あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

親バカ   ミクシー日記より

2010-06-26 | ミクシー日記
 ブログを初めてもうすぐ1年になる。
 ブログを始める前にはミクシーをブログ代わりに使って、時々日記を書いていた。
 ミクシーの日記だとミクシーを使っている人しか読めない。
 そこでやっとブログを始めたわけだが、そのブログをミクシーに登録すると、今度は以前のミクシー日記が読めなくなった。
 このまま封印してしまうのはもったいないので、過去の日記をコピーして自分のファイルに取り込んだら、結構な量になった。
 数年前の日記だが、なかなかエラソーに書いていて面白い。「やるじゃん、オレ」と思ってしまった。
 こんなのをブログに載せない手はない。
 言っておくが、ネタがつきた訳ではないぞ。
 ブログを毎日更新しないのは、書くのが間に合わないだけだ。
 ネタは書ききれないぐらい浮かんでくる。だがそれを文にするにはエネルギーも必要なのだ。
 昔、世話になったKさんが言っていた。
「オレの頭にパソコンをコードでつないでピピピっとやればすごい文が書けるのに~」
 そりゃそうだ。
 残念ながら今の科学はそこまで進んでいないので、Kさんのすごい文もKさんの頭の中でしか存在しない。
 ともあれミクシー日記を載せる。写真はその時の物、深雪6歳の話である。
  



親バカ  2007年7月6日 

 僕は親バカである。
 自分の子供が世界で一番可愛い。愛しくて愛しくて仕方が無い。目の中に入れても痛くない。
 これが親バカであり、人間として当たり前の感情である。
 世界中の人が親バカであるべきであり、親バカになれない人、自分の子供を愛せない人がいかに多いかニュースを見ていれば分かる。
 自分の子供を虐待する?自分の子供を殺す?
 何故そんなことができる。そんな奴らは平気で他人の子供だって殺すだろう。
 親バカでないということはこういうことだ。

 僕は親バカであるが、バカ親ではない。
 世の中にどれだけバカ親が多いかちょっと冷静に考えればすぐ分かる。
 欲しい物をすぐに買い与える親は、子供に我慢をさせるという教育を放棄している。
 その結果、我慢のできない子供ができあがる。
 欲しい物を全て与える事が愛だと思っているのだろう。バカ親もいいところだ。
 深雪があるおもちゃを欲しがった。理由はみんな持っているから。僕は深雪に言った。
「みんなってのはクラス全員か?クラス全員がそのおもちゃを持ってオマエが最後になったら買ってやる」
「どうして他所の子はあるのにうちは無いの?」
「他所は他所、うちはうちだ。ヒトはヒト。オマエはオマエだ。欲しい物があったらオマエが大きくなって自分で金を稼いで買え。悔しかったらさっさと大きくなって大人になれ」
 僕は30年前に親父に言われた言葉をそのまま娘に言った。



 バカ親の決定的なものとして教育ママという物がある。
 一流の学校に行くこと、一流の会社に入ることが子供の為だと信じていて、子供のしたいことをさせず勉強ばかりやらせる。それが愛だと勘違いしている。
 子供から『考えて判断する』という自由を奪い、何でもママの言うとおりやってればいいのよ、というタイプだ。こういう人は子供が成人しても子離れができない親になる。
 子供の為という切り札を出せば何でも許される。自分の見栄の為であっても。
 深雪と同じ位の年で、夜遅くまで塾だ、家庭教師だという家だってあるんだろう。可哀相な話だ。
 子供にある程度の方向性を与えるのは必要だ。しかしそれをやるかどうかは子供の判断に任せるべきであり、決して押しつけてはいけない。

 日本は横一列に線を引きたがる国だ。そこにたどりつかない者は落ちこぼれであるし、その線から飛び抜ければ優越感と安心感を得られる。だからとにかくその線、周りの平均値にたどりつくよう努力する。
 他所がやってるからうちもやるという考えであり、ヒトと同じことをやっていれば間違いないという安心感である。
 子供の教育だって同じ事だ。何歳までに立ち上がらなければならない、何歳までに言葉をしゃべらなければならない、何歳までに読み書きが出来なければならない。育児の本を読むとそんなのばっかりでうんざりだ。
 横一列の見えない線に子供達は向かわされ、親はそれを見て一喜一憂する。
 他所より少しでも遅れると心配で心配で仕方がない。
 「先生、うちの子は1才になるのにまだつかまり立ちができないんです。隣の○○ちゃんはもう歩いているのに」
 こんなことになってしまう。
 その結果、良く笑い表情が豊かとか、良く鼻歌を歌うとか、ハイハイのスピードがとても早いとか、食べ物(甘いお菓子ではなく健康的な食べ物)をよく食べるとか、そういった肯定的なサインは無視され、見えない線にたどりつけない不安と心配ばかりになってしまう。
 親が不安な顔、心配顔をしていて子供は笑うだろうか?



 親バカの話を書くはずだった。
 深雪の担任と面談のため学校に行った。
 先生が言うには、ミユキは生活態度も勉強の成績も良く非の打ち所のない子供だと。
「先生、うちにはテレビが無いんです。というよりあえて置いてないんだけど。そのかわり図書館によく行って、深雪に自分が読みたい本を自分で選ばせるようにしています」
「それでミユキは読書が好きなのね。テレビが無いのはいい事よ」
「実は僕が子供の頃、テレビのチャンネルをめぐって兄貴と兄弟ゲンカしていたんです。そこに親父がやってきてテレビを持ち上げ僕達の目の前に叩きつけて壊してしまったんです。高校を卒業するまでテレビは無かったんです。本ばかり読んでいました。今から考えればそれがとても良かったと思ってます。」
「そうね、他の親もテレビの害についてもっと考える必要があるわ。あと教育方針で何かあるかしら」
「そうですね、できるかぎりマオリの文化を習わせたいです。僕自身もマオリから学ぶことは沢山ありますし」
「ゼイド(深雪の同級生でマオリの子)のおばあちゃんが今度クラスでマオリの話をしてくれるわ」
「それはいい。宜しくお願いします」
 家に帰り深雪に言った。
「オイ、オマエ。先生が言ってたぞ、ミユキはいい子だってな」
 僕は深雪の通信簿を開いて言った。
「ホラ、良いことしか書かれていないだろ」
 通信簿はほとんど優。まさしく優等生だ。
 ぼくが深雪位の頃の通信簿には悪いことしか書かれていなくて、通信簿を見せると親に説教されるので隠したりしていた。
 遅刻、忘れ物は常習犯で、女の子のスカートをめくって泣かしたり、クラスの子とのとっくみあいのケンカは日常茶飯事だった。アパートの空いている部屋に忍び込んで出られなくなったり、空き地で石投げをして他の家のガラスを割ったり、こんなのはいくらでもでてくる。
 今考えても僕みたいな子を持った親は大変だっただろう。
「オレがオマエぐらいの時には先生に怒られてばかりいたのに、なんでオマエみたいな良い子が生まれてきたのかな?」
「だってヒトはヒトでしょう」
「そうだ、その通りだ。でかした深雪、よく言った。ヒトはヒト。オマエはオマエ。オレはオレだ」
 僕の信条はヒトの生き方に干渉をしない。たとえそれが親子であってもだ。
 ヒトとは自分とは違うものであり、同じモノである必要はない。いやそれよりもヒトに自分と同じものを求めてはいけない。
 僕は知りうる限りの言葉で深雪を褒めた。
 深雪は嬉しそうに笑った
 やっぱり僕は親バカである。

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我が家のギョーザ

2010-06-24 | 
「深雪、今日の晩飯は何がいい?」
「うーん、ギョーザ!」
というわけで今日は餃子だ。
家では餃子は女房が作る。ボクはほとんど手出しはしない。
不器用なので餃子を上手く包めないという欠点があるが、なんといっても女房が作る餃子はウマイのだ。
どれくらいウマイか。
ニュージーランドで一番ウマイ。
「そんなバカな」という人は一歩前に出なさい。
そしてそのまま家に来なさい。
家に来たらビールを飲みながらギョーザを食べてみなさい。
納得するはずです。
日本だったらウマイ餃子はあるが、ニュージーランドに来て二十数年、これ以上にウマイ餃子を食べたことがない。

メニューが決まると買い出しである。
先ずは近所の肉屋へ行く。
最近はショッピングモール内にある肉屋がお気に入りだ。
行きつけの郊外にある肉屋のオーナーが店を売って、今はショッピングモール内にある店舗でやっている。
向こうもボクのことを覚えていて世間話を交わす。
「どうだ、最近は向こうの店に行ってるか?」
「まあ時々ね。娘の学校が近いからね」
親父は用があるらしく、店の奥に入っていった。
スタッフが声をかけてくれる。
「いらっしゃい、今日は何にします?」
「豚の挽肉が欲しいんだけど」
餃子には豚挽きだ。
「ハイよ、どれぐらい?」
「500g」
「ハイハイ、ちょっと待っててね」
彼女は豚肉をその場で挽肉にしてくれる。
店には活気があり、従業員が皆生き生きと働いている。
良い店というのは、お客さんが喜んでお金を払っていく店だ。
そういう店は雰囲気で分かる。ぼくも喜んで買い物をする。
ショッピングモール内にはスーパーマーケットもあるが、ボクはスーパーで生鮮品は買わない。
肉は肉屋で、魚は魚屋で、野菜は八百屋で買う。
大型スーパーの生鮮品は長期冷蔵されているからか、仕入れの場所が違うのか、食べ物自体が持っているエネルギーが低いような気がする。
何と言っても肉屋の肉は美味いのだ。
野菜を八百屋で買い、韓国のお店で餃子の皮とニラを買う。
庭にニラが植えてあるが場所が悪いのか育ちがあまり良くない。どこか良い場所に移し変えてやらなくては。



今日の餃子はおから入り餃子だ。
深雪はおからがあまり好きではないが、こうやって分からないようにすると食べる。
おからを入れすぎるとパサパサした感じになるが、少しぐらい入る分には何も分からない。
毎週土曜日の午後、深雪は日本語補習校へ行く。
そこへキウィの豆腐屋が豆腐を売りに来る。オーガニックの豆腐はなかなか美味く、きっちりと豆の味がする。
自分でいろいろやるボクだが豆腐は作らない。
やればできるだろうが、、それに費やすエネルギーは少なくない。
人間のエネルギーは限りがあるので、全ての物を自分で作るわけにはいかない。
それよりウマイ豆腐を作る豆腐屋があるのだからそれを買えば良い。ボクはここでも喜んでお金を払う。
モチはモチ屋なのだ。
以前何かの本で読んだが、今や豆腐は海外の方が美味いそうだ。
日本の大手メーカーでは生産を上げるために色々な混ぜ物を入れる。同じ量の大豆からたくさん豆腐ができる。おからのでない豆腐だ。
もちろん日本でも昔ながらにきっちりと作っている豆腐屋はある。もちろん美味い。新潟県能生町にある無人販売のおぼろ豆腐は絶品だ。
だが商売としては厳しいのではなかろうか。
スーパーで安く売っている豆腐が今の主流だろう。安ければ良い、という考えは食生活の根底を揺るがす。
それよりも海外の豆腐屋は昔ながらに大豆とにがりで豆腐を作る。結果、海外の豆腐は美味いとなる。
豆はネルソン産オーガニックの大豆。
豆腐屋が言うには、この農家はオーガニックの資格を取っていないけだけで、やりかたは有機農法でやっている。
厳密に言えばオーガニックとうたうのはダメなんだろう。
だが・・・オーガニックに資格?
そんなの作っている物を食べてみれば分かるじゃねえか。
農薬や化学肥料を使わない野菜はウマイんだよ。不味かったらそこで買わないだけだ。
そんなことでゴタゴタ言ってるから物事の本質が見えてこない。エネルギーをもっとマシな方へ使え。
ともあれボクはその豆腐屋から大豆を業務用で買い込み、納豆を作っている。
納豆はウマイと評判が良く、売ってくれと家に買いに来る人もいる。
豆腐が美味ければおからも美味い。
大豆のしぼりかすとはいえ、体に良い植物性タンパク質の健康食品である。タダ同然に安いというのが何より良い。
人に良ければニワトリにも良い。ヒネとミカンのエサには常におからが入っている。ムダにしないというのは実に気持ちが良いことだ。
野菜は本来は庭のシルバービートを入れる。
シルバービートは日本に無い野菜で、ほうれん草と白菜の中間のようなものだ。鉄分が豊富でヘルシーなのだ。
今年のシルバービートはまだ芽が出たばかりで小さいので、買ってきたキャベツを使う。
ちなみに庭のシルバービート入り餃子はオセアニア地区で一番ウマイ餃子に格上げされる。



「餃子と言えばビール、ビールと言えば餃子」
餃子の時のお決まり文句を言いながらビールを開ける。
女房殿が最初の一皿を持ってきた。こういう時だけ殿を付ける。
そうそう餃子はひっくり返して盛りつけるんだよね。
誰が最初にやったんだろう。これも文化。
「いっただきま~す」
底辺はカリっと焼け、上の皮はモチモチ。具の量と皮の厚みのバランスも良い。野菜と肉の割合も二重丸。
肉は入れすぎたらダメなんだと、親戚のラーメン屋のおじさんも言っていた。
皮だって買ってきたままだと厚いので、ちょうどいい薄さまで麺棒でのぼしたものだ。
材料自体は安いけど手間がかかる料理なのだ。一個一個に愛がたっぷり詰まっている。本当のご馳走である。
皮だって、自分で麦を栽培して収穫して粉にしてその粉で皮を作ったりとか、豚を育ててその肉で作ったらもっとウマイだろうが、そこまでやったら世界一ウマイ餃子になってしまう。
ボクはニュージランドで一番ウマイ餃子で充分満足である。
皮に包まれていた、蒸し焼きにされた具の旨みが、皮をかみ切ると口の中で広がる。
濃厚な味の後のビールの爽快感がたまらない。
深雪が親指を立ててウマイというサインを出している。
嗚呼この世はかくも素晴らしきものかな。

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ニワトリが来た。

2010-06-19 | 
我が家にニワトリが来た。
この前までポーとチョックを預かっていたのだが、彼女たちが帰ってから何か寂しい感じがしていたのだ。
夏休みが終わる頃に吹き抜ける秋の匂いのする風のような、冬のスキーシーズンが終わる頃1人又1人山を去っていくような、ラーメンを食べるときに大事に取っておいたチャーシューを最後に食べてしまうような・・・。
そんな寂しさがあった。
情が移ってしまったのだろう。

そして昨日、晴れて我が家にもニワトリが来た。
もちろん二羽である。
名前はヒネとミカン。
ヒネはマオリの言葉で娘とか女の子というような意味がある。命名はボク。
もう一羽のミカンは深雪が名付けた。理由は色がオレンジ色だから。
めでたく北村家の一員となった二羽は生後10週間。
ある程度大きい鶏を買う選択もあったのだが、どうせ飼うなら小さい頃から飼ってみたいと思い、この年頃の鶏を選んだ。
まだ体は小さく、チョックとポーの半分位の大きさである。
かなり臆病で隣の犬が吠えると、あわてて小屋の奥に逃げてしまう。慣れるのに数日はかかるだろう。チキンだ。
エサだって若鶏用のエサをあげるし、畑の葉っぱも大きいのをあげてもダメで、小さくちぎってあげて差し出すと指の先からチョイとつまむ。
まあ赤ん坊と同じで世話がやけるのだ。その分可愛い。
卵を産むのは10週間後。8月の半ばぐらいになるだろう。



ニワトリを飼ってみて色々な事を学んだ。
ニワトリが寝るときに止まり木に掴まって寝るのを知らなかった。目を閉じる時にまぶたが下から上がるのも知らなかった。食べ物の好みが色々あるのも知らなかったし、卵をどうやって産むのかも知らなかった。
飛んで逃げないように羽根を切るのは知っていたが、どうやって切るのかは知らなかった。
こうやって実践でいろいろと学ぶのは楽しいことでもある。学ぶという本来の姿ではなかろうか。



ある時、まだ新鮮な野菜を鶏にあげようとして思った。
「これなんか人間様が食えるよな」
そして気が付いた。
『人間様』なんとイヤな言葉だろう。
先ず第一にとても偉そう。「何様だよ、オマエ」という声が聞こえる。
「人間様だ」と言われたら身もふたもないのだが・・・。
人間を一段上の所に置いて、他のものを見下している。気に入らん。
自分達は鶏から卵を頂いている身分でありながら、その鶏を一段下に置くのはけしからん。
だからと言って「ニワトリ様」と呼ぶのもバカバカしい。生類哀れみの令じゃああるまいし。
人間には『様』はいらない。鶏にもいらない。
さあさあ楽しい国語の時間ですよ~。
人間様はペケ。
だけど日本語には『ひとさま』という言葉がある。
人様、他人様とも書く。
これはよろしい。
まず偉そうでない。
他人の尊敬語で、自分もしくは自分達以外の人を一段持ち上げた言葉である。
だからと言って自分を低いところに落とすわけでもない。
あくまで相手を上げる。
素晴らしいじゃあ、あ~りませんか。
『自分が上』『勝ち組』『とったもん勝ち』『オレがオレが』というような殺伐とした世の中で謙虚に相手を持ち上げるこの言葉。
日本語って美しいですね。
ただこの言葉も使う人によっては、周りの目ばかり気にして本質から外れ体裁だけを整える、ということにもなりかねない。が、それは使う人の問題であり、言葉に罪はない。
使い方はこうだ。
「他人様に迷惑がかからないように」「他人様に笑われないように」
そうやって自分を戒める言葉でもある。
ううむ、やっぱり日本語は奥が深い。

そんな事を考えながら庭仕事をする。
ボクがそばにいると安心するのか二羽も近くに来てチョンチョンと土をほじくる。
空を飛行機が飛んでいった。
二羽はあわてて小屋へ走って逃げた。
「このチキンめ!」
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今日の食卓

2010-06-16 | 
我が家の晩ご飯の献立。
かぼちゃの煮付け、カボチャスープ、おからの煮付け、桜エビのから煎り、納豆、卵かけご飯。

家ではコンポストを作っている。去年作ったコンポストからカボチャが芽を出し、そのまま育てたら立派なかぼちゃができた。
半分は煮物に。真っ二つに切ると、切断面から水分がにじみ出る。
適当な大きさに切り皮をある程度残し、面取り、そして砂糖をまぶして30分以上置く。
これがコツなんだと元板前のゴーティーが教えてくれた。我が家に出入りする人は皆、その道の通なのだ。
そして落とし蓋をして、だし汁で味を整えながら煮る。
出来上がりはネットリと柔らかく、ポクポクした感じは全くない。仕上げに煮汁を上からかける。

カボチャスープはオリジナルレシピである。
カボチャ、ニンジン、タマネギを圧力鍋で煮る。いつもはセロリも入れるのだが、庭のセロリは小さく、今は取る時ではないので今日は無し。
それをフードプロセッサーでドロドロにしてペーストを作る。
そこにバター適量、生クリーム適量、牛乳適量、スープ状にしてローリエを入れて煮る。
味付けはブイヨン、そしてカレー粉少々、ナツメグ少々。
頂き物のパンを小さく切ってクルトンにしてスープに入れる。
このスープは深雪の大好物だ。

おからは地元の豆腐屋が一袋50セントで売っている。
材料はニンジン、ネギ、韓国製のはんぺんのような練り製品、桜エビ、ゴマ。
ゴマ油で炒め、その後だし汁で煮る。
かぼちゃの煮付けでも使っただし汁は2日前に作ったうどんの汁の残りである。
きっちり日本のダシパックと昆布でとったダシ汁だ。

桜エビは実家から送ってもらった物の使いかけ。静岡の由比産である。ここは父親が生まれ育った町だ。
日本にいた時には桜エビは生、もしくは釜揚げで食べる物で乾燥の桜エビなんて実家で使うことはなかったが、ここニュージーランドではこういったものがありがたい。
からっと炒って塩をパラリ、ゴマをパラリ。
カルシウムも豊富だ。

納豆は昨日出来上がった物。
ネルソンのゴーティー(この人のこともいずれネタにするつもりだ)に感化され、大豆を業務用25kg買い込んだ。納豆、煮豆作り放題である。
納豆は妻のレシピで作る。以前インターネットのレシピを見て自分で作ったがあまり上手くいかなかった。それより妻が考えたもっと簡単でもっと適当な作り方の方がよっぽど上手くできる。
1回に納豆20人分ぐらい作るのだが、なかなか好評であっというまになくなる。
昨日、気功のクラスに持っていったら一瞬で売り切れた。キウィの人も喜んで買ってくれた。来週はもっとたくさん作らなくては。
納豆など発酵食品は菌の力で増える。
ボクが寝ている間も、ご飯を食べている間も、庭でいろいろやっている間も、こうやってパソコンに向かっている間も彼らは働いてくれる。週7日、24時間働いてくれる。
しかも美味しくて体に良い。タンパク質も豊富、低コルステロール。良いことづくめだ。
試しにニワトリに納豆を食わせたら、味は好きみたいだがあのネバネバがダメのようで、しきりにくちばしを地面にこすりつけていた。おからは喜んで食う。
残念なのは深雪が納豆を好きではないことだ。
子供が好きだったら毎日納豆なのに。
悔しいので、味噌汁を作るときは少量刻んで入れている。
『深雪よ、オマエの知らない間に納豆菌はオマエの体に入っているのだぞ。グワッハッハ』

そして今日産んだ卵で、卵かけご飯。
ユミさんが今日来てニワトリを持って帰った。
頼んでおいたうちのニワトリは明日か明後日ぐらいに来るはずだ。
2週間ほど家にホームステイをしていたポーとチョックは大きな卵を置きみやげに我が家を去った。
その卵を炊きたて熱々ご飯にかけて、頂きまーす。

どれもが美味く、どれも完璧。
買い物をしないで家に残っている物でこれだけ作ると、オレって、やっぱり天才かな?と思ってしまう。
そんな自分が好きでもある。
高価な食材を無意味に使うことがご馳走ではない。
今そこにあるもので、最高に美味しい食べ方をすることが本当の意味でのご馳走だ。
食材の旨みを最大に引き出すのが和食の極めであり、日本の文化の真髄、茶の心である。
あれがないと、これがないと、幸せになれないと言うのは何か違うと思う。
幸せとはそこにあるものであり、自分で作り上げられるものなのだ。
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庭には二羽ニワトリ

2010-06-13 | 
「にわにはにわにわとり」
深雪が壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返す。
ボクが子供の頃には、これに「がいる」をくっつけて覚えたが、深雪はこのフレーズで覚えてしまった。
絵を描きながら、折り紙を折りながら、ボールで遊びながらバカの一つ覚えのように繰り返す。さすがに本を読んでいる時は言わない。
「うるさい、やめろ!」
と言うとやめる。しばし静かな時間。ふう。
だがボクの耳にはこのフレーズがこびりついてしまっている。
つい自分でも同じ調子で言ってしまう。
「庭には二羽ニワトリ」
それをきっかけに再び深雪が、壊れたレコードのごとくフレーズを繰り返す。
「にーわにーはにーわにーわとり」
心なしかパワーアップしてる気がする。
「あーあ、又始まっちゃった」
妻があきらめとともにつぶやく。



庭には二羽ニワトリがいる。
本当にいるのだ。
と言ってもボクの鶏ではないけど。
前回の日記に出たユミさん(Yさん)がワナカに何日間か行くというので、彼女のニワトリを家で預かった。
今年の目標は『産みたてホヤホヤの卵と炊きたてご飯で卵かけご飯大作戦』である。
クライストチャーチへ戻ってきてから、今年の課題はなにかな~と考えていた。
去年はEMと味噌作り。
一昨年は家庭菜園、石けん、納豆。
年ごとに神様が降りてきて、「今年はこれじゃ」と啓示をくれる。
ボクはこの時期にワクワクしながら、さあ今年はどんな新しい事が始まるのかな、と思う。
そして今年の神様はボクに言った。
「聖よ、ニワトリじゃ。ニワトリを飼うのじゃぞ」



友達のサダオが家に居候していたのは5月頭のことだ。
サダオは夏はルートバーンでトレッキングガイド。冬はワナカで医療通訳。夏と冬の間にスイスでトレッキングガイドをする。
この時期、ヤツはボクの家に転がり込み、スイスへ行っている間、我が家に車を置き去りにする。
ヤツのこともネタになるが、今はまだ出し惜しみをする。ネタは小出しにね。
サダオはユミさんの会社で冬働く。何かの用事でユミさんの家に行ったときに産みたて卵をもらってきた。
これを卵かけご飯にしたら・・・とんでもなくウマかった。なんまらウマイ、でらウミャー、バカウマなのである。
こんなのが家で取れたらいいなあ、と思った。
ユミさんは何年も前から知ってはいたが、彼女がニワトリを飼っているのは知らなかった。
彼女の家に行き、どのように飼っているか見せてもらい、これなら自分でも飼えるかもしれないな、ボクの心はニワトリに傾いていった。
さらに彼女がボクの庭を見て言った。
「聖さん、これなら何匹でも飼えますよ。こんな空いてる土地があったら彼らは喜んで土をほじくり返しますから」
さらにサダオが追い打ちをかけた。
「これだけ野菜が採れたらニワトリの餌にも困らないでしょう」
確かに去年はレタスが食べきれないぐらいに出来た。
大根は根っこが小さかったが葉っぱは生い茂り、これまた食べきれなかった。
それらを放っておいたら多量の種が採れた。ばらまいておけばまた雑草状態で育つだろう。
庭で育つ物のエネルギーを廻すのは悪いアイデアではない。
クライストチャーチへ帰ってきて、庭の雑草を取ったら畳20畳ぐらいのスペースができていた。
よしここでニワトリを飼おう。どうせ放っておけば雑草で覆われてしまう場所だ。
本当は庭全部を使って放し飼いにしたいのだけど、家庭菜園が台無しになってしまう。
囲いを作ってニワトリのエリアを区切る所からボクの計画は始まった。



先ずホームセンターでプラスチックのネットを買ってきた。
次はそのネットを立てる、なにか杭のようなものを調達しよう。
と思ったら、雑草で覆われていた場所に鉄筋の棒が転がっていた。
多少曲がっているが実用に問題なし。
神様の啓示に従うと、とんとん拍子に事は進む。
さらに大工の友達が家を解体したというので廃材を貰ってきた。
柱になるような木、壁用に厚手のベニヤ板、屋根を葺いていたトタン。
とんとん拍子に事は進む。

家の近所にはリサイクルの建築資材の店がある。今まで気にはなっていたが訪ねたことはなかった。今がそのタイミングなのだろう。
行ってみると、あるわあるわ、ドア、窓、収納ケースといった大きな物から、流しのシンク、バスタブ、トイレの便器、水道用のパイプ、といった水回り品。さらにドアノブ、ちょうつがい、鍵穴、電気のスイッチ、カーテンレールといった細々したものまで。
ここへ来ればなんでも揃う。見た目を気にしなければ自分でもここにあるもので家一軒ぐらい建てられそうだ。本人がやる気になればなんでもできる。
ボクが行った時も老夫婦がドアノブを探しに来ていて、じっくり時間をかけながら山になったドアノブのコーナーから気に入った物を二人で選んでいた。
こういう場所が身近にあり、業者だけでなく一般の人にも敷居が低い。この国の良いところだ。
鶏小屋用に明かり取りの窓を探し出す。ちょうど良いサイズの窓が$17であった。
毎度あり~、チーン。



キャベッジツリーの裏側、雑草が生い茂っていた所をきれいにしたら畳一畳ぐらいのスペースができた。
ちょうどシェルターになる場所でここに小屋を建てることにした。
もらってきた木材を柱にして、何年もほったらかしになって、朽ちかけている木のフェンスを立て、厚手のベニヤ板を外側に張り付ける。
屋根にトタンを張り、買ってきたガラス窓をちょうつがいでつけて小さなドアにした。
庭の片隅に放置してあったフェンスをきれいにして、その上にベニヤ板を貼り付けて大きなドアにした。
きれいに色を塗って深雪に絵でも描いてもらおう。
こんな感じでほとんど金をかけないで鶏小屋ができた。
さあ、あとはニワトリが来るのを待つだけだ。
もうすでに若いニワトリを頼んである。
家に来るのは2週間後だ。

そして鶏小屋完成記念にユミさんの鶏を預かることになった。
彼女の鶏は2羽。名前はチョックとポー。
来たばかりの時はオドオドしていたが、すぐに慣れてその辺の土をつつき始めた。
長いことほったらかしにしてあった場所だ。土の中には虫がワンサといる。
ヤツらは一心不乱に土をほじくり返す。
「おお、お前達、好きなだけ食え。どんどん掘れ。そんで元気な卵を産んでくれ。頼むぜベイベー」
男の人の側には寄ってこないはずのチョックとポーだが、ボクは別格らしい。
ボクが小屋の仕上げをトンテンカンテンやっているすぐ横で嬉しそうに虫をついばむ。
畑の野菜をつまんで差し出すと喜んでつっつく。可愛いものだ。
学校から深雪が帰ってくると、大喜びでニワトリの絵を描いた。ボクはその絵を鶏小屋の壁に貼った。
次の日、妻が巣箱の中で転がっていた卵を発見した。
大地からの恵みとして、ありがたく頂戴する。



ニワトリは卵製造マシーンではない。
健全な食べ物を食べ、愛に恵まれた良い環境で育つ生き物が、卵という形で人間に与えてくれる、母なる大地のエネルギーだ。
そんな卵がマズイわけがない。
卵かけご飯はねっとりと炊きたてご飯にからみ、醤油の塩味と卵の甘さのハーモニーである。自家製納豆と混ぜるのも良し。
目玉焼きはポックリと黄身がふくらみ、白身も厚いままあまり広がらずに黄身を囲む。塩をパラリ、コショウをパラリ、醤油を2.3滴垂らす。火の通し加減は好みで。
ゆで卵は半熟が好みだ。白身の外側は固形化してるが、内側はトロリ。熱を加えた黄身の美味さが引き立つ。
カルボナーラは近所の肉屋の自家製ベーコン、パスタはイタリア産バリラ、当然ながら茹で加減はアルデンテ、ニュージーランド産のこってりした生クリーム、そして卵はぜいたくに卵黄だけを使う。もちろん白身は取っておいて別の物に使う。ムダにはしない。味付けは塩とコショウのみ。どのレストランよりもうちのカルボナーラはウマイ。
牛乳と混ぜてフレンチトースト。具を入れてオムレツ。スープの中に細く垂らしたかき玉スープ。たくさん卵があったらカスタードプリンでも作ろうか。
卵料理のバリエーションは幅広い。
今日の晩飯は朝採った卵でカルボナーラだ。深雪がガツガツと食う。ボクもガツガツ食う。
皿にソースが残ったので、下品に指できれいに拭いてなめた。



『こうなればいいなあ』と思った事が次から次へ実現する。
気をつけなけなければならないことは、調子に乗りすぎることだな。
しっかりとサダオに釘を刺された。
「聖さん、2羽ぐらい飼ってうまくいったからって、調子に乗って10羽とか飼わないでくださいよ」
ハイ、気をつけます。


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最後の年賀状 後書き

2010-06-11 | 


初めて重い話を書いた。全て実話である。
泣いた人も多いのではなかろうか。
涙を流すという事は悪いことではない。
いや、むしろ良いことである。
涙は浄化のプロセスなのでじゃんじゃん流した方が良い。
映画やドラマなどを見てたくさん泣いてすっきりする、というのはそういう作用があるからなのだ。
ボクはルートバーンを初めて歩いた時、あまりの美しさに感動して涙をボロボロ流しながら歩いた。
さすがにお客さんと歩くときは泣かないが、ウルっとくる時は多々ある。
悲しい涙だって流した方が良い。
吉田拓郎だって歌っている。
♪悲しい涙を流している人は、きれいな物でしょう。

コメント不要と書いていても、書き込みたいヤツは書き込む。
個人的にメッセージを送ってくれる人もいる。
そっと放っといてくれる人もいる。
皆、ボクのかけがえのない友だ。
「ひっぢ、あれは反則だよ。あれは誰でも泣くぜ」
友の声が聞こえてくるようだ。
それに対してボクは言うだろう。
「オレはその数十倍泣いたんだから良いだろ?」
実際にボクはよく泣いた。
現場で泣いた。思い出して泣いた。書きながら泣いた。読み返しながら泣いた。じっと考えながら泣いた。
だが涙を流す度にボクの心は軽くなっていった。
ついでに体も軽くなってくれたらいくらでも泣くのに・・・。

さあさあ、泣く時間は終わりだ。
前へ向かって進め。前進あるのみ。
まだまだ続くぜ、オレの快進撃。
読み手によっては毒にも薬にもなるこの話。
次々出てくる言葉の弾丸、受けてみろ。

気力充実、天下無敵、自由闊達、有言実行、絶好調。

自然農法、有機栽培、地産地消、食物豊富、感謝感激。

公明正大、無償労働、廃物利用、地域医療、安全社会。

海洋自由、国境廃止、民族自決、世界平和、地球政府。

自己責任、危機管理、粉雪中毒、快楽滑走、存在価値。

精神社会、意識改革、輪廻転生、極楽浄土、大往生。

快食快便、早寝早起、健康一番、家内円満、親馬鹿。

未確認飛行物体、宇宙人到来、銀河鉄道、出発進行。


ネタはまだまだつきない。
さらにボクを取り巻く友はネタの宝庫だ。
友を見て、自分が良い状況に居るのを知る。
嗚呼、ありがたや、ありがたや。



最後に一句。

時過ぎて 娘に映る 母の影




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最後の年賀状

2010-06-06 | 
手元に一枚の年賀状がある。
二枚の白黒写真を葉書サイズにプリントした物だ。
大きないのししの像の両脇に父と母が立ち、精悍な顔つきの父の前には当時6歳の兄がジャイアンツの帽子をかぶって立っている。
保育所の帽子をかぶり、いかにも腕白ボウズといった3歳のボクが母の横に立つ。
母は少し前かがみでボクの手を両手で包んでいる。当時の母は30代半ばぐらいだろう。なかなかの美人である。
もう一枚は全く同じ場所の24年後。めっきり老けた父と母、兄、義姉、二人の孫。
母は初孫でもあった長女を抱いている。こちらの写真にはぼくは写っていない。
写真の周りに父の手書きの言葉が並んでいる。
 
『おめでとうございます 1995年元旦
 24年前と同じ場所に立ちました 伊豆いのしし村です
 次男聖は南米のどこかに・・・・・・
 老木の 朽ちるのを待たず 若木伸び
 いまのところ まあまあの毎日です』

ボクはこの時、当時付き合っていたニュージーランド人の彼女と、南米一周半年間の旅に出ていたのだ。
実家では毎年、父が年賀状作っていた。
今でこそ年賀状に写真を入れるのは珍しくなくなったが、以前は年賀状は郵便局で買ってきて一枚一枚手で書くものだった。
そんな中でも家の年賀状は、家族と干支の動物をなんらかの形で入れ写真に撮り、家の暗室で現像した手作り年賀状だった。
この年賀状は当時としてはとても珍しく、なかなか好評だった。
羊年には大きな紙の上にボクがヘタクソな羊の絵を書き、その前で家族で写真を撮った。
猪年には伊豆いのしし村へ家族で出かけた。
そして1995年の年賀状が、父親が作った最後の年賀状となった。

1995年11月、ボクは1年半ぶりに日本へ帰ってきた。
半年間ニュージーランドのスキー場で働き、半年間南米を旅し、さらにまた半年ニュージーランドで働いたあとの帰国だった。
久しぶりの帰国とあって、父と母が成田まで出迎えに来てくれた。
長旅の疲れからボクは口数も少なく、久しぶりの再会に喜ぶ母の質問に、「うん」とか「ああ」とか短い言葉で答えていた。
家に着き、母は僕が好きな物を作ってくれて一緒に夕食を取った。
何を食べたのかは覚えていない。
近くに住む兄はその日に都合が悪く、僕の帰国祝いは明日にしようということだった。
夕食後、荷物を広げた。
ザックの中には南米で買ってきた家族へのお土産が入っていたが、明日兄が来たときに渡せばいいと思い、その日の夜は近所の友達の家に遊びに行った。

次の日は快晴だった。
自分の部屋の窓を開けると、白い雪をのせた富士山が青空をバックによく見えた。
美しい山だ。
ボクは無性に山に行きたくなった。
1人で山に行こうと思いついたボクに母が言った。
「天気もいいし私も行こうかしら。お父さんもどう?」
父は最初は迷っていたが、母に押され3人で山に行くことになった。
行き先は真富士という山で、ボクは高校の遠足で登ったことがある。
母がいそいそと弁当を作り、父の運転する車で家を出た。

途中、両親がやっている食堂へ寄った。
父母はその前年、ボクが留守にしている間に食堂を始めたのだ。
その店は大きな交差点の角にあり車で通ればすぐに見えるのだが、交通量の多い交差点なので車を停められない。
ちょっとだけ停まって駐車場の場所を聞くこともできない。
私鉄の駅のすぐ側だが、歩行者は地下通路を通るのでふらっと入ってくる人もいない。
店は高台で富士山もくっきり見え、土地は最高なのだが商売には最悪、という場所で二人で細々とやっていた。
来るのは知り合いだけで、とてもこれで食ってはいけないようだ。
それでも母は何かしらやっているのが嬉しい、といったようで店のことをあれやこれやと話してくれた。
11月の空は見事に澄み渡り、店の前から富士山がきれいに見えた。絶好のハイキング日和だ。

車を一時間ほど走らせ、登山道入り口へ着いた。
僕は若さに任せ山道をガシガシと登る。父は膝が痛いようで遅れ気味だ。
母が感心したように言った。
「あんたは健脚だねえ」
数時間かけて山頂に登り、母が作ってくれたおにぎりを食べた。梅干しも自家製である。
空はどこまでも青く澄み渡り、富士山が遠くに見える。
平日とあって人は全くいない。山頂での景色を独占だ。
帰り道、あと麓まで1時間弱ぐらいの所だろうか、母が言った。
「今日はお兄ちゃん達が来るから、すき焼きでもしましょうか」
兄は数年前に結婚して、自宅から車で20分位の所に家族で住んでいた。
昨日はあいにく都合が悪く、今日僕の南米でのおみやげ話を聞きながら一緒にご飯を食べようということになっていた。
そしてその言葉が、母が残した最後の言葉となった。

先頭に父、次いで母、そのすぐ後ろを僕が歩いていた。
突然、母がバランスを崩した。
僕は母が足をのせた場所がザックリと崩れるのを見た。
直後、母の体は右手の斜面を落ち、数m下の杉の木に激突した。
まるでスローモーションのように、だが僕は何もできずに母が落ちるのを見た。
そのまま母の体は斜面を滑り落ちていき、数十m下で止まった。
父があわてて言った。
「おい!頭をぶつけたようだぞ」
「うん!オレは下へ行って見てくるから、父さんは助けを呼んできて」
「分かった、頼むぞ」
父はそう言い残すと足早に山を下っていった。
母が落ちた斜面は40度ぐらいあっただろうか。僕は無我夢中で斜面を駆け下りた。
どうか助かってくれ、それだけを考えながら母の元に着いた。
母は血まみれになりながら止まっていた。体を揺するとかすかにうめき声のようなものを発した。
良かった、助かった、生きてる。僕は体中の力が抜けてヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。
登山道まで上げようにも母の体はぐったりと重く、とてもかついで斜面を上がれる状態ではない。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。
母が足をのせた登山道の肩が崩れる様子や、ゴムまりのように落ちて木にぶつかる姿が、フラッシュバックのように頭に浮かぶ。
何かがおかしい。
ふと気が付いた。
静かすぎる。
母を見ると息をしていない。
なぜだ?ついさっき、うめき声を出したじゃないか。
体を揺すってみたが反応はない。
ぼくはあわてて覚えたばかりの心肺蘇生法(人工呼吸と心臓マッサージ)を始めようとした。
日本に帰る1ヶ月前に僕はニュージーランドで講習を受けていたのだった。
人工呼吸をしようとしたが、斜面は不安定で母もろとも落ちそうになる。
呼吸が止まってどれくらいになるのだろう。早くしなくては。
なんとか母のぐったりした体を木の根本にひっかけ安定させた。母の鼻をつまみ息を吹き込む。だが息は入っていかない。
何が悪いのだ。落ち着いて思い出せ、僕は自分に言い聞かせた。
そうだ気道確保だ。一番最初にやることを忘れていた。
講習では平な床の上で練習をしたが、40度の斜面ではわけが違う。少し体を動かすのだって一苦労だ。
それでも教わった通りに気道を開き息を吹き込む。
母の胸がふくらみ空気が入ったことが確認できた。2回くりかえす。その後心臓マッサージを15回。
だが心臓を押すと、母の耳から血が流れだしてきた。僕は怖くなって手を止めてしまった。
こんな時はどうすればいいんだ?講習ではおしえてくれなかったぞ。
何分、いや何秒そうやっていただろうか。
あまりの静けさに耐えきれず僕は再び人工呼吸と心臓マッサージを始めた。
その度に母の耳と鼻から血が流れ出す。
本当にこれをやって良いのか?だが何もしなければ確実に母は死ぬ。
その現実から目を背けるように僕は作業を続けた。
どの位の時間が経ったのだろう。
僕は疲れて動けなくなり、放心状態で母の横に座った。
無理だと知りながら神に祈った。
「神様、もしいるのならば母を助けて下さい」
そして大声で泣いた。
僕の鳴き声は人気のない山にこだました。
山の夕暮れは早い。
子供の頃から秋の夕暮れ時がきらいだった。
とてもきれいなのだが、秋の夕日を見ていると泣きたいほどに悲しくなった。なぜかは分からない。
その後にやってくる秋の夜長がきらいなわけではない。
夜になってしまえば夕暮れ時の悲しさは忘れてしまうのだが、理由もなく夕暮れ時がきらいだった。
そんな美しい秋の夕暮れ時に、僕の腕の中で母は息を引き取った。

ふっと気が付くと、登山道の方から父が呼ぶ声が聞こえた。
「おい!大丈夫か?」
僕は泣きながらさけんだ。
「母さんが息をしないんだよ!」
しばらくの沈黙のあと、父が大声で言った。
「そこにはお前しかいないんだから、お前がしっかりしろ」
ぼくは泣きながら父の言葉を聞いた。
やがて山が闇に包まれる頃、救助隊が着いた。彼らの声が僕の所に届いた。
「お~い、大丈夫ですか」
ぼくは駄目だと知りながら聞いた。
「心臓マッサージをすると耳と鼻から血がでるんです。どうすればいいんですか?」
誰もその問いに答えてくれなかった。
救助隊は僕のいる場所に降りてきて、てきぱきと母を担架に乗せ、登山道へ戻った。
僕も後を追い、父と合流した。
「父さん、母さんが、母さんが・・・」
僕の言葉は涙でかき消された。
「分かったから、お前がしっかりしろ」
父もどうしていいのか分からなかったに違いない。
その後、僕らは救助隊の後ろをトボトボと歩いて下山した。
麓には知らせを聞いて駆けつけた兄一家、親戚のおばさん、従姉妹達、ヤジウマなどがいた。
救急車の赤いランプが夜の山で明るく光っていた。
兄が僕の所に来て泣きそうな声で言った。
「なんでこんなことになったんだよ!」
なんでこんなことになったんだろう。僕にも分からない。
本当なら今頃はすき焼きを囲んで、僕の南米の土産話で盛り上がっているころだ。
久しぶりの家族の対面がこんな形になってしまうなんて。
僕は黙って首を横に振ることぐらいしかできなかった。

母の遺体は一度病院に運ばれ、その後、家に着いたのは深夜になっていた。
僕は何年ぶりかに兄と一緒の部屋で寝た。
次の日、起きて居間に行った。母は泥と血にまみれた昨日の服ではなく、きれいな服を着て布団に横たわっていた。
昨晩、僕らが寝た後で父が着替えさせたと言う。父はどんな気持ちで母を着替えさせたのだろう。
父がうめくように言った。
「オレが死ねばよかったのに・・・」
僕はいたたまれなくなり、自分の部屋に戻った。
涙を拭き、荷物から南米で買ってきた膝掛けを出した。
派手な色使いの多い南米の織物の中でも、黒を基調としたシックな感じの膝掛けである。
ペルーのマーケットで時間をかけながら、母に似合う色を選んだことを思い出した。
僕はその膝掛けを母の体にかけた。
僕の土産を目にすることなく母は死んだ。

午後、自分の寝床でうつらうつらしていると、玄関で人の話し声が聞こえた。
隣りのおばさんと母が話している。そうか、昨日の事は夢だったんだな。そうだ悪い夢を見たんだ。
起きあがり頭がはっきりしてくると、昨日の事が次々に思い出された。
つい今しがた聞こえた母の話し声はもう聞こえない。
あれは夢ではない。現実だったんだ。僕はそれに気づき再び泣いた。
翌日の新聞の地方版に小さく記事が出た。
『ハイキング中の女性、足を滑らせ転落死』
これだけを読めばまるで母の過失で事故が起こったようにとれる。
だが断言しても母は足を滑らせたわけではない。母が足を乗せた場所がザックリと崩れたのだ。
それを見ていたのは僕だけだ。母に過失はなく、前日の雨で地面が緩んでいたのが原因だと思うが、それを追求したところで母は戻ってこない。
僕は悔しい思いでその記事を読んだ。
知らせを聞いて小学校時代からの友達が何人もたずねてくれた。
口々にお悔やみの言葉を言うが、その言葉は何の助けにもならなかった。
僕はうつろな心で友達の言葉を聞いた。
母の死後、共済の積み立てや保険など、色々なところからわが家にお金が入ってきた。
遺産の整理をしていた父があきれるように言った。
「人が死ぬとお金が入ってくるんだなあ」
だがお金がいくら入ってこようが、死んだ人は戻ってこない。
葬式、救助隊への挨拶、お墓の購入、事故現場へ花を持っていくなど、色々な事がありあわただしく時が流れた。
そして僕は実家から逃げるように、冬の仕事である福島のスキー場へ向かった。

その年は新しい職場ということもあり知った顔も少なく、寮でも1人でパズルをやって時間をつぶしていた。
何かに没頭していれば、悲しい過去を忘れることが出来る、僕はそうやって母の死から逃げていた。
人とのつきあいがわずらわしく、ひきこもりのような状態だった。自分でカラを作りそこから出るのを恐れていた。
人に対してよそよそしい態度をとる傍観者であり、『自分は可哀想な人なんだ』という被害者でもあった。
それでも数ヶ月も経つと仕事にも人にも慣れ、楽しいことが増えていき、母を思い出す時も減っていった。
時間というのは悲しみの痛手を薄めてくれる魔法の薬のようなものだ。
数年経つと母の死は遠い過去となっていき、僕は新しい生活に埋もれていった。だが僕の心の傷は完全に癒されたわけではなかった。
女房と結婚する前の事だったと思う。クライストチャーチ郊外の所を散歩したことがあった。
急な坂道だが、特に危険という所ではない、子供でも歩ける場所だ。
その時に彼女のすぐ後ろを歩いていて、僕は怖くなってしまった。
自分が落ちる事の怖さではない。目の前の彼女が落ちるのではないかという怖さである。
この幸せな時が次の瞬間に崩れてしまうのではないか。愛する人を目の前で失うのではないか。
母の落ちる様子が思い出され、それが目の前の彼女に重なり、どうしようもなく怖くなった。
その時は彼女に訳を話し、僕の後ろを歩いてもらったが、母の死はトラウマ、精神的外傷となって僕の心に残った。
その彼女とも結婚、そして娘の誕生。自分自身も夫から父親へと変わっていった。
さらに数年が経ち娘も成長して、母の死を思い出すことは少なくなっていった。
家族でハイキングに何度も行ったが、結婚前に感じた恐怖を感じることはなかった。
僕が先頭を歩くのがほとんどだったという理由があるが、それさえもトラウマが無意識のうちにそうさせていたのかもしれない。
いずれにせよ、それ以来その手の恐怖は無かった。
代わりに自分が落ちて死ぬかもしれないという恐怖は何度かあったが・・・。

スキーパトロールという仕事を何年か続け、その間に色々な血なまぐさい現場にも遭遇した。
頸動脈の数㎝横をザックリ切り、すんでの所で命を拾った人もいれば、コース外で立木にぶつかってお説教をした人が数日後に病院で亡くなったということもあった。
崖から落ちて血まみれでフラフラしている人を助けたこともあれば、同じ場所で死体を運んだこともあった。
人は死なないときは死なないし、死ぬ時は本当にあっけなく死んでしまう。
そういった経験を経て、山歩きのガイドとなり数年が経った。
ある晩、クィーンズタウンの友達の家のテラスで、美しい夕日に染まる山を見ながら宵の一時を楽しんでいた。
1人でビールを飲みながら、ふと母のことを思い出した。
なぜあの時、母は急に山に行くと言いだしたのだろう。最初は僕1人で行くつもりだったのに。
事故の日のことがくっきり心に浮かんだ。
雨上がりでぬかるんでいる山道。路肩についた足元がザックリえぐれて転げ落ちる瞬間。
僕は自分をその場に置き換えてみた。
自分の体は全く同じように落ちて、すぐ下の木に激突しただろう。
全てがつながった。
母が身代わりになってくれたのだ。
母はぼくのために死んでくれた。
涙があふれて止まらない。
自分自身が人の親になって初めて分かったことがある。
親にとって子供が先に死ぬ事ほどつらいことはないだろう。
そんなことが当たり前に起こる戦争は人類が止めるべきことの最たるものだ。
あの時の母親にとって一番見たくない物。
それはニュージーランドから帰ってきたばかりの息子の死体だ。
今となっては知る由もないが、だから急に山に行くと言い出した。
そして自分の人生をかけて、僕に色々なことを教えるために死んでくれたのだと思う。
涙が止まらない。
母の愛を感じた。
母は死んではいない。肉体はなくなったが、ここに存在している。
そしてその時に思った。
もしもこの先、自分の娘に同じような事があったら自分が死のう。
映画『クリフハンガー』の冒頭で、1本のロープにぶら下がった父が娘と息子を救うため、ナイフでザイルを切って自ら死んだように。
ああやって死んでやろう。そしてその時にはこう言いたい。
「オレはやりたいことは全部やってきたから思い残すことはなにもない。先に死ぬぜ。あばよ」
そして笑いながら死んでいこう。
だが死ぬまでには、やっておかなければならない事もある。

その年のある日、僕は父親に電話をした。
「父さん、元気でやってるか?」
「ああ、ぼちぼちだな。そっちはどうだ?」
「こっちも皆元気だ。深雪は5歳になるよ」
「そうか。早いものだな」
「なあ、もう一度ニュージーランドに来ないか?見せたいものがあるんだよ」
「そうだな、オレももう一度ぐらいは行こうか考えていたんだ」
「じゃあ、是非とも来てくれ。今父さんに死なれたらオレが後悔するから」
「ハハハ、分かった分かった。じゃあ10月ぐらいかな。」
「うん、待ってる・・・。あのさ・・・父さん」
「なんだ?」
「今まで・・・育ててくれて・・・ありがとう」
最後の言葉は涙でかすれた。
この言葉を言うのに生まれて40年近くもかかった。
こんなこと面と向かって言えやしない。
「何を今さら言ってんだ。」
父の声も涙でかすんでいた。
電話を切って思いっきり泣いた。

数ヶ月後、父は1人でニュージーランドにやってきて、娘と父と僕の3人で南島を廻った。
行く先々で僕の友達に会った。
スプリングフィールドでブラウニー、フランツジョセフではタイ、テアナウではトキちゃん、クィーンズタウンではタンケンツアーズのクレイグ、マナポウリでトーマス、ケトリンズではトモコ。
皆、娘も良く知っている顔ぶれだ。
父は僕の友達がそれぞれの場所で、明るく生き生きと生活しているのを見て安心したようだ。
これが目の死んだようなヤツや、まともに挨拶もできないようなヤツ、グチばかりこぼしているヤツを友達だと紹介したら、さぞかし心配するだろうに。
だいたい、その人をとりまく友達を見れば、その人となりが見えてくる。
行く先々でデイウォークやハイキングをしながら旅をした。
アーサーズパスではテンプルベイスンへの道をちょっと登りランチを取った。
西海岸ではフォックス氷河、そしてお気に入りのシップクリーク。
クィーンズタウンではルートバーンのデイハイク。ミルフォードへ行く途中でキーサミット。ケトリンズでも名もないコースを歩いた。
ルートバーンを歩いた時、僕は父に言った。
「これがオレの仕事場さ。この国は車から降りて自分の足で踏み入れてみなければ何も分からない国なんだ。」
「そうだな」
父も母もこの国には何度も来たが、こういう山歩きはしていない。僕は続けた。
「オレが唯一心残りだったのは、母さんにこれを見せられなかった。それだけが後悔だな。『親孝行 したい時には 親は無し』ってホントだな」
「そうだな」
「父さんに今死なれたら、オレが後悔するってのは、こういうことだったんだよ」
「・・・・・・」
「それで、こうやって見せたから、あとはいつ死んでもいいよ。できればポックリ逝ってくれ」
「このバカヤロー。俺だってできればポックリ逝きたいわ。それよりな、お前、俺が死んでも日本に帰ってこなくていいからな。葬式にだって出なくていいぞ」
「おお、それはありがたい、助かるな」
「死んであわてて帰ってくるぐらいなら、生きているうちに会いに来い。」
父の本音であろう。何年も帰っていないのでそれを言われるとツライ。
「うーん、しばらく日本に行く予定は無いしなあ。じゃあもう少し生きてくれ」
「勝手なことを言ってやがらあ」
ニュージーランドに父が来るのは今回で最後かもしれない。
だが娘と一緒にこうやってこの国の隅々まで歩いたことを僕は一生忘れない。この瞬間は永遠のものだ。
5歳の娘がたくましく山道を歩くのを満足げに見守る父がいた。
良い親孝行ができたと思う。
親孝行とは、先ず親より先に死なないことであり、世界のどこにいようと明るく正しく楽しく毎日を生きること。
これが本当の意味での親孝行だ。
森を歩きながら父に言った。
「オレはこういう森が好きでなあ。できることなら、こういう森で住みたいぐらいなんだ」
「お前は自然児なんだな。母さんが死んでお前が山から離れるかと思ったけど、そうはならなかったな」
目の奥から熱いものがこみあげた。

人は死を恐れる。
何故なら死とは、終わりであり、真っ黒で何もない所だからだ。
目に見える物だけを見ていたらそうだろう。
違う。
死とは、始まりであり、まばゆい光の世界であり、全てがある所なのだ。
人間の世界で言う死んだ人にも、そこに行けば会える。
歴史上、有名だった人にも会える。自分の母だって祖先にだって会える。
死とはそんな場所だ。
それには、いかに今を生きるかにかかっているのだと思う。
人間は目に見えるものしか信じない。目に見えないものの方が大切なのに。
なので目に見えるこの命が終わるのを恐れる。
自分が怖いので、もう充分生きた人でも、家族は医者に頼んで延命治療をしてもらう。
医師も人の死を敗北と考える人もいる。
僕の考えではムダな延命治療はやめるべきだ。
もう充分生きたでしょう、という人には死んでもらって、延命治療に費やしているエネルギーを子供の病気の方へ向けるべきだ。
僕は死を恐れない。いや、むしろ待ち遠しいぐらいだ。
だからといって自殺はしない。自殺は逃げであり、スピリチュアルの世界では自殺は殺人よりも罪深い。
自分は生かされている存在であり、この命を粗末に扱うことは許されない。
死の向こうには明るい世界が待っている。
さればこそ先に死んだ人の分まで、生きている今という瞬間を大切にして、明るく正しく楽しく精一杯やっていくのだ。
それが『何故自分はこの世に生まれてきたのだろう』という問いの答えだからである。
 
父がニュージーランドを去り、数年が経った。
娘は八歳になり、初めて日本に行った。
ボクはその時仕事で行けなかったのだが、妻が仕事で日本に行くついでに娘を連れて行った。
初めての日本は楽しかったようだ。
そりゃそうだろう、日替わりでディズニーランド、ディズニーシー、富士サファリパーク、伊豆三津シーパラダイス、果ては東京バレー公団のイベント尽くし。
家族とはいえ、ガイドとドライバー付きで贅沢三昧、何と言っても自分で金の心配をしなくていい。
ウマイ物もたらふく食っただろうに。
これで楽しくないなんて言おうものならぶっとばす、くらいの勢いだ。
ボクの実家にも行き、初めて従姉妹たちとも会った。ここでもウマイものを食べたはずだ。
ボクが行かなくても、娘を見ればボクがどういう生活をしているか父は想像できるだろう。
何と言っても子は親の鏡なんだから。
母の墓参りにも行ったというので、死んだ母も喜んでくれていよう。
ボク自身、石けんを作るのは生前母がやっていたことであり、EMの自然農法生活だって母が生きていれば絶対やっていたことだ。
供養とは死んでしまった人の事を想いながらいつまでもメソメソ泣き暮らすことではない。
自分なりに精一杯、明るく正しく楽しく暮らすことが、先に死んだ人への供養でもあるのだ。

ボクは再び年賀状を手にとってみた。
古ぼけた白黒の少し反り返った年賀状はボクの宝物だ。

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最後の年賀状 前書き

2010-06-06 | 
新しい話を載せる。
1回でのせようとしたが長すぎて載せきれなかったので2回に分けた。
できることなら時間に余裕のある時に一気に読んでほしい。

コメントは不要。
今回の話はとても重いので、心して読んでくれ。
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おすそ分け

2010-06-04 | 日記
最近、物をもらうことが多くなった。
先ずは先々週、家に長くおいてあったほうじ茶を飲みきった次の日、妻が知人からほうじ茶をもらってきた。
ボクは普段は緑茶を飲むが、それが無くなるとほうじ茶や玄米茶を飲む。
去年実家から送ってもらった新茶が無くなり、ほうじ茶を飲んでいて、無くなったとたんに人からもらう。
こういう偶然がある時は、自分が良い状態である時と考えている。
さらに同じタイミングで妻が緑茶をもらってきた。
類は友を呼ぶ、ではないが先週は知人から新茶が送られてきた。静岡の八十八夜の新茶である。
さらにさらに実家から新茶がどっさり送られてきた。
うちの父は「安いお茶をたくさん送ってくれ」と頼むと高いお茶をどっさり送ってくる。そういう人だ。
おかげでうちの食材庫のお茶コーナーはかなり充実した。
ありがたや、ありがたや。

昨日はYさんが卵と自家製パンを持ってきてくれた。
卵は放し飼いの鳥の産みたてである。
卵も切れてきてそろそろ買おうかな、と思っていたところだ。
さっそくもらったばかりのお茶をご馳走した。
「美味しい!最近、お茶が美味しいと思う年代になりました」
彼女はボクと同世代だ。
「それなら、お茶を持っていって。たくさん貰ったから」
「わあ、うれしい。聖さん、お茶がらはどうしてます?」
「どうしてるって・・・普通にコンポストに入れてるけど」
「私はパンを作るのに、少し混ぜたりするんですよ。そうするとちょっと香りが良くなるんです」
「ああ、じゃあ是非とも使ってください」
お茶もこういう使われ方をされたらうれしいだろう。
お昼ご飯は出来たて納豆と産みたて卵の卵かけご飯。マズイわけがない。
「くーっ、ウマイ!」感動を1人で噛みしめる。
人からいただいた物を自分の所だけで独占せず、喜ぶ人にも分け与える。
大地からの物はみんなで。そうやってエネルギーは廻る。
おすそわけ。良い言葉だ。

ボクは人から物をもらうことが好きだ。
ブラウニーは自分で撃ってきた鹿肉をくれるし、レネの家からはクルミとか自家製ドレッシングをもらう。
先日は友人からウニをどっさり貰って豪華なウニ丼にした。
アイバンが自分で潜って獲ってきた伊勢エビやアワビを貰った事もあった。
ウマイ物ばかりだ。
家に招かれて食事をご馳走になることもある。
物だけでない。気とか愛と言った目に見えない物をもらうこともある。
人から貰うことも好きだが、人にあげることはもっと好きだ。
自分が作ったものが喜ばれると、どんどんあげてしまう。
見返りは期待しない。
人に何かを期待をすれば、そうならなかった時に傷つくのは自分である。
それなら最初から何も期待しなければ傷つくこともない。
シンプルじゃないか。
それよりも喜ぶ笑顔、特に子供が喜ぶ顔。
これだけで充分であり、これこそが一番大切なことだ。
こういうことをやってると、不思議に『イヤなヤツ』が寄ってこない。
「もらっちゃった。しめしめ。得したな」とか「自分には必要ないけどタダなら貰う」というような人がボクの周りにはいない。
それより、素直にシンプルに喜んでくれる人にボクは囲まれている。

ギブアンドテイクという言葉がある。
広辞苑にはこう書いてある。
『(与え、そして、取るの意)公平なやりとり。自分から相手に利益を与え、その代わりに自分も相手から利益を得ること。譲り合うこと。歩み寄り。初めは主に貿易に言った。』
これはエネルギー(物やお金だってエネルギーの一種である)の交互通行である。
二人もしくは二つの集団の間で行われる物だ。
お互いに納得した上で、与えそして受け取る。
二人だったらシンプルでいいだろうが、考えてごらん、三人もしくは三つの集団になったらどうだろう。?
損得勘定が働いて結構難しくなると思う。
まして四人、五人、百人となっていったら?
無理です。

確かに貿易が始まった頃にギブアンドテイクというのは必要だったのだと思う。だがその時代は終わった。
『その代わりに』この言葉がくせ者だ。見返りを期待している。
エネルギー(物でも金でも気でも)は人から人へ廻さなければならない。
もちろん頂き物のお礼をするのは当然のことだが、与えてくれた人にだけお返しをすれば良いって事ではない。
次の人へ廻し、さらにそこから次へ、そして次へ。自分の知らない所までも。
感謝の気持ちと共にエネルギーは廻る。
そしてそのエネルギーはいろいろな形で自分の所へ還ってくる。
還ってきたらまた廻す。この繰り返しだ。

自分の所だけでなく、その喜びを人と分かち合う、おすそ分け。
日本語ってなんて美しいんだろう。
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