あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

収穫という作業

2014-05-31 | 
今年はリンゴがよくできた。
全部で100以上も大きな実ができて、あまりの多さに枝はしなり木が倒れそうになった。
なので間引きを兼ねて早い時期に半分ぐらい収穫した。
残りは木で熟させ赤くなったものから食っていった。
一度に収穫をしてしまうのでなく、その時に食べる分だけ取った。
このりんごが旨いのなんのって、妻曰く「今まで食べたリンゴで一番旨い」と。
僕もそう思った。
何よりリンゴの中の蜜がすごい。
リンゴを甘くするために蜜を注射する、なんて話を聞いたことがあるが我が家のリンゴはそんなことしなくても蜜がたっぷりで甘い。
個体によっては甘すぎるぐらいだ。
贅沢な話だな。



リンゴの木を買ったのは3年前か。
品種はフジ。
フジという品種は富士山のフジだと思われがちだが、本当は青森県の藤崎町のフジなのだと青森が選挙区の元厚生大臣が教えてくれた。
最初の年は3個ぐらい。
去年は15個ぐらい実がなった。
そして今年は枝がしなり木が倒れそうなぐらいに実をつけた。
間引きをして残ったものは日が良く当たるように回してあげた。
肥料は堆肥を作る時に出る液肥を時々根元にかけてあげた。
枝が混み過ぎないように剪定もする。
人間と植物の関係は、どれだけそこに目を向けてあげるかだと思う。
放っておいて育つ木もあるが、気持ちを込めて水遣りをしたり声をかけてあげたり枝が折れないように支えたりという人間の気持ちからくる行動も重要な要素だと思う。
そして収穫は食べる分だけ。
これが大切だ。



新鮮というのは最大の旨さである。
野菜でも果物でも取り立てというのは文句なしに旨い。
物によってはすぐに傷んでしまうものもあるし、割と長持ちするものもある。
長持ちするからとつい食品庫などで保存をしたくなってしまうが、できることなら食べる分だけ採るというのが理想だ。
理想だが効率は悪い。
特に産地と消費地が離れている場合にはそれは不可能だ。
我が家の場合、リンゴを取りに行くまでかかる時間は30秒ぐらい。
なのでこれができる。
そしてこうやって食べる分だけ採っていると、自分が育てた木と言えど自然からの物を頂く謙虚な気になる。
そして次に出る感情は感謝だ。
1回で収穫を済ませてしまえば楽だし効率は良いだろう。
だが効率の良さを追い求めた結果、世界はどうなった?
人間とは何とか楽をしようと色々な工夫を凝らし文明という物を築きあげてきた。
だがやはり今の人類に、何か大切なことを失ってしまったという気がぬぐえない。
原点に戻り、食べるものを自然から戴く喜び。
新鮮で旨い物を食べる感動。
これが毎回の収穫で味わえる。
家庭菜園だからこそできることがある。



そうやってリンゴを毎日食べているうちに残りのリンゴが3つになった。
旬が終わろうとしている。
短い秋が足早に過ぎ去り、冬がやって来る。
だが家のリンゴが無くなったらお店でいつでも買える。
便利な世の中だ。
時々思うのだが、「ここまで便利じゃなくてもいいのになあ」と。
全てにおいて効率は良くなったが、同時に失われた物も多い。
しかしそれを知りつつ生きるのも人間。
便利ならば便利な事に感謝をしよう。
こうやってブログが書けて写真が乗せられることにも感謝ですな。
ありがたや。

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消費社会。

2014-05-30 | 日記
家のパソコンが壊れた。
いきなりネットが繋がらなくなった。
手持ちのキンドルは使えるので、明らかにパソコンに問題がある。
このブログはキンドルで書いている。

いよいよ来たか。
家のパソコンはXPなので、いつどうなってもおかしくない。
最近では変な音も時々する。
「そんなのウダウダ言ってないで新しいのを買えばいいじゃないの」
確かにそれも一理あるが、ウダウダ言わせてくれ。
僕がパソコンでやることなんてたかが知れている。
メールのやり取り、ネットを見る、写真の管理、ブログを書く、それぐらいのものだ。
僕自身は今のXPでも何も困らないのだが、時代の流れがそれを許さない。
どんどん新しいものにしなさい、と強制されているような気がする。
使えるものを使う、という人間にとって当たり前の事ができない世の中になっているのか。
いやいや待てよ、人間とは頭を使う動物だ。
ピンチはチャンス。
今ある状況で何とかならないか。
手元には友達から貰ったキンドルがあるのでこれでネットも見れるしブログも何とか書ける。
まだやっていないがメールのやりとりだってなんとかなるだろう。
動画は見れないが、女房はipadを持っていてそれで動画を見ているので何とかなるだろう。
写真の整理は今までのパソコンでも充分できる。
おおお、これは大丈夫か、とおもいきや。
写真をメールで送れない。
ブログに写真を乗せられない。
あああ、やっぱりダメなのかあ。
こんな時に、涙という字が入るんだろうな。

さて、
どうすんべかな。
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庭のニワトリは旨かったぜよ。後編。

2014-05-27 | 
さていよいよ楽しい調理の時間だ。
先ずは手羽を塩コショウでシンプルに焼いてみた。
感想は・・・・・・・・・固くて固くて。
肉が歯で噛み切れない。
ゴムを噛んでいるような、という形容があるがまさにそれ。
現代人のあごが退化して噛む力が弱くなったのか、それともやっぱり肉が固いのか。
僕はかろうじて一切れ飲み込んだが、娘も女房もギブアップ。
食べ残しはそのまま犬のココのご飯になった。





人間には知恵がある。
固い肉ならば食べやすいようにすればよいのだ。
残りの肉を骨から外しそれを包丁で叩いて挽き肉にした。
そこに卵としょうがとネギを加えつくねを作った。
最近寒くなってきたからな、こんな時はみんなで鍋をやりましょう。
というわけで友達のサムの家でつくね鍋。
サムはブロークンリバーのマネージャーをやっている人で日本人の奥さんに1歳の男の子がいる。
家の近所に住んでいて家族ぐるみでなんやかんやのつきあいがある。
ちなみに深雪がこの前日本へ一人で行くのに一緒に飛行機に乗って付き添ってくれたのがサムだ。
パケハ(白人)だが(というのも偏見なのだが)味覚は鋭く料理の腕も良い。
庭で野菜を作っていたり、ビールも自家製と、なにかと馬が合う人なのだ。
肝心のつくねの味は、これがもう絶品。
包丁で叩いてあるので固さはなく、肉自体の味が良くて変なくせもない。
骨からとったスープも旨く、野菜と鳥のシンプルですっきりした味だ。
野菜でも肉でも健康なものは味も良い。
結局5人で鶏2羽分の肉を食いきってしまった。





自分の鶏で楽しみなのが臓物。
薬とか人工的なものを一切与えていない、ヒナの時から育てた鶏の内臓である。
食べる前から旨いのは分かっているが、どうやって食おうかなと考えていた。
そんな時にオノさんからキャンプの誘いがあり、アーサーズパスに1泊のキャンプに行った。
そこはシェルターという避難小屋で、暖炉がありおおっぴらに焚き火ができる。
車で入れる場所なので、豪快に七輪で炭火焼バーベキューで食っちまおう。
その晩は庭のネギ焼き、ピーマン焼き、焼き茄子、そしてカルビ焼肉、地元の肉屋の荒引きソーセージ、そこに我が家の鶏のレバーとハツと砂肝の塩焼きという豪勢な焼肉だった。
お酒もビールから始まり赤ワインへと、そしてたまたまそこへ居合わせた山歩きのオジさん3人を巻き込んで飲めや食えやの宴となった。
そこで出会った人達の一人は日本人で、10歳ぐらいの時にNZに来て40年ぐらいという大先輩。
しかも話を聞くと静岡の清水出身、それも草薙という僕が通学の時に通っていた所の出と、まあ驚きの出会いがあったのだ。
その人はオークランドに住んでいる写真家、スタジオを持っていて普段は忙しいが1年に何回かこうやって友達と山歩きをするそうな。
まあ向こうもびっくりしたろうね。
アーサーズパスの国道から離れた普通の人が行かないような場所へ来てみれば、日本人二人が七輪で純日本式炭火焼肉をやっているのだから。
「こんな所で清水の人と出会うなんてねえ」
酔っ払って何回そんな事を言ったのか覚えていないが、これも人の縁。不思議なものだ。
話がそれたが、臓物は文句なく旨かった。
砂肝もハツもレバーも存在感はありクセがない。
各部位ごとの旨さの違いという物が堪能できた。
これも健康な鶏ならではのものだ。





鶏の肉は堪能したが、まだこれで終わりではない。
2羽分のガラが残っている。
大きな寸胴鍋にガラを入れダシを取った。
一緒に煮込んだのは庭にたっぷりとある長ネギの葉っぱ、そして卵の殻も一緒に煮る。
卵の殻はダシも出るしアクも取るのだ。
1日かけてコトコト煮て、アクを丁寧にすくう。
上に溜まった油もすくってニワトリの餌に混ぜてしまう。
それを漉して綺麗なスープができた。
そのスープで炊き込みご飯。山小屋が忘れられない味と称したチキンライスだ。
お米はジャスミンライスで、しょうがとにんにくをたっぷり入れての我が家のチキンライスはこれまた絶品だ。
その晩のスープはワカメとネギを入れたかき玉スープ。こちらはあっさり塩味。
この鶏ガラスープの味も、普段肉屋で買う鶏ガラと違う。
コクがあってクセがない。
さすが我が家の鶏だ。骨まで好い味が出るぜ。
このスープにさらにキャベツの芯や人参の切れっぱしなどの野菜、ニンニク、しょうが、月桂樹などで野菜のダシを取り、それでカレーも作った。
こうなると鳥自体の味は分からなくなるが、それでもベースが旨いのでカレーも旨い。
たっぷりスープを取って、使い切れない分は冷凍保存。
これでラーメンを作ってもよしシチューもよし、何にでも使えるスープなのである。

スープを取った後のガラは犬の餌。
家の犬は鳥の骨も普段はバリバリと食っちまう・・・のだが今回はどうも勝手が違うようだ。
骨が固いのか噛み砕けないようで、きれいに骨だけ残した。
確かに残った骨を見ると固い。
市販の鶏肉の骨とは明らかに違う。
ナルホドね。
卵の殻が弱かったのでカルシウムが足りないのかと、鶏の餌に貝殻を砕いた物を混ぜて食べさせた結果がこれか。
まあこの固い骨も庭の隅に放っておけば風化して土に還るか、もしくは思い出した頃にココがカリカリとかじるだろう。
実際に家の犬は食べ残した骨をどこかから引っ張りだしてきて時々かじっている。

かくして2羽のニワトリは全て僕と家族(犬と鶏を含む)それに友人達の胃袋に収まった。
名無しの2羽が産んでくれた卵は何百個になるか。
これも我が家の食卓だけでなく友人達の食卓をも賑わせてくれた。
関わる人が全て幸せになる、というのが真実の愛である。
逆を言えば不幸せな人が存在するシステムとは愛に基づいていない。
今回この肉を食べた僕達家族や友人達は全て笑顔で美味しいと食べてくれたし、卵の貰い手も皆喜んでくれた。
これを読んでいる人の中にもこの卵を食べた人がいるだろう。
こうやって僕達の生は他の生き物の死の上に成り立つ。当たり前の事だが、一番大切なことだ。
それをこうやって自分の手で何から何までやることにより再確認できた。
今はただ、この2羽に感謝をするのみである。
ありがたや。





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庭のニワトリは旨かったぜよ。前編。

2014-05-25 | 
タイトルどおりニワトリを食っちまった話である。
それだけだと一行で終わってしまうが、そこはそれ、あーたいろいろありまして、涙あり笑いありの日常日記の始まり始まり~。

僕は自給自足を目指す生活をしている。
だが今の世の中で完全な自給自足は不可能だ。。
無人島に一人で洞穴に住んで、というならば話は別だがクライストチャーチで人並みの生活をしてとなると自給自足は無理だ。
第一、電気を作れない、ガソリンも作れない、その他もろもろ、何かしら誰かが作ってくれた物を消費して僕らの生活は成り立っている。
でも完全な自給自足は無理でも何かしら自分に出来る事でそこに向かう事はできる。
ここが大切、『自分に出来る事』これは自分自身を見つめる内観の第一歩である。
自分で方向を決めたら行動。とにかくやってみる。
常に行動ありき。
見ているだけでは野菜は育たない。
我が家では野菜はほとんど庭から取れるし、せっけんも作っているし、卵も自家製である。
味噌作りなども自分でやったこともあったが、いかにせん自分の行動には限りがある。
なので味噌は友達が作っている味噌を買わせてもらっている。
他にもやっている事はいろいろあるが、できるだけ自分で作ったものを消費して生活をしようとしているわけだ。



動物性たんぱく質を自分で取りたいなと常々思っていた。
猟銃を持って山へ行きたいが、これ以上趣味を増やすわけにはいかん。
魚を釣るという選択肢もあるが、僕は釣りはヘタクソだ。
近所にいる鴨とかをマオリ式に捕まえて食っちまおうかと真剣に考えたこともあった。
やるならそれよりも身近にいるヤツ、家のニワトリからだろう。
ボスのミカンが殺されて、残ったのは5羽。
最近まで3個卵を産んでいたが今は2個。
5羽のうち、卵を産みそうもない2羽を締めることにした。
ニワトリを絞めるのは初めてではない。
以前飼っていたニワトリが卵を産まなくなったので締めて羽根をむしるところまでやったのだが、どうしても食う気になれずに友達のマサにあげてしまった。
その鶏には名前を付けてしまったのが敗因だ。
教訓 自分が食べる物には名前を付けるべからず。
今回の鶏は名無しだし、買って家に来た時に「いずれお前達を食べます。それまで卵を産んでください」とお願いしてあるので多少気が楽だ。
今回は締めて捌いてそれを調理して食うところまで、全て自分でやってみようと心に決めた。



あたりをつけた2羽を捕まえて、羽根をクロスして縛り足を縛り木にぶら下げる。
最初は首を持ち上げていた鶏も頭に血が回ると首がだらんと下がる。
その頭を掴んで包丁で首元を切るのだが、羽があるし皮が固いので恐る恐るやっていても切れない。
「スマン、オマエ達に罪はないが許しておくれ」
覚悟を決めてエイっと切る。
鶏はほとんど暴れずにたらーっと血を流し静かになった。
僕はその間、手を合わせ拝み、うろ覚えのお経を唱えた。
さっきまで元気だった鶏が僕の一存であの世に行った。
鶏でさえこうなのだからもっと大きな動物を殺す人の心境はどうなのだろう。
ほとんどの人は自分で食べるものを自分で殺すことなく生活をしている。
僕もそうだ。
だがどんな人でも小さな虫なら殺す。
それに植物を簡単に殺す。
植物の死、虫の死、鶏の死、動物の死、そして人間の死にどんな違いがあるのだろう。
僕達の生は数々の生き物の死の上に成り立っている。
全ての人に自分で殺して食え、とは言わない。
だが殺生があり、その上に自分の命があることを忘れてはいけない。





感傷に浸るのもつかの間、作業に入る。
二羽のニワトリを木から下ろし、バケツに熱いお湯を入れそこに漬けて羽根をむしる。
むしる、毟る、ひたすらむしる。
むしるという言葉は、何か小さくて密集しているものを引き抜く作業だな。
草むしりが一般的だが、毛をむしり取るなんてのはちょっと痛そう。
鶏の羽根をむしるのは、あまりやる人は多くないはずだ。
そんな事を考えながら、ひたすら、一心不乱、一生懸命、我武者羅にむしる。押忍。
これを書いて初めて知ったのだが、むしるという字は毟るなのだな。
小さい毛か、ナルホドね。
経験、是すなわち財産。
40半ばでもいろいろな経験をするのは素晴らしいことだと思う。



ここから解体作業である。
鶏の頭と足を切り落とせば、見た目にはもう肉屋で売っている鳥肉と変わらない。
頭と足は火を通して、犬のおやつに。
肛門の周りを切り取り、はらわたを抜き出す。いわゆる中抜き。
そして内臓の処理。
これはあまり気持ちの良い作業ではないがやるしかない。
これも経験。
見よう見まねでやったのでレバーをつぶしてしまったがなんとかできた。
そして二羽めを解体中に思わぬ発見。
なんと内臓から卵のできかけのものがころころとでてきたのだ。
あちゃー、やっちまったか。
この種のニワトリは一度産まなくなると再び産む事はほぼない、と何かで読んだのでてっきりそれだと思って締めてしまったが・・・。
しかも黄身の大きさから言って、あと一日二日で卵になったようなものなのに。
悔やんでも仕方ない、出来かけの卵も全て食おう。
そういえば子供の頃、近所の肉屋で卵のできかけのものとか卵管とかを煮しめて売っていたな。
アレを作るか。
内臓を取り出したら大まかに分ける。
自分が食べる物と食べない物。
自分が食べる場所は、砂肝、レバー、心臓、卵管と卵。
それと別にモツをはじめ、その他どろどろした部分。
モツは開いて中のウンコを洗い流しきれいにして、その他と一緒に茹でて小さく切って生き残った鶏にあげた。
これは人道的に賛否両論あるかもしれないが、この場合は自分が法律である。
僕の考えでは鶏達はすでにあの世へ逝った。
あとはたんぱく質の塊だ。
それを無駄なく使うのが自分のやり方である。



解体作業は続く。
まるの鳥を捌き、手羽、胸肉、腿肉、ガラに分けていく。
この辺までくると普段やっていることなので勝手は分かる。
だが2羽の鳥を捌くのは手間がかかる。
臓物をさばけば臭いし、それを洗ったり、それなりの容器を使って洗ってを繰り返し、とにかく手間はかかる。
2羽の鳥を絞めてから調理に使えるように捌くまで、なんだかんだで1日作業だ。
そうやって考えると店で売っているのを買うのって楽だ。
それにこの労力を考えたら安いと思う。
物を高いと言って嘆くか、安いと思い感謝するか。
僕は後者でありたい。



後編へ続く
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昔からの言葉

2014-05-23 | 日記
今回は毒を吐く。
だいぶ前に書いた話だが、友達に見せたら「ネガティブだ」と言われお蔵入りになりかかっていた話だ。
あらためて読み返したら面白かったので、毒を増して話をのせる。

先日、友人と話していてこういう話を聞いた。
とあるツアーではお食事会があり、その時にサービスとして最初のドリンクが無料で配られるとのこと。
ある年配のご婦人が聞いたそうな。
「ビールとワインはどちらが高いですか?」
「それはワインですね。」
「では一番高い物を下さい。」
「・・・・・・」
そんなこと言われたらゴルゴ13でなくても「・・・・・・」になってしまうだろうに。
ゴルゴ13でない友人はボクに言った。
「俺はなんて言っていいか分からなかったよ。『一番美味しいワインを下さい』ならまだ分かるけど『一番高いものを』だぜ。あっけにとられていたらさ、周りの人が『私も』『それなら私も』って次から次へと言ってきて。まあ仕方ないからそれを注文したけどさ・・・」
ボクならばこう聞き返したくなってしまう。
「あなたが今、本当に飲みたいものは何ですか?ジュースですか?ビールですか?赤ワインですか?白ワインですか?それとも値段が高ければ何でもいいのですか?」
ズバリと本質をついた質問は時には人を傷つける。
だがそれはエゴの殻にひびを入れる最初の一突きでもある。
ガイドとお客さんという関係の中でそれは難しいものでもある。
こう聞かれた時に反応する態度は人それぞれであろう。
「今、のどが渇いているからビールにしようかな」
「さっぱりした白ワインを飲みたいな」
「あまり渋くない赤ワインはないかしら?」
「お酒がダメなので美味しいフルーツジュースはあるかな?」
もしくは
「うるさいわね、あなた。何でもいいから一番高い飲み物を持ってきなさい」
人それぞれである。
「ではあなたには水ですね。なぜなら水はここではタダです。昔から言うじゃないですか『タダほど高いものはない』ってね」
ここまで言ったら確実にクレームが来るので言わない。
『口は災いのもと』でもある。

北村家二軍筆頭のエーちゃんが言っていた。
「近頃は普通の人がヤクザ化しているんですよ」
取れる所からは取ってやれ、という態度だ。
自分が払うものは最小に抑え、最大の利益を要求する。
資本主義の骨格がこれなのだが、それが個人の心まで染み渡っている。
ツアーでも同じこと。
安いツアーを買っておきながら、ホテルが良くない、食べ物がまずい、サービスが悪いと文句を言う。
「安いツアーを選んだのはあなたですよ」
とはとても言えない。火に油をそそぐようなものだ。
真実は人を傷つけ、傷つけられた人は「ガイドの態度が悪い」とクレームを出す。
自分自身を見つめることなく、他人を攻撃して自分を守ろうとする。
なので黙っている。『さわらぬ神にたたりなし』だな。
ヤクザ化の現われで、ゴネ得、ごねた者勝ち、などという言葉もでてきた。
サービス業に携わっている人なら、間違いなく経験はあるだろう。
山小屋よ、どうだ?オマエさんのところにも表立って書けない話は山ほどあるだろう。
全てエゴである。そしてエゴは伝染する。
サービス業で他人のエゴを受けた人が、消費者になるとエゴむき出しのわからずやに変身する。
クレーマーである。
自分がやられたから人にもやってやれ、という方式が見える。
『目には目を、歯には歯を』
ある人は行く旅の先々でクレームをつけながら旅をするという。
それが旅行関係者というのだから笑ってしまう。
旅行規約にかなりうるさい人で、普通の人なら気にしないような些細な事もその人にはごねるネタとなる。
そんなあら捜しをするような心理状況で旅を楽しめるわけはない。結果的に損をするのは自分なのだが、それも自分が選んでいることだから仕方がない。
こうなると客という立場を利用する脅迫者である。ヤクザと全く変わらない。
幸いなことにボクのところにはそういう人は来ない。

クレーマーはエゴが飛び出た極端な例だが、タダならば一番値段が高い物を手に入れたい、というのもエゴが本質を覆い隠してしまういい例だ。自分が何を飲みたいのかも分からなくなってしまう。
そして共通していることは、エゴに縛られている人にはそれが見えない。そして伝染する。
「私にも一番高い物を下さい」となってしまう。
それを言う人も50代60代の、本来ならそれを見て「あなた、それはおかしいんじゃないの」というべき年代の、分別がつくべき大人なのだからあきれてしまう。
そういう人達の子供の世代にモンスターペアレンツがいるというのも頷ける。
親の世代の隠れたエゴが子の世代になって飛び出すわけだ。さらにひどくなるとクレーマーになる。
自分さえよければいいという親に育てられた孫の世代はどうなるだろう。考えただけでも恐ろしい。
『子は親の鏡』

こういった人々を責めているわけではない。
本人たちは深く考えることなく無意識に言っているだけだ。
ただエゴというのは無意識の中に隠れている。
それに気付かないことが問題なのだ。それに気が付き認めたときエゴは行き場がなくなり消える。
エゴというのはなんとか消えないように人間の心を利用する。気付かれても認められないよう、自分を正当化するのはエゴの一つのやりかただ。
欲望、虚栄心、権力、依存心、無関心、怠惰、社会のシステム、過去のこだわり、未来への不安、ありとあらゆるものを利用する。
巧みに意識の奥底に潜み、エゴが膨らむチャンスを待つ。
本人が気付きかけると、周りの人を巻き込み本人に気付かせないようにする。
「一番高い物を」と言った人にはエゴを気付かせないよう、周りに働きかけ、私も、俺も、と巻き込む。
みんながそういうのならば安心するので本人はそれ以上考えない。
かくしてエゴは心の中にとどまり肥え太る。
気の毒なボクの友人はゴルゴ13のごとく「・・・・・・・・・・・・」という言葉にならない台詞をはく。
そしてボクにその話をして、ブログのネタになるというわけだ。
昔からの格言には今の世の中にそのまま当てはまるものも少なくない。
最後に本日の教訓。

『人のふり見て我がふり直せ』



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夏の思ひ出 ブローピーク。

2014-05-20 | 
今年の夏はサイクリングに没頭していたのだが、近くでも思い出に残るような山行もした。
夏の初めにボスのリチャードが話を持ちかけた。
リチャードはイギリス生まれでニュージーランドに来て二十数年。
日本にも何回も行っていて日本語は堪能、ニュージーランドの植物や鳥の本を日本語で出しているほどだ。
彼との付き合いも二十年を超えるか。長い付き合いなのでお互いをよく知っている。
言いたいことを言えて無理に繕うことがなく、言い出しにくいことでも察してくれる。
こういう人のところで働くのは楽だ。
ずーっと夏の間はクィーンズタウンの彼の会社(ボスは3人だが)タンケンツアーズでハイキングや観光ガイドをしていたのだが3年前の地震で仕事が無くなってしまい、昨2シーズンはクライストチャーチの会社で働いていた。
こちらは観光ガイド専門で山歩きの仕事は無く、もっぱら車を運転しながらガイドをするドライバーガイドだった。
そろそろ山に戻りたいな、と思った頃リチャードから連絡があり、古巣のタンケンツアーズに舞い戻ったわけだ。
その彼が言うにはコロネットピークからアロータウンまでのルートがあり、そこを一緒に歩こうというわけだ。
すでに彼は奥さんと一緒に逆ルート、アロータウンからコロネットピークまでを歩いていてなかなか好い所だからオマエさんを連れてもう一度歩きたいぜ、という話なのである。
ふむ、コロネットからアロータウンねえ。
昔、雪がもっとたくさんあった時には滑ってアロータウンまで行った、なんて話は聞いたことがある。
リチャード曰く、正規のルートではないが尾根上は踏み跡があり行く先が見えるので迷う心配もない。
そうか、それなら時間を見つけてやろうじゃないか、そんな話で夏が始まった。




プランを暖める、という言葉がある。
プランを立ててその山を遠くから眺めたり地図を見たりして想像を膨らませるのだ。
クィーンズタウンで間借りをしている家から山が見える。
なだらかな起伏の尾根が横に走る。
尾根上は木が生えてなく、茶色いタソックに覆われた山だ。
あそこを歩くのか、景色はどうやって見えるのかな、などと思いながら近い将来にそこを歩く自分を思い浮かべた。
自転車に乗っていても、仕事をしていても、家に居ても、その山は見える。
どこからも見えるということは、そこに行けば全てそのポイントが見えるということだ。
コロネットピークからも似た景色は見えるし、遊覧飛行でその上空を飛んだことはある。
そこから見える景色の想像はつくが、いざ自分の身をそこへ置けば想像以上の物があるのは数々の経験で知っている。
その感動を味わうために人は山へ登る。
その場所に立った自分は何を想うのだろう。
そんなことを考えながら、僕は毎日その山を眺めて夏をすごした。




ガイドの夏は多忙だ。
それでも休みがないわけではない。
僕は気ままな単身赴任の生活で、時間という物を全て自分の為に使うことができる。
だがリチャードには家庭があり、やれこの日は息子のサッカーの試合だ、この日は家族で何やらするので都合が悪いとなかなかタイミングが合わない。
この日ならば大丈夫か、という時もあったがそういう時は天気が悪い。
山行と言ってもわずか数時間のものなのだが、その数時間が合わせられない。
僕は近辺の山を時間のある時に歩き、また違った角度からその山を眺めたりした。
自分の中でプランは充分に熟している。
痺れを切らして僕はリチャードに言った。
「オレはいつでも行けるぞ。早くしないとオレ一人で歩いちゃうぞ」
「スマンスマン、もうちょっと待ってくれ。そうだな、来週ならば時間が取れるからその時に行こう」
そんな会話を交わし、夏の終わりにその日は来た。



その日が来てもリチャードは相変わらず忙しく、彼が午前中の仕事を終えて昼からスタートした。
スタート地点とゴール地点が違う場合、常に問題なのはそのアプローチをどうするかということだ。
今回はフラットメイトのトモコさんにドライブを頼んだ。
トモコさんもこの会社のスタッフなのでリチャードもよく知っていて話が早い。
コロネットピークまで30分のドライブの後、僕達は歩き始めた。
二十数年前、僕がスキーを覚えた思い出のスキー場の何十回も滑った斜面を登る。
登りは十五分ぐらいか、Tバーリフト1本分を登りそこからは尾根歩きだ。
リチャードと2人で歩くのは初めてだが、波の合う人と一緒にいる心地よさを感じる。
黙って歩いても沈黙が心地よいし、話をすればぴったり合うところもあるし考えが違う所もお互いを認め合いその奥の根底で繋がることで一体感を持てる。
スピリチュアルな人、という言い方は好きではないが、言葉で表すならばそうなるのだろう。
日本の文化の理解も深く、3年前には家族で日本に住んでいた。
そう、3年前、ちょうど震災の時に彼は仙台に住んでいたのだ。
僕はその時にテレビで津波の映像を見たのだが、リチャードの事を一切心配しなかった。
それよりも何故か分からないが、ヤツは大丈夫という強い予感があったのだ。
実際に大変な思いもしたようだが、彼の家族は無事にニュージーランドに帰ってきた。



そんなリチャードが言う。
「この尾根歩きは日本の山みたいじゃないか」
「そうか?オレは日本の夏山は知らないからな。そう言われてみればそうなのかもしれないな」
確かに尾根が緩やかにアップダウンを繰り返し、稜線上に道が見える感じは写真で見た日本の山に似ている。
ただし日本と圧倒的に違う所は人の少なさ、そして人口構造物の少なさだろう。
この尾根はどこからも見えるので、そこから見える景色も街であり街をつなぐ道であり牧場やパラパラと散らばる農家だったり、まあ人間が作り上げたものだ。
尾根の反対側を望めば、殺伐とした山が延々と続きはるか彼方に氷河を乗せた山が居座るという、人口構造物が一切見えない世界だ。
人間界と自然界のはざま、とでも言おうか。
そんな場所である。
山から街の方向を見下ろせば、自分がガイドをしている街、自転車を漕いだ道、そして住んでいる場所も見える。
景色だけ見れば想像していたものだ。
だがこの場所に立つ自分の背後に続く山の存在感。
それを感覚として感じる。
写真には映らない感覚で、これは人に伝わらない。
自分の身をこういう場所に置く、ということに意識をあてて僕は山を歩く。
それは自分の存在価値であり、何故自分がこの世に生まれてきたかという答えの出ない問いの一つの答でもある。



ブローピークというのがその山の名前で直訳すれば眉毛峰、名の通り眉毛の形をしている山で山頂付近はなだらかで原っぱのような雰囲気だ。
山頂には申し訳程度にケルンが積んであり、かろうじてそこが山頂だと分かる。
山頂に立てば景色が劇的に変わるわけではない。
今まで歩きながら見てきた景色とほぼ同じで、登りつめたという感動はない。
ただ僕の場合、プランを暖める時間が長かったので、その意味での達成感はある。
やろうやろうと思っていた事をやり終えた達成感、同時に祭りの後のようなさびしさも少し。
このコースは標識もなく整備された道ではないが、特別難しい所があるわけでもなく誰でも歩ける。
時間だって3時間ぐらいだ。
人によってはつまらない山、と思うかもしれない。
実際、国立公園に行けば素晴らしい場所はいくらでもあるし、僕はそういう場所を歩いてきた。
ただそこに立つ人の感動はその人だけのもので、何処に行けば、というものでもないと思う。
僕が感動して歩いた場所をつまらないと言った人もいたし、国立公園へ行っても感動のない人はいる。
逆にえーちゃんのようにワナカの郊外のキャンプ場とかトワイズルの夕日とか、普通の町でも感動の嵐に出会う幸せ者もいる。
それはその時の天気やシチュエーション、何よりその人の心情も深く関係する。



『1mの旅』という話をあるお客さんから聞いた。
ある人が家を出てから1mの間に様々な物を見て聴いて感じたのだと。
それは空の色かもしれないし鳥の声かもしれないし道端に咲いている花かもしれない。
普段見慣れているはずの生活のすぐ近くでも自分の心次第で旅になるのだと。
山も全く同じだと僕は思う。
人は高い山や遠くて有名な山を目指すが、どこへ行けばという外に要因を求めていたら見える物も見えてこない。
自分の足元に咲く一輪の花を愛でる心、これが禅の教えなのだが、これがあればどこへ行っても素晴らしい経験ができるだろう。
結局のところ、帰ってくる場所は自分の心、そしてまた外の世界へと行ったり来たりするものだと思う。



山から下り一般のコースに合流して散歩をしている人に出会った。
大げさな言い方だが人の世界に戻ってきた。
人間の世界にはそれなりの良さもある。
アロータウンに着きパブへ直行。
リチャードとビールで乾杯。
達成感がたっぷりつまったビールが喉にしみる。
嗚呼、人生とはかくも楽しき事なり。
そんな夏の思ひ出の一日。
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モツ煮

2014-05-16 | 
秋が深まり体が冷えると温かい物が恋しくなる。
何かむしょうに根菜が食べたくなり突発的にモツ煮を作った。
昔は肉屋で「モツを買いたい」と言ったら「そんなもの食うのか」と笑われたが、今では近所のアジア系の肉屋でモツだってスジ肉だってその他いろいろ売っている。
モツは生なので何回も茹でこぼしアクを取る。
そしてしょうがとニンニク、昆布、隠し味に唐辛子を入れる。
今年は温室で唐辛子も育ててみたが、これがうまくいって夏が終わった今でも赤い実をつけている。
取りたての唐辛子はピリッと辛くて旨い。
大根は植えたばかりでまだ小さいので買ったが、ニンジンとゴボウ、長ネギにシルバービートは庭からである。
家のゴボウは泥臭さがない。
あまりにアクがなくて存在感がないぐらいだ。
花が咲いたら種を収穫しようと思っていたのだが花芽が出なかったので掘ってしまった。
今年は一株だけだったが来年はもう少し多めに育ててもよいな。
人参は大根と一緒に育てたもの。
大根は花芽が出始めたときに収穫をして、周りの人参はそのまま育てた。
ネギもサビ病になったが、なんとか上手く育ってくれた。
これからは花芽が出るのでそろそろ収穫の時期だ。
ネギを収穫したらその場所はニンニク畑となる。
シルバービートは相変わらず雑草のようにどこでもある。
そして我が家のシルバービートはアクがないので、菜っ葉のところだけほうれん草のようにも食べられる。
鉄分の多い野菜だし、シルバービート万々歳だ。



そういった庭の野菜を間引きを兼ね収穫。
それらを煮込んだモツ煮である。
長ネギの白い所を細かく刻んでモツ煮の上にふわりと乗せて七味唐辛子をパラリ、そしていただきます。
これは旨いぜよ。なんまらうまくて、でらうみゃーで、バカうまいずらよ。
やはりモツ煮は寒い時期のものだな。
春爛漫の料理ではない。
季節にあわせて料理を楽しむなんてのは四季の移り変わりがある国なればこそ。
これが日本の文化であり心である。
ニュージーランドは南と北の違いはあれど緯度も日本と同じぐらいで季節の変わり方も日本に似ている。
気候風土というものは文化と密接な繋がりがある。
常夏の場所で汗をダラダラかきながら食うモツ煮よりも、外で木枯らしが吹く中で食うモツ煮。
熱燗なんかチビリとやったりしてね。
やっぱこれでしょう。
そういった季節を感じる心。
これが大切だなと思う。
寒いのがイヤだという人がいて、それはそれで君の立場で言えば君は正しいからいいでしょう。
僕は寒いからこそ感じる物があると思う。
無性に、本当に突発的にモツ煮を食いたくなったのもその時に寒かったから、という単純明快公明正大の理由があったからだ。
みんな旨い旨いと喜んで食べてくれて、ブログのネタにもなった。



そうそう、この季節になるとカボチャが安くなってくる。
かぼちゃは保存が利くので一年中あると思いがちだが、かぼちゃが旨いのは今だ。
夏の間に育ったかぼちゃの葉っぱが枯れる頃に収穫して熟させる。
我が家もコンポストから出たかぼちゃが育ち、夏の終わりに収穫をしてガレージに放り込んでおいた。
かぼちゃのへたが茶色くなりかける今が食べごろ。
旬である。
旬の物は旨い。
たくさんできるので安い。
季節の変化と共に体も変わる。
その体に必要な栄養が旬の野菜にある。
柿が赤くなると医者が青くなる、とは昔からの日本の言葉で、トマトが赤くなると医者が青くなるという言葉もある。
それぐらい旬の物を食べていれば病気にもならないということだ。
人間の体というのは常に変化をしている。
女の人には月のものなんてのもあるし(男にももちろん月の影響はあるけどガサツなので気づかない)季節によって体も変わる。
その季節に合う物を体が求める。
それが旬の物だ。
自分の体、季節ごとに採れる物、そしてその味付け、そういったものが全部まとまっての和食の文化なのである。
それはここニュージーランドに居ながらにしても、自分の心次第でしっかりと感じることはできる。
そして戻るところは庭の野菜に感謝。
僕達の血や肉になり、僕らが食べなかった部分は土に還り、また巡る。
野菜たちよ、ありがとう。
またお願いしますね。

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あいつが悪い

2014-05-13 | 日記
以前出会ったとある人。
延々とパートナーの悪い所を並べ立てていたので、うんざりして僕は言った。
「何で別れないの?」
「みんなにもそう言われるんだよね~」
数年後にその人は別れたようだし、もうその人に会うこともないだろう。

誰かが悪いと言う人の精神構造を分析すると実にシンプル。
結局の所、あいつが悪くて自分は悪くない。
こんなに生活が大変なのも、世の中にイヤな事件が多いのも、物価が高いのも、天気が悪いのも、郵便ポストが赤いのも、みーんなあいつが悪いから。
自己正当化と言い訳だけで、そこに自分を省みる心はない。
あいつが悪いと言って人を見て、自分自身と向き合う事を避けている。
旦那や妻の悪口を言う人は、そのパートナーを選んだ自分の責任には触れない。
取引先やビジネスパートナーの悪口を言う人は、それを商売相手に選んでいる自分の責任には触れない。
上役や社長の悪口を言っている人は、その環境を自分が選んだ責任には触れない。
親兄弟、親戚の悪口を言う人は、そういうところへ自分が選んでやってきたことに気が付いていない。
今自分の周りに現れている現実とは、前世からのことも含め全て自分の心の現われなのだ。
それを指摘しても返ってくる答は「でもね・・・」なのである。
人間とはそうやって自己正当化する生き物だ。

手をピストルのようにして『あいつが悪い』と指差してみよう。
人差し指は『あいつ』を指す。
そう、あなたの言い分では悪いのは『あいつ』なのかもしれない。
その時に中指と薬指と小指が指しているのは『自分』だ。
あいつが悪いと指差せば3倍で自分のところへ還ってくる。
さらに親指はどこを指しているか?
天だ。
あいつと自分だけでなく天さえも悪いと指してしまう。
こりゃ救いようがないわな。

巷を見るとありとあらゆる所に、誰かを悪者にするシーンがあふれている。
勧善懲悪のドラマは時代劇からヒーローものの番組や映画まで、これは洗脳か?と思うほどありふれている。
テレビでも映画でもドラマでも結局のところ最後の最後に善の主人公が勝つ。
それに悪が最後に勝つドラマなら見たくない。
世の中では政治家が悪さをした、原発問題で悪いのは電力会社だ、大手の資本が悪い。
国で言えば韓国や中国が領土問題をけし掛けている、正義のアメリカが戦争を作っている。そういう国が悪い
その裏にあるイルミナティやフリーメーソンといった秘密結社のヤツらが悪いんだ。
人々は深層心理で悪を求めているのではないか?
その結果、今ある現実を作ってしまうのではないか、などと考えてしまう。
最初の話で出た人に、パートナーの弁護をしたら最後にはこう言った。
「じゃあ私が悪いって言うの!」
だーかーらー、誰が悪いとかって話じゃないのにそれが理解できない。
とことん、自分さえも悪に仕立て上げなければ気が済まないようだ。

僕はツアーの仕事をしているので、観光地によく行く。
行く先々でゴミを拾う。
以前はゴミを捨てる人を責めていたし、見せしめのようにゴミを拾った時もあったが、最近ではそういう気持ちもなくなった。
確かに自然が綺麗な所にゴミを捨てる行為は善ではない。
しかしそれを悪だと言って責める時、自分のレベルも下げてしまう。
自分のレベルを下げない為にすることは、黙ってゴミを拾う。
これも作務。お金にはならないが大切な仕事だ。
自分がゴミを拾えば山が喜ぶ。
僕はそこに強く意識を当てる。
僕がやることを山が見ている。
そこに意識をあてることにより自然との一体感はさらに深まり、もう捨てた人の事などどうでもよくなってしまう。
人が人を裁くのではない。
天が人を裁くのだ。
天に向かってツバを吐けば自分のところへ落ちてくる。
ここでもブーメランの法則は成り立つ。
それが分かっているので気づかずに悪行を重ねている人が可哀そうに思えてくる。
あーあ、この人はこれから大変な思いをするんだろうなあ、可哀そうに。
だがそれもこれも自分が選んだ選択なのでどうしようもない。
国同士でも同じ事。
中国や韓国が領土問題で日本にケンカを売っているのはニュースで見る。
領土問題というのは表に出ていることで、ケンカをするきっかけは何でもいいのだ。
これをあの国が悪いと言えば自分の国も同じレベルに下げてしまう。
僕はやっぱり可哀そうだなと思う。
慈悲の心を持ち静観。

こんな事を書くとまた極論が好きな人の声がどこからともなく聞こえてくる。
「じゃあこの世に悪い人はいないのか?実際に犯罪はあるじゃないか。」
確かに犯罪は今でもあるが、表面だけ見て悪と呼んでしまうことが問題だと思う。
「人間という物は善い行いの陰で悪さをやり、悪いヤツがちょっとしたことで善い事をするものだ。」
と鬼平犯科帳の鬼平も言っている。
この世は全て因果応報。
目の前に現れる事柄は自分の心の現れ。
地球の裏側で続いている戦争も終わらない原発問題も飢餓で死んでいく人も、自分に無関係ではない。
ほんのわずかでも僕にも責任はある。
かといって自分は悪くない。
悪くはないがこの世を作り上げている責任はあるのだ。
未来は未だ来ないもの。
それを現実という物に作り続けるのは自分の心なのである。



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ニョッキ

2014-05-10 | 
「今日は何を食べたい?」妻に聞いた。
「ニョッキがいいな。トマトソースで。」
というわけで我が家の晩飯の話である。
ニョッキを作るのは初めてだが、まあなんとかなるだろう。
今やネットでレシピはいくらでも出てくる。
『簡単おいしい』という言葉が売りのサイトが真っ先に出てくるが、僕が求めるものは『きっちり作って美味しい』というものだ。
調理に電子レンジを使うものや、最初から化学調味料を入れるようなレシピもある。
そりゃ簡単だろうに、でもな・・・、というのがガンコオヤジの言い分だ。
その中にはきちんと作るレシピも入っているのだが、たくさんありすぎて情報の渦に飲まれてしまう。
これも時代の流れか、とブツブツ言う親父なのである。



さて、先ずはソースから。
今日はソースを2種類、友達からもらったゴルゴンゾーラ(イタリアのブルーチーズ)があるのでそれでクリーム仕立てのソース。
もう一つはシンプルなトマトソース。
お子ちゃま(と言うと娘はむくれるが)にはゴルゴンゾーラはきついからな。
先ずはニンニクを剥くところから。
我が家はニンニクをいくつもしばってぶら下げていて使う分だけそこから取っていくのだが、まもなくニンニクの植えつけ時期になるので大粒のニンニクはそれ用に取っておく。
小粒のニンニクをオリーブオイルで炒め、香りが油に付いたらトマト缶を投入。
そこに入れる月桂樹の葉っぱも唐辛子も庭のものだ。
そして煮込む。

昼間は畑仕事をしていたのだが、その時に雑草のように生えていたジャガイモを収穫。
よしどうせならこの取れたてのジャガイモでニョッキを作ってやれ。
夕方になり雨も降り始めて野良仕事は終了。
早い時間から晩飯の仕度にかかる。
まずジャガイモを皮のままゆでる。
その間に鍋に生クリームを温めゴルゴンゾーラを溶かす。
味見をしていたらワインを飲みたくなった。
ちょうど開けかけのピノノワールが残っていたので、そいつをチビリチビリとやり始めた。
こうなると音楽も必要だな。
最近は自分のプレイリストがあり、そこからランダムに流れる音楽を聴く。
ちなみに僕のプレイリストはバラエティに富んでいるというのか節操がないというのか、沖縄民謡から泥臭いブルースそして世界の民族音楽に飛び懐メロへそしてレゲエ、というようにとにかくなんでもありだ。
それを機械はランダムにかけるので坂本隆一の戦場のメリークリスマスのようなしっとりしたピアノのすぐ後にブルーハーツのパンクロックなんかかかると「そう来ましたか」などとつぶやいてしまう。
スピーカーは音質が良く、そんな音楽を聞きながらワインをチビリ。



残っていたパルメザンチーズに友達が作ったカリンのペースト、それをクラッカーに乗せてなどと至福の時に浸ってしまう。
僕はキッチンドリンカーでお酒を飲みながら料理を作るのも好きだ。
トマトソースに生クリーム、そしてパルメザンチーズを削って入れたら酸味がマイルドになり美味くできた。
これまたワインに合ってしまう。このソースだけでもワインが飲める。
そうしながらも作業をする。
茹で上がったジャガイモを裏ごしして卵黄と小麦粉と塩、とういのが今回参考にしたレシピ。
シンプルでいいな、捏ねすぎないのがコツか、ナルホド。



そして副菜にコーンとベーコンの炒め物。
コーンは生のコーンをナイフでバラバラと取る。
芯に近い所はニワトリの餌にしてあげよう。
それから緑の物も欲しいな。
ブロッコリーがそろそろ食べごろだからちょいと庭で取ってくる、そのついでにパセリも。
この距離感がこれまた良い。
取ってきたブロッコリーを洗っていたら青虫発見。
オーガニックだからこういうのもありだ。
これもニワトリの餌箱へポイ。
キッチンには犬用の箱とニワトリ用の箱と堆肥用の箱があり、物によって入れ分ける。
ほとんどの残飯はニワトリが食べてしまうし、野菜くずはコンポストにするのでゴミはほとんど出ない。
うちのニワトリはいいものを食べているので健康だ。
健康なニワトリからは健康な卵が生まれる。
ブロッコリーを茹でて、自家製マヨネーズを添えてと、そうだ、頂き物の鹿肉のサラミもあったな。
これまたワインがすすんでしまう。



女房殿が仕事から帰ってきてニョッキを茹でてソースにからめて、いただきま~す。
お味の方はと言いますと、これが美味い。
そんな我が家のジャガイモで作ったニョッキなど不味いわけがない。
美味いことは美味いのだが、けっこう手にこびりついたりして無駄も多い。
ソースに絡めてしまうのでジャガイモ本来の味も薄れてしまう。
取れたての新じゃがは色々こね回すよりシンプルに塩茹でがいいのかもな。
そんなニョッキ初体験の話でした。


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手間

2014-05-08 | 日記
人間という物は基本的に怠け者なのだろうか。
野菜を育てるのも放っておけば勝手に育つ、というのが好きなようだ。
そういう自分もそうだった。
今の考え方はちょっと違う。
どれだけ手をかけるか、どれだけそこにいて目を向けるか、というところか。

僕は家に居る時はほとんどの時間を庭で過ごす。
野菜を見ていれば自然とやるべき事が見えてくる。
雑草が茂っていればその野菜が育つのに邪魔にならないくらいに取る。
こぼれ種から芽が出て密集していればそれを分けて植え替える。
枝が混んでくれば剪定だって必要だ。
ネギなんかは白い所を伸ばすために土をかけてあげる。
土を入れ替えてミミズが出てくれば新しく堆肥を入れた場所へ埋めて人働きしてもらう。
葉っぱにつく青虫やナメクジなどはニワトリの餌だ。
庭によく日が当たるように木の枝を払った。
土だって堆肥も作れば鶏糞で肥料も作る。
土作りは農業の基本である。
昨日は半年に一度の鶏糞肥料作りをした。
ニワトリ小屋のそばには大きなプラスチックの入れ物があり、そこに毎日の糞と汚れたおがくずを放り込んでいる。
だいたい半年でそれが溜まるので、それを地面に掘った穴に埋め微生物たっぷりのボカシなどを入れてまた半年寝かす。
半年前に作った肥料はニワトリの餌が入っていた袋に入れて物置に保管。必要に応じて使う。
こういう手間をかければかけるだけ野菜に対する愛も生まれる。
野菜に話しかけるのはよくするし、野菜をよく見ればこの野菜に何が必要か、どうして欲しいのか分かる時がある。
自分に分からなければ、今やネットで何でも調べられる。
勉強とは本来こういうものだと思う。
そうやってできた野菜はやっぱり美味いのだ。

育てるのと同じくらい大切なのが収穫。
ズッキーニやきゅうりなどは収穫が遅れると育ち過ぎてしまう。
ブロッコリーは放っておくと花が開いてしまうし、レタスなども花芽が出たら葉っぱは美味しくなくなる。
タイミングというものがあるのだ。
逆にハーブなどは必要な分だけ庭からちょいと取れるというのが新鮮で香りも良い。
産地から消費地までの移動距離と時間は短いのが良い。
庭の片隅にリンゴの木があるが、僕は必要な分だけ収穫をしてその場で食べる。
木で熟す果物はとことん美味く、我が家のリンゴは蜜リンゴだ。
今でもまだ数個は残っているがこれを全部収穫したら枝を剪定してあげなくては。
イチジクも食べごろの実がいくつかできていたな。
又、ネギやニラ、シソなど種を収穫するものもある。
日陰でも育つ野菜はそういう場所に種を蒔く。

まあいろいろな作業があり、それを一生懸命やるのが作務。
手間をかけずして事は成らず。
実が熟す結果も大切だが、そこへいくプロセスの中に答はある。
その大事なプロセスをおろそかにしてはいかん。
だからと言って真面目に気難しく眉間にしわをよせてやるわけでもない。
明るく楽しく、最近はボーズのワイヤレススピーカーを買ったのでそれで気に入った音楽でも聞きながらノリノリで(死語?)やるのだ。
僕はこういうことは苦行でなくていいと思う。
自称生臭坊主としては、はたらくという言葉は『他人を幸せにする』ということで、そのためにはまず自分が幸せであることが前提なのだ。
仕事は明るく楽しくね。

山菜など自然界の中で勝手に育つ野菜もある。
それはそれで自然の恵みとしてうけとればいい。
人間が手間をかけて育つ命もある。
そうやってできた野菜の命を今日も美味しく「いただきます」。
ありがたやありがたや。
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