あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

自然

2013-06-30 | 日記
自然って何ですか?
この言葉も見る人の立ち位置でコロコロと変る。
漠然としたイメージでは緑の大地は自然で人工的な物は自然ではない、といったところか。
牧場の中を車で走っていて、お客さんが「わー、すごい大自然だ」と言う事がある。
「夢を打ち砕くようですが、この緑の牧草も羊も元々この国には無かった物で人間が持ち込んだのです。言うなれば人間が作り上げた景色なのです」
真実は時に人を傷つける。
なので実際のガイドの時には、お客さんが傷つかないよう丁寧に柔らかく説明をする。
「この国の本当の自然とはうっそうと生い茂った森、氷河の載った険しい岩山、そういうものがあるんですよ。でもこの景色も今のニュージーランドの景色だから自然と言えば自然ですよね」フォローもする。
間違っても「緑の牧場を見ただけで簡単に自然と言う、あなたの自然観とは一体何ですか?」などとは言わない。

自然保護とか自然を守ろうなどの言葉があるが、僕はきらいだ。
自然とはこんなちっぽけな人間に守られなくてはいけないものなのか。
それは人間の傲慢である。
裏を返せば、人間が自然をコントロールできると思っているからそんな言葉が出る。
自然とはそんなちっぽけな弱っちいものではない。
人間なんかに守られなくてもちゃんと自浄ができるものなのだ。
マクロな物の見方で言えば人間の存在も自然のものである。
人間が今も地球上で行っている乱開発、戦争、原子力発電、全部自然だ。
この調子で行けば地球の浄化作用で人類は滅亡するだろう。
それも自然。

自然災害という言葉があるが、これも人間から一方的に見た言葉である。
地震、火山の噴火、雷、土砂崩れ、鉄砲水、地割れ、津波、台風、雪崩、こういった現象は自然界では当たり前にある。
それによって人間の生活に被害をこうむれば災害となる。
自然が起こす物事は恐ろしい物なのだ。
そして同時に美しい。
子供の頃、夜の雷の稲光を飽きずに眺めていた。
火山の噴火は花火と比べ物にならないくらい美しいらしい。
雪崩が起きる様子はダイナミックであり美しいものだ。
全部自分が安全な場所に居れば、という条件がつく。
経験があるが山の中で雷に出くわしたら、それはそれは恐ろしいものである。いつ何時自分の所に落ちるのか分からないのだから。
僕は専門は雪山なので雪崩にも詳しい。
自分の足元からピキピキと亀裂が入りズズっと雪が滑りだしそのまま大きな雪崩になった、という経験も1回や2回ではない。
それに巻き込まれたら、数分で窒息死である。
けれど対岸でそれを見ていたら、それが大きければ大きいほど見ごたえのある見世物だ。

それぐらい人間は自然の中で無力な存在なのだ。
はるか昔から人間は自然を恐れながら敬い、その中から日々の糧をいただく有難い物だった。
文明が進み、人々は自然と切り離されて生活をするようになった。
そのうちに自然をコントロールできると勘違いもするようになった。
人間がいかに無力かという事を忘れ、文明という物の中で傲慢になっている。
それが今の現代人だ。
あげくの果てに『自然を守ろう』と来たもんだ。
ちゃんちゃらおかしいぜ。

今までは白人がこの世界を引っ張ってきたがそろそろお役御免、これからの世界では少数民族の考え、自然宗教が人類を救う鍵になるだろう。
イヌイットやアメリカンインディアン、太平洋に住む人々やアジアの少数民族、アフリカの民、マオリやアイヌの教えや日本の八百万の神の心もそうだ。
そういった人達がリーダーとなり新しい世界を作っていくだろう。
それは自分と相手の対立ではなく、自分も相手も全て自然の一部であるというワンネスの心。
これをなくしての将来はない。
でもそうなるまでに、もう一波乱か二波乱あるかな。

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犬の靴

2013-06-26 | 日記
犬のココが前足をいつまでもいつまでも舐めている。
なんだろう、と思って見てみると肉球がベロリとはげあがって血がにじんでいた。
散歩の時にココは嬉しくて自転車をグイグイ引っ張るのだが、どうやらそれでやってしまったらしい。
そういえば、今日はココがちょっと遅かったなあ、と思い出した。
人間ならばここが痛い、と言うが犬はじっと耐えてペロペロと舐めるのみ。
けな気で可哀そうである。
「獣医に連れて行かなきゃ」と騒ぐ娘を抑えて応急処置。
我が家には特効薬のマヌカ蜂蜜がある。
薬として使う蜂蜜なので純度の高い(値段も高い)ヤツなのだ。
僕がやけどをした時も、口内炎もこれで治した。
この蜂蜜には抗菌作用もあり、今ではお医者さんもこれを薬として処方する。
蜂蜜をガーゼに塗り傷口に当て包帯を巻く。
だてに昔スキーパトロールをしていたわけではない。
娘は明日獣医に連れて行く、と言っているが獣医に行っても何ができるわけでなし。
抗生物質を飲ますぐらいか。
というわけでしばらく様子を見ることにした。

応急処置の基本は傷口の保護である。
これはガーゼと包帯で終了。
いやがって取らないように娘の古い靴下をその上に履かせた。
そしてその後、どうするか考えた。
これでそのまま歩けば、すぐにボロボロになる。
人間で言えば足の裏の皮がはがれたようなものだ。
人間は靴をはく。
靴を履かせたら傷口の保護にもなるな。
赤ちゃん用の靴で自分で作れないかな、と思ったが人間の足と犬の足は構造が違う。
散歩なんかしたらすぐに脱げてしまうだろう。
こういう時はネットである。
今まで犬用の靴なんて考えもしなかったが、検索をしたら出るわ出るわ。
サンダルからスニーカーからブーツまで。
中には滑りにくいビブラムソールの靴なんてものもある。
いやはや、自分が知らないだけでこういう世界もあるんだなあ。
と言うのも、犬に服を着させる人がいるのも知っているが、自分ではそういうことをやらないと思っていたからだ。
だが今回は違う。
見た目の為のおしゃれではなく、足を保護するための物である。
いろいろと調べると、災害現場でも救助犬の足を保護するために靴を履かせる事があるそうな。もっともだ。
僕も町でココと散歩をしている時にガラス瓶が割れて散乱しているような場所で、足を切らないかなと思ったこともあった。
買ってもいいかな。
心にピンと来た。
そうなったら、やっぱりいいヤツ。
あのビブラムソールのヤツだろう。
ケガをしている前足だけだから二つでいいな。四つは必要ない。
でも、ついでに靴下も買っちゃえ。
あーあ、バカな飼い主だな。
毎度あり、ちーん。
翌日、荷物が届いた
便利な世の中になったものだ。



数日間、雨が降り続いた事もあるがココは家でおとなしくしていた。
傷口を舐めると治りが遅くなる、と聞いたことがあるので舐めないようにエリザベスカラーという首の周りにつける物も作ろうとした。
そこでふと疑問に思った。
本当に舐めると治りが遅くなるのかな?
治りが遅いから舐めるんじゃないのか?
舐めるから治りが遅くなる、という事は証明できないよな。
同じ固体で同時に実験できないんだし。
野生動物は舐めて治すよな。
傷を舐めるのは動物の本能だよな。
その本能を止めさせてしまうのはどうか?
次から次へと疑問が湧き上がる。
そこで再びネット登場。
色々調べてみた。
一番多い話は「舐めさせない方が良い」ということだがどうもピンと来ない。
そのうちにもっともらしく「それが元で別の病気になる可能性も」などという話もでてくる。
だがどうも心に響かない。
あたりさわりのない言葉が並び、本質から外れているような気がする。
よくよく考えてみればネット上の情報なんてのは、このブログも含め便所の落書きだ。
誰が書いているか分からない落書きで本質うんぬんなんて言う方がどうにかしているのか、と思ったらスッと入るページが見つかった。

動物が傷口を舐める科学的理由

この人がどんな人かは全然知らないが、一字一句最後の一行まで同意である。
自分が漠然と考えていたことを他人が文字にするとこうなるのだな。
これで治療の方針は決まった。
舐めたいのならば舐めさす。
さらに舐めている時に、マヌカハニーを患部に塗ってあげる。
舐めて不味い薬より美味しい蜂蜜の方が喜ぶだろう。抗菌作用もあるみたいだし。
それでひどくなるのならばその時に考えよう。
そしてこの行動の結果は全て自分の責任として受け入れよう、と決意した。
あのブログでこう書いてあったから、という言い訳は通用しない。
便所の落書きを読み、それを選んだのは自分である。
そして全ての行動の責任は自分にある。



似たような話がもう一つある。
犬を飼い始めてまもなくの頃である。
犬に何を与えるか、という話になった。
鶏の骨は喉にささり危険だからあげてはいけない、という話をどこかで聞いた。
そこでまた、おかしいなあ、と思ったのだ。
子供の頃、我が家では鶏の丸焼きなどをやると、においを嗅ぎつけて近所の犬が来て骨を喜んでバリバリ食べていたのを思い出した。
あれはいけないことだったのかなあ。
こちらも調べるとすぐに出てくる。
ほとんどの意見は問題なし。
さらに見ると、それはペットフード会社が作った話だ、という僕が好きな陰謀論まで出てきた。
ただしそれが元で死ぬこともあるようだが、犬の窒息死の1割が鶏の骨、1割が豚の骨、残り8割がおもちゃなんだと。
ここでも方針が決まった。
バリバリ骨を食わそう。
1割の危険を恐れて好物の鶏の骨をあげないのは可哀そうだ。
もしそれが原因で死ぬのなら、それはそういう運命だとあきらめてもらおう。
これは犬に限らず、全ての危険は排除する考えに反対する僕の想いだ。
「危ないからやめなさい」「なにかあったらどうするの」そういう言葉に対しては「くそったれ」であり、死を含む全ての結末を自分の責任として受け入れる覚悟なのである。
人間だろうが動物だろうが必ず死はやってくる。
その死を怖れるあまり、生きている今という時を犠牲にしていないだろうか。
今さえよければいいという考えではない。
これからやってくるかもしれない全ての物事を受け入れる覚悟で、今何をすべきか考え行動する。
これも愛なのだ。



ココの傷はみるみる良くなり、靴が要らなくなるのも時間の問題だ。
動物が持っている自然治癒力とはすごいものだ。
もちろん人間だって持っている。
先ずは自分の治癒力ありき、それを助けるための医療だと僕は思う。
平たく言えば、治るヤツは放っておいても治るし、治らないヤツは何をしても治らない。
ついでに言えば、バカは死ななきゃ治らないのだ。
生老病死、この言葉に全て詰まっている通り。
そしてそこから目を背けないこと。
それが今を生きるということだ。

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楽園

2013-06-20 | 日記
子供の頃、まだ小学校に上がる前の話である。
兄と一緒に兄の友達の家に遊びに行った。
そこで遊んでいるうちに喉が渇き、僕はその家の冷蔵庫からコーヒー牛乳を勝手に出して飲んだ。
それが見つかり、友達は許してくれたが兄には「ずうずうしい」と言われ親には「そんな事をしてはいけません」と言われた。
だがその時には何故それがいけないのかが分からなかった。
その時の自分を弁護するわけではないが、友達の家とか自分の家とかに関係なく、そこにある物をいただいただけなのに「それはいけません」と言う。
「じゃあ、誰か知らない人が来てあなたの家の物を勝手に取って行ったらイヤでしょう?」
それは大人の理論である。
当時の子供の(僕だけかもしれないが)理論では、仲の良い友達の家の食べ物は自分の物、逆に自分の家の物は友達の物なのだった。
さすがに大きくなるにつれ、他所の家の物を勝手に食べたりしなくなったが、僕の心の奥にはそういうところが今でもある。
特に食べ物に関しては、自分の物は人の物、人の物は自分の物なのだ。
家で取れる野菜や卵、これらはどんどん人にあげてしまう。
自分の物というより、大地からの授かり物であり、それはみんなで分かち合う物という感覚か。
頂き物もたくさんある。僕は全く遠慮なくありがたくいただく。
物をいただくと悪いとか申し訳ないと思う人がたまにいるが、それは無償の愛というものを知らないのでそうなる。
知っていれば「すみません」ではなく「ありがとう」という言葉になるはずだ。
我が家を訪れてくれた客人には腹いっぱい食わして飲ます。
遠慮をすると追い出す、と言うのが我が家のルールでもある。

もう十何年も前になるがタヒチに行った。
タヒチというのはロマンチックな所で、海に沈む夕日にやしの木のシルエットなんて、それだけでムード満点というような場所なのだ。
そこに何が悲しいのか、むさくるしい野郎2人で行った。
まあその時は昔の友達がタヒチに住んでいたので、そこの家に遊びに行ったわけだ。
そこで聞いた話が忘れられない。
タヒチというのは、木の実は豊富だし海の幸もいくらでも採れる。
気候は温暖で裸で生活ができる。
誰も働かなくても食っていけるし生活にも困らない、そういう場所なのだ。
人々の頭に貯蓄とか預金とか雇用とか定年とかそういう概念はなく、基本は日雇いで仕事をしてお金が入るとパーっと人に気前よくおごって全て使ってしまう。
仕事をしない時には人におごってもらう。
飲み食いは、その場でお金を持っている人が払う。
そういうライフスタイルで長い事やってきたそうな。
そこに中華系の人々がやってきた。
どうなったか?
中華系の人は資本主義の概念があるので、きっちりと貯金とか貯蓄とかをする。
おごられる事はあるだろうが、現地の人のように全て人におごってしまう、ということはしない。
そうなるとおごる人はバカバカしい、と思うようになる。当たり前だ。
こうやって楽園タヒチにも資本主義の概念がはびこっていった、というわけだ。
ここで言いたいのは、中華系の人を責めているわけではない。
ひょっとすると聞き間違いで、別の人達かもしれないがそれは何系だろうとあまり意味はない。
概念というものが根本的に違う人ということで、それを責めてもしかたがない。しゃあないやん。
君の立場で言えば君は正しい、のだから。
ただ自分の中では、貯蓄とかいう概念がなくあればあるだけ人におごってしまうタヒチ人に共感する所があったのだ。
それは遠いところで感じる魂の原点のような感覚か。
また話は脱線するが、親戚の叔父さんはニュージーランドが好きで一人で何回も何回もここに来ていた。
その叔父さんが以前こう言っていた。
「占い師に診てもらったらよ、『あなたのルーツは南の方にあります』だとよ。ひょっとしたら俺達の先祖は南太平洋から来ているのかもしれないぞ。お前だって南に来るとホッとするだろ?」
その時はふーんと聞き流したのだが、実際に僕は南に住んでしまった。
まあ南もここまで下がれば裸で暮らせる常夏の楽園ではなく、装備をしっかりしないと凍え死んでしまうような場所だが、南は南である。
タヒチでは先に友達が帰り、その後一人で島めぐりをした。
物価が高かったので離れ小島へ行く船も豪華な観光用ではなく、地元の人が使う貨物船に乗った。
日本人がこの船に乗るのは初めてだってらしく、わざわざ僕を見に来る人もいた。
何のプランも立てずに離れ小島に行ったのだが、その船で出会った兄弟と仲良くなり、その家に招かれた。
そのまま僕はその家に転がり込み1週間ほど滞在した。
家族と同じように朝昼晩とご飯を食べ、昼はその辺の海で泳ぎ、夜は子供の部屋で寝たのだが、滞在費を払えと言われた事はなかった。
それでも何かしなきゃあなと思い、島に唯一ある店でパンとかコーヒーとかをどっさり買って家に持っていったら、それが当たり前という感じで母親は食料を棚にしまった。
誤解が無いように言うが、その時の母親の態度は「家にタダで泊めさせているのだからこれぐらい当たり前」なのではなく「お金を持っている人が食料を買うのは当たり前」というような、話で聞いた通りの感じだった。
こういったことは強制なのではなく心の奥から湧き出て起こす行動なのだ。
食料を差し入れする前も後も、家族の僕に対する態度の変化は全くなかった。
『持っている人が出す』この考えに生まれて初めて僕は触れた。

最近読んだ本でマヤ文明やアステカ文明のことについて書いてあった。
そこでは[Give & Take]なのではなく[Give & Give]だったそうな。
Give & Takeの考えとは、『私がこれだけ払いましたよ、あなたもどれだけ払いなさい。同じ分だけ払いましたね。では同じ分だけ取りましょう』もしくは『私はあなたの倍、払いました。なので持っていくものもあなたの2倍です。』簡単に言うとこうだ。
Give & Giveは違う。『私はこれだけさしあげます。そしてこれとこれが必要なのでもらっていきます。』もしくは『私はこれだけ差し上げます。だけど今は必要なものはないので何も要りません。」あるいは『私は差し上げる物がありません。でもこれが必要なのでもらっていきます』こんなことも許される。
「お前は何も払っていないじゃないか。それで必要な物を持っていくだと。ずうずうしいにもほどがある。」
なんてケチくさいことは言わない。
全ての人が必要な分はあり、奪い合うをすることなく、各自が必要な分だけ持っていく。
そして必要でない分も持っていく欲張りはいない。
「そんな事を言うのなら誰も働かなくなる」と言う人がいたら、それは自分の心の裏返しである。
労働というものを本当はイヤだけど仕方なくやっているという考えの人はそう思うかもしれない。
その社会では仕事は、強制されることなく自分ができることをやる。
興味深いことに、そこでは何もしないでブラブラしている人もいたそうな。
どのような社会でも2割は真面目な人、6割は普通の人、そしてあとの2割は不真面目なと言ってはなんだが何もしない人、こういうような構成になっているらしい。
これは動物や昆虫の世界でも同じで、働きアリというのは全てが働いているのではない。
2割ぐらいは何もしないアリがいる。
ひょっとすると人間には分からないけど、周りを応援しているのかもしれない。
ためしにそのブラブラしているのをそのグループから排除すると、いままで働いていたアリの2割ぐらいがブラブラ組に入る。
排除しておいたブラブラ組をグループに戻すとちゃんと働き出して、全体の2割ぐらいがブラブラする。
人間でも同じこと、というのをアステカやマヤの人達は知っていて、ブラブラ組を受け入れる社会を作っていた。
「働かざる者、食うべからず」ではなく「いいじゃん、働きたくなかったらその気になるまでブラブラしていなよ」
というノリだったのだな。
それにブラブラ組の中には子供や老人もいただろう。
身体障害者もいたかもしれない。
身体障害者がいるグループは、全体が思いやりのある優しいグループになる、というのは定説だ。
音楽家や芸術家なんてものも、人間以外から見ればブラブラ組だろうが社会には必要だ。
そういう色々な人が自分のペースで生活をしていくというのが認められるような社会、それがマヤ文明やアステカ文明、それに日本でも縄文時代はそういう社会だった。
そういう文明はテレビも電話もインターネットも無かったが(もっと高度なものがあったかもしれないが)、通勤ラッシュも残業もストレスも無かった。

これこそが僕が夢見ている、お金のない国だ。
地球上でもそういう社会は作れるのである。
「でもね・・・、そうは言っても・・・」という言葉には
「うるせー、デモもストもあるか!できると言ったらできるんだよ」と言いたい。
「そんな事言っても、この世界では・・・」
「あなたは現実を見ていない」
「理想論だ」
「それはいいと思うけど・・・」
もうそんな言葉はうんざりだ。
今の世の中でそれができないのは、経済というものが『全ての人に富を分配した時にどうしても足りなくなる』という事が基盤になっている。
これが理由の一つである。あくまで一つであって全てではない。
さらにそれを追及するとロスチャイルドとかフリーメーソンとかイルミナティとかボロボロ出てくるがそれだけではない。
そうやって『悪いのはあいつだ』と言って人を責め続ける心がある限り、この社会は変わらない。
反戦運動をやっていても戦争はなくならないし、原発に反対しても原発はなくならない。
その心の奥を覗くと、そこには『恐れ』があるからだ。
『恐れ』が原動力にある限り全てうまく行かない。
そして支配者はその『怖れ』を巧みに利用する。
支配されている人は、それに気がつかない。気がついても気がつかないふりをする。
怖れを持つということは恥ずかしいことであり、勇敢では無い、という男性的な意見もあるだろう。
スピリチュアル系で女性が多いというのはそこにも一理あるかもしれない。
男にしろ女にしろその『怖れ』から目を背けていては何も始まらない。
それは自分で見つめなくてはならない。
このあたりはエゴと同じである。
まだ悩む人はマシだ。
そこから逃げる人は無関心へと進む。
愛と一番かけ離れた状態が無関心である。
「そんなの、自分には関係ないもんね」「どこかの誰かがやるでしょう」「俺は知らないよ」
残念な事に、今の地球上の大多数の人がこうである。
なので今の社会がある。
今、見えている世界とは全人類が選んだ結果だ。
そして希望としては気がつき始めている人もかなりの数、生まれてきている。

ではこれからどうすればいいのか?
簡単なこと。
愛である。
「またそれですか?」という声が聞こえてくるが、それが唯一の原則なので仕方がない。
愛に基づく行動は全て上手く行く。怖れとは反対だ。
一番簡単で一番シンプルなことは、一番複雑で一番難しい。
そして人間が考えた事は良くも悪くも全て現実化される。
これからの世界ががどうなるかは、全て僕たちの思考の先にある。
楽園になると思えば楽園になる。
僕はそう思っている。

さて、あなたはどうですか?


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自分がやること

2013-06-15 | 日記
「自分にできることをやりなさい。」
僕が人によく言う言葉である。
自分自身にもこの言葉を投げかけているのだが、最近読んだ本ではこの言葉を堀下げていた。
『自分ができる事をやる』と『自分のためにできる事をやる』は違うんだと。
なるほどね。
前者の行為は世のため人のためにであるが、後者は自分のために。
結局自分中心のエゴから抜け出せないというわけだ。
この世で人が克服しなくてはならないものに『エゴ』というものがある。
『自分さえ良ければいい』という考えである。
父はことあるごとに「自分さえ良ければいいと思うな」と言っていた。
子供の頃からそうやって育てられたことに今は感謝である。
『自分さえ良ければいい』という想いは『自分の家族さえよければいい』というものへ繋がる。
そして『自分の家族と友達さえよければいい』へと変り『自分の所属する社会や組織や会社さえよければいい』へ繋がる。
そしてそれが大きくなれば『自分の国さえ良ければいい』となり戦争へ発展する。
大国のエゴというものも個人のエゴから始まっているのだ。
自分もしくは自分が所属する家族や社会とそれ以外。
そういう線を引いてその内と外に分ける考え。
その輪が大きくなったり小さくなったりするが、輪の大小に限らず常に自分が中心というのが中華思想なのではないか。
日本は輪でなく和だな。
今はちょっと違うけど。

自分にできることをやる、ということは徹底的に自分自身を見つめることから始まる。
自分を知らずして、行動はできない。
これからの世で必要不可欠なことは、自分の内側と向き合う内向にある。
それも生半可なものではなく、自分が目を背けたくなる自分自身のイヤな所を見なくてはいけない。
それをなくしての前進はない。
そこから目を背けていれば、ズバリそれを突きつけられたときに、正当化や言い訳、逆切れ、無視や無関心を装った逃げへ走る。
よくある逃げが他人との比較だ。
他人を見ている限り、自分は見えない。
見るのは他人ではなく、自分自身だ。
そうやって心の奥のドロドロしたもの、イヤなものに光を当てる。
楽な作業ではない。
できることならそのまま放っておいて、このまま蓋をかぶせておきたい。
だがその殻を割るのは自分でなければならない。
光を当てた途端にエゴは消滅する。
エゴとしては消滅したくないために、他人を引き合いにだしたり、そこに関心を向けさせないようなもの(エンターテイメントなど)を用意する。

目を覚ませ。
自分自身を見て、その上で『自分にできること』をやるのだ。
そのうちに『自分にしかできないもの』が見えてくるはずだ。
他人を気にするな。
惑わされるな。
答は全て自分の心にある。
その答こそ、人を支配しようとしている者が怖れるもの。
即ち『愛』である。

愛が全て。
愛とは自分の心である。
愛とは喜びである。
愛とは自分も他人もないワンネスである。
愛とはゴミ拾いである。
愛とは全宇宙である。
愛とはSEXである。
愛とは神である。
愛とは空である。
愛とは無である。
愛とは旨い料理である。
愛とは宇宙人である。
愛とは庭の野菜である。
愛とは人との繋がりである。
愛とは心である。
愛が全て。
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散歩

2013-06-14 | 日記
最近の日課は犬の散歩である。
朝、娘が学校に行く時にバス停まで1回。
これは30分ぐらいの普通の散歩。
住宅地を歩くので袋を持って歩き、糞をしたら拾って持って帰る。
ついでにその辺の落ちているゴミも拾う。
常に犬の糞用のビニール袋はポケットの中に入っており、糞をしない時はゴミがそこに入る。
今まではゴミが落ちていても、拾ったらどうしよう、ということもあったが犬と一緒に歩くようになって躊躇無くゴミを拾えるようになった。
良いことである。

そして昼間、マウンテンバイクで近くの公園を1周する。
昼の散歩をすれば疲れてグターっと昼寝をするが、そうでないとエネルギーが有り余るのか「遊んでよ、遊んでよ」とうるさい。
犬というのは常に散歩に行きたがるものなのか、ガレージから自転車を出すとそれだけで大興奮である。
近所の公園はかなり大きく、ありきたりな言い方だが東京ドーム30個分ぐらいの大きさだ。
その外周を大きく1周。距離にして4キロ、いや5キロぐらいはあるか。
それがいつもの散歩コースである。
向かいの家の裏側がすぐ公園で、直線距離にしたら30mぐらいだが人様の家を通るわけにはいかない。
公園の入り口までは綱をつけて走る。
マウンテンバイクのハンドルの真ん中にカラビナをつけて、細いザイルを犬につないで走るのだが、スタートダッシュがすごい。
グイグイと引っ張り、油断をするとケガをする。
犬のココはラブラドールの雑種だが、どこかでハスキーの血も混ざっていると買う時に聞いた。
祖先が遠い昔、犬ぞりを引っ張った血がよみがえるのかもしれない。
1分ぐらいで公園の入り口へ着く。



小川にかかる橋を渡れば、そこから先は自由の身である。
走り放題、ウサギ追いかけ放題、小便し放題、クソし放題である。
クライストチャーチにはドッグパークという犬専門の公園もいくつかあり、そこでは犬のフンを飼い主が拾う。その公園はちゃんとそれを捨てるゴミ箱がいくつも用意されている。
近所のカンタベリーパークという公園は牧場とつながっていて、そこには羊の糞がゴロゴロしてる。
牧場で羊の糞を拾う人はいない。
だがそれでも公園、色々な人が利用する。
犬もそれが分かっているのか、小道の真ん中でなくちょっと離れた茂みで糞をする。
茂みを抜けると視界が開ける。
僕はこの景色が好きだ。
広い空、緑の大地、その大地が空と交じ合うあたりに白い雪の載った山。
あと一ヶ月もすれば、あの斜面に僕は立つ。
去年の今頃も同じような事を思った。



だだっ広い公園の中の牧場を走る。
柵でいくつかにしきってあり、その時によって羊のいる場所が違うので羊のいない場所を走る。
タイヤの太いマウンテンバイクは牧場の中を走るのに最適だ。
当然ながら羊のウンコもかなりの数踏む。
ウンコをよけながら走るなんてできやしない。
それぐらいのことを気にしては、この国でやっていけない。
ゲートを開けて犬を通し自転車を通しゲートを閉める。
この作業を何回繰り返しただろう。
僕はこれが嫌いではない。
そこの柵に羊がいるかいないか確認をして、いる場合は綱をつけるという、飼い主の責任を再確認する作業でもある。
ここでは犬が羊を襲ったらその犬は殺さなくてはいけない。
一度羊を殺した犬は必ずくり返す、というのがその理由だ。
どんなに飼い主が可愛がっていようがそれが掟。例外は無い。
飼い主に与えられる選択は、自分で殺すか人に任せるか、である。
クィーンズタウンでも友達の飼い犬が羊を襲って殺し、友達は泣く泣くその犬をライフルで撃った、という話も聞いた。
楽園にも厳しいルールはある。



牧場を抜け公園を突っ切って反対側へ出た。
ここからしばらくは新興住宅地を走るので再び犬に綱をつける。
この辺りまで来ると犬も落ち着いてきて、グイグイ引っ張らない。
ココがトコトコと走る速度に合わせゆっくりと走らせる。
そして高速道路にかかる陸橋を越える。
高速道路が開通してまだ数ヶ月だが、すっかり周りの景色になじんだ。
開通する前には散歩がてら道路まで出てきて、犬と一緒に夕日を見ながら「あと数ヵ月後にはここに車がビュンビュン走るようになるんだなあ」などと思ったものだった。
時が経つのは早いものだ。
道路の脇には自転車と歩行者用の舗装された道もできた。
道路というものを車のためだけでなく、歩く人と自転車の人のために同時に作る。
この国のこういうところが好きなのだ。
小道は公園の外周に沿って通り、所々で外の一般道と通づる。
そういう場所には案内標識がある。
僕は地元なので案内板など必要ないが、これなら初めての人でも地図を持ってサイクリングが楽しめる。
小道は自動車道側にきっちりとフェンスが張ってあるので、犬を放しても大丈夫。
車の道路との間には充分なスペースがあり、フェンスで囲われた道でも閉塞感はない。
空いている場所にはタソック、ヒービー、ランツウッド、フラックス、コプロズマといったこの国の山へ行けばどこにでもある草木が植えられて、数年後にはこのあたりも違う景色となるだろう。





僕は新しくできたこの道がお気に入りで、時間があれば毎日ここを走る。
道ができたばかりの頃はゴミも目立ったが、毎回散歩の度に僕がゴミを拾うので最近はかなりきれいになった。
ここでゴミ拾いについて一言。
僕はあちこちでゴミを拾うが、以前は「全くこんな所にゴミなんか捨てて」とやや怒りながら拾っていた。
人目のあるところでそういう行為をする照れみたいなものもあったのだろう。
今は違う。
どうせ同じ事をするのならニコニコしながらやった方がいいという事に気がついた。
なので、笑顔で拾う。
僕はゴミを捨てる人を責めない。
僕がやるべきこととは、人を責めることではない。
だって人を責めても・・・しゃあないやん。
その代わりと言ってはなんだが、ゴミを見つけてゴミを拾える状況でゴミを拾わない自分を責める。
自分ができることなのに、それをやらない自分を責める。
ゴミを見ながら通り過ぎてしまった時に、「あーあ、あのゴミ拾わなかったなあ」と後悔する。
後から後悔するぐらいなら、その場で拾ってしまえば後悔は生まれない。
シンプルだろ?
そしてそれを人に強制しない。
たとえ自分の子供だろうと。
こういうことは心の奥から湧き上がる気持ちでやるものだ。
なので子供にやらせるのではなく、自分がやる。
そして自分のそういう姿が子供の教育になる。
親の背中を見て子供は育つのだ。
それにゴミ拾いは僕の仕事でもある。
それはお金を産まない、世のための仕事だ。
『自分ができること』という意味で、野菜や石鹸や料理を作ったり、ガイドやドライバーをするのと同じ僕の仕事である。
仕事は楽しくやらにゃあ。
なので最近はニコニコと笑いながらゴミを拾うように心がけている。
ある日出合った人と挨拶をしたら、彼女は僕が持っているゴミの袋を見て「あなたの行動はお金をもらうのに値するわ」と誉めてくれた。
「いや別に、お金とかそういうことじゃないんだけど」と思ったが変に説明するのも面倒だったので適当に相槌を打っておいた。
散歩の途中でゴミ拾いをするのだが、これはココの休憩時間にもなる
ずーっと走りっぱなしではココも疲れてしまう。
愛に基づいた行動は全てが上手く回る。





犬と一緒に自転車で公園の外周を走る。
時々車の人と目が合ったりする。
僕もこの道を車で走る事があるが、ある時に自転車で犬と一緒に走っている人を見て、「ああ、いいな」と思った。
そして「そうか自分も人から見ればああいうふうに見えるのかな」とも思った。
自分が見ていいなあ、と思う自分になる。
それは次世代の人への指針にもなるだろう。
例えば僕の家へ遊びに来た若い人が庭を見て「いいなあ、いつか自分もこんなふうに家の庭で野菜を作るような生活をしたいなあ」と思うとしよう。
その想いはすぐにではないが、そのうちに実現する。いつかは実現する。
僕が蒔くのは野菜の種だけではない。
自分というものを通して、未来への希望の種を蒔いている。
ぼんやりとそんな事を考えながら、目が合ったドライバーに手を振る。
歩く人も自転車に乗る人も車に乗る人も、せかせかしていない。
みんなをひっくるめて時間はゆっくりと流れる。



公園を大きく半周してメインのゲートから再び中に入る。
ココもずいぶん疲れてきたのか、遅れ気味である。
トイレの横の水場で水分補給。
こういう公園の水場が又すばらしい。
真ん中は人が普通に飲むように上向きに水が出るもの。
端に水筒などに水を補給できるよう、下向きにミスが出るもの。
そして反対側には犬用の水飲み場。
こういう細かな配慮が嬉しい。
ココがガブガブ水を飲む横で僕も水を飲む。
クライストチャーチの水源は南アルプスの氷河で、ニュージーランドの中でも美味い水として有名だ。
何気ないことだが、こういう所がきちんとしている所が住みやすい国なんだと、そして大人の社会とはこういうことなんだと思う。
公園を抜けて再び住宅地に入り、犬がトコトコ走る速度で家に帰る。
ざっと40分ぐらいの散歩だが、こんな日々の散歩でも色々なドラマがある。
夕日が山に沈む様子はきれいなものだし、霧の早朝は幻想的でこれまた良い。
この前はちょっと寄り道をして、廃材屋さんで温室用にリサイクルの窓を買った。
写真の一番手前の窓だがこれで80ドルは破格値だ。これがそのまま温室の壁になる。
雨上がりには牧場にマッシュルームが出てくるから今度はバスケットを持ってきてマッシュルーム狩りでもしようかな。
夢は膨らみ、現実となる。







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常識

2013-06-09 | 日記
「そんなの常識じゃん。当たり前だろ。」
と言われた事が誰にでもあるだろう。
「いや、本当にそうなのか?」
「そうだよ。常識なんだから」
はい、以上それまで。会話終了。
そこから先はない。
その常識とは一体何か?誰が言い始めたのか、定かでないまま僕達は常識というものに縛られている。
まずその常識というものは時代背景によっても変わる。
極端な例では、中世では大地を中心に空が回る天動説が常識だった。
地動説を唱えるガリレオなど非常識もいいところ。
とんでもない大馬鹿者だった。
「この大地が回るなんて、そんな事は絶対にない」
誰もがそう考えていた。それが常識だからだ。
近いところでは、僕が子供の頃に少年野球をやっていた。
当時は努力、根性、忍耐というような巨人の星みたいな話が常識であり、練習中に水を飲むことは許されなかった。
それが当時の常識だったのだ。
この常識という物、時代でも変われば社会でも変わる。
当然ながらどこかの誰かが作り上げた話、意図的に操作された話が常識となる場合もある。
人間は猿から進化した。常識である。
でも僕は言いたい。
「それは本当ですか?」
こうなってくると今の科学の根底まで疑ってしまい、どこからどこまで信じていいか分からなくなってしまう。
でも『分からない』という答もありなのではないか。
分からなくても考えて行動するという事が大切なのではないかと。
子供の頃ずーっと思っていた、『何故、自分は生まれてきたんだろう』という問いと同じ。
答は出ない。出ないが、だからといって捨ててしまうことなく考え続ける。
これと同じように常識を疑い、わからないままに生きていく。
それが人間なのではないか。

さてこの常識、どれにも共通することだが常識をくつがえすことは『絶対ない』のである
この「絶対にない」そういう考えが危ない。
人と話したりして「そんな事は絶対にない」と言う人とはそこまでの関係で、心の奥底でつながる事は無いだろう。
それは真実というものを覆い隠している常識に囚われているからだ。
歴史というものもそうである。
娘の歴史の教科書をパラパラ眺めていて思ったね。
「これって本当かなあ」
僕は子供の頃から歴史が好きではなかった。
学校の先生との相性が悪かったということもあったが、なんとなく好きではなかった。
その理由が今分かるような気がする。
歴史とは勝者の理論である。
敗者の声は抹殺される。
幕末の話だって、ほとんどは明治になって政府で活躍した人の話だ。
そりゃ幕末の志士はヒーローさ。
徳川幕府は悪で明治維新は善という勧善懲悪の筋書きで、アメリカのハリウッド映画と同じだ。
でもその裏で動いていたアメリカとかイギリスの動きはほとんど出てこない。
ひょっとしたら幕末の志士達も利用されていたのかもしれない。
近代史のページになっても、戦争は悲惨なものです、というのを強調して日本が悪かったという話ばかりだ。
こうやってWGIP(War Guilt Information Program)は今も続いている。
僕だってこういう裏事情は小林よしのりの『戦争論』を読んで初めて知った。
その本を全て鵜呑みにするわけではないが、そこから自分なりに出した答は、『日本も悪いところがあったが、それを言うなら欧米だって、他のアジアの国だって全て悪かった。同時に全て正しい。問題は悪とか善ではなく、その裏には歴史に出てこない真実というものがある』というものだ。
その上で言う。
今ある歴史は捏造されたものである。
そしてほとんどの人にとってはそれが常識である。

僕は世間一般の常識というものに囚われないように心がけている。
でも人に言われたりブログで人の話を読むまで、知らず知らずのうちに常識に囚われていることもある。
そんな時は深く省みて、自分を正すのだ。
世間一般の常識に囚われないので、どんな突拍子もないことを言われても話半分で「まあそんなこともあるかもね」である。
「私は実は宇宙人で、地球を救うためにやってきました」「まあそんなこともあるかもね」
「日本の震災は人工地震だって」「まあそんなこともあるかもね」
「牛乳は実は体に悪いんだって」「まあそんなこともあるかもね」
「地球の中は実は空洞で、そこには地底人が住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
「太陽の裏側には地球とそっくりな星があり、向こうはこちら側の存在を知っているけど、こちら側からは全く知られていないのです」「まあそんなこともあるかもね」
「ムー大陸とアトランティス大陸は本当にあって、魔法と科学で戦争をして滅亡した」「まあそんなこともあるかもね」
「昆虫は地球上の生物を増やすために宇宙からやってきた」「まあそんなこともあるかもね」
「この先ポールシフトが起こり北と南と西と東が逆になる」「まあそんなこともあるかもね」
「明日、世界は破滅します」「まあそんなこともあるかもね」
「月には本当にウサギが住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
こうなってくると何が正しくて何が間違っているか、訳が分からなくなる。
バカボンパパが言う。「それでいいのだ」
正しい、間違っている、という概念さえもこの先では存在しない。
全ては正しく、同時に全ては間違っている。
自分が知っていることとは、自分は何も知らないということである。
そうして分からないまま、今日という日を生きていくのだ。
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料理

2013-06-07 | 
最近は家の仕事が楽しい。
天気の良い日は庭の仕事が進むし、天気の悪い日は家の中での仕事をする。
先週はぐずついた天気が続いたので、料理に専念した。
好きな音楽をガンガンかけて料理するのは楽しいことなのだ。
秋が深まると根菜が美味しくなる。
庭でも大根、人参、そしてごぼうが採れたのでモツ煮をした。
アジア系の肉屋が近くにあるので、モツやすじ肉なども手に入る。
昔、クィーンズタウンの肉屋でモツを売っていないか聞いたら「おまえはそんな物を食うのか!」とびっくりされた。
アジア系の移民が増えると需要も増えるのだろう。
今では簡単に手に入れられるのがうれしい。
生のモツなので何回も茹でこぼし、臭みを取る。
にんにく、しょうが、ネギの葉っぱなどと一緒に味噌で炒め、根菜を入れ水を足し煮る。
シルバービートの茎なども一緒に煮てある程度煮えたら味を整える。
上にネギを刻んで乗せ七味唐辛子をパラリとかけて、いただきます。
モツ煮はやっぱり寒い時期が旨いなあ。

秋が深まるこの季節は梨が旬である。
旬のものは栄養価も高いし、果物が持っている『気』も高い。
そして嬉しいことに安い。
主夫の仕事としての保存食作りも進む。
いつもこの時期にやるのは洋ナシのコンポート。
洋ナシを剥いて種を取り、白ワイン、レモン汁、蜂蜜、砂糖、シナモン、のシロップで10分ほど煮る。
これを熱いうちに煮沸したビンに詰める。
こうすれば常温でも1年ぐらいは持つ。
それ自体でもすっきりとしたデザートにもなるし、アイスクリームの横に添えてもよい。
朝ごはんのシリアルと一緒に食べても良し。
我が家の定番保存食である。
近所の八百屋で山のように買っても2ドル。
自分で野菜や果物を作っている身なので思うのだが、この値段だったら作る人はイヤになってしまうだろうな。
しかし消費者としては安いのはありがたい。
そこで、うーむと唸ってしまうのだ。
洋ナシの木をニワトリコーナーに植えてあるので再来年ぐらいには収穫できるかな。
以前、リンゴのコンポートも作ったが、味は可も無く不可もなく。格別「うんめぇぇ」というものでもなかった。
コンポートは洋ナシに限る。
梨と言えば日本の梨、豊水も最近はよく見るようになった。
我が家の食べ方は、皮を剥き塩で揉む。
塩はもちろんブレナムの天然塩である。
それを洗って一口大に切って食べる。
娘が大好きなので、今の時期は毎日和梨を食べる。
こんなのも庭に木があったらいいなあ。
おっと、こうなればいいなあと思うと実現してしまうぞ。





秋が深まり冬が近づくこの次期、先週はクライストチャーチでもあられが降った。
去年もこの時期に作ったのが新巻鮭。
これは寒い時でないと駄目だ。
原材料は鮭と塩。
塩はもちろん海の天然塩。
一度この塩の旨さを味わうと、科学的に精製された塩を使えなくなる。
そもそも塩というのは一番基本的で一番大切な調味料である。
そこには母なる海のミネラルがたっぷり含まれる。
そして科学的には究明されていない塩の『気』だってあるような気がする。気のせいは『気』のせいなのだ。
塩というのは古来、調味料だけではなくお清めとか厄払いとかにも使われる。
嫌な客が帰った後に塩をまくというし、お相撲さんだって塩をまく。
殺菌効果もあるので、保存食には事欠かない。
たかが塩。されど塩なのだ。
安いからといって精製塩を使うか、ケチケチしないで本物を使うか。僕は後者である。
百均が普及して生活のレベルが下がったと聞くがおおいに頷ける。
いかにお金を使うかというのは、その人の人間性に顕れると思う。
自分も若い頃にはいろいろな所でお金をケチったが、今は何となく違う。
使う所には喜んで使う。これが浪費とは違う。
お金を使うということはなくなってしまうのではなく、ありがたく払わせてもらうことなのだ。
友達の所から送られてくる味噌、塩、塩麹。
本物を味わう喜びは自分と家族への投資である。
そんな海の塩で干した新巻鮭。
これを炭火で焼いて、炊き立てのご飯と一緒に・・・。
なんという贅沢。
なんというご馳走。
鮭は新鮮なものを刺身で食うのも旨いが、こうやってじっくり時間をかけて熟成させるとたんぱく質が分解されアミノ酸となる。
まあ、味が深くなるわけだ。
素材の旨みを最大に活かした日本食の真髄ここにあり。





お菓子も作る。
最近のヒットはプリン。
これはなんといっても卵が命である。
シンプルなだけに素材の旨さが要求される。
我が家では毎日5個の卵が生まれる。
家族3人で毎日5個は食べきれない。なんとまあ贅沢な。
ことあるごとに友達の家に持っていったりするが、それでも余る。
「そんなにあるなら売れば?」という声がどこからろもなく聞こえてくるが、僕はこれを売る気はさらさらない。
卵の大量消費にはお菓子作りが良い。
女房殿はシュークリームを上手に作る。絶品であるが、僕は作るのを見ていて無理だと思った。
自分が無理と思えば無理だ。なので自分ができることをやる。
この時期かぼちゃが収穫できるので、小さいかぼちゃをクリーム状に煮て裏ごしし自家製かぼちゃプリンもできる。
娘はかぼちゃの食感が好きではないが、かぼちゃプリンなら食べる。
今回はシンプルなプリンを作り、娘と一緒にプリンアラモードを作った。
プリン?あら、どーも、ではないぞよ。
「プリンアラモードとはプリンの周りに飾り付けをすることだ。これは美的センスがいる。」
僕は娘に偉そうに言う。親父はいつも偉そうだ。
「お父さん、美的センスがあるの?」
「ない」
自分を知ることも大切だ。
娘に生クリームを泡立てさせる。最近はそんなこともできるようになった。嬉しい限りである。
トッピング用にチョコレートのふりかけみたいなものも用意して、生クリームをしぼるのはどんな形がいいのだとか、ワイワイとやるのも又楽し。
本来ならイチゴとかブルーベリーとかを乗せたいのだが、今は秋。というわけで季節のフルーツを用意した。
そうやってできたプリンアラモード。
感想はと言うと、甘さ控えめにプリンを作ったのでアイスクリームと一緒に食べるとプリンの微妙な甘さが感じられなくなった。
でも楽しく美味しくいただければ、それでいいのだ。





天気の良い日は屋外料理。
今回は塩麹豚肉の燻製。
豚のばら肉を塩麹に漬けて薄く切って焼くと旨い、というアイデアを味噌メーカーからいただき、さらにそれを燻製にしてみた。
ついでにこの夏に取れたニンニクもやってみた。
チップはマヌカ。この香りがまた良い。
犬のココがクンクンとにおいを嗅いでいる。
犬の嗅覚は人間の6千倍だというから、こんな匂いはたまらないだろうな。
あれ?だけど臭い匂いも6千倍なのかな。まあいいや。
結果、火の通り加減が分からなかったので長くやりすぎた。
その分きっちりと燻製され、酒のつまみにいいのができた。
この火加減というのも今後の課題となるだろうな。
こうなると、熱を通さない煙だけで燻す冷燻という装置も欲しくなる。
これなどは自作で出来そうなのだが、なにぶん目の前には温室計画が控えているので、又暇を見つけてやることにしよう。
こうやってやりたい事リストがどんどん増えていく。





ここ数日の料理についてダラダラと書いてしまった。
食について僕はかなり真剣である。
かと言って、オーガニックの物しか食べないのか?と問われれば、そうでもない。
たま~にはインスタントラーメンだって食べるしジャンクフードだって食べることもある。
それでも普段の食生活では、かなり健康的で本物志向で美味しい物を食べている。
だがこういった本物志向も一歩間違うと宗教のようになってしまう。
『こうでなければいけない』という思い込みほど危ないものはない。
僕は自分のやりたいようにやっているだけであり、人に押し付ける気はさらさらない。
よく「~~をしたほうがいいよ」とか「何々をすれば?」という人がいるが僕は言わない。
「さあ、あなたも今すぐにニワトリを飼い始めなさい」などとは言わないのでご安心を。
何をどうするかなどと言うのは、それこそ本人の判断と行動。
料理とか食に限らずどんなことでも、やる人は黙っていてもやるし、やらない人は周りが何を言おうがやらない。
行動というのは、その人の心の奥から湧き出るものが原動力なのだ。
人に言われたから始めた行動で失敗すれば「あの人が言ったから」などと言い訳をするだろう。
人に言われたことがきっかけで、自分の判断で始める。
そこには言い訳はなく、失敗さえも自分の経験となる。
どんな場合でも、君の立場で言えば君は正しい、わけである。
でも本物の旨さというのは共感できるものであり、時には感動をも産むものである。
それが分かる人、食べ物を通して幸せの波長が合う友人へ、これからも卵や野菜を持っていくだろう。
健全で美味しい食べ物を供給するという人間にとって大切な仕事。
それが自分がやることだから。


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波長

2013-06-02 | 日記
波長というものがある。
全ての物、空気でも水でも光でも物質でも生き物でも波によって構成されている。
その波の長さを波長という。
波長には高いものもあれば低いものもあり、形もまちまちである。
波長の動きのことを波動と言い、あの宇宙戦艦ヤマトにも波動砲がついている。
世の中の動きは全て波動であり、人間から見た良いも悪いも波動のことなのである。
波動には面白い性質がある。
同調と言って、ある周波数の波を弱いエネルギーでも発信すると離れた所でもそれを受信することができる。
ラジオ、テレビ、無線通信、携帯電話、こういったものはその性質を利用している。
人間も同じこと。
よく『馬が合う』とか『息が合う』などと言うが、これは同調していることなのだ。
そして同調している物は引き寄せあう、引き寄せの法則もある。
ポジティブな人にはポジティブな人が、ネガティブな人にはネガティブな人がやってくる。
人間は自分自身が一番見えにくいものなので、周りの人を見て自分自身を見る。
他人は自分を映す鏡なのだ。
音楽をやっていて分かるのだが、技術的に優れて音楽の志向が似た人でもセッションが気持ちよくない時がある。
これは馬が合わないのであり、無理にやっていてもダメだろう。
逆に馬が合う人とは、アドリブで適当にやったりして途中でつっかえたりしても楽しいセッションとなる。
これがバンドとなれば、いろいろな人が入るのでそれが顕著に現れる。
波というものは常に動いているものなので、どんなに息の合ったバンドでも解散する。
ストーンズのように何十年も同じメンバーでやっているのは、これまたスゴイと思う。

では馬が合わない人とはどうすればいいか。
必要以上つき合わないだけ。
シンプルだ。
大切なのは相手を否定しない。
その人にはその人のやり方がある。
人は人、自分は自分なのだ。
「君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい」とボブデュランも言っている。
例え相手がどんなに間違ったように見えても、それを責めては同じ穴のムジナになるだけだ。
人として間違った行動をすれば、それはブーメランの法則によって自分に還ってくる。
僕はひどいニュースなどを見ると腹が立つより、その犯人という人が可哀そうになってくる。
だって、それは自分に還ってくるから。
個人だけの話ではない、国家もそうだ。
中国もアメリカも今まで散々な事をやってきて(今もまだやってるけど)、これから大変だろうなあ、可哀そうに、と思う。
でもそれは自分達のツケなので、自分達で支払わなければならない。
可哀そうだが仕方がない。

僕はテレビを一切見ない。
情報はネットで仕入れる。
ネットのいい所は情報をこちらで選べるということだろう。
ここでも波長の合う合わない、というものはある。
もっともらしいことを書いてあっても『なんとなく違うなあ』と思うものはあるし、逆に『そうじゃそうじゃ、おまん良く言った』と拍手喝采を送る時もある。
友人は別にして見ず知らずの人のブログで好きなのは In Deep
これと同じ人が書いている 宇宙の中の地球と太陽系の記録
そして天下泰平
一般のニュースは見ないが、このブログは毎日見る。
こういったネット上の情報は真実もあれば嘘八百もある。
もちろん洗脳目的のものもあるし、人を利用しようと作為的にうまーくカモフラージュされたものもある。
どれを選ぶかは自分の判断と責任であり、『ここでこう言っていたから信じたのに』という言い訳は通用しない。
ネットにはとんでもない話もたくさん出てくるが、何を見ても聞いても『まあ、そんな事もあるかもね』と話半分ぐらいで聞くぐらいで良いのではないかと思う。
どんな情報でも100%で信じてしまったら、新興宗教にはまる人と同じ事だ。
そして「そんな事は絶対無い、インチキだ」と全否定してもいけないと思う。
あくまで話半分。
なので僕の『あおしろみどりくろ』も話半分で読んでもらって結構。
ある日、この二つのブログと僕の考えが同調した。
富士山と世界遺産のお話である。
天下泰平の『富士山と世界遺産と真実の歴史』
そして同じ日のIn Deepの記事『富士山はもう日本を守らない』

僕は富士山を見て育った。
僕の部屋の窓からは常に富士山が見えていたし、そこにあって当たり前の存在だった。
その山が世界遺産になるらしい。
ここらで自分の意見をはっきり言おう。
僕は世界遺産というものがきらいである。
「世界遺産は素晴らしい。人類が作り上げた遺産を残すように活動することが何故悪い?」
という人はこれ以上読まないように。
世界遺産になっている場所や建造物などはそれはそれで素晴らしいものだ。
僕が働いている場所も世界遺産だし、マチュピチュやイースター島など、今までにそういう場所へも行った。
ただ世界遺産というブランドに踊らされる風潮、それを変にありがたがる中身の無い人達、それをあおるマスコミ、そしてブランドを利用した利権と金にむらがる亡者達。
こういったことがきらいなのだ。
以前、キウィの仕事仲間が言っていた。
「世界遺産なんてものは、どこかの誰かが線を引いて決めたものだ。そんな物ができるはるか以前からここの自然はある。世界遺産だからありがたがるなんてのはおかしい。」
全く同感である。
こんな毒を吐くと、正義の塊の優等生みたいな人はこう言う。
「でも放っておいたら、それは壊されたり環境破壊なんかで傷ついたり失われてしまうかもしれないでしょ。だからこうやってガイドラインを決めてみんなで守っていかなきゃ」
正論だな。正論すぎて虫唾が走るぜ。
そんなことで失われるなら、それまでのもの。
そこに執着があるからそうなる。
なくなったら?しゃあないやん。
素晴らしいものを作り上げ、その大切さが分からずに滅んでいく。
愚かな人間がやることならば、しゃあないやん。
世界遺産だから、国立公園だから大切にするのではない。
どんな場所でもゴミは捨てない。落ちていれば拾う。
どんな場所でも無意味な殺生をしない。
これが原点である。
ちなみに僕は「国立公園だから・・・」という言い方もきらいである。
世界遺産になった時から人が押し寄せ荒らされてしまった、という話はよく聞く。
特に日本人は物事の芯をつかむのが苦手である。なので世界的な権威に弱い。
さらにマスコミがそれに輪をかけてあおる。
以前見たプログラムでは司会の人が『世界遺産に認定されることがどんなに素晴らしいことであり、どんなに名誉であるか』ということを延々と話していて、僕は途中でイヤになって消してしまった。
テレビを見る層というのは何も考えずテレビの言う事を鵜呑みにするので、「そうか世界遺産ってのはすごいんだな」と思う。
それまでは見向きもしなかったものでも「じゃあ世界遺産なんだから見に行くか」という流れになるだろう。
そうなると旅行会社は『世界遺産を巡るツアー』なんてものも企画するだろう。
今回はついつい毒を吐いてしまったが、ガイドの仕事の時にはこういう話はしない。
『世界遺産を巡る旅』みたいなサブタイトルが付いたツアーでこんな話をしようものなら、添乗員は怒ってクレームになるだろうし、お客さんだって良い思いはしないだろう。
真実を突きつけられると人間は傷つくのだ。
なので僕のガイドの時の話し方は、この国の自然の素晴らしさを語るけれど、世界遺産だからすごいというようなことは言わない。
ぼくだって多少の社会性は身に付けている。
過去に余計な事を言ってクレームをもらった事もある。口は災いの元だ。

まあふだんこういうことを考えて生きている時に、この二つのブログが同じ日に同調したわけだ。
「そんなの偶然じゃん?」という人はそう思えばいい。
僕にとって全ては必然であり、偶然はない。
僕はこのブログの人達は知らないし、これから出会わないかもしれないけれど心の奥で繋がる何かを感じるのだ。
同じ街にいて挨拶ぐらいは交わすが何のつながりも感じない人もいる。
別の場所にいようが、心の奥で繋がっている友人もたくさんいる。
最近ではネットやFBのおかげで友人達がどういうことをやっているか、どういうものを見ているか、どういう美味い物を食べたのか知ることができる。
その喜びは自分の喜びだ。
同時に僕の喜びも彼らの喜びである。
幸せのバイブレーションは時間や空間を越えて伝わる。
全て同調、自分がどういう波長を発信するかで決まる。
つまるところは自分の心の奥にカギがあるということだ。

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