日本からは大雪の知らせが届く。
思えばスキーパトロールをやっていた頃から20年も経った。
雪にまみれて仕事をした日々が懐かしい。
こちらは真夏のニュージーランド。
羊がメーと鳴く中で、畑仕事をする毎日である。
葡萄畑の事はおいおい書くとして、久しぶりのブログで書きたいのは別の事だ。
畑仕事をしながら、歴史だのリベラルアーツだの哲学だのを聴き考えた。
思考のアップデートという話。
コロナ騒動が始まって2年近くになる。
地球上の全ての人が影響を受けたという点で、近世では世界大戦級の出来事である。
行動の制限、情報の操作、失職、監視社会、物事の強制などなど。
こう書くと悪い事ばかりのようだが、そんな中でも良い点もいくつかはある。
だが圧倒的に悪い話が多く、世の中は先の見えない閉塞感が漂っている。
コロナの話題もみんなそろそろ飽き飽きしているのではないだろうか。
少なくとも僕はそうだ。
どこで感染者が何人出たとか、そんな話はもう聴きたくない。
そもそも論だが、PCR検査は感染者をあぶり出すための物ではないと発明者の故キャリーマリス博士が言っていた。
そしてサイクル値を変えれば、陰性を陽性に、又は陽性を陰性に変えられるというような話がある。
実際に変えるかどうかはまた別の話だが、そういう現状の上で今の社会がある。
先ずやらねばならない事は、事実確認。
とてつもなく大きな社会変革の真っ只中にいる、という認識を持つことだろう。
この認識を持てるかどうかが、大きな鍵になる。
だが認識を持つというのは難しいもので、「認識を持て!」と言って持てるものではない。
認識を持つには情報というものが必要だ。
幕末に列強の圧倒的な軍事力を実際に見た志士は、弓や槍や刀では太刀打ちできないと考えた。
これがファクト認識だが、見ていない人は「そんなことはない、今の自分たちでも戦える」と考えた。
『実際に見た』という情報と、『人から聞いた』情報では天と地ぐらいの差がある。
さらに人から聞いた情報は、話す人の思考が組み込まれるので偏った情報になる可能性がある。
そしてこれはいまの世の中でも全く同じだが、人間は自分が信じたい情報を選択する。
これだけインターネットが普及すれば、情報はいくらでもある。
その中には正しい情報もあれば、うまく隠された情報もある。
ウソやインチキだってある。
マスコミが流す情報を僕は全く信用していないが、全てがウソではないことも知っている。
当たり前の話であるが、真実と真っ赤なウソと少しだけ変えた情報が混ざっているし、意図的に混ぜて誘導することもある。
マスコミのスポンサーは大企業だと思っていたが、最大のスポンサーは時の権力者である。
スポンサーに都合の悪い情報は圧力で潰すのは当たり前だ。
それを良いとか悪いとか論ずる気は無い。
ここで善悪の判断をつけると、悪いのはマスコミで、だから今の世がこうなっている、となり思考が停止する。
そういうことではない、マスコミとはそういう性質を持ったものであり、世の中にそういう情報が満ちあふれているという現実があることを知るのだ。
そして話が戻るが人間はいつの世も、『自分が信じたい情報を選択する』のである。
この騒ぎが終われば元の世界に戻れると、多くの人が思っているだろう。
だがそうはならない。
こういう事を言うと、不安を煽るな、というような声が聞こえる。
だが人間とは潜在的に変化に対して不安を持つ生き物なのだ。
これだけ大きな出来事の後で、これ以前と全く同じような社会形態であることが無理だ。
「そんな事はない。これは単に一過性の出来事であり、騒ぎが収まれば元のようになる」
そう思いたい人はそうすればいい。
こんなブログなど読んでいるのは時間の無駄だなので、止めて別の事をすればいい。
そうでない人はもうちょっと付き合って欲しい。
明治維新の時はどうだった?
まずそれまで威張っていた武士達の仕事が無くなった。
帯刀を止め、チョンマゲからざんぎりと呼ばれる西洋風の髪型になり、洋服を着るようになった。
食べ物だって、それまであまり好まれなかった獣肉を好んで食べるようになった。
「ざんぎり頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」
これはその時に流行った都々逸(どどいつ)である。
生活様式は一転し、西洋の物がもてはやされる時代となった。
江戸時代末期の人が数年で生活が社会がこんなにも変わると想像したであろうか。
太平洋戦争を戦っていた人が、敗戦そしてその後の高度経済成長を予測しただろうか。
今の僕らだから時代の変遷を俯瞰して見れるが、その中にいたらそれは到底不可能なことだ。
そして今僕らはまさにその中にいる。
そして今の僕らに必要なことが思考のアップデートなのである。
思考のアップデートとは何か。
僕もはっきり分かっているわけでないし、実践している最中なので自分なりに考えてみた。
先ずは教養を身につける。
僕の場合はコテンラジオというものから歴史に興味を持つようになった。
さらにそこから哲学、宗教学、文化社会学、経済学、人文学などを学ぶようになった。
教養を身につけるやり方は色々あって、本を読む、人の講義を聴く、映像を見るなどがあるが僕の場合は音声コンテンツを利用した。
これは各個人が自分の生活スタイルに合わせてやれば良い。
今の時代ではユーチューブもあるし、ポッドキャストもある。
インターネットのおかげで地球の裏側でも役立つ情報が簡単に手に入るようになった。
これにより、この歳になって学ぶ喜びを知った。
知的財産の共有とでも言うのだろうか、漠然と感じていたことが言語化され、より明確な形で理解するができる。
これは自分の視野を広げるという意味で大いに役立った。
本でも音声でも映像でも、それを発行した人間のバイアスがかかることを忘れてはいけない。
どんな情報であれ、盲信してはいけないというのは、メディアとかSNSの情報でも同じことだ。
話題が前後してしまったが、好奇心を持つというのが前提にある。
好奇心が無かったら、やる気も起きないし何も学べない。
好奇心を持つというのも、人に強制させられるものではない。
先ずは何でも興味があるものから始めるのがよいだろう。
様々な知識を身に付けて考える。
この考えるという作業が大切なのだと思う。
考えても答えは出ないという事は無数にある。
そして今の社会では答えが出ないもの=結果がでないので無意味というような風潮がある。
そういう結果だけを追い求めた社会からの脱却とでも言うのか。
プロセス自体に意味があり、たとえそこに辿り着けなくてもそこに向かう姿勢が大切というような。
これはヨガの考えに似ている。
ちなみにインドの時間軸とは循環なんだそうで、西洋の時間軸とは過去から未来への一方通行だ。
そして空間と時間が切り離されてしまっている事も、今の社会が歪んでいる原因の一つだ。
話が逸れたが、過程が大切であり結果は後から付いてくるものだ。
そこで文句を言う奴は「そんな事を言って何も出来なかったらどうするんですか?」などと言ってくるかもしれない。
そしてそういう奴は何もやらない。
口先だけで行動を起こさず自己肯定をし続ける人は周りにいくらでもいるだろう。
この前久しぶりにそういう奴に会ったが、自分の自慢話と他人の噂話ばかりで会話は恐ろしくつまらなくうんざりした。
実際に行動を起こすというのがこれまた重要だ。
行動を起こさなかったら過程も結果もない。
陽明学では知ると行動するは一体であり、すなわち行動をしないとことは知っていないことであると。
だから吉田松陰は罰を受けるのを承知で黒船に乗り込んでいった。
これは過激な例えだが、行動は大切であると。
僕は人が何を言っているかでその人となりを見ない。
何をやっているかでその人を見る。
ひとたび行動を起こせば、何かしらの結果は出る。
どんな結果であろうと、それが経験であり財産なのである。
新しい時代には新しい考えが必要である。
古い価値観から脱却する必要がある。
しかし新しい物が全て良くて古い物が全て悪いという考えも危険だ。
古い物事の中に真実があり、新しい物に飛びついて大切な物を壊してしまった例はいくらでもある。
ただ言えることは今までがそうだから、という理由で行動しないことだろうな。
今までがそうだから、これからもそうであるという保証は全くない。
歴史を見るような視点で現在を見て、自分なりの行動をする。
これだけではないが、思考のアップデートの一つの要素なのだと思うのだ。
思えばスキーパトロールをやっていた頃から20年も経った。
雪にまみれて仕事をした日々が懐かしい。
こちらは真夏のニュージーランド。
羊がメーと鳴く中で、畑仕事をする毎日である。
葡萄畑の事はおいおい書くとして、久しぶりのブログで書きたいのは別の事だ。
畑仕事をしながら、歴史だのリベラルアーツだの哲学だのを聴き考えた。
思考のアップデートという話。
コロナ騒動が始まって2年近くになる。
地球上の全ての人が影響を受けたという点で、近世では世界大戦級の出来事である。
行動の制限、情報の操作、失職、監視社会、物事の強制などなど。
こう書くと悪い事ばかりのようだが、そんな中でも良い点もいくつかはある。
だが圧倒的に悪い話が多く、世の中は先の見えない閉塞感が漂っている。
コロナの話題もみんなそろそろ飽き飽きしているのではないだろうか。
少なくとも僕はそうだ。
どこで感染者が何人出たとか、そんな話はもう聴きたくない。
そもそも論だが、PCR検査は感染者をあぶり出すための物ではないと発明者の故キャリーマリス博士が言っていた。
そしてサイクル値を変えれば、陰性を陽性に、又は陽性を陰性に変えられるというような話がある。
実際に変えるかどうかはまた別の話だが、そういう現状の上で今の社会がある。
先ずやらねばならない事は、事実確認。
とてつもなく大きな社会変革の真っ只中にいる、という認識を持つことだろう。
この認識を持てるかどうかが、大きな鍵になる。
だが認識を持つというのは難しいもので、「認識を持て!」と言って持てるものではない。
認識を持つには情報というものが必要だ。
幕末に列強の圧倒的な軍事力を実際に見た志士は、弓や槍や刀では太刀打ちできないと考えた。
これがファクト認識だが、見ていない人は「そんなことはない、今の自分たちでも戦える」と考えた。
『実際に見た』という情報と、『人から聞いた』情報では天と地ぐらいの差がある。
さらに人から聞いた情報は、話す人の思考が組み込まれるので偏った情報になる可能性がある。
そしてこれはいまの世の中でも全く同じだが、人間は自分が信じたい情報を選択する。
これだけインターネットが普及すれば、情報はいくらでもある。
その中には正しい情報もあれば、うまく隠された情報もある。
ウソやインチキだってある。
マスコミが流す情報を僕は全く信用していないが、全てがウソではないことも知っている。
当たり前の話であるが、真実と真っ赤なウソと少しだけ変えた情報が混ざっているし、意図的に混ぜて誘導することもある。
マスコミのスポンサーは大企業だと思っていたが、最大のスポンサーは時の権力者である。
スポンサーに都合の悪い情報は圧力で潰すのは当たり前だ。
それを良いとか悪いとか論ずる気は無い。
ここで善悪の判断をつけると、悪いのはマスコミで、だから今の世がこうなっている、となり思考が停止する。
そういうことではない、マスコミとはそういう性質を持ったものであり、世の中にそういう情報が満ちあふれているという現実があることを知るのだ。
そして話が戻るが人間はいつの世も、『自分が信じたい情報を選択する』のである。
この騒ぎが終われば元の世界に戻れると、多くの人が思っているだろう。
だがそうはならない。
こういう事を言うと、不安を煽るな、というような声が聞こえる。
だが人間とは潜在的に変化に対して不安を持つ生き物なのだ。
これだけ大きな出来事の後で、これ以前と全く同じような社会形態であることが無理だ。
「そんな事はない。これは単に一過性の出来事であり、騒ぎが収まれば元のようになる」
そう思いたい人はそうすればいい。
こんなブログなど読んでいるのは時間の無駄だなので、止めて別の事をすればいい。
そうでない人はもうちょっと付き合って欲しい。
明治維新の時はどうだった?
まずそれまで威張っていた武士達の仕事が無くなった。
帯刀を止め、チョンマゲからざんぎりと呼ばれる西洋風の髪型になり、洋服を着るようになった。
食べ物だって、それまであまり好まれなかった獣肉を好んで食べるようになった。
「ざんぎり頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」
これはその時に流行った都々逸(どどいつ)である。
生活様式は一転し、西洋の物がもてはやされる時代となった。
江戸時代末期の人が数年で生活が社会がこんなにも変わると想像したであろうか。
太平洋戦争を戦っていた人が、敗戦そしてその後の高度経済成長を予測しただろうか。
今の僕らだから時代の変遷を俯瞰して見れるが、その中にいたらそれは到底不可能なことだ。
そして今僕らはまさにその中にいる。
そして今の僕らに必要なことが思考のアップデートなのである。
思考のアップデートとは何か。
僕もはっきり分かっているわけでないし、実践している最中なので自分なりに考えてみた。
先ずは教養を身につける。
僕の場合はコテンラジオというものから歴史に興味を持つようになった。
さらにそこから哲学、宗教学、文化社会学、経済学、人文学などを学ぶようになった。
教養を身につけるやり方は色々あって、本を読む、人の講義を聴く、映像を見るなどがあるが僕の場合は音声コンテンツを利用した。
これは各個人が自分の生活スタイルに合わせてやれば良い。
今の時代ではユーチューブもあるし、ポッドキャストもある。
インターネットのおかげで地球の裏側でも役立つ情報が簡単に手に入るようになった。
これにより、この歳になって学ぶ喜びを知った。
知的財産の共有とでも言うのだろうか、漠然と感じていたことが言語化され、より明確な形で理解するができる。
これは自分の視野を広げるという意味で大いに役立った。
本でも音声でも映像でも、それを発行した人間のバイアスがかかることを忘れてはいけない。
どんな情報であれ、盲信してはいけないというのは、メディアとかSNSの情報でも同じことだ。
話題が前後してしまったが、好奇心を持つというのが前提にある。
好奇心が無かったら、やる気も起きないし何も学べない。
好奇心を持つというのも、人に強制させられるものではない。
先ずは何でも興味があるものから始めるのがよいだろう。
様々な知識を身に付けて考える。
この考えるという作業が大切なのだと思う。
考えても答えは出ないという事は無数にある。
そして今の社会では答えが出ないもの=結果がでないので無意味というような風潮がある。
そういう結果だけを追い求めた社会からの脱却とでも言うのか。
プロセス自体に意味があり、たとえそこに辿り着けなくてもそこに向かう姿勢が大切というような。
これはヨガの考えに似ている。
ちなみにインドの時間軸とは循環なんだそうで、西洋の時間軸とは過去から未来への一方通行だ。
そして空間と時間が切り離されてしまっている事も、今の社会が歪んでいる原因の一つだ。
話が逸れたが、過程が大切であり結果は後から付いてくるものだ。
そこで文句を言う奴は「そんな事を言って何も出来なかったらどうするんですか?」などと言ってくるかもしれない。
そしてそういう奴は何もやらない。
口先だけで行動を起こさず自己肯定をし続ける人は周りにいくらでもいるだろう。
この前久しぶりにそういう奴に会ったが、自分の自慢話と他人の噂話ばかりで会話は恐ろしくつまらなくうんざりした。
実際に行動を起こすというのがこれまた重要だ。
行動を起こさなかったら過程も結果もない。
陽明学では知ると行動するは一体であり、すなわち行動をしないとことは知っていないことであると。
だから吉田松陰は罰を受けるのを承知で黒船に乗り込んでいった。
これは過激な例えだが、行動は大切であると。
僕は人が何を言っているかでその人となりを見ない。
何をやっているかでその人を見る。
ひとたび行動を起こせば、何かしらの結果は出る。
どんな結果であろうと、それが経験であり財産なのである。
新しい時代には新しい考えが必要である。
古い価値観から脱却する必要がある。
しかし新しい物が全て良くて古い物が全て悪いという考えも危険だ。
古い物事の中に真実があり、新しい物に飛びついて大切な物を壊してしまった例はいくらでもある。
ただ言えることは今までがそうだから、という理由で行動しないことだろうな。
今までがそうだから、これからもそうであるという保証は全くない。
歴史を見るような視点で現在を見て、自分なりの行動をする。
これだけではないが、思考のアップデートの一つの要素なのだと思うのだ。