖に浮かぶ小島に渡り朝のコーヒーを飲んだこともある。
昔つきあっていたガールフレンドの実家の牧場で羊や牛を追ったこともあれば、酔っぱらいにからまれながらバスの運転をしたこともあった。
ワイン用のブドウを収穫したこともあり、ホワイトベイトを捕ったこともあった。
人に話すほどのこともない日常のささいな行いから、自慢できるほどの武勇伝まで。
これは自分という木の根っこである。
ボクがいろいろな事をやり、見て、考え、感ずるほどに、その根は深く、深く、大地の奥へ伸びていく。
根は地中深く伸びていくが、その姿は誰からも見えない。
ただ自分のみがその存在を感じている。
ねが深く伸びるほどその上にある木は大きくなっていく。
そして大きくなった木には大きな花が咲くであろう。
今シーズン初めにトーマスと会って酒を飲み話をした。
トーマスとは10年近くのつきあいになるだろうか。
ヤツが初めてNZに来た時、近くの牧場で七輪焼き肉酒池肉林の宴をしてトーマスと命名した。
アーサーズパスを一緒に歩き、クラブフィールドで滑り、フィヨルドランドを登り、あちらこちらで共に酒を飲んだ。
僕らはつかず離れず、いろいろな事を一緒にやった。
そういった経験は僕らの根となり地中深いところでからみあっている。
そういった共通の根とは別にヤツ自身の根も深く深く育っている。
テンプルベイスンで大ケガをしたり、マウントクックやフィヨルドランドでガイドをし、グレイマウスで学んだ。
その間に結婚、子の誕生というドラマもあった。
今ではヤツはフィヨルドランドで鳥の保護の為に働いている。
これはフツーの日本人では出来ないことだ。
トーマスなればこそ出来ることであり、それがヤツという木の根っこなのだ。
先日トーマスが日本に帰った際、ある山歩き専門のツアー会社と関係を結び、NZにツアーで訪れる人のツアー料金の一部から鳥の保護に寄付を回すという話にこぎつけた。
その会社のパンフレットにはヤツが書いた鳥の保護の話が載せられている。
日本の私企業とNZの公の機関であるDOCとの大いなる一歩をヤツが作ったわけだ。
こんな事は他の何人たりともできやしない、ヤツだからこそできることであり、見方を変えればヤツがやるべくしてやったことなのだろう。
トーマスがやってきたいろいろな経験、人里遠く離れた無人の海岸線のゴミ拾いや、登山道もないような所へ入り込み害獣のワナをしかける仕事。
ボクは話を聞くだけだが、それがヤツの根っこだと感じていた。
その根の上に木が育ち、日本のお客さんとこの国での自然保護のつながりという花が咲いた。
ボクはこんな友を持ったことに誇りを覚える。
ヤツはまだまだ活動を続け、これからも花を咲かせることだろう。
それには根をもっともっと深く伸ばすことも忘れてはいけないが、トーマスはそれをやり続けるであろうし、そんな友を見ているのもボクの楽しみだ。
自分という木の根は、かなり深くまで伸びているのを感じる。
40も超えて、その木の幹もどんどん太くなり葉が茂っているのも感じる。
だがボクの木の花はまだ見えてこない。
これからどんな花が咲くのか自分でも楽しみだ。
その時が来るまでボクは根を伸ばし続けることだろう。
その根が深くなるほどに大きな花が咲くのが分かっているから。