あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

健康の種類

2023-09-29 | 日記
忙しい9月が過ぎ時間ができて、じっくりとブログを書く気になった。
今回のテーマは健康について。
この事について無関心な人はいないはずだ。
なぜならそれは人間の生活に密接に関係あるものだからだ。
その証拠に「体に良い」という言葉が、それこそあきれるほど巷に出回っている。
ではその健康とはどういうものか、深堀して考えてみた。

身体的健康。
体という眼に見えて感じやすいものは一番分かりやすく、ほとんどの人が考える健康とはこれだと思う。
日常生活においても最も大切なもので間違いはない。
身体的健康が怪我や病気などで損なわれた場合、痛みや苦しみという形で人は感じる。
そうならないように人は体に気遣い、意識をそこに向ける。
だが度を越すと、逆にそれがプレッシャーとなってしまうこともある。
病気を恐れるがあまり、必要以上に心配して病気になってしまうこともあるかもしれない。
不安という怖れの感情は利用されやすく、「テレビで⚪️⚪️が体に良いって言ってた」などというのは実に分かりやすい例だ。

精神的健康。
メンタルヘルスという言葉が最近では一般に知られるようになったが、それもここ数十年ぐらいのものだろう。
心というものは眼に見えないものなので、体よりも分かりづらい。
精神的に健康な時に、人はやる気に満ちて生き生きとし笑顔で充実した日々を送れる。
逆に心の病気ではよく知られたものではうつ病、それからパニック障害や不眠症や依存症などがある。
現代社会では全ての人が何かしらのストレスを持っており、これが主な原因だ。
これは人に限らず動物でもストレスが原因で病気になる。
心の病気は今の科学でも完全には解明されておらず、分からないことが多い。
心と体は密接に繋がっていて、心の病気が体の病気を引き起こすこともある。
日本では『心身』という言葉があるように、昔からこの二つは繋がって考えられていた。

社会的健康。
人間は野生動物と違い、社会の中で生きている。
オギャーと産まれた時点から、親なり周りの大人なり誰かの助けを借りなければ生きていけない存在だ。
生まれてから立ち上がり自分の意思で生きていくまで何年もかかる。
こんなに時間がかかる生き物は他にいない。
それぐらい弱い生き物ということだ。
その弱い生き物を育てるのが社会というものである。
親がいなかったら、親類の誰か、もしくは施設などで子供の面倒を見る。
逆に言えばそういう社会がなければ人間は生きていけない。
ある程度大人になれば無人島で一人で生きていけるかもしれないが、赤ん坊の時には無理だ。
つまり本人が自覚していようがいまいが、人間は社会の中で生きる。
そういうものだ。
社会的健康とは、他人や社会と良い関係を持つことで、不健康とは悪い関係を持つことだ。
一番分かりやすい例は犯罪者なのだが、罪を犯すという前提の罪とは何かという問いで意見が分かれてしまう。
犯罪者の全てが悪とは限らないし、社会的には犯罪ではなくても社会に害を及ぼしている例はいくらでもある。
これだけ社会が複雑化すると、何が善で何が悪かは分からない。
善悪で考えると話が進まないな。
例えば猟奇的殺人者は社会的健康とは言えない。
ここに反論する人はいないだろう。
無差別殺人者、テロリスト、レイプ魔、強盗者、窃盗犯、誘拐犯、挙げればきりがないが、社会に害を及ぼすような犯罪を犯す者と考えればいいだろう。
社会生活を営むという観点から、ひきこもりやホームレスも社会的不健康者と言える。
しつこく書くがこれは善悪を論じているのではなく、社会的に健康か否かの話である。

霊的健康。
スピリチャル的に健康かどうか。
スピリチュアルという言葉だけ聞いて「ああ、もういいよ、それは」と思う人もいるが、そういう人でも自分が気づかずに物事を行っている場合も多々ある。
ヨガや瞑想などは分かりやすいし、家事や料理や庭仕事などもこころがけによってはそうなる。
霊的健康があるなら霊的不健康な状態とはなんだろう。
他人に迷惑をかける、というのが最初に頭に浮かんだ。
社会的健康とも重なるが犯罪が一番分かりやすい。
たとえ今の法律では罪とならなくても、嫌がらせなどもそうだ。
人が信じているものを侮辱する、人の悪口を言う、いじめなどなど、日常生活でも溢れている。
それから自分を下げることも霊的不健康と呼べるだろう。
自傷行為、自己嫌悪などである。
逆を言えば、その行為で他人も自分も良い気持ちになる、笑顔になる行為が霊的健康と呼んでもいいだろう。
町のゴミ拾い、大いに結構。どんどんやれよ、おとし。
そして又その行動もしくは状態で自分を高めるとなお良し。
瞑想などの静的なものもあるし動的なものもある。
禅宗の坊さんは掃除洗濯料理などの仕事も修行と考える。
綺麗な景色を見ながらボーッとする、なんてのもありだ。
僕はよく太陽に向かって手を合わせ、ありがとうございますと呟くが、そんな簡単なことでも良い。
そしてほとんどの人はそんな簡単なことをやらないが、こんなのは他人に強制されてやるものではないのでそれでも良い。
ただしボーッとする行為自体は社会的な観点では何も生み出していないので、何もしていない=悪いこととなってしまっている。
今の世の中は資本主義で基本まわっており、何も生み出さないことは意味のないこととされる。
本当は意味がない事の中に答えがあるかもしれないのにね。

こういった健康の種類を系統立てて考える事により、自分の生き方が見える。
どれだけ自分の心の中を覗くかということだ。
ボーッとすることにより内在神と繋がることができるかもしれない。
ただし大切なのはバランスであり、何かが100で何かが0というのはダメだ。
霊的健康が大切だからと言って、仕事もせずに毎日お祈りだけするのも違う。
自分の健康にだけ気を使い、その他はどうでもいいというのも違う。
これはひとそれぞれなので、どれぐらいのバランスで生きていくかは各自で決めるべきだ。
「人が言っていたから」「テレビで言っていたから」「あおしろみどりくろというブログに書いてあったから」ではダメだ。

今回の話でやっぱり言いたいことは、今の世の中があまりに目に見える物だけに意識が向いてしまい霊性がないがしろにされているということ。
科学が進むことは良いことだがバランスが崩れ、科学原理主義となってしまっている。
他人のことはお構いなしで自分の利益の為にだけ動く、自分さえよければ良いというエゴがまかり通る。
ひどいものだと「人に騙されるぐらいなら人を騙せ」ということを教える親もいる。
霊性もへったくれもないな。
父親は一昨年死んだが、僕が子供の頃から「自分さえ良ければ良いと思うな」と徹底的にエゴの克服を言っていた。
昭和の頑固オヤジだったが、そんな教育をしてくれたことに感謝をしている。
自分という存在は今は自分だけだが、数多くの祖先の霊によって守られている。
人間とは生かされた存在ということを忘れず、毎日の生活に感謝を持ちつつ今日も生きて行くのだ。


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9月23日 BrokenRiver

2023-09-25 | 最新雪情報
春になり満開の桜が散った後に雪が降った。
山は真っ白に雪化粧で冬に戻ったかのようだ。
雪が降る前に1週間ほど強風が吹き荒れ、ほとんどのスキー場は閉めてしまった。
その後での大雪である。
雪が降ってもクローズしたスキー場がオープンするわけではない。
閉めなかったスキー場はラッキーだったという話である。
オハウというスキー場では100cmもの雪が降った。
ブロークンリバーでも40cmの新雪。
ただしたっぷり水を含んだモサモサの湿雪で、かなり滑りづらい。
だが雪不足でクローズ間近だったスキー場は、スクールホリデーの間はオープンできる見通しが立った。
最近では少なくなったが、以前は9月でも10月でも雪が降ったものだった。
この時期の雪は農家にとっては望ましいものではない。
産まれたばかりの子羊が死んでしまうし、ブドウ園では若い芽が霜でやられてしまう。
それでもスクールホリデーを迎えた子供達には嬉しいものだ。
カンタベリーで開いているスキー場は、マウントハット、オリンパス、そしてブロークンリバーの3つ。
あと2週間は春スキーが楽しめそうだ。


一度に多量の雪が降ると雪崩の危険も増える。パトロールがアバランチコントロールをするのをのんびりと待つ。


スキー場へ向かう山道も雪景色。


ブナの森に雪が降る。


通称『天国への階段』


誰が作ったのか、雪だるまもスキーヤーだ。


見た目は美味そうである。


メイントー山頂。


バーベキューは定番。


午後になり山頂までのリッジトーが開いた。奥のアランズベイスンはクローズ。


ポーターズが閉まり仕事がなくなった娘と一緒に山に上がった。


スキー場に賑わいが戻り、ケアも心なしか嬉しそうである。
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9月8日 Mt.Olympus

2023-09-12 | 最新雪情報
山に雨が降った。
水をたっぷり吸った雪は緩み、斜度の急な場所では雪崩が起こる。
神様の遊び場、オリンパスでもいたる所で雪崩が起こった。
雪は完全に春の雪で、日中に溶け夜に凍るということを繰り返す。
遅いシーズンの幕開けであったが、あっという間に春になってしまった。
それもこれも全て自然の摂理。
人間がジタバタしてもどうしようもないことは分かっている。
あるがままに自然を受け入れるというのはそういうことだ。
冬が終わりきっていないのに、夏の足音が近づいている気がする。


雪崩れが起こるのも自然の摂理。自然の中で人間はとことん無力な存在だ。


そんな状況でも少しでも滑りやすい斜面を目指してトラバースをする。


旧友ブラウニーと一緒に。


弟子のトモヤの弟ケイスケとここで出会った。



クラブフィールドツアーの締めは尾根上でのビール。
皆様お疲れ様でした。


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