あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2023年を振り返る

2023-12-27 | 日記
普段は暇な師(先生)も忙しくなり走ると書いて師走。
ずいぶんと師に失礼な言葉だなと思うがこれはコンプライアンスに引っかからないのだろうか?
でもこういうユーモアを含んだものが日本語の面白いところであり美しいところである。
さて今年も残すところあとわずか。
人並みに1年を振り返ってみる。
自分の身の回りの話では、ぶどう畑の仕事を辞めツアー関係の仕事に戻ってきた。
これはコロナも終わりに近づき観光客が戻ってきたという社会現象と重なるところがある。
ぶどう畑の仕事自体は好きだったが、自分はやはり農業のプロではないなとはっきりと気づいたのもある。
同時に自分が身を置く世界が自分という人間を求めている、求められている所で仕事をするのはありがたい事であり嬉しい事でありやりがいのある事であり自分の使命でもあると言えよう。
新しい出会いもあったが旧知の人が鬼籍に入ったり、昔からのお客さんが帰ってきたり、遠方から朋が来たりしてそれなりに充実した日々を送った1年でもあった。
ツアー関係の仕事をしながらも相変わらずインプットは続き、歴史、哲学、社会、宗教、言語学、食、文化人類学など全てをひっくるめた人文学という物を学んでいる。
この学びは来年以降も続いていくだろう。
最近はコテンラジオから民主主義という物を学んだ。
これは簡単に言い表せられる事ではないが、自分が漠然と考えていた民主主義とはほど遠い所に真実というものがある事に気がついた。
こうやって書くと民主主義が分かったというようにとらえられてしまうが、そうではなく今もなお完全に分かったわけではないし、そう簡単に分かるものでもなかろう。
ただ今までのの自分の思っていたのが全体の1%ぐらいだった事に気がつき、解像度が上がったという具合だろう。
民主主義の構造を理解し歴史を学ぶと現代が見えてくる。
なぜ今の世の中がこういう状態なのか、今まではでは見えなかった視点で世の中を見て自分なりに理解ができた。
これが学ぶ喜びというものだろう。
この1年もそういう学びはたくさんあり、まだまだ進化をするような気がする。

自分という個人をとりまく社会も変化を続け、今まで表に出なかった事が明るみに出たり、あるいは闇に葬られる類のものもある。
2020年に始まった奇妙なパンデミックの時期、その積み重ねの上に23年という年があった。
これまでと同じように世界のどこかでは戦争があり、芸能人のスキャンダルがあり、スポーツではどこかのチームが勝ちあるいは負け、有名人の訃報があり、政治家は相変わらず腐りきっている。
出来事だけを追えば、そう言えばそういうこともあったなと思い出すが、直接自分に関わらなければ全て他人事で対岸の火事だ。
戦争や災害で可哀想な人がテレビに映し出されるが、見ている自分は食べ物にも困らずヌクヌクと生活を続けている。
そうやって1年というものがあっという間に過ぎ去った。
光陰矢の如しと言うが、この年になるとなのかこの年だからなのか時間の経つのが速く感じる。
年寄り連中が歳を取るに従って時間があっという間に過ぎると言ってたが、まさにそれだなと実感するのだ。
これは不思議な感覚だなぁ。
年の瀬になり、どれ今年を振り返って偉そーに社会を分析してやろうなどと思いつき書き始めたはいいが、なにが起こったのかすぐに思いだせない。
ネットで23年の出来事と検索すれば、1月はこういう事があり2月はこれこれがありと出てはくる。
それを見れば、ああそう言えばそういうこともあったなあ、あの時は自分は何をしていたと思い出す事はできる。
その瞬間ごとには精一杯生きていたはずだが、一連の流れとして結びつかない。
自分の頭の中でのこの1年の思い出と、ネットで出てくる情報から呼び起こされる事が違うということだろうか。
自分というミクロの視点と社会というマクロの視点の違いか。
そこをごちゃ混ぜにして話を書き始めたから、こんなまとまりのない文章になってしまった。
結局の所、よく分からない事が分かったという哲学者のような言葉でとっ散らかった話を締めよう。

皆様よいお年をお迎え下さい。




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神はもういない

2023-11-04 | 日記
あーあ、負けちゃったよ。悔しいなあ。
思い出したのは95年に南アフリカとやった決勝である。
今は死んでしまったが、ジョナーロムが居た時の話だ。
その時のオールブラックスは強くて大会前の下馬評も最高、優勝候補の筆頭。
決勝トーナメントでもロムが相手を踏み潰して突進するのを、僕らはメスベンのパブでビールを飲みながら喜んで見たものだった。
決勝戦ではまさに互角の勝負で、フルタイムでも決まらずに延長戦になり、相手のドロップゴールで負けた。
静まり返ったパブを後に、当時のスキー仲間と一緒にトボトボと歩いて帰ったのを覚えている。
その時と同じぐらい悔しいのは、僅差の勝負だったからなのか、当時の自分の状況が思い出させるのかどうか分からない。

負けて悔しいというのは当たり前の感情である。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
それが勝負の世界の掟だ。
負けて悔しくなかったら、勝った方もうれしくない。
陰陽や正負のように両方あって成り立つものである。
それにしても悔しいというのが本音だが、今回のオールブラックスはよくやったと思う、
大会前からあまり出来が良くないなどと言われたが、きっちりと決勝まで残り、あの試合である。
本当によくやった。
選手だけでなくコーチやサポートの人など全てに「おつかれさん」と言ってあげたい。
これはオールブラックスだけでなく南アフリカのチームにも良く頑張ったと言いたい。
試合では色々あったがどちらが勝ってもおかしくない、歴史に残るような互角の勝負であった。
そして最後の最後は運だろうとも思った。
ラグビーのボールは楕円形なので、たまにボールが不規則にバウンドする。
それが味方側に来るのか相手側に行くのかは運だ。
逆にそこが面白いとも言えよう。
今回の試合でもバウンドしたボールが相手側に転がる場面も何回かあったのは運がなかったから。
キックを外したのも運であればボールが滑ったのも運だし、反則を取られたのも運、審判の判定も運である。
運も実力のうち、ということわざがあるが、この一言に尽きるのではないか。
運だけで全てが勝てるほど甘くはないが、実力が互角だったら最後は運というものが勝負を決めるのはどのスポーツも同じだ。



選手をはじめ関係者のコメントは興味深く、審判や判定に対して口を閉ざしている。
今の世の中、否定的な事を言えばすぐに叩かれる。
心の中で「このクソ野郎」と思っても表面に出す事は許されない。
これまた代表選手の宿命だ。
ここから先は僕の個人的な意見を語る。
一言で言えばゲームがつまらなくなったな。
これは時代の流れと言い切ってしまえば、それに尽きる。
一体、サッカーやラグビーは何人でやるものなのか、という基本的な問いを投げかけよう。
サッカーなら11人だしラグビーなら15人、というのが当たり前の答えだ。
これは自分のチームしか考えていない答えである。
実際には自分のチームだけでは試合は成り立たない、相手チームも必要である。
そして主審一人と副審二人も含めて、サッカーなら25人ラグビーなら33人でゲームを行う。
実際には監督や控えの選手やメディカルやボールボーイなどもいるのだが、話がとっちらかってしまうのでグラウンド上で動いていてゲームを作っている人を考える。
自分はラグビーよりサッカーの方が詳しいので、ここからはサッカーの話を基に進めるが、言いたい事はサッカーでもラグビーでも共通することだ。
先にも書いた通り、ゲームは味方11人と相手11人、そして審判3人で行う。
この審判次第でゲームは面白くもなるし詰まらなくもなる。
これは審判の技能、体力、判断力、人格にも関わることなので、上手い審判と下手な審判がいるのは仕方がない。
どのスポーツでも際立って上手い選手とそこそこの選手がいるように、審判だって同じだ。
上手い審判が裁くとゲームの流れがスムーズで見ていて気持ちが良いが、下手くそな審判は試合の流れをブチブチと切りゲーム自体がつまらなくなる。
ここでもう一つ大切なことで『流れ』という概念である。
サッカー、ラグビーに限らず、どのスポーツでも試合の流れというものは存在する。
この時間帯はこちら側に有利な流れであるとか、サッカーで言えば試合が動く時間帯であるとか、そういう漠然としたものだ。
この流れが途切れないのがサッカーでありラグビーであり、それを見るのが楽しかった。
昨今ではすぐに時間を止めてしまうようになったが、昔はけが人の処置の時もケンカをしている時でも時間は動いていた。
勝つために時間稼ぎなんてことも昔はよくあったが、それはどのチームでも多かれ少なかれある。
これがバスケットボールやアメリカンフットボールやアイスホッケーのように、審判が笛を吹いた瞬間にプレーが止まり時間も止まるというスポーツと混合してはいけない。
あれはあれで実にアメリカ的だが時間との戦いみたいな感じでその面白さも存在する。
それとは真逆で、滅多なことでは時計を止めないというのが、サッカーやラグビーといういわゆるフットボールの醍醐味だった。
そして軽い反則があった時に反則を受けた方のチャンスが続けば、そのまま流すというのがよくあった。
そもそもゲームにおいて主審の判断が絶対であり、副審は主審が見えにくい角度をサポートする立場だ。
だからこそ主審の力量が試されるとも言えよう。
主審が黒と言えば周りが何を言おうが黒なのである。
もちろん悪質な反則にはゲームを止めてカードを出すが、上手い審判はその辺のさじ加減が絶妙なのだ。

86年にメキシコで開催されたサッカーワールドカップはマラドーナの活躍でアルゼンチンを優勝に導いたが、伝説になっている神の手の話をする。
戦争で負けたイングランド相手にサッカーでは負けないぞというアルゼンチンの因縁の対決。
ゴール前にフワっと上がったボールにマラドーナが走り込みキーパーと1対1になった。
キーパーとクロスになる直前でマラドーナが頭で押し込みゴール。
実際にはマラドーナが左手を使っていたのだが、頭のすぐ横でひじを曲げた状態だったので審判の位置からは見えなかった。
当然イングランドからは抗議があったが、主審は判定を曲げずにゴールはそのまま。
これは動画でも残っているが、明らかにハンドである。
だが当時は主審の判定は絶対だった。
後にこれが『神の手』と呼ばれることになるのだが、神の手をやったのは誰か?
当たり前の答えはマラドーナであるが、その瞬間に現場にいた人は3人。
マラドーナ、イングランドのキーパー、そして審判である。
この3人がいたからこそ神の手が生まれたのだ。
これが今だったらどうだ?
ビデオで色々な角度から撮ったものを検証して、実際にフィールドに立っていない人がそれを見て判断する。
主審はそれを聞いて、ノーゴールと宣言する。
つまり今のシステムでは今後『神の手』は現れない。
この話のタイトル、神はもういないとはそういうことだ。
僕はこの試合を高校生の時にテレビの生中継で見たけど、あの興奮は一生忘れない。
サッカーというスポーツが現場の人間で行われていた古き良き時代だ。
同じ大会で高田静夫という人が日本人では初めてワールドカップの主審を務めたが、堂々たる裁きっぷりだった。
Jリーグができるはるか以前の話であり、日本がワールドカップに出るなんて考えられない時代だった。
日本人でも選手としてでなく、審判として立派な人もいるんだな、と思ったことを覚えている。
世界のトップレベルの試合になると選手だけでなく審判の能力も求められるのである。
時代は流れ技術の進歩とともにスポーツの世界も変わっていく。
大きな試合ともなれば数多くのカメラが色々な角度から撮影をする。
審判のミスと呼べないような物、例えば主審の位置からは見えない角度のプレーは存在する。
そういったものもビデオカメラは写しだし、それが審判のミスとされてしまうこともある。
より公正にという目的でビデオでの検証が導入されたのも時代の流れというものか。
それによりサッカーやラグビーがつまらなくなった、というのが自分の個人的見解だ。



今回のラグビーワールドカップ決勝で一つのプレーを例えにだす。
オールブラックスのラインアウトでボールが落ちたかどうか微妙なプレーがあった。
ボールが落ちたらそこでプレーは止まり相手ボールのスクラムとなるが、落ちていなかったらプレーは続けられる。
試合の流れでも重要な局面だった。
実際にはボールが落ちそうになる前に南アフリカの反則があったのだが、審判はボールは落ちていないということでプレーは継続された。
オールブラックスはそこからパスをつなぎトライをして主審もそれを認めた。
その後でビデオ検証チームが、ボールは落ちていた、さらにはそれ以前に南アフリカに反則があったと主張があった。
確かにビデオで見ると反則もあったしボールも落ちている。
結果どうなったかというと、トライは無効となりいくつものプレーを巻き戻し最初の反則があった場所に戻りやり直しだ。
ちなみにラグビーでは反則をされた側がボールを持っていれば審判が「アドバンテージ」と宣言してプレーは続く。
そこで味方が反則をしたり、相手にボールを取られたりした場合には最初の反則のあった場所に戻り、そこから再スタートをする。
アドバンテージの時間が長くなったりすれば審判は「アドバンテージオーバー」と宣言して普通のゲームに戻る。
だからプレーを巻き戻して元の場所に戻るということはよくあるが、それはあくまで審判が「アドバンテージ」を宣言した場合であり、両チームもそれを考慮してプレーを続ける。
たとえここで相手にボールを取られても味方のペナルティに戻るという前提で、ギャンブル的に大きなプレーをすることもある。
それはそれでお互いに戦略というわけで、そこがラグビーというスポーツ独自の醍醐味とも言えよう。
今回の話はそれと別で、主審が「ノーノックオン」要はボールは落ちていないのでそのままプレーを続けろ、ということでアドバンテージではなく普通の状態で両チームともやって、その後オールブラックスがトライを決めたが、ビデオ検証チームがケチをつけたというわけだ。
応援しているチームのトライを取り消された僻みという感情はもちろんあるが、それより大きな意味がこのプレーにある。
これは試合の主導権が主審ではなく第三者になってしまったということだ。
現場に一番近くにいたのは主審だろ?
じゃあ主審の裁量に任せろよ。
例え主審がそのまま流しても、周りがそれを許さない構造になっている。
主審も「なんだなんだ、俺が一番近くで見てんだぞ、そこはガタガタ言わずに俺に任せろよ」と心の奥で思っているかもしれない思っていないかもしれない。
確実に言えるのはゲームがつまらなくなり、神の手は二度と現れないということだ。
なんとなくこの構造が今の社会の縮図になっているような気がするのだ。
人間が繰り広げる社会での流れ。
それとは別に時間だけが独立して動いている流れ、時間が社会をコントロールする仕組み。
現場でやっている人の判断を尊重せず、遠隔でコントロールする構造。
どれもが今の世の中で起きている事象ではないか。
そしてそれを外野でギャーギャー言う連中、このブログのように。
ここでこの長い文の最初に戻るが、勝負は勝ってナンボ。
何をどう偉そうに言おうが、勝ちは勝ちで負けは負け。
全ては負け犬の遠吠えなのである。

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ラグビーワールドカップに想ふ

2023-10-27 | 日記
子供の頃からのラグビーファンでは無い。
ラグビーというスポーツをした事もないし、細かいルールは未だに分からない事もある。
第一、子供の頃にラグビーをやっている人も周りにいなかったし、清水という場所では全ての子供がサッカーをやっていた。
地元にクルセーダーズという強いチームがあり、家のすぐ近くのスタジアムでよく試合をやっているが、観戦に行った事は1回しかない。
それでも日本に住んでいる人よりはラグビーというスポーツは身近にある。
近所の公園にもラグビーのグラウンドはあるし、週末にはあっちこっちで子供から大人までラグビーの試合をしている。
現役の頃には選手だったという友達もいるし、たまに国民的英雄の選手を見かけることもある。
ワールドカップは全部見てきていて、もちろんニュージーランドを応援するし、最近は日本も強くなってきたので日本も応援する。
ラグビーのワールドカップはまだ歴史が浅く、第一回は1987年にニュージーランドで開催された。
唯一自慢できるのが、その第一回ワールドカップの決勝を生で見に行ったことである。
その時には今のように垢抜けてなく、もっと田舎くさい雰囲気の大会だった。
決勝戦でも試合が終われば当然のように観客がグラウンドに入り、子供達が選手の体をペタペタと触っていた。
古き良き時代だったのかもしれない。
今のようにショービジネスになったのも時代の流れであり、もちろんその裏にはセックス、スクリーン、スポーツというスリーエス政策も関係ある。
オールブラックスのユニフォームが、地元の会社カンタベリーからアディダスになったのももちろん関係ある。
そういえば、昔のカンタベリー社製のオールブラックスのユニフォームは格好良かったなあ。
スポーツというものが、政治や経済に利用されるのは今始まったことではない。
これはラグビーに限ったことではなく、サッカーだろうが野球だろうが全て同じであり、その極みがオリンピックである。
昔と今で違うことは情報の伝達速度が格段に速くなったので、地球の一部の地域でやっている事が瞬時に全世界へ中継される。
そしてまた情報量も膨大になっているので、ただ単に勝った負けただけの話ではなく、選手の動きはもちろん応援団や関係者の姿も全世界へ回る。
情報を発信する側も、メディアなど特別な存在だったのが、ネットの普及で誰でも発信できるようになった。
世界をとりまく情報の膜がどんどん厚くなっているというのが、自分の感覚だ。
そんな小うるさい事を言わず黙ってラグビー見てればいいじゃん、という声ももちろんある。
確かにそれも一理あるので、ラグビーの話に戻ろう。



自分が応援するのは先ず日本であるし、同時にニュージーランドである。
これは応援の種類が違う。
ラグビーというスポーツにおいて日本を応援するのは自国だからという点もあるが、善戦して欲しいという願いがある。
昔、それこそ第一回のワールドカップで100点差で負けた頃に比べると格段に強くなった。
最近では南アフリカに勝ったり強豪チームをそれこそ、『なめてかかったら痛い目にあわす』ような存在になった。
もちろんワールドカップで日本が優勝するとは思わないが、昔を知っている身とすればネズミがライオンの尻尾を噛みちぎるぐらいの、ジャイアントキリングとでも言うのか、そういう意味での応援である。
もう一方ニュージーランドを応援するのは、そこに住んでいるからというのももちろんだし、強さの象徴のようなものか。
他の国の人が聞いたら怒るかもしれないが、なんとなくオールブラックスってワールドカップで優勝して当たり前みたいな感覚がある。
それは第一回大会で優勝して国は小さいがラグビーは強いんだぞという事を全世界に見せつけて以来のカルマかもしれない。
ワールドカップを代理戦争とするなら、世界の片隅の小国が大国を打ち破り世界を制覇する。
漠然と優勝して当たり前という感覚を持っているぐらいだから、選手を始めコーチや関係者のプレッシャーはすごいものがあると思う。
似たような話で、ブラジルのサッカーの話がある。
ブラジルではサッカーのワールドカップにかける情熱がすごい。
オリンピックとか南米選手権とかそういうのはそこそこだが、とかくワールドカップに関しては優勝以外は全て失敗と言われている。
だいぶ昔の話だが優勝できなかった時に自殺やショック死する人がいたなんて話も残っている。
ブラジルは南米大陸最大の国で人口も多くまさに大国だが、ニュージーランドは人口500万人ぐらいの小さな国だ。
そんな小さな国がラグビーというスポーツの分野で世界を圧倒する。
物語的にもこれは面白い。



そんなオールブラックスだが大会直前に南アフリカに負けたり予選でフランスに負けたり、あまりいい話はなかった。
だが決勝トーナメントに入ってからは強豪アイルランドを僅差で破り、アルゼンチンにも買って決勝進出を決めた。
底力と言うのだろうか、やはりここ一番という時には強いな。
決勝戦は今週の日曜で泣いても笑っても、これで今回のワールドカップは終了。
ワールドカップという代理戦争は終わるが、世界の別の地域では戦争は終わらない。
代理戦争をしている事自体、それに出ている国は平和だと言える。
実際に戦争をしている状態ではスポーツどころの騒ぎではない。
ウクライナの戦争然りイスラエルの戦争然り、人類の歴史とは戦争の歴史とも言えよう。
ただ断言するなら、戦争は仕組まれている。
そして仕組む方は決して命の危機にさらされない。
死ぬのは常に一般大衆で、最大の被害者は女性や子供たちだ。
親より先に死ぬな、というのが僕が若い世代に伝える言葉だが、戦争とはそんな甘い言葉を簡単に踏みにじる。
そういうものだ。
平和なニュージーランドにいるから大丈夫という話ではない。
同じ星の地域ではそういうことが起こっている事を知りつつ、ワールドカップという世界一を決める試合を見よう。
純粋な気持ちでオールブラックスを応援しよう。
それにしても36年前、1987年に決勝を見に行った時には、将来こんなことをエラそーに書くなんて思いもしなかったなあ。
だから人生って面白いのだ。









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ウンコは最強のデトックス

2023-10-20 | 日記
タイトルのごとくウンコの話である。
今の世の中で生きていく限り、我々人間は何かしらの毒素を体に取り入れている。
食べ物、飲み物、水、空気、もしくは皮膚から、知らず知らずのうちに毒を体に取り込む。
食品添加物や農薬、大気汚染、汚染水、薬や麻薬という分かりやすい物もあるし、衣服や建材や電磁波や周りにありふれた物質など、毒素は日常生活にあふれている。
これらが全て悪いと言っているわけではない。
そういう社会だという話だ。
もちろん体に悪いものを取り入れないように工夫したり努力することも大切である。
けれどそれだっていき過ぎたら、何も食えない何も飲めないつまらない人生が待っている。
たまにはカップラーメンやジャンクフードだって食いたいじゃないか。

さらに毒は人工の物であり、自然の物を食べていればいいという考えも疑問だ。
じゃがいもの芽は毒だし、毒キノコなんてものもある。
ちなみに毒キノコで有名なベニテングダケは最高に旨いらしい。
世の中には奇特な人がいるもので、実際に食べて飲み込まずに吐き出したらしいが、今までで一番美味かったそうだ。
自分はやらないけどね。
それから蜂に刺されて腫れるのは、体が毒に対する当たり前の反応だ。
蚊やブヨやサンドフライに刺されて痒くなるなんてのも毒が体に入ったからだ。
海で泳いでクラゲに触ってヒリヒリするというのもそれだな。
こうやって自然界にも毒は当たり前にある。

毒にも様々なものがあり、それぞれに致死量というものがある。
ある程度の量を越えれば死んでしまう、だが適度に取れば薬にもなる物も多々ある。
アルコールという物質は少量なら薬になるが、飲み過ぎたら死ぬ。
塩だって適度な量は人間がというより動物が生きていくには必要だが、これだって取り過ぎたら死ぬ。
なので日常生活にあふれている物も過剰摂取は良くない、量によっては毒にもなりうるということだ。

考え方の問題なのだが、毒は体に悪いからとにかくダメ、いわゆる二元的な考え方もどうかと思う。
確かに体に悪い物を避けるのは何も間違っていない。
それも行き過ぎすとおかしくなる。
これもバランスの話だな。
それよりもある程度の毒は認めてというかあきらめて、体から毒素を排出するいわゆるデトックスも考えようというのが今回の話のツボである。
人間の体は色々な物を取り入れるが、同時に色々な物も出してもいる。
古来、人の体から出る物は不浄の物、いわゆる汚い物とされていた。
大便、小便、汗、鼻水、耳くそ、目やに、垢、などなど。
確かにきれいではないな。
このきれいでない物質、だからなのかやっぱりなのか、これが体内の毒や老廃物などである。
このうちで、一番質量が大きいものが、ウンコである。
やっとウンコの話になった。
このウンコが健康の指標と言ってもいいぐらいだ。
誰でもウンコがスッキリ出たら気持ちいいだろうし、何日も出なかったら辛い。
そしてこのウンコにより、日頃たまった毒素を体外に排出する。
ではどうすればウンコがすっきり出るのだろうか。

答えはズバリ食物繊維である。
食物繊維の豊富な食べ物を食べると、ウンコの出が良くなる。
食物繊維が豊富な食べ物とは、芋類、海藻、豆類などだ。
特にコンニャクは食物繊維が多くカロリーが低いというかほとんど無い、究極の健康食品と言える。
日本でも昔から「こんにゃくは体の砂払い」と言われるぐらい便通が良い。
考えてみれば人間が食物を食べるのは栄養を補給するためである。
それなのに蒟蒻芋には栄養価は無く、その物自体が持つ味も無い。
要は食えることは食えるがたいして旨いものではない。
でも人間はそれを食えるレシピを編み出し、健康食として栽培してきた。
なんかすごいことだな。
栽培はいたって簡単で暖かい所なら勝手に増える。
製法は煮てすりつぶし水と凝固剤(炭酸ナトリウム)を混ぜて固め、煮出して灰汁を抜く。
やってみるとけっこう簡単だ。
我が家ではこれを酢味噌で食す。

それから菊芋。英語ではジェルサレムアーティチョークと言う。
これも栽培は簡単で、コンポストの中に埋めておくと、ニョキニョキ育つ。
茎の高さは2mぐらいになりヒマワリのような花をつける。
生でも食えるし、てんぷらやきんぴらと和食にしても良い。
これがイタリア料理の食材としても良い。
粒マスタード、ニンニク、アンチョビなどとあえ、じっくりとオーブンで焼くとそれだけでご馳走だ。
イタリア風に作ると白ワインにとても合う。
これをたくさん食べると次の日には、おならがたくさん出て軽いウンコが出る。
あとは山芋や里芋も良いがこれらはくどくど書か無くてもいいだろう。

それから我が家の常備しているものとしてはザワークラウト。
これはキャベツの発酵食品である。
これもまたお腹に良い。次の日にすっきりウンコが出る。
作り方はいたって簡単で、千切りキャベツに塩をまぶし出てきた水分と一緒に瓶に詰めるだけ。
常温で1週間ぐらいで出来上がる。
味付けは塩だけだが乳酸菌の作用で酸味がつく。
これは和食にも中華にも洋食にも合うのがまた良い。
冷蔵庫に入れておけば日持ちもするので、キャベツが大量にできたときにまとめて作る。
かねがね思っていたしブログにも書いていたが、人間の食生活は菌とは切っても切れない関係にある。
味噌や醤油や納豆や漬物などの発酵食品は腸内環境を整える作用がある。
菌自体は胃の中で死んでしまうが、そういったものがウンコとして排出される時に毒素も外に出す。
まさに菌様様だ。

もう一つ最近始めたものだが、重曹クエン酸水を飲むこと。
始めてから2カ月ぐらいになるが、なんとなく体の調子が良い。
これだけ芋類や発酵食品を取っていると、もう何が効いているのか分からないのだが、なんとなくという理由はありだと思う。
ネットの情報で知り、とりあえず5ドル分ぐらい買ってみたが2カ月経ってもまだ残っている。
そして味もそんなに不味くない。
いくら体に良いといっても、すごく高かったり美味しくなかったら続かない。
でも安価で手に入り、味もまあまあで健康に良かったらやらない手はないだろう。
これについては賛否両論あり、ある医者がこれを発表したら消されたなんて話もある。
そりゃあたかが重曹とクエン酸でみんなが健康になったら困る人もいるだろう。
それから取り過ぎれば体に悪いなんて話もチラホラある。
そこはそれ、塩だってなんだって取りすぎは毒にもなるものだから、各自で判断すれば良かろう。
一つ言いたいのは重曹クエン酸が体に良いからと言って、それだけ飲んでいれば良しという考え方ではあるまいか。
それってテレビで言っていたからといって、それに飛びつく人と大差ない。
体の話うんぬんより思考の話であり、どんな情報でも自分で咀嚼して考えろってことだ。

健康でありたいというのは、人間が常日頃から持っている自然な感情であろう。
そのために解毒を考えるのも毒を取り入れない工夫も大切である。
だが今現在、自分のが健康であるにも関わらず、病気になることを恐れるあまり第三者の言葉を鵜呑みにする風潮が気に入らん。
先ずは健康であるならば、その状態に感謝をすること。
と言っても感謝というものは自分の心の現れであって、強制させられてするものではない。
そういう心持ちになるかどうかは自分次第だ。
病気になったとしたら、自分の生活を省みて運も含めて自分にその責任があることに自覚をすること。
そして病気があるからこそ、健康のありがたみを知る。
人間は比較をして初めて価値判断ができる、というか比較をしないとそれができないものだ。
考えてみよう、もしも全く病気がなく全ての人が健康な世の中だったら、健康体のありがたさを知るだろうか。
日本から一回も出たことのない人は日本の本当の良さが分からないという話と同じだ。
病気や怪我をすると健康体のありがたさを知るのだが、時間が経つとそれを忘れてしまう。
健康であることがありがたいはずなのに感謝の気持ちを忘れ、病気になるのではないかという不安を持つ。
不安の根源は怖れであり、そこが大元になっているので色々な問題も呼び寄せてしまう。
以前にも書いたが、健康を維持するために事をするのか、病気にならないために事をするのか。
同じ事をするにしても、結果は変わってくるかもしれない。
その健康の指標が日々のウンコであり、毒を出せという話。
そういえば最近このブログでも毒を吐いてないな。
なんか日和って当たり障りのないつまらないブログに成り下がってる。
そろそろ毒でも吐くか。



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健康の種類

2023-09-29 | 日記
忙しい9月が過ぎ時間ができて、じっくりとブログを書く気になった。
今回のテーマは健康について。
この事について無関心な人はいないはずだ。
なぜならそれは人間の生活に密接に関係あるものだからだ。
その証拠に「体に良い」という言葉が、それこそあきれるほど巷に出回っている。
ではその健康とはどういうものか、深堀して考えてみた。

身体的健康。
体という眼に見えて感じやすいものは一番分かりやすく、ほとんどの人が考える健康とはこれだと思う。
日常生活においても最も大切なもので間違いはない。
身体的健康が怪我や病気などで損なわれた場合、痛みや苦しみという形で人は感じる。
そうならないように人は体に気遣い、意識をそこに向ける。
だが度を越すと、逆にそれがプレッシャーとなってしまうこともある。
病気を恐れるがあまり、必要以上に心配して病気になってしまうこともあるかもしれない。
不安という怖れの感情は利用されやすく、「テレビで⚪️⚪️が体に良いって言ってた」などというのは実に分かりやすい例だ。

精神的健康。
メンタルヘルスという言葉が最近では一般に知られるようになったが、それもここ数十年ぐらいのものだろう。
心というものは眼に見えないものなので、体よりも分かりづらい。
精神的に健康な時に、人はやる気に満ちて生き生きとし笑顔で充実した日々を送れる。
逆に心の病気ではよく知られたものではうつ病、それからパニック障害や不眠症や依存症などがある。
現代社会では全ての人が何かしらのストレスを持っており、これが主な原因だ。
これは人に限らず動物でもストレスが原因で病気になる。
心の病気は今の科学でも完全には解明されておらず、分からないことが多い。
心と体は密接に繋がっていて、心の病気が体の病気を引き起こすこともある。
日本では『心身』という言葉があるように、昔からこの二つは繋がって考えられていた。

社会的健康。
人間は野生動物と違い、社会の中で生きている。
オギャーと産まれた時点から、親なり周りの大人なり誰かの助けを借りなければ生きていけない存在だ。
生まれてから立ち上がり自分の意思で生きていくまで何年もかかる。
こんなに時間がかかる生き物は他にいない。
それぐらい弱い生き物ということだ。
その弱い生き物を育てるのが社会というものである。
親がいなかったら、親類の誰か、もしくは施設などで子供の面倒を見る。
逆に言えばそういう社会がなければ人間は生きていけない。
ある程度大人になれば無人島で一人で生きていけるかもしれないが、赤ん坊の時には無理だ。
つまり本人が自覚していようがいまいが、人間は社会の中で生きる。
そういうものだ。
社会的健康とは、他人や社会と良い関係を持つことで、不健康とは悪い関係を持つことだ。
一番分かりやすい例は犯罪者なのだが、罪を犯すという前提の罪とは何かという問いで意見が分かれてしまう。
犯罪者の全てが悪とは限らないし、社会的には犯罪ではなくても社会に害を及ぼしている例はいくらでもある。
これだけ社会が複雑化すると、何が善で何が悪かは分からない。
善悪で考えると話が進まないな。
例えば猟奇的殺人者は社会的健康とは言えない。
ここに反論する人はいないだろう。
無差別殺人者、テロリスト、レイプ魔、強盗者、窃盗犯、誘拐犯、挙げればきりがないが、社会に害を及ぼすような犯罪を犯す者と考えればいいだろう。
社会生活を営むという観点から、ひきこもりやホームレスも社会的不健康者と言える。
しつこく書くがこれは善悪を論じているのではなく、社会的に健康か否かの話である。

霊的健康。
スピリチャル的に健康かどうか。
スピリチュアルという言葉だけ聞いて「ああ、もういいよ、それは」と思う人もいるが、そういう人でも自分が気づかずに物事を行っている場合も多々ある。
ヨガや瞑想などは分かりやすいし、家事や料理や庭仕事などもこころがけによってはそうなる。
霊的健康があるなら霊的不健康な状態とはなんだろう。
他人に迷惑をかける、というのが最初に頭に浮かんだ。
社会的健康とも重なるが犯罪が一番分かりやすい。
たとえ今の法律では罪とならなくても、嫌がらせなどもそうだ。
人が信じているものを侮辱する、人の悪口を言う、いじめなどなど、日常生活でも溢れている。
それから自分を下げることも霊的不健康と呼べるだろう。
自傷行為、自己嫌悪などである。
逆を言えば、その行為で他人も自分も良い気持ちになる、笑顔になる行為が霊的健康と呼んでもいいだろう。
町のゴミ拾い、大いに結構。どんどんやれよ、おとし。
そして又その行動もしくは状態で自分を高めるとなお良し。
瞑想などの静的なものもあるし動的なものもある。
禅宗の坊さんは掃除洗濯料理などの仕事も修行と考える。
綺麗な景色を見ながらボーッとする、なんてのもありだ。
僕はよく太陽に向かって手を合わせ、ありがとうございますと呟くが、そんな簡単なことでも良い。
そしてほとんどの人はそんな簡単なことをやらないが、こんなのは他人に強制されてやるものではないのでそれでも良い。
ただしボーッとする行為自体は社会的な観点では何も生み出していないので、何もしていない=悪いこととなってしまっている。
今の世の中は資本主義で基本まわっており、何も生み出さないことは意味のないこととされる。
本当は意味がない事の中に答えがあるかもしれないのにね。

こういった健康の種類を系統立てて考える事により、自分の生き方が見える。
どれだけ自分の心の中を覗くかということだ。
ボーッとすることにより内在神と繋がることができるかもしれない。
ただし大切なのはバランスであり、何かが100で何かが0というのはダメだ。
霊的健康が大切だからと言って、仕事もせずに毎日お祈りだけするのも違う。
自分の健康にだけ気を使い、その他はどうでもいいというのも違う。
これはひとそれぞれなので、どれぐらいのバランスで生きていくかは各自で決めるべきだ。
「人が言っていたから」「テレビで言っていたから」「あおしろみどりくろというブログに書いてあったから」ではダメだ。

今回の話でやっぱり言いたいことは、今の世の中があまりに目に見える物だけに意識が向いてしまい霊性がないがしろにされているということ。
科学が進むことは良いことだがバランスが崩れ、科学原理主義となってしまっている。
他人のことはお構いなしで自分の利益の為にだけ動く、自分さえよければ良いというエゴがまかり通る。
ひどいものだと「人に騙されるぐらいなら人を騙せ」ということを教える親もいる。
霊性もへったくれもないな。
父親は一昨年死んだが、僕が子供の頃から「自分さえ良ければ良いと思うな」と徹底的にエゴの克服を言っていた。
昭和の頑固オヤジだったが、そんな教育をしてくれたことに感謝をしている。
自分という存在は今は自分だけだが、数多くの祖先の霊によって守られている。
人間とは生かされた存在ということを忘れず、毎日の生活に感謝を持ちつつ今日も生きて行くのだ。


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55歳になった日にブログでも書いてみよう。

2023-07-21 | 日記
誕生日を迎えて55歳になった。
若い時には自分が年を取ることに具体的なイメージがわかなったが、僕がぼんやりと生きている間も太陽は輝き地球はその周りを回り年月は過ぎていく。
自動的に自分も年をとっていくわけだ。
自分自身を見てみて、まずまずの人生を送っているのかと思う。
体のあちこちにガタがきているが、それは年相応の物だろう。
病気もほとんどしないし、山歩きは普通に出来るくらいの体力はある。
スキーもできるが、今年は雪が少なく自分が行くスキー場は未だオープンできないのは自分だけのせいではなかろう。
貯金はないが借金もない。
庭では美味しい野菜も卵も取れる。
最近は山芋、蒟蒻芋、菊芋、里芋が取れて、食物繊維たっぷりの食生活で体の内側から健康である。
人間関係でも不思議なことにイヤな人や付き合いたくない人との接点はほとんどない。
それよりも色々な人とのご縁で楽しい出会いは増えている。
友達はみな生き生きと楽しそうに生きているし、弟子達は僕の言いつけ通り「親より先に死ぬな」と「自分がやるべきことをやれ」を実践している。
家庭内でもたいした問題はなく、娘も大人となり自分の人生を楽しそうに過ごしている。
今のところ、個人的な面では悩みや不安は一切ない。
この先にひょっとすると大病を患うかもしれないし、大怪我をするかもしれないし、破産するかもしれない。
だがそれはそうなった時に全力で対処する覚悟があるので、自分にとって不安の材料にはならない。
こうやって見てみると、良いことづくめではないか。
個人的には何の問題もないが、懸念は社会のことであろう。
特に我が祖国、日本の狂いっぷりには呆れてしまうばかりだ。
政治家と言うものは昔からどうしようもないヤツらだと思っていたが、最近は輪をかけてひどくなっている。
政治が腐敗して人民から金品を巻き上げ大衆を苦しめる、なんてことは古今東西ひっきりなしに繰り返されてきたことであり、今もなお続いているのを見るとニンゲンという種族は学習しない生き物なのかと思ってしまう。
政治家がひどけりゃ、大企業もマスコミもみんなひどいという点では一緒だ。
自分がニュージーランドに住んでいる日本人ということで、目が向くのは日本とニュージーランドだが、世界を見ても規模が大きくなっているだけで構造は同じだ。
偉そうに言っているが、自分も社会を支えている大衆の一部であり、社会が狂っている責任は何十億分の一ぐらいで自分にもある。
世界のあちこちで起きている狂ったニュースを見て憂いを感じることしか自分にはできない。

宗教を広める時に使う考え方で天国と地獄という概念がある。
善い行いをすれば天国に行けるし、悪い行いをすれば地獄に行って苦しむというものだ。
昔の宗教というものは世の中を表す全てのものであり宗教が絶対だった。
宗教は今で言う情報源であり社会規範であり道徳であり科学であり経済であり学問であり哲学でもあった。
今の世の中で人々が信じている民主主義、資本主義、科学信仰から個人の生き方まで、全て宗教が説明してくれた。
逆に言えば個人は何も考えずに、盲目的に宗教のエライ人が言っていることを信じれば良い、そういう時代もあった。
そういうエライ人が言う功徳を積めば天国に行き、悪行をすれば地獄に行くという概念が大衆に広まるのも理解できる。
何と言っても死後の世界は誰にも分からないので証明できない。
この世で苦労している人があの世でも地獄で苦労するとなったらそりゃ報われない。
そうやって長い間、死後の世界の天国地獄の概念で道徳というものができていった。
良い悪いというステレオタイプの思考や、勧善懲悪という全ての人が喜ぶ分かりやすいストーリーもここが原点なのだろう。
今は時代が違う。
宗教の力は弱まり儀式的なものとなった。
それ以上に社会を動かしているものは金であり権力であり情報であり地位や名声や知名度だ。
それを悪いという気はなく、そういうものだと言いたいだけだ。
そして何を言いたいかと言うと、天国地獄はあの世にあるのではない。
イヤひょっとすると本当にあるかもしれないが、それは死ねば分かることだ。
今僕らが生きている目の前の世界が天国にもなれば地獄にもなる。
それは個人個人の思考と行動に表れる。
個人ごとに判断する事柄なので、万人に共通する物差しはない。
ただ今の自分に言えることは、こうやって誕生日の朝に静岡のお茶を飲みながらブログを書き、窓から朝日が差し込のを見て「ああ平和だなあ」などと独り言をつぶやく状況が天国であるのだ。
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内弟子トモヤ

2023-07-05 | 日記
日本から生きのいい若者が来た。
名前はトモヤ 若干二十歳である。
日本の白馬で働き、オーストラリアのスキー場で働こうとしてワーホリを取ってオーストラリアに来たものの、期待していた仕事がダメになった。
メルボルンのバックパッカーで腐っていたが、娘の紹介でニュージーランドの我が家にやってきた。
娘とは白馬のスキー場で繋がっていて、娘と一緒にスキーパトロールの見習いをした。
トモヤからすれば藁にもすがる思いでニュージーランドに飛び込んできたのだろう。
話を聞くと、東京の大学に入ったが、本当にやりたいことはスキーだということで大学を中退し白馬のスキー場で働き始めた。
子供の頃からスキーの競技をやっていたというので、スキーの基礎は出来ている。
これがスキーを全く知らない、スキー業界を知らないという人なら、こちらも考えてしまうが経験者なら話は早い。
何よりやりたいことのために、とりあえず日本を飛び出した無鉄砲さが気に入った。
自分もそうだったが、今では白馬のレジェンドスキーガイドになっているカズヤだって昔はそうだった。
年を取ってくると守らなければならない物が増えて行動を起こすのが億劫になるが、若い時は失う物が何もない。
そういう意味で若いというのは特権なのかもしれない。
若い時の経験は財産、というのはそういう意味も含む。



トモヤが来て色々と話をして思ったことは、真っ直ぐな人間なのだろうと。
これは親の人間性もそうなのだろうと想像できる。
子は親の鏡である。
子供の立ち振る舞いを見れば、親の人生観や生き方もなんとなく見える。
「この世は金が全てで、人に騙されるぐらいなら人を騙せ」という親の人格なら子供もそうなるだろう。
子供というのは親が言うようになるのではない。
親がなるように子供はなる。
きちんと挨拶ができる、目を見て話ができる、玄関の履物を揃える、トモヤのそういった振る舞いを見て弟子となることになった。
内弟子というのだが、師匠の家に住み込みで家事仕事をしながら修行する弟子のことである。
弟子と言っても、僕はスキーの技術や山の技術など教えられない。
そもそもスキーなど人様に教えるほど上手くない。
今まで弟子と認めた人達にもそうだったが、人としてのあり方みたいなところだろう。
先ずは「親より先に死ぬな」そして「自分がやるべきことをやれ」
基本的にはこの二つぐらいだろう。



トモヤがニュージーランドに来たものの雪は降らず、スキー場のオープン予定日が来ても雪不足でオープンは延期となった。
その間、庭でテント生活をしながら漫画の岳を読み、僕が休みで山に行く時には連れて行き、僕が仕事の時には一人で自転車で街を走るというそんな生活をした。
ペールエールを飲ませた時には美味さに感動してこんな美味いビールは飲んだことがないと言った。
確かに日本ではラガーやピルスナー主体なのでエール系のビールは少ない。
なのでラガーとエールの違いから教えることとなり、実際にビール造りを手伝わせた。
食べる物もうちはちゃんとした食材できっちりと作るので、それを見学させ時には調理も手伝う。
全てが修行である。



そんなトモヤが来て三日目だったか、派手な失敗をやらかした。
日本でも運転しているし、国際免許を持っているというので、うちのスバルを運転させた。
バックでドライブウェイから出る時に、庭のフェンスにフロントバンパーを引っ掛けてそのまま引き剥がした。
この時のトモヤの落ち込み具合がすごかったな。
まあ気持ちも分かる。
知らない人の所で寝食の世話になっているのに、さらに車まで壊してしまうというていたらく。
泣きそうな顔で平謝りをするトモヤを見て、可愛いなと思った。
そしてまた愛おしくも思った。
この若者がどう育っていくのか見たいと思った。
子供が育つのには大人の愛が必要不可欠である。
よく子供が「見て、見て」とアピールするのは、愛を求めているからなのである。
大人の愛は、親からの愛が最大なのだがそれだけでなく、祖父母や親戚のおじさんおばさんといった家族の愛。
そして社会においては学校の先生やスポーツチームのコーチ、習い事の先生、隣近所のおばさんなどなど、いろいろな人の愛を受けて子供は育つ。
ホモ・サピエンスという種族は社会で子供を育てる生き物とも言えよう。
それならばこの若者が育つのに自分も一役買うべきではなかろうか。
思い起こせば自分だって子供の時も成人してからも、色々な人のお世話になって生きてきた。
恩返しをするのも良いが、恩送りと言って次の世代にそれを受け継いでいくこともあるのだと、昔働いていた会社の先輩に教えてもらったこともあった。



「申し訳ありません。自分は日本へ帰って働いてお金を作って弁償します」と言うトモヤ。
「ダメだ、それは許さん。お前はここに何をしに来た?スキーだろ?お前がやるべき事は日本に帰ってお金を作ることではない。今まで以上に一生懸命修行をしてスキーをすることだ。」
「でも…」
「デモもストもない。返事はハイだ。分かったか。」
「ハイ、分かりました」
「その代わり、これもネタにするぞ」
「ハイ。ネタでも何でもしてもらって結構です」
「よし、このネタで一生お前をいじってやろう。頑張ってビッグなスキーヤーになってくれ。そうしたら『アイツが若い頃にうちの車を壊してな』とネタにしてやるから」
そんな会話をして話がついた。
これが人を巻き込む人身事故だったり車を廃車にするような大事故ならまだしも、大したことのない車のかすり傷なら勉強代というものだ。
この件でトモヤを責める気は一切なく奴に運手をさせた自分の責任だと思っているし、いつ自分がそういうことになるかもしれないという戒めでもある。
ただバンパーが外れた車というのは見た目がひどく、見せしめのために何日間かそのままにしておいた。



2週間ほど家で弟子見習い期間を過ごし、トモヤはスマイリーズというスキー宿へ移った。
そこで宿の手伝いをしながら、空いた時間にスキーをする
薪割り、ベッドメーク、掃除、皿洗い、などなど全てが修行だ。
そしてまもなく兄弟子でもあるオトシが日本からやってくる。
オトシの事は今までのブログでも書いているのでくどくど書かない。
兄弟子と弟弟子という兄弟関係すなわち上下関係もそこでできる。
構造的に言えば北村聖を頂点とするヒエラルキー構造の一部なのである。
二人とも白馬を拠点に生きる人間なので面白い繋がりになるだろう。
ちなみに白馬のレジェンドスキーガイドのカズヤも今年はNZに来るかもしれないと。
カズヤは僕にとっては弟子ではなく弟のような存在だが、やはり若い頃にヘマをして面倒を見て、生涯奴隷になるとヤツが宣言した。
なので北村家一門の中では(いつから一門になったんだ)カズヤの立ち位置は奴隷ということで最下層であり、弟子のトモヤより下である。
トモヤの双子の弟がカズヤと一緒に働いていて8月ぐらいに来る予定だということで、これまた人との繋がりが面白おかしく成り立っていく。
そんな具合に若いトモヤはただいま絶賛修行中。
師匠としては、車を壊した直後のトモヤの泣きそうな顔を写真に撮って残さなかったことが心残りである。

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SDGsとLGBTに物申す

2023-05-11 | 日記
また炎上しそうなネタを持ってきたものである。
何もそんなネタでやることないじゃん、もっと穏便にさあ、世間に波風立てずひっそりと暮らしていけないものかねえ。
という声が聞こえてきそうだが、思ってしまったことは仕方がない。
思いつつも声を上げずに大きな物に巻かれるのはロックじゃない。
ロックじゃない人生はダサい(死語)じゃないか。
ロックバンドがライブコンサートで観客にマスクさせるのと同じぐらいダサい。
権力をかさに威張り散らすヤツ共に抵抗し、自分の信念を貫くのがロックだと勝手に定義している。
そう思うと死んだ親父はロックだったなあ。
会社とズブズブの関係の労働組合に嫌気がさして、第二労働組合を作りクビになり、それは不当解雇だと裁判を起こし勝利した。
裁判までの期間は解雇という状態だったので、建築関係のアルバイトをして家族を養っていた。
裁判で勝ったからといって当然出世なぞできるわけでなく、最後まで一人のヒラ労働者として働いた。
考えてみればそれってもろプロレタリアじゃん。
あと、今まで書かなかったが父親は一昨年の12月に死んだ。
最後まで痛みが無かったのが救いで、眠るように逝き、大往生だったので良かったねというのが本音だ。
晩年は闘う相手がいなくなったのがつまらなかったようで、孫が大人になって働き始めてからも「労働条件が悪かったら俺が出て闘ってやる」と言っていた。
とことん資本家や権力者と闘争をしたかったんだろう。
ロックだぜ。

ロックな親父の話を書くのではない。
ロックな生き方をしたい自分が気に入らないのが、今流行りのSDGsである。
何が気に入らないかというと、正論を振りかざして自分達の思いのままに社会を持って行こうとする構造が気に入らない。
この正論というのが厄介なもので、正論は正しい論であるから常に正しい。
それを元に議論をしても絶対に勝てない。
これはSDGsだけの話でなく、巷にありふれていることだ。
そこに見えるのは正論というものを隠れ蓑にしている強者の支配だ。
社会的弱者、少数派などの事を救うような事を言いながら、違うことをやっている。
これが感覚で何となく分かってしまうので、今回ロックに書いているのだ。
SDGsという言葉も手を替え品を替えで、今まではエコとかロハスとかそんなような言葉で流行らされてきた。
内容を見てみると、貧困をなくそうとか、自然を守ろうとか、不平等をなくそうとか、パッと見はもっともな事を言っている。
だからこれに反対する意見を言えば、社会の敵であり悪者にされてしまう。
それが正論を振りかざす、という構造、いやそれはむしろ暴力とも言える。
プロパガンダと言うものを勉強して、面白い話を聞いた。
戦争が始まる時に権力者が言う事は皆同じなんだそうだ。
「自分達は戦争を望んでいない。だがここで戦わないと敵にやられてしまうので仕方なく戦うのだ」
これは洋の東西を問わず、昔から同じ事を言っている。
要は自分は正しく相手が間違っている、だから戦う。
そうやって自己正当化しているわけだ。
これは国の戦争でも内戦でも、些細なことでは家庭内の離婚調停でも同じことだ。
そうやって自己正当化するには、何かしら人が満足する理由が必要だ。
第二次世界大戦でヒットラーがやったことは、国民の感情を煽り自分達が窮屈な想いをしているのは相手が悪いからだという名目で戦争に突っ込んでいった。
このままでは自分達は奴隷になる、というような人間の恐怖心をあおったのだ。
人間は恐怖にかられると冷静な判断ができなくなる。
これも直近の3年間の社会の動きを見ても分かるだろう。
第一次世界大戦で負け火種がくすぶっていたドイツでは、「悪いのはイギリスフランスなどの敵国」が正論となってしまったのだ。
もちろんまともな人もいたが、そこは数の大小で少数意見は大衆によって蹂躙された。
社会が混乱している時の民主主義とはこういうものだ。
日本だって同じことだ、『戦争に行くのは立派なこと』が正論となり、生きて帰って来いというごく当たり前の感情を口に出せば非国民として社会からはじかれた。
誤解のないように書いておくが、戦争に行って死んだ英霊をくさす気持ちは全くない。
これはどの国の人もそうだが、全て自分なりの正義のために戦い死んでいった。
あくまで社会の構造の話であるので勘違いしないように。
こうやって今だから冷静にその当時の人たちのことが見えるが、時代の渦の中にいたら全体像は見えにくい。
今も全く同じだ。

話を元に戻すと、正論や正義というものは、その時代背景や社会情勢によって変わるものということを言いたいのである。
そしてそれを知りつつ利用している人もいる。
知らないで使っている人もいる。
そういうものだ。

もう一つの言葉でもあるLGBTでも賛否両論はある。
でもここでもやはり同じように正論を振りかざし、巧みに論点をずらし自分達の望む方に舵取りをしたいという動きが見える。
男女の差別をなくそう。性別において少数派の人の権利を守ろう。
全くもってグウの音もでないほどの正論である。
これに対し少しでも異論を唱えようものなら、お前みたいなのがいるから社会は良くならないんだ、と非国民の扱いを受ける。
正論を振りかざす暴力というのは今も全然変わらない。
そして当事者が望んでもいないような物を作りシステムを作った結果、新たな問題が生まれた。
どこぞの国では自分は女だと言い張る男を女子刑務所に入れたらレイプをしまくった。
心は女だという男の世界では勝てない筋肉ムキムキのスポーツ選手が、女の大会に出て優勝賞金をかっさらっていった。
女風呂に心は女だと言い張るオヤジが入っていく。
結局のところ、女の人の人権は蹂躙され新たな被害者が生まれる。
自己申告制というのが大きな問題の一つである。
ウソを言っているやつはどうなる?
そういう奴が絶えないから、本当のところの少数派の人たちも疑いの目で見られることになるだろう。
だが人間は新し物好きで流行に弱く、とんちんかんな事をやって自分は仕事をした気になっている。
差別と区別は別物である。
そこを混同してはいけない。
男には男の、女には女の、トランスジェンダーには彼らなりの役目がある。
そして自己申告制で新しく出たのがトランスジェンダーならぬトランスエイジというもの。
実年齢は39だが心の年齢は28だと。
だから自分は年相応の事ができない、というのが当人の言い分だ。
それを認めてしまったら社会は崩壊する。
いやはや、おかしな世の中になったものだ。

為政者が制度を変えてみても、社会というものが追いついていなかったら機能しない。
逆に新たな問題が生まれる。
社会的弱者を守るという正義の味方のような目標を打ち出しても、車椅子の人はいつまでたっても満員のエレベーターに乗れないし、盲人用の点字ブロックの上には今日も自転車が放置されている。
人権というものが拡大されている一方で、別の人の人権は守られていない。
人権とは何かを考える上で、どこまでという線引きは必ず付随する問題である。
そしてこれは社会、経済、暮らし、生き方、などなどいくつもの要素と絡み合う問題なので、そこだけを見ても解決しない。
どうすればいいのかは分からない。
分からないが、なんとなく気に入らないぜ。
最後に死ぬまでロックだったキヨシローの唄の一節を借りて文を締める。

あー 世の中が悪くなっていく
もう誰にも止められないのか







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元気と病気

2023-03-08 | 日記
今回は『気』の話である。
気とはいろいろな意味があるが、大まかに言って二つに分けられると思う。
一つは空気の方の気、気温、気象、大気、気体、気圧、気候、寒気、電気、そういった科学で分かりやすい空気の気。
もう一つは人間が持つ精神的なもの、時にスピリチュアルな意味も含む、エネルギー体という気。
気分、元気、病気、気持ち、短気、気力、本気、生気、男気、勇気、雰囲気、気性、平気。
本当はもっと細かく分けられるがあまり細分化するのもナンだし、おおまかに二つに分けたうちの後者の話である。

タイトルにもあげた病気も元気も人が持つ『気』である。
病は気から、という言葉もある通り、気が病むことで病気になる。
心と体は密接な関係があるので、体の具合も悪くなって寝込んでしまう。
人は何かにすがって生きていきたい生き物である。
昔はすがる物が宗教であり、この世の全てを説明してくれたのが宗教だった。
この宗教観は今の世のそれとは全く違うものであり、想像するのが難しい。
例えて言えば、今の民主主義、資本主義、貨幣経済、物理化学や数学や天文学などありとあらゆる学問、親孝行しなさいといった道徳的なものまで、僕らが生きている上で基盤となっている全てのものが宗教だった。
宗教の言っていることは全て正しくて間違いはなく何も考えずに信じていればよく、異論を唱える者は処刑された、そういう時代もあった。
時が経ち新大陸の発見や科学の進歩など宗教で説明できない事柄が多くなり、人々は宗教以外の物として科学というものを信じるようになる。

科学は進化し、やがて人類は合理性や利便性を追い求めるようになった。
その側面には戦争というものがある。
戦場ではいかに効率よく動くかが勝敗の鍵を握る。
攻撃や防御という実際の殺し合いの現場もさることながら、新兵器の開発や生産、人員の移動や物資の配送まで、全ての現場で合理的で効率を求められるもの、それが戦争だ。
南米インカ帝国と征服者スペインの間で戦争があったが、インカ側では夜に戦うという風習がなかった。
それを利用してスペイン側は夜に奇襲をかけて戦いに勝った。
どちらが愚かでどちらがずる賢いという話ではない。
合理的な者が勝つのが戦争だという話である。
以前のお客さんで軍事に詳しい大学の先生がいて、『日本軍の小失敗の研究』という本を出していて面白い話をしてくれた。
日本が戦争に負けたのは大きな失敗がたくさんあるのだが、歴史に出てこない小さな失敗も数多いと。
一つ例を挙げると、戦車の操縦マニュアルが日本軍は漢字で書いてあり、それを学ぶには先ず漢字を勉強しなくてはならない。
それに比べアメリカ軍の操縦マニュアルはマンガだったそうな。
戦車を操縦するということにおいて、どちらが早く覚えられるかは明白だ。
これが全てではないが、一事が万事ということわざもある。
精神論は大切だが、合理性を無視しては戦争には勝てないということだと思う。
世界大戦が終わっても世界は競争社会であり、強く早いものが勝つという構造は変わらずに合理性を追い求めた延長線上に今がある。

信じるものが宗教から科学となり、世界は科学が全てと極端に全振りする。
科学で解明できないものはインチキでオカルトでハッタリだ、と言う教授がテレビでもてはやされた時代もあった。
今はそこまでひどくはないが、科学が信仰のような扱いになっている場合も多い。
科学が信仰された側面には統計学がある。
統計学とは一言で言うと数値で表す世界だ。
科学の発展に数値で統計を取り分析して結果を出すというプロセスがあり、それを批判するわけではない。
数値やグラフを見ればどういう状況かとても分かりやすい。これを有効利用しない手はない。
ただ気をつけなければいけないのは、数値を信用しすぎて踊らされることである。
現代の西洋医学の基となっているのは科学と統計学ではないかと思う。
検査をして数値がおかしいとなれば病気だと断定されてしまう。
痛くも痒くもなくても、お医者様が病気だと言えば本人も病気だと思ってしまう。
挙げ句の果てには「自分は◯◯病だから」と言い切ってしまう。
こういう人は心の奥で、カテゴライズされたがっているのかもしれない。

ちなみに僕の考えでは西洋医療は基本的に対症療法であり応急処置であり戦場医療だ。
得意な分野は切ったり貼ったりの外科手術や、抗生物質などの薬で症状を抑える対症療法だ。
基本的に西洋医学はほとんどの病気を治せない。
病気を治しているのは本人の免疫システムや体力や気力などであり、対症療法はその助けをしている。
ここを理解しないとここから前には進めない。
医者が見放した患者が自分で病気を治した例は多々ある。
だからと言って東洋医学が全てだとも思わないが、東洋医学的考え方の方が病気の根源を見ているような気がする。
どちらも全肯定しなければ全否定もしない。
それぞれの長所を取り入れれば良いだけの話で、大切なのはバランスだ。
一つ言いたいのは東洋だろうが西洋だろうが病気になったら医者に行く、医者の言うことさえ聞いていれば良い、という考えから抜けなければなにも始まらない。
あくまで病気を治すのも病気になるのも自分であり、医者はその手助けをするのだ。
そういう意味で友達の星子がやっている『自分のカラダを自分で治す』というやり方は良いと思う。
興味がある方は覗いてみて欲しい。
これは考え方の話であり、さらに進んで生き方の話でもある。
誰かの意見にすがって生きて行くのか、自分で考えて人の意見を聞いてみるのかでは大きな違いだ。

最近は全ての分野において細分化が進み専門家の意見を聞く機会が増えた。
ここにも僕は問題があるのではないかと思う。
確かに専門家の意見は大切だが、これも盲信してはいけない。
専門家ゆえに陥ってしまう落とし穴のようなものも存在する。
だが今の世の中は、専門家の言うことは全て正しい、という前提で全てが進んでいる。
もっとひどいものだと、マスコミなどは積極的に自分たちが流したい専門家の意見を利用している。
専門家の意見だから素直に聞く、という態度を改めなくては何も始まらない。
専門家だって人間だ。間違うことだってあるだろう。
これもバランスの話になっていくのだが、100:0となってはいけない。
それはシーソーで言えば、片方が重すぎて全く動かなくなってしまった状態だ。
どんな意見を聞こうが、「そんな事は絶対にありえない」と一蹴して相手を論破する。そういう人っているな。
99:1で良い。
たとえ少しでもシーソーが動けるような状態、どちらかに大きく傾いてはいるが止まってはいない。
ユラユラと行ったり来たり動きながら中庸を模索するのが良かろう。

ここでやっと『気』の話に戻る。
気とは未だに科学で解明されていない分野だ。
漠然とは皆が感じてはいるが、科学的でないという理由で取り上げてもらえない事が多々ある。
それよりも数値で分かる科学を信仰する人は多い。
科学が進んで生活が便利になるのは良いが、進みすぎてしまい方向性を見失ってしまっているのが今の世の中だ。
科学の発展が進みすぎて愛とのバランスが崩れたときに、社会は崩壊する。
愛という存在は大きすぎて一言では表せられないが、気にも通じるものだ。
気とは思考であり、生き様であり、内在神であり、エネルギーであり、バランスであり、愛である。
なんかよく分からんね。
でも全ては気の持ちようで考え方と言っても良い。
病気にならないようにと考えるか、元気であるという事に焦点を当てるか、似て非なるものだ。
反戦運動と平和活動の関係に近いものがある。
反戦運動は先ず始めに戦争ありきでそれに反対するものだ。
どこまで考えても前提条件に戦争というものが存在するのでどれだけそれを否定しようが戦争はなくならない。
平和運動は平和というところに焦点を当て行動し、その結果なのか過程なのか戦争が無くなる。
たどり着く目的は同じように見えるが、プロセスは完全に違う。
昔は結果が全てだったが今は、そのプロセス自体に意味があると考える時代だ。
結果はあくまでも結果であり、結果が全てという思考から抜け出す時が来ている。
今の自分が持っている気というものに焦点を当てて、それを信じてみないか。
何処かの誰かが言ったことでなく、自分の中から湧き出る言葉に耳を傾けてみないか。

最後に最近聞いたコテンラジオの言葉を引用して、とっちらかったこの話を締める。
自分たちが今現在生きている社会が持っている絶対視や絶対感を絶対だと思い込んでしまう危うさ。






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日刊ココちゃん

2023-01-11 | 日記


それは何となく、本当に何となく始まった。
女房が書いた飼い犬ココの、生死をさまよいましたというイラストをフェイスブックに載せてみた。
特に理由があったわけでなし、そのイラストもだいぶ前に書かれたもので、たまたま目に付いただけで載せた。
そんな絵をいきなりコメントもなしで載せたものだから、よく知ってる友達はてっきりココが死んだと思ったらしい。
まだ元気ですよ〜という意味も込め、その後に毎日一枚ずつ絵を載せ始めた。
女房がサラサラっと書くイラストは、シンプルで可愛くて、人の心を和ませる。
絵心の無い僕から見ると、大した才能だなあと感心する。
絵だけでなく、そのイラスト内のココのつぶやき、そして人間の声の黄色い吹き出しも含めて作品なのだが、こういうのはセンスなのだとつくづく思う。
センスの無い人がいくら頑張っても出来ない事を、センスのある人はいとも簡単にやってしまう。



見よう見まねで始めたインスタグラムで投稿をするとフェイスブックにも連動でき、それまでの友達がいいねをしてくれた。
いいねの数がだいたい20〜30ぐらいなので、それぐらいの人しか見ていないと思っていた。
しかしそれまでいいねをしてくれなかった人達に実際に出会い「ココちゃん、いつも見ていますぅ」という声をいただくことが結構あった。
そうかぁ、自分も人の投稿を見て、好感を持ってもいいねを押さないこともある。
いいねの数以上に作品を良いと思ってくれる人がいることに気がついた。
中には「毎日同じ絵でいいから投稿してくれ」なんて事を言ってくれる人もいたが、まさかそういうわけにもいくまい。



圧倒的に多いのは癒されるという声だ。
おいみんなそんなに病んでるのか?
確かにココは癒し系のキャラであり、実生活でも癒されるし、我が家を訪れる人もよっぽど犬が怖いという人を除けばみんなが気軽に頭を撫でる。
そんな癒し系のココと一緒にたまに僕が出てくる。
作品の中では、左右で靴下の色が違うおじさん、というのが僕の立ち位置のようである。
靴下に穴があいてたり、だらしなく寝てたり、オナラをしたり、まあ本当のことだから仕方がないが、そういう役割だと思ってあきらめよう。



イラストの総数は100を超え、良い出来のものもあれば普通のものもあるし、当然ながらボツになったものもある。
ニワトリを殺した時のように、我が家の出来事を赤裸々に表した作品もあった。
面白いのは自分達が良いと思ってもそれほど人気がなく、大した事無いと思う作品が人気だったりする。
日刊とうたっているので1日1作品を目標にやっているが、時々ネタ切れをする。
女房画伯先生が言う「君ねえ、そんなに描け描けと言われても、描けない時は描けないんだよ」
編集者の僕「先生、そこをなんとか!全国1200万の日刊ココちゃんファンが先生の作品を今か今かと待っています」
「そんなこと言われても描けないんだから仕方ないじゃないか。なんなら君が描いてくれたまえ」
「先生、そんな事をおっしゃられても困ります。私はしがない編集者ですので。どうか頑張ってください。締め切りも迫っていますので」
「フン、クリエーターの気持ちが分かっていないね、君は。大体君が勝手にこの企画を始めたのだろう。」
「それはそうなんですが、先生、そこをなんとかお願いします」
というような夫婦漫才をしつつもなんとか続いている。
編集者の僕が見ても(いつから編集者になったんだお前は)日刊ココちゃんはとてもいい出来だと思う。



今のところ、僕の友達の間でしか知られていないが、なんとか世に出したい。
最初に考えたのは、日めくり。
それって365枚も描くのか、さすがにしんどいかな。
でも日めくりって、めくる所は数字だけで絵が描いてあるのはその上の一枚だけだよな。
カレンダーなら12枚プラス表紙ぐらいか。
よく言われるのは「絵本にしてみたら?」
それもいいかも、でも編集とか製本とかそういう知識も経験も資金もない。
自分で本を作るか?
経験は無いと書いたが、20年ぐらい前に『あおしろみどりくろ』の本を出したことがある。
5つぐらいの話を自分で印刷して、その紙に穴を開けて、表紙と裏表紙はやや厚めの色紙を使い、ひもを通して縛り、自分だけのオリジナル本を作った。
この世に30冊ぐらい存在する。
若い時は勢いでそんな事もしたが、それも何か違うな。
ネット上で売り出すというやり方もありそうだし、たぶんその辺りで新しい何かが見つかるかもしれない。
自分にできる事とは、女房画伯先生にお願いしてイラストを書いてもらいせっせとアップすることぐらいか。
バズらなくとも数十人か数百人かの心を和ませている。
僕のポッドキャストよりはるかに多くの人の心に届いている。
それが一隅を照らすってことなのかもしれない。
ちなみに話は変わりますが、本物のココちゃんは茶色です。



コメント
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