あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

悪魔の飲み物。

2012-05-29 | 
最近の自分の流行はコーヒーである。
女房と一緒にスーパーで買い物をしている時に、その場でコーヒー豆を挽く売り場でなんとなく買ってみた。
なんとなく、これは直感であり、やるタイミングでもある。
家に帰り、プランジャーで自分でいれてみた。
これがなかなか旨く、その辺のカフェで下手にエスプレッソマシーンでいれるよりも美味く、香りも良い。
というわけでコーヒーという悪魔の飲み物、ドラッグにはまってしまった。
悪魔の飲み物?ドラッグ?そんな大げさな、と思うかもしれない。
だが時代背景や場所が変われば、コーヒーは悪魔の飲み物で禁止されていた時もあった。
さらに時代をさかのぼれば宗教の儀式の時だけ使っていた時もあった。
それに世間で認識はないが、コーヒーはドラッグである。
たくさん摂取すれば中毒や禁断症状もある。
世界中でどれだけの人が「朝起きてコーヒーを飲まないと目が覚めないの」と言っているか。
知らず知らずに中毒になり、胃を壊している人もいる。
世の中のドラッグには、良いドラッグも悪いドラッグも無い。
正しい使い方か間違った使い方があるだけだ。
例えばヘロインだって痛み止めとして使う分には依存症はないが、ハイになるために使うと中毒になる。
コーヒーは強力な興奮剤なので夜寝る直前に飲むべきものではないが、朝起きて飲む分には頭が冴えて良い状態となる。
ボクも長いドライブの眠気覚ましに飲む事もよくある。
カフェインとは初めてコーヒーから分離されたのでこの名前がついているが、カフェインとコーヒーの作用は異なる。
コーヒーは精製されたカフェインやその他カフェイン含有植物より強力なのだ。
コーヒーも過剰に取れば毒になるが、ほどほどに飲む分には嗜好品となる。
そういう意味もこめてボクはコーヒーを悪魔の飲み物と呼ぶ。
ちなみに、人間が認識していないドラッグとしては、チョコレート、お酒、タバコ、お茶、コーラなどがある。

さて、コーヒーである。
もともとエチオピアの遊牧民が、ある木の実を食べると家畜が跳ね回るというのを見つけて、自分達も食べてみたら彼らもはしゃぎだした、というのが事の起こりらしい。
興奮剤なのだからそうなるのだろうが、そのうちに炒った豆から香味豊かな飲み物を作り出した。
人間ってすごいな。
今では世界中の暖かい所ならどこでも栽培され、地域の名前がコーヒーのブランドになるのも珍しくない。
昨日買ったコーヒーはニューオーリンズという名前で、ブルースが好きなボクが名前につられて買ったもので酸味と苦味が強かった。
女房曰く「たくさん飲むと飽きる味」なるほど、そんなものかもしれない。
前回試したのはアイリッシュというもの。
甘い香りが香ばしく、味はまあまあ。
娘もこの香りは好きなようだ。
色々なものを試してその日の気分でブレンドしても面白そうだ。
量り売りなので欲しい分だけ買えるというのも良い。
あらかじめパックで詰めてあるものより割高だが、値段だって2倍3倍になるわけではなし。
それより今度は何を試してみようかとワクワクしながら売り場を見るのが楽しい。
淹れ方だって色々ある。
家ではプランジャーを使うが、紙のフィルターを使ったり、パーコレーターを使ったり、中には何時間もかけて抽出する水出しコーヒーなんてものもあるそうな。
それによってマメを挽く粗さも変わってくる。
嗜好品は奥が深い。
ボク自身のコーヒーの思い出は南米コロンビアで飲んだコーヒーの味が忘れられない。
コロンビアの片田舎の町では背中に大きなタンクを背負った売り子が街を歩く。
注文が入るとタンクから伸びてるホースで紙コップにジョーとコーヒーを入れてくれて一杯20円ぐらいだった。
そのコーヒーが旨くて安かったから何杯も飲んだ覚えがある。

世の中、良い話だけではない。
常に表に出てこない真実はいくらでもある。
コーヒーだってそうである。
漠然と知っていたが、大資本の搾取と貧しい農民の話。
ネットでちょっと調べればすぐに出てくる。
先進国や企業は、資本主義にのっとっているから消費者へのサービスには気を使っても、生産者の貧困には目をつぶっている。
貧困にあえぐ農村では、出荷されたコーヒーがどのくらいの価値になるのかなど見当もつかない。
ボクが美味しいと飲んでいるコーヒーも、元を突き詰めれば不当に安いお金で買われたコーヒー豆なのだろう。
そしてこれはコーヒーだけではなく、紅茶とか綿花とか米とかいろいろな物であることは容易に想像できる。
悲しいけれど、これが世界の現実だ。
そして街のスーパーには手ごろな値段のコーヒーが並び、ボクの家でも常時コーヒーがある。これも現実だ。
だからと言って「もうコーヒーは飲みません」などと言う気はない。
自分でコーヒー豆を買いに、コーヒー農園へ行けるわけでもなし。
最近ではフェアトレードというものがあるそうだが、いまいちピンと来ない。
それを買えば済む、という問題ではないからだ。
問題の根底はもっともっと深いところにある。
結局のところ、ボク個人が貧しい農家を直接救えることは何もない。
でもボクの手元にはコーヒーはある。
自分にできる事は、見も知らないコーヒー畑で働く人のことを思いながら、目の前のコーヒーを美味しくいただくことなんだろう。
一杯のコーヒーを前にして、コーヒーの木に、収穫した人々に、美味しいコーヒーが飲める環境に、ありがとう。
そして、いただきます。
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これからの世界

2012-05-24 | 日記
何とも大層なタイトルをつけてしまったが、これからの世界はどうなっていくか。
ちびマルコちゃんの丸尾君のようにズバリ言うと、これからの世界は細分化に向っていくだろう。
ここ十数年、グローバルという言葉が出てきた。
個人的に言うとこの言葉は嫌いである。
この言葉の本質は均一化であり、さらに言うとアメリカの物差しで全てを均すことだ。
これは文化の停滞であり非常に危険なことだ。
文化というのは非常に狭い地域で生まれる。
単一に均されたような場所では生まれない。
グローバルという名のだだっ広い場所では、今ある物を繰り返すだけで新しい物は生まれない。
これからの世界で発展があるとすれば、均一化の正体を見破り細分化に向っていくことがカギなのだ。

例えば言語。
関西弁という言葉がある。これも一つの文化なのだが関西弁の中にも大阪弁、兵庫弁、京都弁、奈良弁、などなど違いがある。
大阪弁にしたって、その中にいろいろな違いがあるのだろう。ボクにはよく分からないが。
この『違い』というものが大切なのだ。
自分の住む地域と隣町では言葉が微妙に違う。
言葉一つとってみてもこうなのだ。
それ以外の生活のしきたり、工芸品の色や形、食品の味付け、などなど。
地方という枠で一緒くたにされる事も多いが、細かくみてみると地域ごとの違いは常にある。
それが文化というものだと思う。
キーは、違いを認める事。
相手を認めることは自分を認めることである。
中国や韓国では犬を食べる。
大多数の人がこれを聞くと「ひえええ」という反応を示す。
確かにボクも自分が飼っている犬を食べるなんて事は考えられない。
だが彼らが食べるのは彼らが飼っている犬であり、ボクの犬を彼らは食べない。
犬を食べるというのは彼らの食文化の一つである。
犬を食べる=野蛮という考えは、鯨を食べる=野蛮な日本人という考えとなんら変わらない。
自分の常識は相手の常識ではない。
お互いを認め合い、違って当たり前という認識を持てば争いはなくなる。
これを自分の物差しに相手を当てはめようとするから、いつまでたっても争いがなくならない。

こういうことを言うと極論が好きな人はこう言う。
「じゃあ、相手が略奪をする場合はそれも相手の文化だとして認めろというのか?相手が人殺しだったら黙って殺されろと言うのか?」
違う。
根底に愛というものがないものは、遅かれ早かれ自滅する。
人の道に反した事をすれば、自分にそれがおそいかかる。
天に向って吐いたツバは自分の所に落ちてくるのだ。
ある所で殺人事件があったとしよう。
今の世の中では殺した人は加害者で殺された人は被害者だ。
だが事件、出来事というのは常に因果関係によって成り立っている。
この場合は殺した人は加害者であり同時に被害者である。殺された人も被害者であり同時に加害者なのだ。
この考えはこの世界ではあまり受け入れられない。
殺された人は、とにかく可哀そう。
殺した人は、とにかく悪いヤツ。
そういう公式がある。今世だけ見ればそうなるだろう。
ボクから見れば殺した人も殺された人も可哀そうな人だ。
殺した人は肉体が死んでも罪を償わなくてはならない。その事を考えただけでも同情する。
殺された人はこの世での活動が終わってしまう。未練もあるかもしれない。
だが二人とも来世でまたやり直しをしなくてはならないのだ。
ひょっとすると来世では立場が逆になるかもしれない。
そうやっていつの日か浄化するまでその関係を続けるのだ。

最近では地方の市町村が合併され一つの町となる事が多い。
ボクの故郷の清水市も静岡市に合併された。
以前いた能生町も糸魚川市に吸収合併された。
そうやって地域差というものは薄まり、あげくの果てには日本中どこに行っても同じような街ができあがる。
大きく見れば世界中どこに行ってもマクドナルドとコカコーラがある。
ニュージーランドだって、マクドナルド、KFC、スターバックス、ピザハット、バーガーキング。
クライストチャーチのショッピングモールには外国資本の同じような店が並ぶ。
以前行ったシドニーのショッピングモールには規模の大きさこそ違え、同じ系列の店が並んでいた。
そのモールの中だけ見れば、ニュージーランドなのかオーストラリアなのか分からない。
グローバルという名の均一化は支配しようとする側から見れば都合が良い。
知らず知らずのうちに同じ価値観を植え付け、大衆というものをコントロールしてゆく。
個人が自分の責任で判断することなく、造られた舞台の上で生かされている。
それが支配者の狙いだ。
悪い話ばかりではない。
最近は地元で取れたもの、地元の人が作った物を売る小規模のマーケットがクライストチャーチの市内のあちこちで開かれるようになった。
ボクは買い物はできるだけ、こういったマーケットや小さな個人商店で買うようにしている。

心の奥底に愛というものを持ちつつ、相手の文化を認め自分の文化を認める。
自分さえよければいいというエゴに支配されず、自分も他人も地球上での一つの存在として受け入れる。
競争があるとしたら、足を引っ張り合うのではなく、互いを高めるための競い合いを。
境界線というものはなくなり、国境さえもなくなる。
国という観念は薄まり、政府は地球に一つだけある。
民族性というものはあるが、どこからどこまでといった明確なものでなく、大体あの辺りという大ざっぱなもので、それをよく見るといくつもの流派に分かれる。
均一化ではなく多様化の時代なのだ。
それには偏見にとらわれることなく『違い』というものを理解する個々の意識の変革が必要である。
その時とは近い将来、必ずやってくることだろう。
自分達はどうすればいいか?
簡単なことである。
愛を信じればよい。
だが一番簡単なことは一番難しいことでもある。
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やることリスト

2012-05-19 | 日記
長いツアーが終わり、自分の時間が持てる時期が来た。
観光業というものは波がある。
忙しい時はぶっ通しで働くが、仕事のない時は何もない。
心が恐怖に支配されていると、この時期は不安にかられてしまう。
仕事が忙しいと不安を感じる間もなく毎日の業務に押し流されているが、ポッカリと時間が空くと「自分はこれでいいのか」というような想いが押し寄せる。
ボクも以前はそうだったが、「なるようになるさ」という時期を経て、今は「さて、何をやろうかな」というひたすら前向きでポジティブ、ワクワク感で満ち溢れている。
夏の間、やりたくてもできなかった事をリストアップしてみた。
・コンクリート舗装工事、Part3。
以前のブログでも書いたが、コンクリート工事の続きである。
・ニワトリエリアの改良とニワトリを増やす。
今夏、2羽が死んでしまったので、今度は5羽ぐらい買おうと思っている。
・温室作り。
これは前々から考えているのだがなかなか実行に移せないでいる。
ペットボトルを集めてやる方法も良さそうだが、それにはそれなりのエネルギーもいる。正直な話、ある程度のお金が手に入ると、買ったほうがいいかななどと思ってしまう。
今、考えているのは建築廃材のガラス窓を買ってきて、自分なりに組み立てるやり方。
これはビッグプロジェクトなのでじっくりとやりたいところだ。
・犬小屋の屋根。
夏の間に時間を見つけて犬小屋を作った。屋根はベニヤ板で作ったのだが、大雨が降ったら雨漏りがしそうだ。そこで考えているのが植物の葉っぱで屋根を葺く、茅葺ならぬフラックス葺き。これも思索中。
・石鹸作り。
石鹸は作ってから熟成にある程度の時間が要る。
作り置きの石鹸がそろそろ少なくなってしまったので、そろそろ作らねば。
今年は庭のラベンダーの花を収穫したのでラベンダー石鹸にしようかな。
・畑仕事。
夏の間の野菜が終わり、スペースがでてきた。ニンニクの植え付けの時期だし、ソラマメもそろそろ植えてもいい頃だ。土作り、雑草取りなどやる事は山ほどある。

その他、庭木の手入れ、家の修繕、車のメンテナンス、などなど、細かい仕事はいくらでもある。
そして炊事、洗濯、掃除などの家事仕事は毎日ある。こういった事もおろそかにしてはいけない。
今あげたような仕事は直接お金を生まない。
だが働くということは人間が生きていくためにする行為である。
字を見ても人が動くと書いて働くのである。
働いてお金を頂くかどうかは二次的なもの。
お金にならない仕事だからといって手を抜いてはいけない。
そして働くということは本来楽しいことである。ワクワクしながらやるものである。
ボクにも経験があるが、「仕事イヤだなあ、行きたくないなあ」という思い。
こういう心理状態ではいい仕事はできない。
今は幸いな事にそういう思いはなく「さあ、やるぞ」とか「今日はどんなお客さんかな」とワクワクしながら仕事に出る。
そういう心理状況の時は全てが上手くいく。
そして楽しい。
そもそもガイドなんて仕事は自分が楽しまなくてお客さんを楽しませられない。
自分が楽しく働いて、お客さんが喜んでくれて、その後に飲むビールが旨く、全てが丸く収まる。
関わる人、物が全てハッピー。みんなハッピーがボクの信念である。

話がそれた。
これからの季節は、自分のために、家族のために働く時だ。
自分の家族のため、友達のために野菜や石鹸を作る。
環境を良くして、住みやすい空間を作る。
その労働の根底は愛であり、愛に沿った行動に間違いはない。
そして愛が伴った行動は楽しくワクワクするものだ。
さて今日は何をしようかな。
コメント (2)
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思い込み

2012-05-08 | 日記
♪思い込んだら試練の道を行くが男のど根性。
とは巨人の星の歌いだしであるが、いかにも昭和という唄である。
今回はこの思い込みの話。
人間とは恐ろしいもので、思い込みを信じてしまうところがある。
一度それを信じると、周りが何を言おうと聞かない。
そりゃ誰だって自分が信じているものを覆されたくはない。
ボクもそういう経験はある。今回はその恥をさらそう。
去年まで8年クィーンズタウンでハイキングガイドというものをやっていた。
ルートバーンというコースを歩いていたのだが、そこでエミリーピークという山が見える。
ある時、友達のカナちゃんと一緒にそこを歩いた時に彼女が言った。
「ねえ、あれってエミリーピーク?」
「そうだよ」
「地図で見ると違うんじゃない?」
「そんなことはない。あれだ」
「いや、違うと思うな」
結果から言ってしまうと彼女が正しくボクが間違っていたのだが、その時のボクは自分の間違いを認めたくなかった。
8年もの間、自分がそれだと信じていて、お客さんにもエラソーに言っていたことを覆されたくない気持ち。
自分よりも山の経験が浅い人に指摘されたくない気持ち。
そういったものが入り交ざっていて、ボクは素直になれず何遍も地図を見直した。
だが地図を見れば見るほど彼女の言っていることが正しいのが分かる。
ボクが今までエミリーピークと思い込んでいたものは、山のピークではなくその山の肩だった。
ボクがその間違いに気づきトボトボと彼女に追いつくと、ご丁寧に彼女は山小屋の管理人にそれを確めていて、勝ち誇った顔で言った。
「ほら、言ったじゃないの」
正直、悔しかった。
自分がこの仕事を始めた時に先輩ガイドが言った言葉を信じ込み、自分では確認もせずにそれが事実だと思い込んでいた。
「だって、あの人がそう言ったから」とは言いたくない。
それはその言葉を信じた自分の責任だからだ。
ボクはショックに打ちのめされトボトボと、カナちゃんは日頃からなんとかボクをギャフンと言わせたいという思いがかなえられ満足げに山を下った。

情報、そして思い込みとはそういうものだと思う。
それを信じていた時間が長ければ長いほど、人は意固地になりそれを認めたがらない。
大人は長い間信じていたことが、子供には何故そうなのか分からない。
純粋で偏った情報に染まっていない子供が、真実をズバリと言い当てることはよくある。
そんな時に大人は『子供だから良く分からないんだよ』と切り捨てる。
大人は自分の間違いを認めたくない。年を重ねるほど、その傾向は強いようだ。
だが大人が間違っていて子供が正しかったらどうなのだろう?
大人だって間違いをする。
その時に素直に間違いを認める気持ちこそが大切なのではないか。
思い込みを解き放つこと。これからの世界ではそれがとても大切な事になっていくだろう。
極論が好きな人はこういうことを書くと「じゃあ自分が思うことは間違っているの?」と言う。
違う。思い込みは大切だ。
大切だが、芯をきっちりとつかんでいるかどうかがカギだ。
芯をつかんでいなければ、新興宗教にいかれこんで全財産を投げ入れ所構わず勧誘する信者となんら変わらない。
芯をつかんでいれば、おのずと何が正しくて何が間違っているか見えてくるし、間違った方向に進んでもすぐに方向転換できる。

情報というものについても考えなくてはならない。
今は色々な情報があふれている。
正しい情報もあるし、もっともらしくウソで塗り固められた情報もある。
洗脳のための情報もあれば、真実を隠す情報もあるし、全く無意味な情報もある。
今まで隠された情報も最近はネットのおかげで表に出てきた。
以前は『原子力は安全で公害もなく未来のエネルギーです』という情報を皆信じた。
なので日本に50以上もの原発ができた。
そして原発安全の神話は崩れた。
作った人だけを責めてはいけない。それを信じた自分にも罪はある。
情報は時代背景でコロコロ変わるものだ。
最近では『放射能は毒です』という情報と『放射能は身体に良いです』という情報がある。
『微量だったら大丈夫』『ダメ、絶対だめ』『人によりけり』その他もろもろ。
どれを選ぶかは自分で決めればよい。
何が正しくて何が間違っているかは分からないかもしれないが、色々な情報を聞いてみて自分で判断する。
自分で決めると言うのも一つのカギだ。
悩んで悩んで悩んだ末に自分で出した答は常に正しい。

最近の情報ではフリーエネルギーたるものも出てきた。
これは燃料のいらない動力機関のことで、これが普及すればエネルギー問題が全て解決、というまさに夢のような話だ。
これは今までの科学では理解できない話で、普及のためにはそれこそ思い込みを捨てなければならない。
エネルギー保存の法則、というものを覆す話だからだ。
面白いこと、と言っては不謹慎なのだが、このフリーエネルギーを発表しようとすると暗殺されるようだ。
そりゃそうだろう。こんなものが普及したら、それで困る人がたくさん出てくる。
原発を作るためには人殺しもする人達にとっては絶対に隠しておきたい情報だ。
だがネットのおかげでこういった情報も出始めた。ちょっと検索すればすぐに出てくる。出てこないものは情報が操作されていると見ていいだろう。
井出治さんのように表立って出てくる人も現れ始めた。暗殺されないで研究を進めてもらいたいものだ。
その他、ここでは書ききれないほどの操作された情報があり、今の自分達では理解不能な情報もある。
それらが出てきたときに、古い思い込みを捨てて新しい情報を取り入れることができるか。
自分が誤った情報を信じていた事に気づき、その情報源を責めることなく新しい世界にシフトできるか。
これからの人類の課題だと思う。

ガリレオが地動説を発表した時、人々はどういう反応をしたか。
ノアが「洪水が来るぞ」と言った時でも、人々は信用せずに最後の瞬間まで略奪をやめなかった。
ノアの話も実際に方舟が発掘されリベットのようなものも発見されている。
全くの作り話ではない、ということが証明された。
こういう話を信じたくない人は「でたらめだ、まやかしだ、インチキだ」と決め付ける。
まあ、いいさ。その人がそう思うならそれはその人の勝手だ。
だがその人の常識はボクの常識ではない。
そして今までの常識はこれからの常識でもない。
ボクは今のボクが信じるものを信じる。
それは神であり、エネルギーである。
自分の直感であり、この瞬間に自分が感じるものである。
美味しい物であり、美しいものであり、楽しいことである。
そして全てをひっくるめたものが愛なのだ。
愛こそが全て。
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