あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

日刊ココちゃん

2023-01-11 | 日記


それは何となく、本当に何となく始まった。
女房が書いた飼い犬ココの、生死をさまよいましたというイラストをフェイスブックに載せてみた。
特に理由があったわけでなし、そのイラストもだいぶ前に書かれたもので、たまたま目に付いただけで載せた。
そんな絵をいきなりコメントもなしで載せたものだから、よく知ってる友達はてっきりココが死んだと思ったらしい。
まだ元気ですよ〜という意味も込め、その後に毎日一枚ずつ絵を載せ始めた。
女房がサラサラっと書くイラストは、シンプルで可愛くて、人の心を和ませる。
絵心の無い僕から見ると、大した才能だなあと感心する。
絵だけでなく、そのイラスト内のココのつぶやき、そして人間の声の黄色い吹き出しも含めて作品なのだが、こういうのはセンスなのだとつくづく思う。
センスの無い人がいくら頑張っても出来ない事を、センスのある人はいとも簡単にやってしまう。



見よう見まねで始めたインスタグラムで投稿をするとフェイスブックにも連動でき、それまでの友達がいいねをしてくれた。
いいねの数がだいたい20〜30ぐらいなので、それぐらいの人しか見ていないと思っていた。
しかしそれまでいいねをしてくれなかった人達に実際に出会い「ココちゃん、いつも見ていますぅ」という声をいただくことが結構あった。
そうかぁ、自分も人の投稿を見て、好感を持ってもいいねを押さないこともある。
いいねの数以上に作品を良いと思ってくれる人がいることに気がついた。
中には「毎日同じ絵でいいから投稿してくれ」なんて事を言ってくれる人もいたが、まさかそういうわけにもいくまい。



圧倒的に多いのは癒されるという声だ。
おいみんなそんなに病んでるのか?
確かにココは癒し系のキャラであり、実生活でも癒されるし、我が家を訪れる人もよっぽど犬が怖いという人を除けばみんなが気軽に頭を撫でる。
そんな癒し系のココと一緒にたまに僕が出てくる。
作品の中では、左右で靴下の色が違うおじさん、というのが僕の立ち位置のようである。
靴下に穴があいてたり、だらしなく寝てたり、オナラをしたり、まあ本当のことだから仕方がないが、そういう役割だと思ってあきらめよう。



イラストの総数は100を超え、良い出来のものもあれば普通のものもあるし、当然ながらボツになったものもある。
ニワトリを殺した時のように、我が家の出来事を赤裸々に表した作品もあった。
面白いのは自分達が良いと思ってもそれほど人気がなく、大した事無いと思う作品が人気だったりする。
日刊とうたっているので1日1作品を目標にやっているが、時々ネタ切れをする。
女房画伯先生が言う「君ねえ、そんなに描け描けと言われても、描けない時は描けないんだよ」
編集者の僕「先生、そこをなんとか!全国1200万の日刊ココちゃんファンが先生の作品を今か今かと待っています」
「そんなこと言われても描けないんだから仕方ないじゃないか。なんなら君が描いてくれたまえ」
「先生、そんな事をおっしゃられても困ります。私はしがない編集者ですので。どうか頑張ってください。締め切りも迫っていますので」
「フン、クリエーターの気持ちが分かっていないね、君は。大体君が勝手にこの企画を始めたのだろう。」
「それはそうなんですが、先生、そこをなんとかお願いします」
というような夫婦漫才をしつつもなんとか続いている。
編集者の僕が見ても(いつから編集者になったんだお前は)日刊ココちゃんはとてもいい出来だと思う。



今のところ、僕の友達の間でしか知られていないが、なんとか世に出したい。
最初に考えたのは、日めくり。
それって365枚も描くのか、さすがにしんどいかな。
でも日めくりって、めくる所は数字だけで絵が描いてあるのはその上の一枚だけだよな。
カレンダーなら12枚プラス表紙ぐらいか。
よく言われるのは「絵本にしてみたら?」
それもいいかも、でも編集とか製本とかそういう知識も経験も資金もない。
自分で本を作るか?
経験は無いと書いたが、20年ぐらい前に『あおしろみどりくろ』の本を出したことがある。
5つぐらいの話を自分で印刷して、その紙に穴を開けて、表紙と裏表紙はやや厚めの色紙を使い、ひもを通して縛り、自分だけのオリジナル本を作った。
この世に30冊ぐらい存在する。
若い時は勢いでそんな事もしたが、それも何か違うな。
ネット上で売り出すというやり方もありそうだし、たぶんその辺りで新しい何かが見つかるかもしれない。
自分にできる事とは、女房画伯先生にお願いしてイラストを書いてもらいせっせとアップすることぐらいか。
バズらなくとも数十人か数百人かの心を和ませている。
僕のポッドキャストよりはるかに多くの人の心に届いている。
それが一隅を照らすってことなのかもしれない。
ちなみに話は変わりますが、本物のココちゃんは茶色です。



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年明けて 何でもできると 思う日々

2023-01-03 | 日記
思いついたままにタイトルを決めたが、思いつくままに書き散らすのも良しとしよう。
だいたい僕は朝早く起きてブログを書くことが多い。
多いというかほとんどがそれだ。
葡萄畑で働いていた時は、朝5時起きで弁当を作ったりお茶を飲んだりしていると1時間ぐらいすぐに経つ。
6時には家を出て1時間ぐらいドライブして、ドライブの時にポッドキャストを録音して、7時から仕事。
そんなかんじで毎日を過ごしていたので、朝にブログを書く暇がなかった。
帰ってくる時間も早いのだが、早ければ早いで庭仕事なぞしてしまう。
やはり自分にとって、朝というのが気分が乗る。
女房が起きてくるまで、一人の時間に書くのが習慣となってしまったようだ。



大晦日まで働いて正月から急に何もなくなったというのは前回も書いた。
何もなくなったというのは、何でもできるということだ。
忙しいから、時間がないから、という『やらない』言い訳は通用しない。
まずは庭の手入れからだろう。
ぼうぼうに伸びきった庭木の剪定、家庭菜園とニワトリ達の世話、芝刈り、雑草取り、やることは常にいくらでもある。
庭仕事をしていて感じることは、土を直に触ることの大切さだろう。
どこで聞いたのか忘れてしまったが、土を触ることで人間の免疫力が高まると。
科学的な根拠があるのかどうか調べてもいないが、それは肌で感じる。
そして植物を時には動物を育て、それを食べるということで、命というものを考えるきっかけになる。
野菜に話しかけるという話をバカにする人は多い。
植物には耳がないから声を聞けない、脳がないからかんがえることができない、よって植物に話しかけることは意味がないというのが科学原理主義的な物の考え方だろう。
僕の考えでは植物が声を聞いて云々というより、声をかける行為の前に植物を観察する、植物を見るという、そこがポイントなのだと。
植物を見れば、元気なのか病気なのか、水は足りているのか、雑草に覆われていないか、生い茂り過ぎていないか、などなど考える。
その次のステップで各問題に対処する行動が起こる。
無視、無関心というのは愛から一番遠い存在であり、そういう心境では植物を育てることはできない。
「農家の足音は野菜のご馳走」という言葉がある。
要は農家が畑に来れば、水が足りなければ水をもらえるし、虫がいれば取ってもらえる、何かしらの行為をしてもらえる、それが野菜にとってご馳走なのだと。
かー、こういう考え方って実に日本的でとても好きだな。
結局のところ、植物だけの話でなく、それを育てる人間の心へ戻っていくのではなかろうか。
まーた、そういう話になっちゃったな。
徒然なるままに書くとそこにいく、というのは自分の心がそこにあるから。
こうやって心のおもむくままに書いてみると、自分の心の在り処がはっきり見える。
漠然と感じてはいたが、やっぱりそこにいくのねん。
まあそういうことなんだろうなぁ。
さあて、今日は何をしようかな。

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年始のご挨拶

2023-01-01 | 日記
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。



というわけで2023年である。
今は元旦、見事に晴れ上がり、風もなく穏やかな朝。
大晦日は友達が家に来て飲めや食えやで酔いつぶれて寝てしまい、ちょっとだけ酒が残っている薄ぼんやりした状態でこれを書いている。
この場で発表するが、去年まで働いていた葡萄畑をクリスマスで辞め、大晦日までツアーがありそのツアーを無事終えた。
葡萄畑の仕事を辞めた理由はロックじゃないから。
それ以上はここでは書かない。
辞める日まできっちりと葡萄と向き合う仕事をして、そのままツアーの仕事に突入した。
来年の事を話すと鬼が笑う、という言葉を理由に先の事は考えず、その瞬間ごとに自分がやるべき事に集中してきた。
ツアーはおおむね天気にも恵まれ、お客さんとも良い関係が築けた。
雨で予定が変わった時には、なんとなく立ち寄った町で年に一度の競馬が開催されており、お客さんも生まれて初めて馬券を買うという貴重な体験をした。
こういう番狂わせというか、ハプニングというか、予定外の出来事を楽しめるかどうかは、その人の人生観や生き様によって変わる。
予定から外れることを不快に感じる人はいるだろうし、それはその人の選択なのであーだこーだ言う気は一切ない。
自分はそういったハプニングは大好きで、これぞ人生の醍醐味と考えてしまう。
とにもかくにもツアーは順調でお客さんにも満足してもらい、自分なりに良い仕事ができた。
そして年が明けた。
2022年の大晦日までばっちりと仕事が入っていて、その後は何も決まっていない、というのも何か示唆しているような気がする。
なんとなく白紙の状態、ニュートラルな状態に自分を置いてみたかった。
そうすることにより次に進む道が開けてくる、というのは今までにいくらでもあった。
何かしらの目標を持ってそれに向かって進むというのは良いことであろう。
だが全ての人にそれが当てはまるわけでもない。
ニュートラルな状態に自分を置く恐れから、無理やり方向を決めて進もうとしても根底に恐れという感情がある限り上手く行かないような気がするのだ。

激動の時は続いており、社会はすごいスピードで変化をしている。
歴史を学んで大切だと思ったことは、状況を認識することの大切さ。
だが状況認識という行為はとんでもなく難しいことでもある。
黒船が来たと言って騒いでいた時に、その後の明治維新をどれだけの人が予測できたであろう。
今の状況もそれと大して変りはしない。
そんな時だからこそ、心を鎮め自分の内側と繋がるのだ。
そして状況を見極めつつ、瞬間ごとに自分がやるべきことをやる。
アフガニスタンで亡くなった中村哲先生の座右の銘でもある『一隅を照らす』というのはそういうことなのだろうと僕は解釈する。
この先に自分がどういう状況に置かれるのか、同時に社会がどう変わっていくのか。
何も分からないし、分からないから面白いとも言える。
一つ言えることは、自分は何も心配はしていないし恐れてもいない。
かと言ってこのまま全てが上手くいくとも思っていない。
今後も数々の問題は発生し続けることだろうし、血も流れるし、多くの命が失われる事だろう。
だがそういった事を乗り越え人類は進み、新しい世界が開けていく事を信じる。
具体的な事柄は何一つ分からないが、面白い事が起きるような予感は常に感じる。

しかしまあ何だろうねこの根拠のない自信は。
それこそ根拠がないので誰にも説明はできない、けれど直感を信じる先にある明るい光が見えるのだ。
そして自分が想像する事とは懸け離れたところからやってくる自分が進むべき道。
最近はそんなことだらけで、自分があんなことになるのかなこんなのとになるのかな、と考えてみてもそれをあざ笑うかのごとく目の前に別の道が現れる。
例えてみると、自分が目標に向かって歩いていたら急に大雨が降り出し目の前にとても渡れないような川ができ、同時にその川の下をくぐるようなトンネルが口を開き、そこを進んでいったら異世界にたどり着いてしまった。
そんな具合だろうか。
このワクワク感は年を重ねるごとに大きくなりそのスピードは加速している。
洗濯機の中でかき回されているような社会は、状況を見据えるのは非常に困難であるというのは先にも書いた。
そのためにも一度立ち止まって、周りを見回してみようと思う。
きっと今まで見えていなかった物が見えるようになる気がする。
そんなことを元日の朝に思いついた。
この年が皆様にとって良い年でありますように。

2023年 元旦
北村 聖




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