最近の自分の流行はコーヒーである。
女房と一緒にスーパーで買い物をしている時に、その場でコーヒー豆を挽く売り場でなんとなく買ってみた。
なんとなく、これは直感であり、やるタイミングでもある。
家に帰り、プランジャーで自分でいれてみた。
これがなかなか旨く、その辺のカフェで下手にエスプレッソマシーンでいれるよりも美味く、香りも良い。
というわけでコーヒーという悪魔の飲み物、ドラッグにはまってしまった。
悪魔の飲み物?ドラッグ?そんな大げさな、と思うかもしれない。
だが時代背景や場所が変われば、コーヒーは悪魔の飲み物で禁止されていた時もあった。
さらに時代をさかのぼれば宗教の儀式の時だけ使っていた時もあった。
それに世間で認識はないが、コーヒーはドラッグである。
たくさん摂取すれば中毒や禁断症状もある。
世界中でどれだけの人が「朝起きてコーヒーを飲まないと目が覚めないの」と言っているか。
知らず知らずに中毒になり、胃を壊している人もいる。
世の中のドラッグには、良いドラッグも悪いドラッグも無い。
正しい使い方か間違った使い方があるだけだ。
例えばヘロインだって痛み止めとして使う分には依存症はないが、ハイになるために使うと中毒になる。
コーヒーは強力な興奮剤なので夜寝る直前に飲むべきものではないが、朝起きて飲む分には頭が冴えて良い状態となる。
ボクも長いドライブの眠気覚ましに飲む事もよくある。
カフェインとは初めてコーヒーから分離されたのでこの名前がついているが、カフェインとコーヒーの作用は異なる。
コーヒーは精製されたカフェインやその他カフェイン含有植物より強力なのだ。
コーヒーも過剰に取れば毒になるが、ほどほどに飲む分には嗜好品となる。
そういう意味もこめてボクはコーヒーを悪魔の飲み物と呼ぶ。
ちなみに、人間が認識していないドラッグとしては、チョコレート、お酒、タバコ、お茶、コーラなどがある。
さて、コーヒーである。
もともとエチオピアの遊牧民が、ある木の実を食べると家畜が跳ね回るというのを見つけて、自分達も食べてみたら彼らもはしゃぎだした、というのが事の起こりらしい。
興奮剤なのだからそうなるのだろうが、そのうちに炒った豆から香味豊かな飲み物を作り出した。
人間ってすごいな。
今では世界中の暖かい所ならどこでも栽培され、地域の名前がコーヒーのブランドになるのも珍しくない。
昨日買ったコーヒーはニューオーリンズという名前で、ブルースが好きなボクが名前につられて買ったもので酸味と苦味が強かった。
女房曰く「たくさん飲むと飽きる味」なるほど、そんなものかもしれない。
前回試したのはアイリッシュというもの。
甘い香りが香ばしく、味はまあまあ。
娘もこの香りは好きなようだ。
色々なものを試してその日の気分でブレンドしても面白そうだ。
量り売りなので欲しい分だけ買えるというのも良い。
あらかじめパックで詰めてあるものより割高だが、値段だって2倍3倍になるわけではなし。
それより今度は何を試してみようかとワクワクしながら売り場を見るのが楽しい。
淹れ方だって色々ある。
家ではプランジャーを使うが、紙のフィルターを使ったり、パーコレーターを使ったり、中には何時間もかけて抽出する水出しコーヒーなんてものもあるそうな。
それによってマメを挽く粗さも変わってくる。
嗜好品は奥が深い。
ボク自身のコーヒーの思い出は南米コロンビアで飲んだコーヒーの味が忘れられない。
コロンビアの片田舎の町では背中に大きなタンクを背負った売り子が街を歩く。
注文が入るとタンクから伸びてるホースで紙コップにジョーとコーヒーを入れてくれて一杯20円ぐらいだった。
そのコーヒーが旨くて安かったから何杯も飲んだ覚えがある。
世の中、良い話だけではない。
常に表に出てこない真実はいくらでもある。
コーヒーだってそうである。
漠然と知っていたが、大資本の搾取と貧しい農民の話。
ネットでちょっと調べればすぐに出てくる。
先進国や企業は、資本主義にのっとっているから消費者へのサービスには気を使っても、生産者の貧困には目をつぶっている。
貧困にあえぐ農村では、出荷されたコーヒーがどのくらいの価値になるのかなど見当もつかない。
ボクが美味しいと飲んでいるコーヒーも、元を突き詰めれば不当に安いお金で買われたコーヒー豆なのだろう。
そしてこれはコーヒーだけではなく、紅茶とか綿花とか米とかいろいろな物であることは容易に想像できる。
悲しいけれど、これが世界の現実だ。
そして街のスーパーには手ごろな値段のコーヒーが並び、ボクの家でも常時コーヒーがある。これも現実だ。
だからと言って「もうコーヒーは飲みません」などと言う気はない。
自分でコーヒー豆を買いに、コーヒー農園へ行けるわけでもなし。
最近ではフェアトレードというものがあるそうだが、いまいちピンと来ない。
それを買えば済む、という問題ではないからだ。
問題の根底はもっともっと深いところにある。
結局のところ、ボク個人が貧しい農家を直接救えることは何もない。
でもボクの手元にはコーヒーはある。
自分にできる事は、見も知らないコーヒー畑で働く人のことを思いながら、目の前のコーヒーを美味しくいただくことなんだろう。
一杯のコーヒーを前にして、コーヒーの木に、収穫した人々に、美味しいコーヒーが飲める環境に、ありがとう。
そして、いただきます。
女房と一緒にスーパーで買い物をしている時に、その場でコーヒー豆を挽く売り場でなんとなく買ってみた。
なんとなく、これは直感であり、やるタイミングでもある。
家に帰り、プランジャーで自分でいれてみた。
これがなかなか旨く、その辺のカフェで下手にエスプレッソマシーンでいれるよりも美味く、香りも良い。
というわけでコーヒーという悪魔の飲み物、ドラッグにはまってしまった。
悪魔の飲み物?ドラッグ?そんな大げさな、と思うかもしれない。
だが時代背景や場所が変われば、コーヒーは悪魔の飲み物で禁止されていた時もあった。
さらに時代をさかのぼれば宗教の儀式の時だけ使っていた時もあった。
それに世間で認識はないが、コーヒーはドラッグである。
たくさん摂取すれば中毒や禁断症状もある。
世界中でどれだけの人が「朝起きてコーヒーを飲まないと目が覚めないの」と言っているか。
知らず知らずに中毒になり、胃を壊している人もいる。
世の中のドラッグには、良いドラッグも悪いドラッグも無い。
正しい使い方か間違った使い方があるだけだ。
例えばヘロインだって痛み止めとして使う分には依存症はないが、ハイになるために使うと中毒になる。
コーヒーは強力な興奮剤なので夜寝る直前に飲むべきものではないが、朝起きて飲む分には頭が冴えて良い状態となる。
ボクも長いドライブの眠気覚ましに飲む事もよくある。
カフェインとは初めてコーヒーから分離されたのでこの名前がついているが、カフェインとコーヒーの作用は異なる。
コーヒーは精製されたカフェインやその他カフェイン含有植物より強力なのだ。
コーヒーも過剰に取れば毒になるが、ほどほどに飲む分には嗜好品となる。
そういう意味もこめてボクはコーヒーを悪魔の飲み物と呼ぶ。
ちなみに、人間が認識していないドラッグとしては、チョコレート、お酒、タバコ、お茶、コーラなどがある。
さて、コーヒーである。
もともとエチオピアの遊牧民が、ある木の実を食べると家畜が跳ね回るというのを見つけて、自分達も食べてみたら彼らもはしゃぎだした、というのが事の起こりらしい。
興奮剤なのだからそうなるのだろうが、そのうちに炒った豆から香味豊かな飲み物を作り出した。
人間ってすごいな。
今では世界中の暖かい所ならどこでも栽培され、地域の名前がコーヒーのブランドになるのも珍しくない。
昨日買ったコーヒーはニューオーリンズという名前で、ブルースが好きなボクが名前につられて買ったもので酸味と苦味が強かった。
女房曰く「たくさん飲むと飽きる味」なるほど、そんなものかもしれない。
前回試したのはアイリッシュというもの。
甘い香りが香ばしく、味はまあまあ。
娘もこの香りは好きなようだ。
色々なものを試してその日の気分でブレンドしても面白そうだ。
量り売りなので欲しい分だけ買えるというのも良い。
あらかじめパックで詰めてあるものより割高だが、値段だって2倍3倍になるわけではなし。
それより今度は何を試してみようかとワクワクしながら売り場を見るのが楽しい。
淹れ方だって色々ある。
家ではプランジャーを使うが、紙のフィルターを使ったり、パーコレーターを使ったり、中には何時間もかけて抽出する水出しコーヒーなんてものもあるそうな。
それによってマメを挽く粗さも変わってくる。
嗜好品は奥が深い。
ボク自身のコーヒーの思い出は南米コロンビアで飲んだコーヒーの味が忘れられない。
コロンビアの片田舎の町では背中に大きなタンクを背負った売り子が街を歩く。
注文が入るとタンクから伸びてるホースで紙コップにジョーとコーヒーを入れてくれて一杯20円ぐらいだった。
そのコーヒーが旨くて安かったから何杯も飲んだ覚えがある。
世の中、良い話だけではない。
常に表に出てこない真実はいくらでもある。
コーヒーだってそうである。
漠然と知っていたが、大資本の搾取と貧しい農民の話。
ネットでちょっと調べればすぐに出てくる。
先進国や企業は、資本主義にのっとっているから消費者へのサービスには気を使っても、生産者の貧困には目をつぶっている。
貧困にあえぐ農村では、出荷されたコーヒーがどのくらいの価値になるのかなど見当もつかない。
ボクが美味しいと飲んでいるコーヒーも、元を突き詰めれば不当に安いお金で買われたコーヒー豆なのだろう。
そしてこれはコーヒーだけではなく、紅茶とか綿花とか米とかいろいろな物であることは容易に想像できる。
悲しいけれど、これが世界の現実だ。
そして街のスーパーには手ごろな値段のコーヒーが並び、ボクの家でも常時コーヒーがある。これも現実だ。
だからと言って「もうコーヒーは飲みません」などと言う気はない。
自分でコーヒー豆を買いに、コーヒー農園へ行けるわけでもなし。
最近ではフェアトレードというものがあるそうだが、いまいちピンと来ない。
それを買えば済む、という問題ではないからだ。
問題の根底はもっともっと深いところにある。
結局のところ、ボク個人が貧しい農家を直接救えることは何もない。
でもボクの手元にはコーヒーはある。
自分にできる事は、見も知らないコーヒー畑で働く人のことを思いながら、目の前のコーヒーを美味しくいただくことなんだろう。
一杯のコーヒーを前にして、コーヒーの木に、収穫した人々に、美味しいコーヒーが飲める環境に、ありがとう。
そして、いただきます。