あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2024年 日本旅行記 6

2024-06-29 | 
白馬4日目の朝は古瀬家で迎えた。
前の晩は炭火焼バーベキューに加え、暗くなってからは焚き火で盛り上がったのである。
カズヤと火を囲んで色々と話して、夜は居間で愛犬のフクちゃんと一緒に寝た。
朝早くに娘が仕事に行き、次いでミホが用事で出かけるのを見送り、子供達が学校に行くのを見送った。
カズヤがコーヒーを淹れてまったりと過ごしているとキョーコがやってきた。
話の流れからキョーコの事も書かねばなるまい。
あれはもう何年前になるのか。
2000年問題が一段落したらパソコンを買おうなどと思っていた頃だから1999年か、もう25年も前になる。
僕と相方JCは数年働いたアライというスキー場を追い出され、アルツ磐梯で働いていた時に同僚だった奴がパトロール隊長を務めるチャオ御岳というスキー場で働いていた。
もう今は営業していないスキー場だから言えるが、滑るという点においては本当につまらないスキー場だった。
コースは圧雪バーンのみで急斜面はほとんどなく、オフピステ?何それ?という具合で新雪を滑るのには程遠いスキー場だった。
名古屋からの客層を目当てにJR東海が作った新しいスキー場で、スキー場の所長は鉄道関係の人でスキー業界の事をほとんど知らない、そんなスキー場だった。
そこに来るお客さんも名古屋近辺から来る人で、雪道の事など全く知らないで夏タイヤにチェーンも持たずにやってきて、雪道でスタックしてスキー場に助けを呼ぶという有様だ。
それまで雪崩管理とか新雪の中でのコース管理作業や時にはコース外に外れた人の救難などヘビーな仕事だったが、そこではコース外には行きようのない場所なので主に看板やネットやロープの設置、怪我人の手当てやゴンドラで一気に上がって高山病になった人の対処(ゴンドラで下ればすぐに治るので下りゴンドラに乗せる)など、そんな仕事だった。
スキー場での仕事はつまらなかったが、その分僕らのエネルギーは違う方向に向いていった。
近隣のスキー場のスタッフに声をかけ週一でスキー場対抗バレーボールのリーグ戦を開催したり、パトロールのメンバーでバンドを結成して週一で近所の喫茶店でライブをやったり。
自分の働くスキー場があまりにつまらなかったので、休みの日には新穂高ロープウェイで滑ったり御嶽山に登って滑ったりもした。
ちなみに寮は山奥と言っていいぐらいの場所で最寄りのコンビニまで車で1時間という場所だった。
今は時効だから書くが、仕事が終わってから飛騨高山まで車で2時間かけて飲みに行き、飲んだ後にガチガチに凍った道を2時間かけて帰ってきて次の日に何もなかったように仕事をした。
スキーパトロールの待機所で馬鹿話をしていたら誰かが「フルーチェを腹一杯食いたい」などと言い出し、それならやろうという事になり、10リットルのフルーチェを待機中に作る『砂漠の果樹園大作戦』などという実にくだらない事に全精力をかけたりもした。
ちなみにカズヤと次の話で出てくるダイスケは近くの御嶽ロープウェイスキー場で働いていて、この当時もよく一緒に遊んだものだった。
みんな若かったな。
なんか青春の思い出話みたいになってしまったが、そのスキー場のインフォメーションで働いていたのがキョーコだ。
僕とJCが企画した数々のイベントにつきあってくれて一緒によく遊んだ昔の仲間で、若い頃はレースクィーンのアルバイトをしたというだけあってなかなかの美人である。
ちなみにそのスキー場で友達になって今でも連絡が途絶えないのはキョーコだけだ。
雪の上で出会った仲間達も年を重ねるとスキー業界から離れていき、いつのまにか音信不通となってしまう。
寂しくもあるが新しい出会いもあるし、そういうのも全てご縁というものなのだろう。
キョーコも今は飛騨高山に住んでいるが僕に会いになのか白馬を滑りになのかその両方なのか、とにかく3時間もかけて白馬に滑りに来てくれた。
カズヤもこの日は休みなので、案内をしてもらいがてら3人で八方尾根で滑る。
カズヤが先に滑り所々で止まりながら、地形の説明や雪の説明などを聞いていると、さすがベテランガイドだなぁと納得する。
多分本人は無意識のうちにやっているのだろう、滑って止まって話をするというタイミングが絶妙なのだ。
後ろを振り返りもせずにバコーンと一番下まで突っ走ってしまうトモヤとはえらい違いだ。
もともとスキーは上手いヤツだったが、スキーの技術だけでなく説明の仕方も上手くなったし、経験を積んで話す内容にも深みが出た。
若い頃に一緒にバカをやっていた時の自分達からは想像もできないぐらいに、互いに年を重ねたということなんだろう。

トラベルの語源はトラブルであり、旅をしていると色々な困難にぶちあたるものだ。
病気や怪我という健康面から、窃盗スリ置き引き強盗という犯罪がらみのものまで色々ある。
そしてそういうものは思いもがけぬ所で起こるものだ。
今回の旅ではスキーシーズン終わり近くで雪もそんなにないだろうからガンガン滑るつもりはなく、道具も自分のブーツだけ持ってきてスキーは誰かの板を借りようと思ってやってきた。
初日はトモヤのスキーを借りたがあまり調子よくないので、二日目からはカズヤの所で試乗用の板を借りた。
この金具が自分が使っているものとは違うものなので、慣れない道具に戸惑っていた。
そこそこの斜度のある場所を滑っていたら、いきなりスキー板が外れ転んでしまった。
外れたスキー板はずーっと下の方まで行ってしまい、幸いに誰に迷惑をかけることなく平らな場所で止まった。
そこまで片方のスキーで滑って回収したのだが何かしら違和感がある。
改めて体をチェックすると、大きく息をすると脇腹が痛む。
どうやら肋骨にヒビが入ったようだが、肋骨のヒビというのは対処法はなく、衝撃を与えると折れてしまうので無理をしないように注意するぐらいだろう。
ちなみに友達のえーちゃんは肋骨にヒビが入り、その後でっかいくしゃみをして完全に折るという荒技なのかマヌケなのか、まあそういう事例もある事を身を持って証明した。
僕の場合は軽い怪我で済んだが、もしもこれが大きい怪我でそれこそパトロールの世話になるような事になって、娘に搬送されたりしたら、それはそれで話題のネタに事欠かないが娘に一生頭が上がらなくなるところであった。
この肋骨のヒビは普通の生活をしていたらなんてことないが、寝返りをするときに痛むというのが帰国まで続いた。



この日は娘が仕事だったので一緒に滑る事はできなかったが、作業の様子など仕事ぶりを見た。
竹ポールの束を担いで滑るのはパトロールにとって当たり前の仕事だが、20年以上前に自分がやっていた仕事を娘がする事は素直に嬉しい。
自分の人生が家族に肯定されるような感覚だ。
ここで書いておくが、僕は娘に「スキーパトロールになれ」とは言っていない。
それどころか人生の選択について「こうなりなさい、これをやりなさい」などと言った事は一度もない。
冗談で「そんなにスキーをしたきゃあスキーパトロールになりゃいいじゃねーか」とは言ったが最終的には自分の選択だと思っていた。
一時はスキーから離れてしまったこともあり、このままスキーをしないのも娘の人生だから仕方ないかと思ったこともあった。
大学卒業を機に白馬で働いてみたい、というのは自分の意思だったので知り合いに頼んで仕事を紹介してもらったがこれは業界に入るきっかけを作ってやっただけだ。
知り合いがいない所に行くのは不安だろうから、オトシとカズヤに何か困った事があるようなら手伝ってやってくれと頼んだが、彼らに面倒をかけることなく奴隷契約をすることなく昨年のシーズンを無事に終え、自分の力でスキーパトロールの仕事を見つけてきた。
娘が語る仕事の話やゲレンデの説明を聞いているだけで、きっちりと仕事を理解しているのが分かる。
そこに至るのには周囲の先輩方の助けもあっただろうし、頼りない同僚トモヤや一緒に働く仲間の存在もある。
ニュージーランドとは違う、良くも悪くも日本の体育会系の組織の中に身を置くことで人間として大きく成長したのではなかろうか。
これもそれもあれも全てご縁なのであり、娘には娘のご縁があるのだとつくづく思うのである。



昼飯を3人で食べカズヤは先に下り、午後はキョーコと一緒に滑る。
昔はヘタクソなスノーボーダーでブロークンリバーのメイントーに四苦八苦していたキョーコだが、相当滑り込んだと見え当時とは比べものにならないぐらい上手くなっていた。
前回会ったのは何年前なのか覚えていないが、二人でじっくりと話をするのも久しぶりだ。
互いの生活のこと、コロナ禍のこと、ビジネスやインバウンドのこと、人生観や社会観のことなどリフトに乗りながら話をした。
ロープトーと違ってチェアリフトはおしゃべりができるのがいいな。
心の方向性が同じ人とは、どんなに離れていてもすぐに繋がることができるので話が早い。
キョーコもしっかりと自分の軸を持っていて、キョーコの立場でこの世界で生きている、まあ当たり前と言えば当たり前の事なんだが、そんな彼女の軸を話してみて感じたのである。
後日、飛騨高山でいよいよ自分の店を開くという連絡があった。
高山駅から徒歩8分、築180年の古民家を生かしたリラクゼーションサロンで7月7日オープン、楽リラクゼーション惣助店というのが正式名称だそうな。



今回の旅では『人に会って話をする事』というのが一つのテーマでもある。
人と話をするのでもたくさんの人でワイワイというのもあるし、二人だけでじっくりと、というのもある。
人と人が会えば『場』と言うものが生まれ、そこで会話の内容も決まっていく。
バカ話や与太話もあれば、これからの世界についてとか人生とはなんぞやといった哲学的な話もある。
自分が望むような話の展開にならないこともあれば、思わぬことからとても有意義な言葉が生まれることもある。
ばくぜんとした想いが言語化することにより、より明確なビジョンとなるのも人と出会い『場』からうまれる。
そういう意味でも、今の世に必要なことは人と会って話をすることなのだ。
キョーコとの久しぶりの再会で一緒に滑り楽しかったが、それ以上に人と会って話をする重要性にも気づいた1日だった。

晩飯はオトシが焼肉屋へ連れってくれた。
僕としてはオトシに丸投げで、連れて行ってくれる所に行くだけだ。
楽だし僕にとっては知らない所だらけだし、下調べも一切しないので常に新しい発見がある。
焼肉屋の名前も忘れてしまったが、ちゃんとしたお店なのだが何故かその日は僕らだけの貸切状態で、オトシ家族ともゆっくりと話ができたのが嬉しい。
帰ってきてから再びワイワイと飲むわけで、オトシの家には常に誰かがいる。
そこに居合わせたのはカモメという若い女の子で、デザインとかをやっているオトシの弟子なんだそうな。
村ガチャのデザインも手がけているし、『一期一会を何度でも』というコピーライトも彼女のアイデアだという。
「おお、そうか、オトシにも弟子ができたか、じゃあ俺の孫弟子だな。」
「はいオトシさんの68番目の弟子です」
「そんなにいるのか?大安売りじゃないんだから増やせばいいってもんじゃないだろうに。だいたいオトシ、お前は弟子って言葉の意味が分かっているのか?」
「ハイ、その辺は充分に理解しております。師匠」
どこまで本当か分からないお調子者の弟子にはかける言葉もない。
酔っ払った席で孫弟子カモメが面白い事を言い始めた。
オトシ宅のある集落は8世帯あり、そのすぐ近くには小さな祠があり、そこで子どもの頃に遊んだ人が何かしら大きな事をやりとげるという噂話なのか本当なのか、とにかくそういう話がある。
それを聞いたカモメの頭の中に、映画のストーリーのようなイメージが湧いた。
聞いて面白い話だったので、記録がてらその場でプロレタリア万歳の収録をした。
実は何回かオトシ宅で収録をしたのだが声が聞こえなかったり、酔っ払いすぎてハチャメチャになったりで使えなかったのだ。
3回目の正直、夜も更け酔いもかなり回っているがなんとか録音もできた。
そのお宮に隠された秘密とは・・・。



そこのお宮で遊んだ子どもは大人になって色々な業界で成功するという話があるので、僕らみんなでお宮にお参りに行った。
その際ふとしたはずみでカモメの姿が見えなくなってしまった。
みんながカモメを探すが見つけられない、同時にカモメはそこにいてみんなに呼びかけるがみんなにはカモメの姿が見えないらしくどうしても見つけられない。
時を同じくしてオトシのビジネスが軌道に乗り大成功を収め、スノーボードは爆売れで村ガチャも大繁盛、挙げ句の果てにハリウッド映画になるなんて大きな話も持ち上がる。
その時にオトシは隠されたお宮の秘密を知ってしまう。
そこのお宮では大成功をする人もいるが時々神隠しにあう子供もいて、そういった子供達の犠牲の上に成功が成り立つというものだった。
秘密を知ったオトシは悩みに悩む。
大成功をしている裏には行方不明になったカモメがいる。
カモメを救うのかそのまま成功の道を取るのか。
苦渋の決断の結果、オトシはハリウッド映画のオファーを断る。
その瞬間、今までの大成功が夢のように崩れていき、お宮でカモメが一人横たわる。

大まかなあらすじはそんな具合であるが、それをカモメが面白おかしく語ってくれた。
確かに短い映画になりそうなストーリーである。
では次の日の朝にみんなでその祠にお参りに行こうと決まり、その晩はお開きとなったのである。

続く
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2024年 日本旅行記 5

2024-06-18 | 
白馬3日目、この日は娘が休みなので一緒に八方尾根に行く。
知り合いのつてで、娘は先シーズンから八方尾根で働き始めた。
先シーズンはゴンドラ山頂駅のインフォメーションセンターで仕事をしたが、外に出る仕事をしたくて今年からスキーパトロールとなった。
きっかけは親の人脈だったが一冬を過ごして自分なりの人間関係を作り、晴れて今年からパトになった。
今回の日本行きの目的の一つは、娘の仕事場を見に行きパトロールの隊長に「娘がおせわになっています」と菓子折りの一つでも持って挨拶に伺うという、まるで絵に描いたような親父になろうと思ったわけだ。
一緒に滑るのは昨日に引き続きトモヤとジャカそしてカズヤの息子のヒュージである。
八方尾根は昔から日本のスキー業界では名だたるスキー場で、長野オリンピックも開催されたし、腕自慢のスキーヤーが集まる。
そんな上手い人に囲まれてシーズンを過ごしたせいか、娘のスキー技術も去年とは比べものにならないぐらいに上手くなった。
小さい頃からブロークンリバーなどでスキーをしてきたからスキー操作とバランス感覚はある。
そこにきて僕が苦手なスキー理論や基礎的なことも多分先輩達に教わったんだろう、そしてパトロールの仕事は重たい荷物を持って滑るなど体力も使うので筋力も鍛えられたのだろうな。
若者達が滑るスピードが速いのでついていくのがやっとだし、ちょっとしたギャップで飛ぶなんてのは自分も20代30代の頃にはよくやったが、それはすでに過去の話だ。
今が盛りの20代の若者が体力に任せて滑るのには、どうあがいても敵わない現実がある。
こうやって人は子供に追い越されていくのだろうな。
親としては嬉しいやら寂しいやら、複雑な気持ちだ。
パトロール隊長が休みだったが古参の隊員に挨拶をしてパトロール部屋を見せてもらった。
パトロールやスキースクールの部屋というのは、どこかしら学校の部室のような雰囲気がある。
なんだかんだ言って体育会系の実力社会なのである。
スキーは滑れて当たり前、その上でチームで働くのでスキー場全体を俯瞰的に見る視点や、事が起こった時に一歩先を考えて行動する事も必要とされる。
古参のパトロール隊員と話をした感じでは、娘は仕事もきちんとやっているようで皆に可愛がられているのが感じられた。
親バカ親父としては一安心という具合だ。



午前中をそんな具合に滑り、麓に下りトモヤが働いている絵夢という食堂でお昼である。
トモヤは昼間はスキーパトロールで夜は絵夢で働き、このお店の上の部屋で寝泊りをしている。
今から考えれば自分もまだ駆け出しの頃は、昼はスキーインストラクターをして夜はペンションでお客さんに出す晩飯を作り、屋根裏部屋で寝泊りをしてシーズンを過ごしていた頃があった。
あれは20代前半だったから、ちょうど今のトモヤや深雪と同じ頃だ。
トモヤから絵夢という食堂の話は聞いていて行ってみたいと思っていたし、トモヤも僕を連れて行きたいと考えていたようだ。
メニューはラーメンとかギョーザとか定食とかお好み焼きといたって普通で、街の定食屋という感じである。
僕はトモヤが勧めるままに定食にしたが、半ラーメンが付いてきて、それが普通に美味くてなおかつとんでもなく安い。
定食が800円ぐらいだっただろうか。
よそものの僕が見ても「えー、この値段設定で大丈夫なの?」と思ってしまう。
スキー場のそばではハンバーガーとチップスで1500円とニュージーランド並みの値段を取る店もある。
こりゃ人気の店だろうなぁ、庶民の味方だ。
おかみさんと二言三言交わしたが、昭和の頑固オヤジの女版みたいな雰囲気で非常に好感が持てた。
こういう人が現場にいるのを見て、トモヤが何故ここで働いているのが分かる気がした。



そして夕方はカズヤの家でバーベキューをする。
カズヤの話も過去の話で書いているはずだが、見つからないのであらためて書いておこう。
古瀬カズヤ 通称カズー 今や白馬ではレジェンドスキーヤーとして名高く Locus Guide Serviceというガイド会社を運営する。
カズヤに最初に会ったのは90年代半ばぐらいだから、もう30年も前になるのか。
僕はその頃マウントハットで働いていて、日本から来ていた若くて無鉄砲でやんちゃなスキーヤーカズヤに会った。
よく一緒に滑ったしよく一緒に飲んだ、まあそうだな、同じ青春時代を過ごした仲間だ。
そんないつもの飲みの席で奴が言い始めた。
「JCとかヒッヂさんとかニックネームがあるじゃないッスか?俺もカズってこっちの奴に呼ばれるけど、カズって結構多くて当たり前なんスよね。カズじゃあなくて何か欲しいッス。何かないッスか?」
確かに日本人の男が外国で呼ばれるニックネームはタカとかマサとかカズとかトシとか、英語話者が言いやすい名前がつく。
ちょうどその時に、いつものようにJCがギターを弾きながら僕はハーモニカとかカズーとかを演りながら飲んでいた。
ちなみにカズーとは楽器の名前で、口にくわえてハミングして演奏する。
発音はカー のようにズにアクセントを置く。
JCが言ったのか僕が言ったのかよく覚えていないが「じゃあカズーはどうだ?」
「何スか、カズーって?」
「これだよ、この楽器。これはカズーって言うんだよ。カズヤとゴロも似てるし良いじゃないか?」
「おお、いいッスね!カズーか!じゃあ俺は今日からカズーで行きますんでヨロシク」
そんな具合にヤツが年が少し下ということで弟のように可愛がっていたが、ある時ヤツがヘマをして僕と相方のJCが面倒を見て、一生僕らの奴隷となる運びとなった。
そんな奴隷のカズヤも結婚をして双子の子供ができて、白馬に家を持ち幸せそうに暮らしている。
奥さんのミホも結婚する前から知っているし、壮絶な夫婦ゲンカの現場に出くわした事もあった。
僕の娘はシーズン中は会社の寮に寝泊りしていたが、シーズン終わりに近づき寮も閉鎖となり古瀬家にホームステイをしている。
彼らの子供のように扱ってもらい、双子の子供達と同じ部屋に寝泊りをして兄弟同様に過ごしている。
現にこれを書いている5月末は双子の娘みそらと女二人でベトナム旅行をしているのである。
ちなみに写真でカズヤが着ているTシャツは、去年ヤツが家に来た時に酔っ払って犬のココのベッドで寝てしまい、ココがとても迷惑そうな顔をしているのを女房画伯が描いてTシャツに仕立てた、この世に1枚だけの特性Tシャツである。
ミホの着ているTシャツはもう1枚コピーがある。



ヤツの白馬の家がこれまた素晴らしい。
田んぼと畑に囲まれた一軒家で視界を遮るものはなく目の前には山がどーんと広がり、自分が滑ったラインや登った尾根が見えるだろう。
家の近くには大糸線というローカル線が走っている。
ジブリの『千と千尋の神隠し』に出てくるような雰囲気の列車が畑の中をカタンコトンと通っていくのを見る様がまたよろしい。
庭では季節ごとの野菜を育てているし、味噌や醤油も自分で作っているという、地に足がついた暮らしがある。
カズヤの女房ミホに言わせると、ニュージーランドの我が家の暮らしが彼らの数年先を行くモデルになっているそうだ。
家庭菜園での野菜作り、手作りの発酵食品や地元の食材を使う食生活、ガイドを生業とする生活、子供の成長から犬を飼うことまで、住む場所や細々したことは違えど芯というのか向いている方向性が同じなんだろう。



軒先にハンモックを掛けて、山を見ながらボンヤリと考え事をしていたらミホがビールを出してくれた。
至れり尽くせりだな。
つまみはホタルイカの漬けである。
春は日本海側でホタルイカがあがる。
先週に日本海まで行ってホタルイカをどっさり取ってきたと言う。
娘も連れて行ってもらい一緒に取ったらしいが、貴重な経験をさせてもらった。
春うららかな午後、暑くも寒くもなく、のどかなひたすらにのどかな景色の中でうたた寝なんぞ贅沢な時間を過ごしているといつのまにか夕方となり、家人も帰ってきて客人も訪れ古瀬家は一気に賑やかになる。
客人とはトモヤとケイスケ兄弟にジャカ、皆若くて生きのいい滑り手である。
そこに家主のカズヤが立山の仕事から帰ってきた。
立山の話や雪の話をせがんで聞きたがる若者達のカズヤへの敬いっぷしが微笑ましい。
そうなろうと本人が望んでいるわけではないが、いつのまにかそういう立場に自分が立っている事がある。
僕にとっては出来の悪い弟のような、階級としては最下層のカズヤだが、やはりここでは実力者なんだなぁと感心をするのだ。
その晩は古瀬家4人、僕と娘の深雪、トモヤ、ケイスケ、ジャカというメンバーで焼肉バーベキューの至福の時を味わった。







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2024年 日本旅行記 4

2024-06-05 | 


白馬二日目は文字通り二日酔いで始まった。
午前中はオトシに観光がてら白馬村を案内してもらう。
先ずはオトシがやっているモンスタークリフという会社訪問。
東京で車の販売をやっていた彼が脱サラで白馬にスノーボード買取の会社を立ち上げたのが10年ちょっと前になるのか。
そんなものがビジネスになるのだろうかと思ったが、今ではスノーボードだけでなくスキー用品全般を扱うようになった。
9年前に来た時には家の一部を倉庫に使っていたが手狭になったのだろう、今は倉庫兼オフィスを持っていてそこを見学させてもらう。
オフィスのホワイトボードには買取時の注意事項や作業の手順等が書かれていて、スタッフもテキパキ働いていてきっちり仕事をしてる感にあふれている。
なかなかどうして立派な会社じゃあないか。
若い頃からヤツのちゃらんぽらんな部分とかいいかげんな所とかおっちょこちょいな所ばかり見ているので、ヤツなりにちゃんとやっているんだなぁと妙な感心をした。
もう何年前になるか覚えていないが、クラブフィールドをガイドした時にローカルの間で出回っているキングスウッドスキーに感化され、自社ブランドのスノーボードも作り始めた。
コンセプトは白馬のこの沢を滑るためのボードであったり、こういう状況で滑るためのボードといった、非常に狭い客層に向けた物を作り始め、今やそれがモノになりつつある。
会社の一部屋はサイドビジネスでやっている村ガチャというガチャガチャの商品が並んでいて、お土産に白馬村キャラクターのキーホルダーをもらった。
白馬に来るお客さんと村人を繋げる企画で、「一期一会を何度でも」というコンセプトで新しい社会での試みを試行錯誤しながら突き進んで行く。
夢を見てそれを現実化するには行動力というエネルギーが絶対的に必要であり、なおかつ家人や周りの人の支えも要る。
「そんなの上手くいくわけない」という声は絶対にあるだろう。
いつの世も新しいことをすると批判をする輩はいるが、そういうヤツらは自分からは何も生み出さない。
それより自分さえよければいいというエゴではなく、ここに来る人も村の人も地域全体もハッピーになるような心が原動力になっているのが素晴らしい。
真の愛とは誰も不幸せにならないことなのだ。
また会社運営とは別に、地元の人たちに呼びかけ地域のゴミ拾い活動なども行っている。
お調子者の一番弟子にかける言葉は「その調子でどんどんやりなさい」の一言である。



観光は続く。
青木湖、山の中の湧き水の場所などオトシがガイドとなり車で連れ廻してくれる。
ありきたりの観光スポットでないのがよろしい。
次に車を降り立ったのはとある神社の前。
周りだけ見ると過疎の集落といった雰囲気で、昔のスキー場の跡地もある。
雨降宮嶺方諏訪神社というのが正式名称らしいが、ここの杉がすごかった。
樹齢は1000年にもなるような大木がそびえ立ち、これぞまさに鎮守の森。
一際大きい御神木があり、神の木にふさわしい堂々とした姿だ。
社は大きくもないがとにかく森がすごいパワーを持っている。
観光地でもないので僕らの他に人影もなく凛とした空気が漂う。
ボーっと木を見ながらふと思った。
日本大丈夫じゃん。
悪いニュースはたくさん入ってくるけど、ここはやっぱり護られている国だ。



「日本は神の国である」と言っただけで叩かれた総理大臣がいたが、当たり前の事を言っただけである。
そいつがどんなアホでマヌケでトンチンカンな大馬鹿野郎か知らんが、この言葉だけは同意する。
日本には日本の神様がいて、八百万という言葉通りたくさんいて、それらの神様はこういう普段人が訪れない所にもいる。
もちろん伊勢神宮にも出雲大社にもいるが、それはこの国のツートップでありスポットライトが浴びやすい場所にいる話だ。
どの神社にも神はいて、それを支えているのは人の信仰心だ。
現にこの神社は手入れが行き届き、荒れ果てた雰囲気は微塵もない。
人があっての神であり、神があっての人。
そういうものじゃあないか。
たぶんこれからももっともっと悪いニュースは続くんだろうし血も流れるだろうが、最後の最後にはこういう氏神様に護られるというのが日本じゃないのかね。
それは想いというより確信に近い感情で、フッと肩の力が抜けるような安堵感、神の存在を感じるってこういうことなんだろうか。
この『日本大丈夫じゃん』という想いはこの後、日本を出るまで何回も感じることがあった。



さらに観光は続く。
大出公園という公園は桜がきれいで、白馬連峰と姫川と桜という景色が見れる撮影スポットでもある。
ここまで来ると観光客もチラホラと出てくる、どこにでもある田舎の風景だ。
そして線路を挟んだ駅前とは雰囲気が全く違うのに気がついた。
ひょっとすると鉄道ができる前はこっちが村の中心だったのかもしれない。
鉄道が通り道路が出来て、村の中心が駅前に移っていったのだろう。
駅前の雰囲気は昭和時代、高度経済成長からバブルぐらいのそれだ。
そしてスキーという文化なのか産業が発達して、今はスキー場の麓が賑わっている。
ざっくりとそういう歴史があったのだろう、ということで次なる観光スポットは観光協会の山とスキーの資料館である。
スキー場の山麓は観光客もスキー客も多いのだろう、今も新しいホテルなのか店なのかあちこちで工事をしている。
線路の向こう側の集落に住む人とスキー場近くに住む人では意識とか世界観も違うかもしれないな。
資料館には村の歴史の展示もあるが、スキー関連の展示がすごかった。
とりわけ山とスキーの蔵書の量がすさまじく、時間があるならゆっくり読みたい本が山ほどあった。



オトシは昼から仕事があるというので後で拾ってもらうことにして、弟子のトモヤと合流した。
トモヤの事も過去ブログで書いたから、気になる人は読んでいただきたい。

内弟子トモヤ

軽く飯を済ませスキー場へ。
この日はトモヤの友達のジャカも合流して、白馬47というスキー場で一緒に何本か滑った。
ジャカはロシアと日本のハーフで日本語は堪能、やはり白馬でスキーパトロールの仕事をしている。
ジャカルタに住んでいたのでジャカという安直なあだ名がついたようである。
去年ニュージーランドに滑りに来て、その時に一度だけ面識はある。
白馬47と五竜はてっぺんで繋がっていて、どちらにも滑って行けるスキー場だ。
シーズンも終盤の平日とあって人も雪も少なく、滑れる場所も限られている。
一生懸命滑るというより地形を見て山を見るのが主な目的だ。
五竜ではトモヤの双子の兄なのか弟なのか、ケイスケもパトロールで働いていてちょっと挨拶。
ケイスケも去年ジャカとニュージーランドに来て、我が家にも滞在した。
一卵性双生児というものがここまで似ているものなのか、ということを初めて目の当たりにしたがまあ面白いものだ。
二人とも白馬で働いているということもあって、よく間違われるそうだ。
よく推理小説とかの題材にはなるが、ナルホドだなぁ。
これなら替え玉試験とかもできるだろうし、悪だくみに使う人もいるだろう。
あとはそうだなぁ、兄弟の誕生日を忘れることがないという特性もあるな。



帰りはトモヤが車で送りがてら、僕に見せたい場所があるというのでちょっとドライブ。
行った先は山の麓の林道入り口。
一見なんてことのない場所だが、そこでスキーヤーならではの地形の説明を聞かせてくれた。
一言で言うと大きな標高差を滑って下の林道に出てこれるということだ。
山スキー、今ではバックカントリーと言うが、スキー場以外の山を自由に滑って常に問題なのが、滑るのはいいがどうやって戻ってくるかである。
ニュージーランドの場合は滑り終わってから道に戻ってくるまで、何十分も歩いたりもする。
時にはトレッキングブーツを持って行って、雪があるところまで滑りブーツを履き換えて歩くなんてこともある。
その感覚から見れば、滑って車の道まで出てこれるのはありがたい。
しかもゴンドラやリフトを利用して効率よく、なおかつでっかい斜面を滑っての話だ。
これはニュージーランド人に限らず世界中から人が集まるわけだ。
河口湖のオーバーツーリズムと同じ話で、それだけ魅力的だという話である。
そこで山をどれだけ効率よく、なおかつ最高の状況の斜面を滑るかということでガイドが雇われる。
自然相手のものだから雪の状況は毎日、いや時間によっても変わる。
スキーのガイドというのは地形や天気や雪質に精通していて、それでいて安全を問われる仕事だ。
夕食難民という言葉を初めて聞いたが、ガイドが不足するガイド難民というものもある。
ガイドがいないので地理や雪を知らない人が自分で山に入り事故になる、なんてこともある。
オーバーツーリズムという流れは今や誰にも止められないものだが、白馬でも色々な問題が起こりつつあるというのをトモヤの説明を聞いてあらためて感じるのである。






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