あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

ぶどう畑にネットが広がった。

2022-02-26 | 日記


農家の朝は早い。
仕事は7時半からなので、6時半には家を出る。
仕事場まで1時間のドライブだが、通勤ラッシュと反対向きなので渋滞は全く無くスイスイと走る。
市街地を抜けるとすぐにのどかな牧場の風景が広がる中のドライブを、僕は気に入っている。
最近はカーステレオを新調して、ブルーツースで好きな音楽を聴けるようになったので余計に嬉しい。
カーステレオを買うにあたり、中古で買って自分でやれば安くあがるなどと考えたが、結局は近所の専門店で買った。
最安値の物ではないが、無駄な機能がついて高いものでもなく、シンプルだがちゃんとした音響メーカーの物を選んだ。
スピーカーは古いままだが、これほどまでにと思うほど音が変わった。
さすが音響メーカー。専門性があって当たり前だが、今まで全然興味のない分野の事を少しだけ知った。
毎日2時間を過ごすなかで、心地よい音に囲まれるのは心の持ちようも変わってくる。
QOL 人生の質という言葉があるが、そこにある程度の投資は必要だ。
安い物だけを選んでいればこういう発見も生まれない。かといってなんでも高けりゃいいというものでもあるまい。
やはり大切なのはバランス、そしてそこに価値があるかどうか自分自身の内観とも繋がる。



夏の盛りは家を出る時には明るかったが、この時期になると日の出の時間が遅くなり、通勤の途中、だいたい7時ぐらいに朝日が上がる。
朝晩は気温が下がり、日中も陽の光は暴力的になることなく穏やかなものだ。
季節は流れている。
そんな中、ブドウの実はどんどん熟し色づいていく。
見た目が美味そうなのだが、そう思うのは人間だけではない。
鳥たちもそう思うのだ。
鳥がブドウをつつくとそこから病気になってしまう。
なのでこの時期、どこの農場もネットをかける。
ネットをかけたら機械が入れなくなるので、それまでにスプレーをしたり下草を刈ったりする。
そしてネット掛けの時は人を集めて、1週間ぐらいでやってしまう。
先ずは色づき始めたピノノワールから、すでに熟したものは鳥につつかれてしまっている。
トラクターの運転手、その後ろで機械を操作する人一名、そしてネットを引っ張って広げてブドウに掛ける人数名。
丘で機械が入れない場所では、丘の上までロール状のネットを運びコロコロと転がして伸ばし、それを数名で広げてブドウに掛ける。
何人かのチームでやる仕事なので、この時は何も聴かずに作業に集中する。
作業にアクシデントはつきものである。
作業の途中でネットが破けてしまったり、絡まってしまったり、挙げ句の果てにトラクターがパンクしたり。
いろいろあったが1週間ちょっとで全てのネット掛けが終わった。
丘の上からブドウ畑に広がったネットを見ると、達成感を感じられる。
こういった感覚はやった人にしか感じられないものだ。
例えるなら山に登りきった感覚に似ているだろう。
大きな山には大きな達成感が、小さな山には小さな達成感がある。
大小はあるが、いずれにしてもその人にしか分からない感覚である事に間違いない。



農園には何種類かのブドウが植えられている。
メインはピノノワールとシャルドネだが、リーズリングやピノグリ、マスカットなどもある。
一緒に働いた人が言っていたが、ピノノワールはキロ4ドル50セント、リーズリングはキロ1ドル、良質のピノノワールは7ドルにもなるそうだ。
これは収穫のどの時点での値段なのか分からないが、とにかくそれだけ価格の差があるということだ。
自由市場経済では、多くの人が価値を認めて価格が決まる。
いちゃもんをつける気はないが、何かなあという気持ちは残る。
ちなみにぼくはワインの味は分からない。
この言い方は正しくないな。
不味いワインは分かるが、それ以外はみんな美味いワインになってしまう。
何がどういうように美味いとか、そういうのは分からない。
超高級ワインとか飲んだことはないが、それを美味いと感じるかどうかは分からない。
万人が認めた美味い物に高い値段がつく、というのは理解できる。
ただ高い物が美味いか?と聞かれたら、常にそうとは限らないという答えになるだろう。
不味くても名前だけで売れることはあるし、高い値段をつけた故に売れるということも世の中には多々ある。
値段が高い安いは世俗の話であって、神様仏様から見ればブドウはブドウでそこに上下は無い。
でも僕らは人間界に生きて、資本主義の世の中で働いている。
広い畑を少ない人数で管理するのだから、作業も最優先にピノノワールでリーズリングは後回しとなる。
仕方がない話なのだが、安いという理由でないがしろにされる(実際はそんなにひどい扱いではないよ)リーズリングが可哀想だな。
そんな事をふと考えてしまった。





ネット掛けが終わると、あとは収穫までちょっとの間、のんびりモードとなる。
ネットは穴が開いていたり、破けていたりするので、それをチマチマと縫う。
小さな穴は多すぎて面倒見切れないので、大きく破れている所の補修だ。
お気に入りのコテンラジオで織田信長の話とかフランス革命の話とか資本主義の話とかを聴きながらやるのである。
忙しい時もあればちょっとスローダウンしてまったりと仕事をする時もある。
ちょっと手を休め、丘の上からの景色をボーっと眺める瞬間は何も生み出していないけどこういうのが結構大切なのかなあ、などと思うのだ。
作業の合間に程よく色づいたブドウをつまみ食いすると、けっこう甘くて酸味もあり美味い。
ブドウが色づいてくると、鳥がネットの隙間から入ってきてそれを追い出す作業もある。
だが今年はそんなに鳥は多くない。
近くの国道を挟んだ農場では人手が足りないのかネット掛けをしていないので、付近の鳥がみんなそこに集まっているようである。
おかげでこちらは余計な仕事が減って助かる。
収穫まではもうすぐだ。



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資本主義について熱く語ってみようと思った。

2022-02-14 | 日記
資本主義の話である。
僕が持っていた資本主義のイメージとは、金が全てであり金の為ならなんでもやる悪いヤツ。
そんなイメージを持っていた。
拝金主義や利他主義とごっちゃまぜになっていたのだと思う。
資本主義は悪の手先で、そのうちに仮面ライダーみたいな正義の味方にやっつけられちゃう。
そんな印象を漠然と持っていた僕が資本主義を学び、どうやらそう単純な話ではないようだということに気がついた。
ぶどう畑で働きながらラジオで聞いて学んだのだが、新しい学びができるのは嬉しいことだ。
今回はコテンラジオの話を基に、自分なりに考えた資本主義の話を書こうと思う。



まず第一に資本主義とは何か。
敵を倒すには敵を知ることから。(資本主義を敵と呼ぶことからして間違いなのだが、まあそういうノリで)
資本主義ができる条件とはいくつかあるが、歴史的な観点から条件をあげる。
まずは私有財産が保証されていること。
王様が勝手に奪ったり、常に略奪される危機がある状態ではダメ。
そして利潤動機、儲けたいという気持ち、がんばれば自分の儲けになるという状態。
がんばっても利潤が吸い取られるとか自分に戻ってこない状態では頑張る気も失せるのが人情だ。
あとは自由市場経済。これは価格を決定する市場(しじょう)があること。
何を売ってよいか、自由な商業活動をすることにより価格が決まるという市場があること。
これは卸売市場や朝市のような実際に物を売り買いする市場(いちば)でなく、状態を示す言葉である。
産業や商品を自分で決められることで、価格が決まっていく状態だ。
これも権力者によって統制されていた時代、中世ヨーロッパには無かったものだ。
これらも歴史上では無い状態が続いたが、時代の変遷と共に自由が認められるようになった。
人権や技術というものも関係あるし、経済とは社会と密接な関係があるのが歴史を学ぶと分かる。
これらが揃うとどうなるか、生産性を上げるという概念が生まれる。
これも利潤が自分の物になるという状態があればこそ。
公務員の事を悪く言うつもりは無いが、公務員のような職場環境では生産性を上げようという気持ちは産まれづらいのは想像できる。
そして時代が進めば、株式会社という法律の基にリスクを分散して生産性を上げるシステムができる。
そして同時に必要なものも高度な金融技術。
遠くに居る者の間で、お金のやり取りができるというのも金融技術だし、手形とか銀行とか為替とかそういうのはみんな技術だ。
こういった条件が揃ってやっと資本主義というものが生まれた。
逆を返して言えば、これらのどれ一つ足りなくても資本主義は成り立た無い。
僕らは生まれて当たり前にこういった条件が揃っているが、それが無かった時代もあったのだ。
まるで空気のようにそれがある現在と、それが生まれるもしくは勝ち取るという時代では人の考え方も違ってくる。
当たり前の事を当たり前だと思わない、ということの重要さを学ぶのは今の世で一番大切なものかもしれない。

こうやって資本主義の条件は出揃ったところで、じゃあ一体資本主義とはなんぞや、ということになる。
マルクスとかアダムスミスとかケインズとか、経済学だの社会学のお偉いさんがいろいろと言うわけだ。
いろいろな人がいろいろな事を言うので漠然としすぎてわけが分からなくなるが、コテンラジオがうまくまとめてくれたのを記す。

その1、市場経済を前提として成り立つ。
これは条件のところで述べたが、さらに市場経済では全ての物が商品として成り立つ。
土地や水、山や森そして空気までもが商品となるし、人間の労働や時間というものも商品となる。
言い換えれば自分が持っている時間を売っているとも言える。
僕のガイドとしての労働は価値があるものなので高い値段が付くが、ラベンダー畑の草むしりは誰でもできる仕事なので最低賃金だ、というのも市場経済上では当たり前の話なのである。
また私有財産が前提なので全ての物が人や会社などの所有物でなければならない。
僕個人の考えはアメリカンインディアンと同じで、土地という物は地球の物すなわちみんなの物であり、それに値段がつくこと自体がおかしい。
この考えでは資本主義が成り立たない。
実際にアメリカの開拓時代にインディアンは土地の所有の概念を持っていなかったので、白人が何か珍しい物をくれるらしいということでお金なり宝石なりを受け取った。
その結果インディアンは住んでいた土地から追い出された、という歴史がある。
これに近い話はニュージーランド先住民のマオリ族にもあり、ワイタンギ条約が結ばれた時にマオリは条約という概念を持っていなかったということで、条約が結ばれたワイタンギデーには今でもマオリの抗議活動がある。
誤解を招くと困るので書いておくが、白人が悪いと言っているのではなく、概念が違う人種の間ではそういうことが起こりうるという事を言っているのだ。

その2、市場経済上では市場にとって良しとされる行動でしか報酬を得ることができない。
たとえ社会とか環境に良くても、市場が良いと考えなければそれは評価されない。
株式市場で自分が良いなと思う会社に投資しても儲かるとは限らない。
市場から評価されていて、ここは儲かると市場が思っている株式に投資をすることが儲かる。
自由市場経済下では、自分にとって良いと思う行動より市場からの評価を優先してしまう傾向にある。
市場にとって良いという考えとは、多数の意見を反映することだろう。
多数の意見とは、民主主義に繋がる。
後にも述べるが、資本主義と民主主義は常に結ばれていて、分離できないものだ。

その3、持続的成長が資本主義には必要であり、それは生産人口に比例している。
労働できる人間の人口が増えれば経済は成長するし、減れば経済は縮小する。
資本主義では持続的成長をしなければならないと皆が思っているので、そのためには人口が増え続けなければならない。
人口が増えれば当然ながら環境問題にもつながる。
産めよ増やせよ、というスローガンが昔あったが、人口というのは直接的に国力に比例する。
多産が良しと社会が認めたわけだが、これも時代や社会によって変わる。
逆に一人っ子政策なんてものをやった国もあったわけだが、どちらにせよ問題はある。
そもそも子供の数は家庭で決めるべきことであって、他者が関与することではない。
家庭ごとの経済事情や社会との繋がりその他もろもろがあるので、本人が決めるべきだというのが僕の考えだ。
その考えさえも基本的人権が確立された現在に生きているからであり、そうではない時代が長く続いてきたのだ。
今は人口は減少しつつあり、これからも増えるということはないだろう。
そうなると右肩上がりが基盤となっている現在の経済は困ってしまう。
さてどうなるものかねぇ。

その4、期待値を定量化することができる。
企業の時価総額は今ある価値なのだが期待値が載っている、それが定量化され株価として反映される。
しかしその期待値というのは、どれぐらいその会社が儲けるかという事しか定量化されない。
その会社がどれぐらい社会に貢献するかとか、どれぐらい支持されているかというのは定量化されない。
超簡単に言えば、儲かるか儲からないか、なのだ。
これはその2の、市場にとって良いとされる行動が重視される、ということと重なる。
つまり儲かるものにしか価値を見出せず、そこにしか投資されない仕組みになっている。
期待値が定量化されるという事は悪いことではなく、近い未来が予測されるという事だ。
ローンを組んで欲しい物を買うのも、クレジットカードで買い物ができるのも、事業拡大の為に金を借りるのも、これがあればこそだ。
その不安定な予測を人間が全てコントロールできると思ってしまっている事が問題だ。
これは時間の概念にも繋がる話だが、西洋の時間の概念は過去から現在そして未来へと一方通行だ。
だがインドでは時間の概念は循環なのだと言う。
最近流行の『持続可能』という言葉も一方通行の時間の中での事で、循環の中では意味を持たない。
時間のことでついでに書けば、時間と空間が分離されているというのも昔は違った。
戦争では色々な部隊が同時に同じ位置に集まる必要があるので、同じ時間を共有しなければならない。
腕時計が発明されたのも第一次世界大戦のあたりだと聞く。
そうやって時間というものが空間から外され、一人歩きしている。
若い時にいろいろな国を旅して、場所ごとに流れている時間の違いを感じたものだった。
今でもその感覚は漠然と持ち続けているが、この感覚は時計の前では見事にかき消されてしまう。
この矛盾が問題点なのかどうかは分からないが、今はそういう時代だということだ。

その5、資本が資本を産む性質がある。
お金を持っているとそのお金を増やす事ができる。
資産運用と言えば分かりやすいし利子というものも同じだ。
その結果、金持ちはどんどん金持ちになっていく。
マイナスの因子で言えば、借金が膨れ上がっていく話はどこにでもある。
貧富の差というのも産まれやすい。

その6、資本主義とは単なるシステムではなく、我々のOSとして機能している。
文化、イデオロギー、習慣、制度、そういった諸々と関係があり、民主主義とも未分化である。
しかもこのOSは固定化されたものではなく動的なものであるため、常に姿を変え続けている。
生まれてからずーっと姿を変え続けているのだが、同じ資本主義として駆動している。
つまり資本主義の特徴が変わっている所もあれば変わっていない所もある。
ここが僕が一番感銘を受けたところで、漠然と感じていた事をうまく言語化してくれた。
資本主義とは単なる世の中の仕組みだと思っていたがそうではなく、全てを組み込んだOSだという考え。
こういう発見、考え方の変換、もしくは思考のアップデート、なんでもいいがこの考えは多いに共感できた。

こういった事を全てひっくるめて資本主義と呼ぶ。
ところどころで難しい言葉が出てくるのはコテンラジオ特有の言い回しだからである。
コテンラジオではこの後で歴代の経済学者や社会学者の資本論を紹介して、ポスト資本主義への話へ移っていく。
とまあこんな具合に資本主義という物がなんとなく分かってきた。
話を冒頭に戻して僕が資本主義に持っていた悪いイメージはそのほんの一部の物だったと理解できた。
第一資本主義があるから、今の便利な世の中があるわけである。
文明の進化に必要だったと言えるわけだ。
でも各事項ごとに問題を抱えているのも事実だ。
そして第6項であげた通り、資本主義はOSだというような考えは資本主義に限らず他の社会にも当てはめて考えることができる。
例えば学校教育の問題を考えてみようとしよう。
それは教育の現場での出来事はもちろんだが、それを取り巻く地域社会、各家庭での親のあり方、経済も関わるし、政治も無関係ではない。
医療の問題では医学はもちろんだが、やはり政治そして経済、働く人の労働環境ひいては個人の思考から私生活まで、何から何まで繋がっている。
現代社会では全ての社会現象が互いに関わっていて、一点だけを見ても問題は解決しない。
それだけ社会が複雑化しているということだ。
今回資本主義を学んでいろいろと考えた。
経済を専門的に勉強している人から「たかだか数時間ラジオを聞いたぐらいで分かった気になるなよ」と言われるかもしれない。
そう、気をつけなければならないのは、分かった気にならないことだろう。
これはどこかの哲学者が言っていた「知れば知るほどに、自分が何も分からないことが分かった」
それを踏まえて学んで考えるのは大切なのだろう。
物事を細分化して専門家がその事を研究するのはもちろん大切だが、経済も社会学も哲学も歴史もというように広い範囲で考えること、すなわち人文学が今の世の中で大切なのではないかと思う。
専門家が専門分野で研究した知識は人類皆で共有し、総合的に考え判断し行動することが明るい未来につながっていくと信じる。
ちなみに僕は庭で採れた野菜も卵も人にあげてしまい、お金は一切受け取らない。
「売ればいいのに」とよく言われるが、大地からの物は売らないのが信条である。
資本主義的観念から言えば、バグそのものなのだろう。



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ぶどう畑で働いているけど葡萄という漢字は書けません。

2022-02-05 | 日記
訳の分からないタイトルで始まったがぶどう畑の仕事の話である。
前回は啓蒙思想のような話を偉そうに書いたが、今回は今の僕を取り巻く環境の話を書く。
今の仕事は基本的にというか完全に外で行うアウトドアだ。
人間が持つ印象というのは面白いものでアウトドアなどという言葉を使うとオシャレなイメージを思い浮かべるが、なんてことはない『野外活動』、もっと野暮ったく言えば『野良仕事』だ。
若い頃からいろいろな仕事をしてきたが、外での仕事が多かった。
土方、足場組立、モノレール工、畑仕事、スキー場での仕事、ハイキングの仕事も外だ。
仕事によっては雨の中で働くものもあったが、今の仕事は雨はお休みなので気は楽だ。
雨の中の作業は効率は下がるわ滑るわ疲れるわであまり良いことはない。
それでも僕は基本的に外での仕事が好きなのだと思う。
暑い寒いはあるけれど、地球の上で生きている、という感覚を感じられるのだ。



さて夏の盛りを過ぎて葡萄はたわわに実り、気の早いものはぼちぼちと色づき始めた。
仕事は単純作業が多く、作業自体が楽しいというわけではない。
そして作業は主に病気にならない対策である。
逆を返して言えば葡萄はそれぐらい弱い植物ということだ。
放っておけば間違いなく病気になる。
病気になれば収穫をしても旨いワインができない。
不味いワインは売れない。
売れなければやっている意味がない。
農業というものは、農作物に値段がついた瞬間に商業となる。
これは農業に限った話でなく、漁業だろうが林業だろうが製造業だろうが全て同じだ。
現代資本主義経済で回っている社会はそういう構造になっている。
この是非を問う気はさらさらない。
今の自分の立ち位置は、この業界のヒエラルキー構造では最下層であり、そこから眺めるワイン業界というのも興味深い。



葡萄の実が日増しに大きくなり、実の周りの葉っぱを延々とむしる作業をする。
単純作業なので何かしら聴きながらする。
歴史の話が多いが、最近は資本主義の話も聞いたし、哲学的な話も聞く。
そういった話を統合し人文学というようだが、この歳でも学ぶ喜びがあるのが嬉しい。
作業をひと段落して、青空を仰ぎ丘の上から景色を一望する。
周りでは羊がノンビリと草を食み、平和そのものの世界だ。
なだらかな丘が延々と続き、その中を貨物列車がゆっくり通過していく様は、まるでジオラマの世界に飛び込んだようだ。
国立公園のような自然そのもののエネルギーの高さは無いが、牧歌的な風景は心を和ませる。
今回はっきりと気づいたのだが、僕は地形を見るのが好きなようだ。
手前の川はあの山の向こうから流れてきて、ここでべつの小さな谷間と合流して、あっちの丘の端を周り太平洋に流れていくんだなあ。
この平野部は、あの川が長い時間をかけて砂を運んでできたんだろうなあ。
高台に立ち景色を眺め、そんな事を考えるのが好きなのだ。



自分の娘は二十歳になるが、今は大学の夏休みで帰省しており、週に何日かは一緒に働いた。
年頃の娘が、親父を毛嫌いもせず一緒に仕事にいく時間は嬉しくもあった。
「暑い〜』とか「花粉症がひどい〜」などと多少の文句は言うものの、与えられた仕事を手を抜かずきっちりやる様を見て、親として安心である。
暑い日は帰りにアイスを食べながら帰ったり、帰り道の途中でブルーベリー摘みをしたり。
親元を離れ自炊しながら大学生活を送る娘とは、ここ数年は距離を感じていたが、コロナ騒動の後で近しいものとなった。
そして一緒に仕事をすると今まで見えなかった娘の一面も見えたりもした。
もしもこれがずーっと一緒に働くなどとなると、それはそれで軋轢も生まれるだろうが、馴染みの無い環境下で期間限定での関係は良好なものだった。
娘の仕事の最終日は四輪バギーに乗って敷地内をドライブ。
街で生活をしていたら四輪バギーなど乗る機会は無い。
小さな体験だが、普段と違う事をするのは変化という意味で大切だ。
ぶどう畑で働く事自体、娘にとって非日常であり、若い時の体験は全てが財産である。
来年は日本に行って、日本のスキー場で働いてみたいと言っている。
こんなご時世なので、日本に行けるかどうかも分からない。
古今東西、何か大きな事が起こった時に、割りを食うのは女子供だ。
本当に今の子供達は可哀想だと思う。
なんとかならんものかねぇ。



毎日、葡萄を眺めていると明らかに変化がある。
葉っぱは下の方から茶色っぽくなり、実は少しづつ色づき始めた。
色の濃い実を食べるとほんのり甘い味がする。
ワイナリーの周りには様々な果物の樹も植えてある。
イチジク、カリン、りんご、プラム、黒スグリなどなど。
プラムはすでに食べ頃でちょっと触るとボロボロと落ちる。
りんごも日の当たる所から赤く色づき、鳥が喜んでついばんでいる。
季節は間違いなく移り変わり、収穫の秋へ近づいている。
人間社会の事なぞ知らん、と言わんばかりに植物たちは生きる。




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