あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

まあお茶でもどうですか。

2016-06-28 | 日記
♪清水港の名物は~ お茶の香りと男伊達。
なんて昔の歌にもあるが、僕の故郷はお茶どころなのである。
昨日、実家から新茶が届いた。
待ちに待った新茶である。
というのも今回、夏が終わった頃に去年送ってもらったお茶が切れ、食品庫の奥にあった数年前の安いお茶を飲んでいたのだ。
これが正直不味い。
何がどう不味いかと言うと、香りなんぞはとうの昔に飛び去り、味は渋みばっかりが残ってお茶の旨味なぞなく、色はくすんだ緑色。
安いお茶のお徳用の大きめのパックなんぞ買ったものだから、飲んでも飲んでも減らない。
ニュージーランドでお茶が飲めること自体ありがたいことなんだぞ、と自分自身を戒め、でも不味いなと正直に思いつつ。
やっとそれがなくなり、頂き物のティーバッグの緑茶なぞ飲みながら新茶が来るのを待っていたのだ。

庭で仕事をしていたら犬のココがワンワン吠えている。
何かと思って行ってみると、郵便配達の兄ちゃんが包みを持っていた。
おお、来たか来たかと受け取り、早速今年の新茶をいただいた。
お湯を沸かし、そのお湯を湯のみに入れて少し冷ます。
急須にお茶の葉を入れて、程よい温度になった湯をいれる。
お茶の葉が完全に開いたころ、湯のみに注ぎ庭に出た。
今年一番の新茶は『大地に』だな。
『大地に』とは、もう十何年前になるか、当時の合い方のJCが始めた儀式である。
自然の中でとことん遊ばせてもらった日に飲む最初のビールの数滴を大地に落とすのである。
ある夏にヤツは北海道をキャンプ生活していたのだな。
外で飲むからこそ『大地に』が出来るわけであり、居酒屋で乾杯なんて時になかなかできない。
そんな儀式を僕はことあるごとに続けている。
今回は初物を神さまにお供え物にするような気持ちで、母なる大地に今年の新茶を注いだ。
「大地に」とつぶやき、そして新茶をいただく。
お茶の香りも良く、味は適度な渋みの裏にうっすらと甘ささえ感じられる。
あー幸せだなあ。
実家から送られるお茶は日本でもトップレベルのお茶だ。
それってたぶん世界でもトップレベルなんだろうな。
ちなみに値段もトップレベルなのだろう。
そんな美味しいお茶がここニュージーランドで味わえるなんて。
ありがたやありがたや。

ニュージーランドに住む日本人のアイデンティティを考えることがある。
日本人のワーカーは仕事をきっちりこなすので重宝される。
その分、ラテン系の人たちと一緒に働くとそのツケを払わされることもある、と聞く。
表面だけ見れば貧乏くじを引くようなものだが、仕事を作務、すなわち修行と考えればそれもありか。
仕事に対して真摯に取り組み、手を抜かないというのは日本人の性質なのだろう。
同時に嫌な所も目に入る。
日本人会など、集まりのある場所では村社会独特のどろどろしたいやらしさも存在する。
「なんでニュージーランド辺りまで来てそんなかねえ」、などと思ったことも1回2回ではない。
日本人が経営する会社では日本の悪しき習慣をそのまま持ってきているところもある。
あとは日本人うんぬんより、「それって人間としてどうなの?」というところか。
そういったマイナス点はあれど、やはり日本人としての素晴らしさはマイナスを上回る。
最近、40も後半になりやっぱり自分は日本人なんだなあ、と思うことがよくある。
そしてそれを気に入っている自分もいる。
以前の話でも書いたが20代の生意気盛りには日本人で居ることが恥ずかしかった。
そんな過去も踏まえ、今は日本人としてこの地でそこそこやっている自分がいる。
最近はユーチューブで落語ばっかり聞いていて英語が下手糞になってしまったが、こちらの友達はそんな僕を理解してくれている。
どこにいるかは問題ではない。
人としてどうあるべきか、という問いに自分の行動で示すのが日本人のアイデンティティなのではないか。
そんなことをお茶を飲みながらぼーっと考えた。

日本人の感性の一つに味覚があると思う。
子供の頃から親が手を抜かずにきっちりとした物を食べさせれば、味覚は研ぎ澄まされる。
娘は14歳、最近今まで食べれなかった、いわゆる大人の味にも慣れてきた。
そしてお茶の美味しさも最近になって分かるようになった。
夕べは食後に美味しいお茶を飲んだら感動していた。
そう、本当に美味しいものは人を感動させる力がある。
それを伝えるのも、これまた親の役目ではないかと思う。
そうやって考えると、子供の頃に手を抜かず美味しい物を食べさせてくれた親に感謝。
今でもこうやって高価なお茶を送ってくれる親兄弟に感謝。
そいてこうやって家族で美味しいお茶を飲める平和な環境に感謝
ありがたや、ありがたや、なのである。

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トーマスとUパス 4

2016-06-23 | 過去の話


翌朝、テントの中でウダウダと日が当たるのを待っていると、突然ゴロゴロと雷のような音が鳴り響いた。
あわててテントのファスナーを開けると、正面の氷河の一部が崩れ、雪崩が落ちる瞬間だった。
雪は岩壁に無数にある窪みの一つを流れ落ちる。
朝日をあびてキラキラと光りながら、雪の流れは一番下の残雪に吸い込まれていった。
「なんとまあ、朝っぱらからすごいものを見せてくれるね、この山は」
朝食をゆったりと取り、テント撤収。そしてUパスに登り始める。
真横から見るとアルファベットのUの直線2本を上に5倍くらい伸ばしたような形をしている。
すごく縦長のUの字だ。言葉で説明するのが難しい。
直線部分は垂直に切り立った岩壁が200m以上。
ナイフで切ったように岩が切れていて思わず笑ってしまう。
人間とは、こんな説明のつかないような物を見せ付けられると笑うしかないのだ。
登るにつれ2つの壁が迫ってきて、どんどん視界は狭くなる。
壁の圧迫感を体で感じながら一気に上り詰めた。

峠の向こうには、見たことも無い山並みが連なっていた。
向こう側も壁に挟まれているので視野は狭い。直下はガレ場が細い谷間に吸い込まれている。
後ろには昨日キャンプをした平ら場が、壁の隙間の向こうに広がる。
頂上には小さなケルンが積まれている。人間が存在した証拠だ。
一体何人の人間がここを通ったのだろう。
なんだかずいぶん遠くに来てしまったような気持ち。
それぐらいに、この場所は人間の世界から隔絶している。
観光バスが通る道から、直線距離で僅か5キロほど。しかしこの場合、距離や標高は問題ではない。
密度の濃い時間、山や氷河からにじみ出る力、岩壁から押し出される奇妙な圧迫感。
神の領域、と呼ぶには安易に来れてしまう。かといって人間の住む世界ではない。
不思議な空間だ。
ビルの谷間のような空を見上げると、糸のように細い月が青空に浮かんでいた。
視界の端で動く物があり、僕を現実に引きずり戻した。
ロックレン、地味だが可愛い小鳥だ。この鳥は標高の高い岩場にしか住まない。
普段森歩きの多い僕は初めてこの鳥を見た。
僕が畏怖を感じたこの場所も、鳥にとっては生活の場でしかない。
鳥はあざ笑うかのように、青い空へ消えていった。



「さらば、名無しの山よ」
もう一度後ろを振り返り、僕らはUパスを後にした。
登りより下りの方が怖いのは、つい昨日味わったばかりだ。
辺りはガレ場、石は不安定で足をのせるとグラリと揺れる。常に『この石は大丈夫かな?』と考えながら次の一歩を踏む。
左右にはカールが並び残雪が点在する。壁という壁は全て垂直に切り立ち、人間の進入を拒む。
「すごいなあ」という言葉しかでてこない。
30分も下るとUパスは完全に見えなくなった。あの向こうにあんな世界が存在するなんて・・・。
自分の想像を越えるものがそこにあるのは毎度の事だが、今回もまたこの国の自然にやっつけられてしまった。
岩の裂け目を下りハットクリークの本流に合流、ここで休憩。
この場所もまた、別の巨大なカールがある。カールに次ぐカール、U字谷の先のU字谷。
こういう所でいつも感じるのは人間の小ささだ。
「すごいなあ」何回、何十回この言葉を口にしただろう。言葉が景色に追いつかない。
よって口を開けば「すごいなあ」になってしまう。
もうちょっと気の利いた言葉の一つでも欲しいのだが、それしか出て来ないのだから仕方がない。
僕の思惑をよそに、山は無言で僕達を見おろす。

川原沿いをしばらく歩くと、Uパスへ続く細い岩の裂け目さえも見えなくなった。
「あの奥にはあんな世界があるんだね。まるで夢みたいだよ」
「ホントにねえ」
「夢だったのかなあ」
「2人一緒に同じ夢を見てたんですよ、きっと」
「うーん、それにしてもあの谷間の奥の世界は人間の想像の限界をはるかに越えているよね」
「全くです」
「だけど、これを人に伝えるのは難しいよね」
「難しいですね」
「行った人なら分るんだろうけどな、『そうそう、あそこはスゴイんだよ』ってね」
「ナルホド」
「しかしさあ、このコース2日かけて正解だよ。1日だったら何が何だか分らなくなるよ。きっと」
「ホントにそうですね」
間も無く森の入口に見慣れたオレンジ色の三角が見えてきた。
森に入ると世界は一転する。それまでのゴツゴツした岩を踏む感触から、柔らかい苔へ。苔の弾力が限りなく優しい。まるで苔達がお疲れ様、とねぎらってくれるようだ。
見るものも無機質な岩肌から、無数の命が溢れる森へ。濃い緑色が目に心地よい。
道はなだらかに下り、思う存分森歩きを楽しめる。肩の力を抜き、しっとりした空気を吸い、森に身をゆだねる。森は僕たち2人を優しく包み込んでくれた。
昨日の午後に森を抜けて、まる1日も経っていないのだが、なんだかとてつもなく長い旅をしたような気分。
それくらいUパスの印象は強烈であり、密度の濃い時間があったのだ。ほんの数時間前の景色が夢のようだ。



森から出て川原を歩き、再び森へ。前方下にエグリントン川が見えてきた。ゴールは近いのだろう。
ここにはほとんど人が入らないのだろう。数々の花がトラック上にも咲いている。
とてもよけながら歩くなんて不可能だ。よってスマンスマンと言いつつ花を踏んで歩く。
森相が変り、見慣れた赤ブナの森へ。かなり降りてきた証拠だ。
そして渡渉。川をブーツのままザブザブと渡る。
汗でムレた足が冷やされて心地よい。但し川を出ると、ブーツの中に水がたまり、不快である。
厚さが30センチ以上もある苔のじゅうたんをモソモソ歩いていると、前方にバスが通るのが見えた。
そして車道に出たとたんにガソリンの臭いがした。文明という世界に帰って来たのだ。
ザックを下ろしブーツを脱ぐと、トーマスが尋ねた。
「まさかビールなんて無いですよね」
「あるよ。飲もうぜ。昨日のがまだ残ってる」
「ウヒョー、やったあ!ビールがあればいいなあ、って思いながら歩いてたんですよ」
「まあまあ。今日も大地に、だね」
「大地に」
2日間遊ばせてもらった山に、氷河に、森に、川に、そしてそれら全てをのせた母なる大地に感謝を捧げスパイツを飲み、一つの山旅が終わった。

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トーマスとUパス 3

2016-06-22 | 過去の話

道標のある山道はここで終了、この先は支流沿いの歩きやすい所、登れそうな所を選んで行く。
時には水の流れのすぐ脇の岩を伝い、時には茂みをガサゴソ掻き分けて進む。
こういった路はアンマークドルートと呼ばれ、トレッキングでも上級者向きだ。
そんな調子で歩いていくと正面に滝が見えてきた。
周りの景色の中では小さく見えるが、あれだって落差50m以上はあるだろう。今日のポイントは、あの滝をどうやって越えるかだ。
滝の両脇は岩が切り立っていて登れそうも無い。ちょっと離れた斜面は心もち緩やかで何とか行けそうだ。
呼吸を整え、登り始める。斜度は50度以上あるだろうか。時折り両手で岩とか草の根を掴みながらよじ登る。
上を行くトーマスの足元から崩れた石がゴロンゴロンと数m横を転がり落ちる。
大人の頭ほどの大きさの石だ。当たれば痛いでは済まないだろう。
こんな所ではちょっとしたルートの選択が命とりになる。
トーマスのルートと離れ、誘われるように進んだ先で僕は動けなくなってしまった。
上へ登る取っ掛かりが無くなってしまったのだ。下へ下ろうにも重いザックを背負った体は自由が利かない。
恐怖という感覚が僕をおそった。
まずは足場を確保して、呼吸を落着かせることだ。
目の上にはいかにも滑りやすそうな岩が続いており、30センチ横には岩の切れ目が数十m下へ落ちている。
下を覗いたが、怖くなるだけなのですぐにやめた。
ここで落ちたら間違いなく死ぬだろう。こんな時にいつも浮かぶのは妻子の顔である。
こんな所で死ぬわけにはいかない。あたりまえだ。
来た場所を下り始める。
山に登ったことのある人なら分るだろうが、登りより下る方が危険で怖い。
絶対に落ちない事を第一に考えながら、三点確保でソロソロと岩を下る。
時々足元の岩が崩れ、はるか下へ転がり落ちる。あんなふうにはなりたくないものだ。
やっとの思いで数mほど下り、別のルートを探す。
トーマスがよじ登った所を試してみたが、僕には無理だった。
またまた冷や汗を流して下り、さらに別のルートへ。
トーマスが上から覗き込んでルート取りを教えてくれた。
そこへ向かうのだって決して楽ではないのだが、他に選択は無い。
なんとかかんとか上の台に体を押し上げてトーマスと合流。やれやれ。
緊張が緩み、やっと景色を見る余裕ができた。
眼下にはくっきりしたU字谷が横たわり、正面には別のU字谷が岩壁の中腹から奥に伸びている。
いわゆる吊り谷と呼ばれるものである。
自然の造形とは美しいものだ。
「ああ、怖かった。一時はどうなるかと思ったよ。それにしてもきれいなU字谷だね。オレ考えてみたらこんなU字谷の中を歩くのは初めてだ。ミルフォードもこんな感じ?」
僕は世界一美しい散歩道と言われているミルフォードトラックを歩いた事は無い。じっくりとプランを温めているのだ。
「そうですね。ミルフォードはもっと長い谷なんです。何日もかけて谷底を歩くから、ここよりはるかに長いU字谷ですよ」
「ふーん、そうか。それに植生も違うよね。この辺の草花はオタゴでは見られないからなあ。これがフィヨルドランドの植物なんだな」
本でしか見たことの無い花を実際に見るのは楽しいものだ。
しかしここへたどり着くまでは、それどころではなかったのだ。
トーマスが僕の知らない草花の説明をしてくれる。ガイド付き山歩きだ。
さらに登り、一段上の大地にたどり着くと、そこには別の世界があった。



広さで言えば陸上競技場3つ分くらいだろうか。人口構造物がないので大きさが掴みづらい。
その広さのまっ平な土地の周囲をぐるりと200m以上ある岩の壁が囲む。
この場所をカールと呼んでいいのだろうか。イメージとしては巨大なタライだ。
唯一切れている向こうには、今怖い思いをして登ってきたU字谷が続く。
Uパスがあるであろう岩の切れ目が見えるが峠自体はまだ見えない。
正面には一番大きな氷河を中腹に抱いた山が居座る。
氷河の上下に数百mの垂直な壁が立つ。この山にも氷河にも名前が無い。
名無しの氷河の下には無数の溝が壁に深い切れ込みを作り、それらの中央、平場のはずれには残雪が厚く積っている。
そんな景色を見ながら僕達はトラバースを続け、Uパスの下に出た。
「なんだ、こりゃ?」
「なんでしょう?」
僕らの頭上には、200m以上のスッパリと真っ直ぐに切れた岩の壁が向き合っている。
2つの壁の間は30mほどあり、その向こうに真っ青な空があった。
「あれがUパス?」
「そうみたいですね」
「なんとまあ。どうしてこんなのが出来ちゃったんだろう」
「ホントにねえ」
「あんなに狭い所、風が強そうだね。それに景色だって見えるかどうか分らないぞ」
「朝日も当たりそうに無いですね。寒そうですよ。ここでキャンプにしましょうか?」
「そうしようよ。この名無しの山だってスゴイよ」
当初は峠の頂上にテントを張る予定だったのだが急遽変更。
目の前にはまっ平な大地が広がっている。フカフカのクッションプラントの上に寝たら気持ちが良さそうだ。
テントを張り終えると、トーマスがザックからビールを出しながら言った。
「まあ、とりあえず乾杯しましょうよ」
スパイツ、それも500ミリ缶2本。単純に考えても1キロの重さだ。ヤツはそれをかついでこの急な岩場を登ってきた。やるなあ。
「でかしたトーマス。じゃあ今日は文句無く、大地に!」
「大地に!・・・・・・くーっ!ウマイ!」
「プハー!効くなあ。しかし、まあ、すごいねこの景色」
「全くですよ。これだけの山と氷河があって、ここに見えるものは全て名無しのものなんですよ」
「うーん、なんだかなあ。言葉にならないよ。こんなところ冬は絶対来れないなあ。雪崩の巣だよ。雨の時もイヤだな。きれいだろうけど」
「雨が降ったらこの辺は滝だらけでしょうね。・・・そうか!ああやってカスケードができるのはミルフォードだけじゃないんだ。この辺りの山が全てそうなんですね。人間が手軽に行けて、見えるのがミルフォードだけのことなんだ」
ミルフォードサウンドへ行く道は、切り立った崖をかすめるように通る。
雨の日にはカスケードと呼ばれる無数の滝が現われ、それはそれで綺麗なのだ。晴れの日と雨の日では景色は全く違う。
「そうかあ、この辺の山が全部、アレなのか。うーん」
「さてさて、ご飯でも作りましょうか。ウヒョー!こんな景色を見ながらメシを作れるなんて!」
ヤツは調理をしやすい方向に座りなおした。
その先には自分達が這い上がってきたU字谷、そして落差が大きすぎて途中で消えてしまう滝がスローモーションのように落ちている。
いつのまにかビールが無くなり、僕の缶が倒れていた。
「あら、ビール終わっちゃったんですか?じゃあ、もう1本、これは半分コです」
そう言いつつヤツはビールをザックから引っ張り出した。さらに
「それが終わったら、こんなのはいかがでしょう?」
焼酎入りのペットボトルだ。
「あれまあ!やるなあ、トーマス。重かっただろ?」
「いやいや、このひと時のためならね」
こういった遊びは徹底的にやった方が楽しい。その労力を惜しまない人はステキだ。
食事のあとでも周囲は充分明るい。
「じゃあ、こんな場所で本を読んじゃうのはどう?」
僕はザックから1冊の本を出してトーマスに渡した。
今回持ってきたのは野田知佑の『旅へ』。こんな場所で読むのにピッタリだろう。
「いいですねえ。ではでは、今度は氷河の方を向いて・・・ウヒョー!こんな中で本が読めるなんて」
ヤツは幸せそうに本を読み始めた。
どこで飛んでいるのだろうか、高山オウム、ケアの甲高い鳴き声が夕闇せまる谷間に響いた。




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トーマスとUパス 2

2016-06-21 | 過去の話
次の日は鳥の声で目を覚ました。ベルバードと呼ばれる鳥で、まさにベルのような音階が朝の森に響く。
テントから出ると、朝のキリリと引き締まった空気が体を包む。
川の水をすくって飲む。朝起きて最初に口にするのは水が良い。
特にこんなウマイ水ならなおさらだ。体の隅々まで濁りのない水が行き渡る。
雲一つない青空にクリスティーナが朝日をあびて輝いている。
その手前にはトライアングルピークがその名の通り三角にそそり立つ。
今回はあの山の周りをぐるりと一周するが、たぶん下からは山が急すぎて見えないだろう。
のんびりと朝食をとり、ユルユルとテントを片付ける。
今回は頑張れば1日で歩くコースを2日かけるので慌てる必要は全く無い。
装備を整え歩き始めるとすぐにウォークワイヤーがある。
通称スリーワイヤーと呼ばれる通りワイヤーが3本、川の両岸を結んでいる。
各ワイヤーはV形に結ばれていてバラバラになる事は無い。
下のワイヤーを綱渡りのように歩き、左右のワイヤーを両手で掴みバランスを取る、実に原始的な橋だ。
定員はもちろん1名。非常によく揺れるが、靴を濡らさずに川を渡れるのはありがたい。
まずは赤ブナの森である。新緑のような雰囲気が特徴的だ。
朝の光が斜めに差し込む。森が一番美しいのは、誰がなんと言おうと朝なのだ。
木の根が複雑に絡み合っていて、その下は空洞になっているのだろう。踏むとギシギシと揺れる。
そして苔。10センチ以上も厚みのあるミズゴケのじゅうたんを歩く。苔はフワっと僕の足を受ける。
非常に気持ちが良いのだが、常に良心の呵責に悩まされる。スマンスマンと苔にあやまりながら歩く。
近くの岩にびっしりと苔が生えていたので、どれくらい厚みがあるのかストックを差し込んでみたらストックはするすると20センチ以上もぐってしまった。
僕は歩きながらトーマスに話し掛けた。
「あのさあ、この苔を踏むのって気持ちいいよな。前から思っていたけど、足で踏む感覚って全部違うよね。苔、落ち葉、木の根、土、ドロ、石、岩。だから長い木道が続くとイヤになっちゃうんだ」
「そうですね。僕が思ったのはこの靴、これはなんとかショックを和らげようと最先端の技術を導入しているわけです。それなのに僕等の足はその下の地面を感じ取っている。これってスゴイと思います」
「そうか、オレ達ってスゴイんだ」
「スゴイんです」
他愛の無い会話を続けながら歩く。
トラックにはシダが多く所々道が見えなくなる。ガサガサとシダを掻き分けオレンジ色の道標を探しながら歩く。
僕が道を探しているとトーマスがこっちです、と正しい道を見つける。そうするとトーマスが先を行き、僕はヤツの後ろを歩く。
木の枝のはらい方、シダの中の歩き方が実にサマになっている。ここはフィヨルドランド、ヤツのホームグラウンドだ。
時は春とあって、様々な花が咲き乱れる。今年は暖冬だった為、花が咲くのが例年より2週間ほど早い。
緑色の葉っぱのような花の蘭、ラッパ形をした赤いフューシャ(日本ではフクシャとかホクシャとか呼ばれるらしい)、白いスミレ、黄色や白の菊達、ブルーベルと呼ばれる桔梗は限りなく白に近い青だ。
少しづつ、確実に高度を上げていくと植生がガラリと変る。それまでの明るい赤ブナの森から、やや密度の濃い銀ブナの森へ。こういう変化がとても楽しい。
木の幹には苔がびっしりと独特の形でまとわりつく。
トーマス曰く、エビのテンプラ。それも安い定食屋で出てくるような、エビが細くて衣がボテッとしたテンプラ。
ナルホド、言われてみればその通りだ。



そんな森歩きを3時間ほど続けると、いきなり視界が開け、目の前に巨大な壁が現われた。
このあたりの山は岩と氷の塊である。どの山も垂直に近い角度で谷の底からそそり立つ。
U字谷という名のごとく、谷の底の部分は平なのだ。
左右の岩壁は何百mの高さだろうか、大きすぎてスケールがつかめない。
その壁にはこれまた何百mという落差で滝が落ちる。
滝の上部では水が白い筋となって見えるが、下に落ちるに連れ滝はバラバラになり見えなくなる。
見えなくなるが水が消えてしまうわけではなく、その下の方にはちゃんと小川が流れている。
そんな滝がいくつもあるし、雨が降ればここは滝になるだろうという場所がいくらでもある。俗にカスケードと呼ばれるものだ。
雨の日には無数の滝が現われそれは綺麗なものだろうが、雨の時にこのルートは歩きたくない。
川が増水して危険度が加速度的に増加するのが目に見えているからだ。
「あれがナティマモエ、ピラミッドピークそしてフラットトップピークだあ!いつもこの山たちを違う角度で見ていたんですよ。そうかあ!あの山の真下に来たんだ」
トーマスが地図を見ながら嬉しそうに声を張り上げた。
ヤツは仕事でこの山たちを何十回と見てきた。計画は2年越しで、充分にプランは温まっている。
僕にはプランを温める時間は無く、この種の感動は無い。ちょっと羨ましいぞ。
ナティマモエはこの辺りのマオリの部族の名前、マウントクックを小さくしたような形だ。
ピラミッドピークはピラミッドのような形で、フラットトップは上が平な山だ。
どれも2300mほどの高さだが、この山の険しさを標高から想像する事はできない。
谷の底は巨大なカールとなっており、千m近くの壁、そして氷河がぐるりと囲む。
そうか、U字谷の起点はこんな形をしているのか。納得。
山を見ながら休憩するものの、どこに視点を置いたらいいのか戸惑う。






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トーマスとUパス 1

2016-06-20 | 過去の話
夏の仕事が終わって一月半、毎日やることはいくらでもある。
専業主夫というものは怠けようと思えばいくらでも楽をできるし、きっちりやろうとすればそれなりに忙しい。
もうすぐ冬の仕事が始まれば、雪山という日常とは違う環境に身を浸すのだが、今は手付かずの自然とは遠い場所にいる。
山が遠くなっている。
そんな自分を慰めるためにもこの話を載せる。
これも12年ぐらい前に書いた話だろう。
目をつぶっても情景が思い出されるが、こうやって記録に残すのもいいだろう。


気の合う仲間と自然の中で遊ぶ。
これほど楽で楽しいものは無い。
忙しい中ポッカリと2日ほどの時間ができたので、山仲間のトーマスと出かけることにした。
西のタスマン海には大きな高気圧が居座る。
南からの前線を寄せ付けないのでブロッキングハイと呼ばれる現象だ。
こんな時には普段は雨の多いフィヨルドランドにも好天の日が続く。何処に行くにも間違いなく良い。
週間予報でも快晴微風という日が4日ほど続く。
できればこの天気の良い間ずっと山に入っていたいのだが、生きていく為には働かなくてはならないのも現実である。
今回は2日半という時間があり、いろいろ相談したあげくフィヨルドランドのユーパス、アルファベットのUの字峠へ行くことにした。
その日の仕事を昼で終わらせ、バタバタと荷物を詰めテアナウへ向かう。
「何か忘れ物してそうだな」
僕は誰にともなく、つぶやいた。
空は青く澄み渡り明るい緑の大地に子羊が跳ね、遠くには雪を被った山が立ち並ぶ、のどかだ。
テアナウは湖沿いの小さな町で、湖の向こう側にはブナの原生林が広がる。
この国独特のくすんだ緑の山を見ているとなぜか落ちつく。
トーマスは2年間ほどテアナウをベースにガイドをしていた。さすが地元というほどこの辺りの山を知っている。
ガイドをしている僕が聞いていても、なーるほど、ということが多い。ヤツの話はとても楽しい。

フィヨルドランド、ニュージーランド最大の国立公園。
どのくらいの大きさかと言うと、新潟県とほぼ同じ大きさだと考えると分りやすい。
その広大な土地はほとんどが森と岩山に覆われ、人間は全くと言っていいほど住んでいない。
大陸の事を僕は知らないが、この国にそれだけの広さの手付かずの土地が残っているのを考えるとぞくぞくする。
南島の南西に位置するので、南極からの低気圧に伴う前線が常にこの辺りをかすめる。よって、雨が多い。
雨が降って当たり前の場所であり、この辺りの森は雨がなければ生きていけない。
観光で有名なミルフォードサウンドやミルフォードトラックなどもこの国立公園の中にある。
フィヨルドランドと言うだけあって、氷河で削られた入り江が西の海岸線に並ぶ。

ミルフォードへ行く道沿いの数あるキャンプサイトの一つでテントを張る。
午後も深まると車の通りはほとんど無くなる。
キャンプ地は川のほとりで水はふんだんにある。火を起こす場所も用意されている。
車で乗りつけられる場所でこんな良い場所があるのだ。
「今日はこのせせらぎの音を聞きながら寝れるな」
僕は独り言のつもりで言ったのだがトーマスが応えた。
「それについては面白い話があるんですよ。日本のキャンプ場である朝管理人に苦情が来たのです。『川の音がうるさくて眠れなかった。何とかしろ!』ですって」
「なんとかしろって言われてもねえ。管理人さんも困るよな。じゃあどうすりゃいいのだろうってね」
「その後どうなったか分らないけど、そういう人もいるんです。キャンプでカラオケやる人もいるし、テレビ持ち込む人もいますしね」
「そういう人はなんでキャンプなんかするんだろう?カラオケやりたきゃカラオケボックス行けばいいじゃん。テレビ見たけりゃ家で見ればいいじゃん」
「僕が思うにですね、普段していることを屋外でやる事をアウトドアだと思っているじゃあないでしょうか」
「ふーん、そんなもんかねえ」
森に入り枯れ枝や倒木を拾い集める。ミソートと呼ばれる寄生植物が赤い花を咲かせている。
トーマス曰く、ポッサムが葉を食べるので数は減っていて、この国には5つのミソートがありそのうち4つは固有種だ、そうだ。
全く勉強になる。こんな勉強なら楽しいぞ。
火を起こし、とりあえず乾杯。車にはスパイツがどっさり。今日のお隣りさんは500mぐらい向こう。
マウントクリスティーナが赤く染まるのを見ながらビールを飲む。マズイわけが無い。
テレビもカラオケもないが僕たちは幸せだ。



きょうのメニューは前菜に種付きオリーブ。よく種を抜いたのを売っているが、絶対種付きの方がウマイ。オリーブのしょっぱさがビールを美味くする。
メインはアスパラ、鳥の手羽先、マッシュルーム、チョリゾと呼ばれるピリカラソーセージ。全部七輪で焼く。
その時になって忘れ物に気が付いた。醤油だ。今日の味付けは塩コショウだけとなった。
「トーマス、もう焼けたぞ、食え」
「どれどれ、いただきます」
ヤツは数秒間うつむいて止った。そして
「ウマーイ!美味いね、これ」
「でしょう。七輪で焼くと、何でも美味くなるんだよ。醤油を忘れたのは失敗だったけどな」
「いやあ、これでも充分美味いです。僕ね、この七輪まだニ回目なんですよ」
「え~?本当?じゃあ一回目はあの時?」
「そう、あの時」
あの時とは数年前、友人たちと牧場の中の一軒屋で七輪バーベキューとスパイツという、いつもの飲んで食ってガハハの夜を過ごした。
その時に僕等は初めて会ったのだ。
ちなみにトーマスというニックネームはその時についた。名づけ親はどうやら僕のようだが、理由は覚えていない。
それ以来、僕らの仲間からヤツはトーマスと呼ばれている。
見た目はごくごく普通の人で、風貌からはガンガン山に入る男には見えない。
スーツを着ればそのままサラリーマンで通る。実際ヤツは日本ではそうだったのだ。
言葉使いも丁寧で、日本の社会でも充分上手くやっていけるだろう。言いたい事を言って会社をクビになる僕とはエライ違いだ。
「あの時以来かあ。じゃあ、じゃんじゃん食って。今宵はアウトドアクッキングの夕べ。レシピはただ焼くだけ」
「いいですねえ。で、どうやって手に入れたんですか、この七輪?」
「ん?飛行機に乗る時に持ってきたんだよ。手荷物でね」
「本当ですか?」
「うん。空港のそばのホームセンターで買って、ペラペラのビニール袋に入れて持ってきた。周りの人にすげえジロジロ見られたけどね」
「ワハハハ、そりゃおかしい」
僕はソーセージを一口かじり言った。
「ム、トーマス、これはビールだ。絶対ビールだ。食ってみな」
「・・・本当だ。これはビールだ。ビールビール」
ビールがたっぷりあるキャンプはうれしい。
腹が落着いたらデザートである。サツマイモを皮ごと焚火の灰の中に入れただけの焼き芋。なぜこんなに?と思うほど甘くて美味い。
「いやあ、美味かった。七輪ってすごいですね。でも昔の人は毎日これで焼いて食べていたんですよね。それってある意味豊かですよね」
「そう。美味いものを食うのは豊かなことなんだ。幸せになれるしね」
焚火をいじりながら僕は続けた。
「こうやって焚火の炎を見ながら星空を仰ぐ。これって洋の東西を問わず人類が何千年もの間やってきたことなんだよ。人間の原点に戻っていく気がするよ」
「ナルホド」
「オレはこういうことを娘に教えたいな。テレビだってインターネットだってほんの何十年のものだぞ。それよりこの焚火は何千年の歴史があるんだってね」
南十字星が濃い藍色の空に瞬いた。時間は限りなく緩やかに流れる。

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全く子供ってヤツは世話がやけるぜ。

2016-06-18 | 
今は冬が始まる前に色々な家の仕事をする時期である。
大体、秋と春に2回石鹸作りであったり、土作りであったり、そういったイベントがあるのだが1年に1回のイベントもある。
ニワトリの入れ替えである。
まあ簡単に言うと古くなったニワトリを絞めて食っちまって、新しく買ってくるのだ。
まず古いヤツ、と言っても一昨年買ったヤツを絞めるところから始まる。
もう卵を産まなくなって久しいので可哀想だがあの世にいってもらおう。
捕まえる前に手を合わせ感謝の意をブツブツと唱える。
「今まで美味しい卵を産んでいただきありがとうございます。君の命は余すことなくいただきますので、ちょっと怖いだろうけど堪忍ね」
そして鶏を捕まえて足を縛り、木にぶら下げて頭に血を昇らせる。
犬のココは既に察したのか興奮しているが、家の中に閉じ込めておく。
ガラス越しに外に出たそうにして恨めしそうにこちらを見ているが、ニワトリの貴重な命はココのおもちゃではない。
しばらくして鶏がぐったりとしたら、首元の血管をナイフでザクッと切る。
毎度のことながらあまり気持ちの良いものではないが、これもまた避けては通れない道である。
手を合わせお経でも唱えてあげたいところだが、あいにくお経を知らないのでナンマイダナンマイダと唱える。
鶏は血をたらーっと流して時折痙攣したが、やがて静かになった。
人間も動物も鳥も死ねば全てホトケ様、ここからは作業である。
先ず羽根を毟るのだが、そのために熱い湯に浸す。
もう死んでしまったから犬が来ても恐怖を感じないだろうと、出たがっていた犬を出したら、そののココがやってくれた。
僕が家の中でお湯を汲んでいるわずかな隙にニワトリの首元をかじっていたのだ。
「あー、このバカ!お前、それはフライングだぞ!」
ココの頭に拳骨をゴツン。
あたりは既に毛が散らばり、噛み千切られた胃袋から未消化の餌がこぼれた。
きれいにやらないと、後片付けが大変なのだ。
まずお湯に浸し毛穴が開いたところから毛を毟っていくのだが、ココは毟った毛の根元を噛んだり食べたりしている。
あらかた毟ったところで頭を切り落とし、そこに転がしておくと、ココは尻尾を振りながら、バキッガキッと食い始めた。
まあ食うのは勝手だがそれを見たくないので背中を向けて作業を続ける。
次に足を切り落とすと、それも生のままバキバキとやっている。
よく犬に鳥の骨を与えるのは悪いなどと聞くが、我が家の場合、これで死んだらそれが寿命だと思ってあきらめてもらおうという方針だ。
なので鳥の骨も豚の骨も鹿の足も魚の頭も全部与える。
食えるものは自己責任で食え。
手羽も元から切り落としたら、細かい羽根ごと食っちまった。
ワイルドだなあ。
さてここからは家の中での仕事だ。
はらわたを出す作業は肛門の周りを切り取り、腸を傷つけないように手で掻きだす。
何回もやるうちにコツを掴んできたのだな、今回はレバーも崩れないように出来た。
レバー、心臓、砂肝は人間用にとっておいて塩焼き。
モツは中のウンコを洗い流し、卵管や卵巣、その他の何か分からない器官と一緒に茹でたらココが喜んで食った。
あとは骨から肉を外しガラにする。
肉はとても固いので後から叩いてつくねにしよう。
ガラはスープを取りカレーにした。
その鶏ガラもココが喜んで食う。
こうやって名無しの鶏一匹、跡形も無く消滅した。
これでいいんだと思う。

さて残りは1歳のニワトリ3羽。
ここに3羽買い足すのだ。
女房と一緒に家から30分ぐらいのドライブでアカロアへ行く途中のリトルリバーという所へ行く。
ギャラリーを覗き気に入った小物を買い、こ洒落たカフェでコーヒーとケーキの後で養鶏場へ。
養鶏場と言っても牧場の一角にあり、建物の中ではなく放し飼いである。
女の人が慣れた手つきでニワトリを箱の中へ押し込む。
「はいはい、そんなに暴れなくていいわよ。新しいお家へ引っ越すんだから」
なんかほのぼのしてていいなあ。
今回買ったニワトリは生まれて3ヶ月ぐらいのもの。
ちなみに気になるお値段は1羽$28なり、3羽で$84毎度あり~、ちーん。
この種のニワトリは卵をたくさん産む種類で、1日1個毎日産む。
2歳近くまで産み続けるから400から500個ぐらいの卵を産むだろうか。
多い時には1日6個の卵である。
家で食べきれない時には近所や友達へおすそ分け。
我が家だけでなく友達家族をも幸せにしてくれる。
その投資として考えれば安いものだ。

さて無事に我が家へ着き、ニワトリ達が恐る恐る箱から出てくる。
そうそう最初に羽根を切らなきゃ。
ある程度大きくなってからだが重くなると飛ぶのをあきらめるが、若くて軽いうちは習性なんだろうな、高いところへ飛ぼうとする。
ニワトリエリアに植えてあるいちじくの木の枝の、上の方へ上の方へと行きたがる。
いちじくの木に登るぐらいならかわいいものだが、飛んでフェンスを飛び越えたら、そのままココの餌食になってしまう。
なので羽根を切るのだ。
そして毎回恒例だが、いじめ問題。
ニワトリの世界にもいじめはある。
これはもうどうしようもない。
どこぞの教育委員会のように「君たちいじめはいかん。やめなさい」などと言ってもやめるわけがない。
なので本人達でなんとか解決してもらうしかないのだ。
先輩方は後輩が餌をつつくのが気に入らないようなので、最初のうちは餌をふんだんに与える。
そうするとだいたい1週間ぐらいで逃げ方も上手くなり、そのうちに仲良くやるようになるのだ。
人間の世界でもこれぐらい上手くやってくれたらなあ。
よく人間の世界でのいじめは「いじめられる方は悪くなくいじめる方が悪い」と思われがちだがそれは違うと思う。
どちらが悪いという考え方では解決しない問題だろう。
極論で言えば、どちらも悪くなくどちらも悪く、どちらにも責任はある。
僕も昔いじめられたこともあるし、いじめたこともある。
一つの事柄を被害者は善で犯人は悪という考えではなく、双方で一つの事柄を起こしたという考え方。
ちなみにこの考え方は今の世の中ではあまり受け入れられない。
人間は表面だけ見て全てを把握したいのだが、目に見えないことが鍵になっているということはいくらでもある。
もっと言えば目に見えない物事の方が大切なのに、人間はそこから目を背けている。
話が脱線したな。
夕方になると先輩方はさっさと止まり木に登り寝る体制になるのだが、若い奴らは鳥目の癖に宵っ張りなのか、新居になれていないのか、いつまでもうろうろしている。
そいつらを捕まえて止まり木に止まって寝ることを教えてやるのだが、そのままちょこんと座る物もあるが、落ち着かないヤツもいる。
落ち着かないヤツは先輩方の方へ行き、つつかれることもあるし、時には先輩を止まり木から下ろしてしまうこともある。
暗くなってからニワトリ小屋へ行き、下で寝ているヤツを止まり木の上へ乗せてあげる。
真っ暗になるとさすがに下が見えなくて観念するのか、そのまま寝る。
これまた慣れるのに1週間ぐらいかかる。
全く子供ってヤツは(人間でも動物でもニワトリでも)世話がやけるもんだぜ。
そこが可愛いんだけどね。



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体のメンテ

2016-06-11 | 
季節が移り行く中、南半球では着々と冬に向かっている。
僕は夏は山歩きや観光、冬はスキー関連の仕事をするのだが、その合間にはいろいろとやることが目白押しだ。
庭仕事ももちろん、保存食や石鹸を作ったりという生活のための仕事はいくらでもやることがある。
そして来たるべくスキーシーズンに備えて用具の点検整備、そして体もである。
1年に2回、僕は近所のオノさんという整体指圧の人にボキボキとやってもらう。
以前もブログには書いたのだが、この人の施術は痛いのである。
どれぐらい痛いかというと、大の大人が泣きわめき叫び声を上げるぐらい。
普通のマッサージだと「あ、そこ痛い」と言うと力を緩めてくれる。
ところがオノさんの場合「あ、そこ痛い」などとと言おうものなら
「そうだろうな、痛いだろうな。痛いだろうけどこの奥はもっと痛いんだよ、ほら」
なんて話しながら、奥のツボをグリグリとやる。
僕は台の上で七転八倒したいところだが、押さえられているので動けず足をバタバタするのだ。
今は変わりつつあるかもしれないが、西洋医学というものは基本的に悪いところだけを診る。
膝が悪かったら膝だけを診るのだし、腰が悪かったら腰だけを診る。
どこも悪くなかったら、診るところが無いので診ない。
オノさんは悪いところも診るが全体を診る。
オノさん曰く、人はみんな悪くなってから治してくれって来るんだけど、悪くなってから治すより悪くならないように施術をする方がよっぽどいい。
言いえて妙、理にかなっている。
僕は腰が悪く、昔はぎっくり腰をやって何週間も動けなかったこともあったし、真っ直ぐに立てないような時もあった。
オノさんと出会ってから8年になるが、ひどい腰痛は無くなり、何とかやっている。
なので僕は年に2回、時間を見つけて通うのだ。
風邪をひいた時に無理にこじらせるより、風邪のひき始めにさっと治してしまう方がいいし、何より風邪をひかない方のがベストだ。
予防医療とでも言うのか。
仕事が忙しく疲れてくると腰もそうだが体全体が強張る。
そんな時に体中ボキボキやってもらうと、痛くて気持ちよく、グニャグニャになる。
なんといってもその後のおしっこが気持ちよい。
なんか体の毒素が洗い流されるような、そんな感覚である。

以前、ここに住むMさんという人とオノさんの施術について話したことがある。
僕の話を聞いてMさんはこう言った。
「じゃあ、あなたの身体においてオノさんがいなくなったら困るじゃないか」
うーん、困ると言えば困るんだろうけど、ちょっと違うかな。
困ると言うなら、Mさんの外的に要因を持ってくる考えの方が困る。
それはあたかもオノさんに依存しているように捉えられてしまったのだ。
依存をするのではなく、今ある状況で1年に2回ぐらいやってもらうのが自分の身体にベストなのでやってもらう。
いなくなったら?そりゃ相手も人間だからいつまでもやっているわけでもなかろうに。
なくなったらなくなった時に考えて、その時のベストを選択をすればいいだけの話だが、こういう人とは話がかみ合わない。
外に要因を見出す人は外ばかりを見て、内を見ない。
内とはすなわち心、意識である。
自分の身体を自分で治すワークショップ、というのを先日、友達の星子が来た時に彼がやったのだが、根底で繋がっている。
そこにあるのは自分の意思、それも確固たる意思であろう。
その意識がなければ、痛い所があればお医者様に診てもらって治してもらうとか、薬で症状を抑えるというような外的に頼るやり方になるだろう。
そして良くならなかったら、良くならないと文句を言うのだろう。
人間というのものは、自分で自分の身体を治す力を持っている、と星子は言う。
確かに僕もそう思う。
そう思うのだが、自分でできないこともある。
背中のツボをグリグリとやるのはできない。
これは逆立ちしても、天と地がひっくり返ってもできないものはできない。
本人だって言っていた「俺は自分で自分の身体をできないんだよな。たまに他の人にやってもらうんだけど、『ああ、いいな、もうちょっと深く』という所でやめちゃうんだよ、みんな」
本人でさえできない所、それをオノさんにやってもらうのだ。
それは依存ではなく、意思による選択である。
たぶん他の患者さんもそうなのだろうが、その意思があるからわざわざお金を払って痛い思いをしにオノさんの所へやってくる。
いや、まあ、痛いのを求めて来るわけではないだろうな、SMクラブではあるまいに。
その人の身体にベストだと知っているから、痛いのがあるのを承知で来るのだ。
だから来ない人は1回で来なくなると言う。
まあ、それもありだろうな。
AさんにとってのベストがBさんにとってのベストではない。
ちなみにMさんとは今はつきあいはない。
波が合わないとはこういうことなんだろう。

オノさんとはまあ波も合い、プライベートでもつきあいはある。
オノさんちのペンキ塗りを手伝ったり、引越しの手伝いをしたり、うちへご飯を呼んだり、家族共々のお付き合いである。
お付き合いと言えば、年に2回の施術の後は二人でビールを飲みに行くのが習慣になっている。
オノさんもそれを楽しみにしているところがあり、僕の予約はいつもその日の最後だ。
1日の終わりに僕をボキボキやって、その後オノさん行きつけのパブでビールを飲む。
グニャグニャになったところに冷たいビールをキューっと。
ビールはジャグで頼むのだが、このパブはジャグもキンキンに冷えている。
ジャグとは1リットルぐらいの入れ物で、日本だとピッチャーなどと言うがここではジャグと言う。
ビールを買うのがこれが一番安いのだが、クィーンズタウンあたりの洒落た店では最近ジャグを置いていない店が多い。
そしてまたお決まりで、つまみは塩ピーナッツ。
席はいつも競馬中継をやっている場所、別に賭けるわけではないがそこが定位置なのだ。
二人で近況報告やら、あーだこーだ話しながらビールを飲む。
一杯目はスパイツを飲み、二杯目はハーフアンドハーフ。
半分はオリジナルを入れてもらい、残り半分は黒。
オノさん曰く、これは同じ会社のビールでやらなけらばダメだそうな。
ここのパブでオノさんがそれを注文したらみんなが真似をしてやりだしたと言う。
確かにダークほど濃いのはいらないな、というときに半分ぐらいのコクがあるというのはいい。
お店にしても値段が変わるわけではないので、イヤな顔をせずにやってくれる。
そうやってビールを飲んでいるとおしっこが近くなる
連れションでトイレに行くといつも8年前を思い出すのだ。
まだオノさんとの臭い関係もまだ続くだろうな。





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太陽と共に生きる。

2016-06-08 | 日記
冬はつとめて、と枕草子が言っているが最近は早朝の散歩が日課である。
それもちょうど日が上がってくる時に犬のココと散歩に行く。
さすがに天気が悪い時には行かないが、晴れた日は日の出を見るのを兼ね散歩に行く。
もともと朝は早いたちなので暗いうちに起き出して行動は始める。
僕のシーウンオフの行動は時計の時間よりも太陽に合わせて動く。
お日様が昇る前、暗いうちに起きて、お日様が沈んで数時間後に寝る。
もう十数年もそんな生活をしているのでこれが当たり前になってしまった。
特にニュージーランドでは日が昇ってくるのが遅く日の入りが遅いのでちょうどよい。
日本では日の長い時に居たということもあったが、朝太陽が上がったので散歩に出ると街がまだ起きていないということがよくあった。
太陽はかなり高く上がっているのだが、ほとんどの人は眠っているのだろう、活動している人が少ない。
もったいないなあと思った。
人間が時計の時間に合わせて行動しているならば、その時計をずらしてあげれば、この太陽が明るく照らしているエネルギーを人々が起きている時間帯に使える。
そうすれば原発なんかを動かすよりもよっぽど省エネになるだろうに。
なんでこんな簡単なことに気がつかないんだろう。
こういう話をすると必ず「それは○○だから無理だ」という人が出る。
○○の所には、御用学者やマスコミやどこかの偉い人が言った言葉、もしくは自分にとって都合のいい解釈などが入る。
「ああ、それは面白そうだ」とかではなく「無理だ、難しい」と言う。
「無理だ、難しい」と言っているのは自分の心であり、「面白そうだ、できたらいいな」と言うのも自分の心だ。
高杉晋作の辞世の句 『面白き こともなき世を 面白く』という句は有名だが下の句はあまり知られていない。
『すみなしものは 心なりけり』 そう、結局どうあるかは心なのである。



暗いうちに起きて、お茶を飲みながらこんな毒にも薬にもならないようなブログを書いているとだんだん空が明るくなり始める。
「さあ、ココ、散歩に行くか?」
もうその一言で犬は喜び勇んで尻尾を大きく振る。実に分かりやすい。
犬というヤツはとかく散歩が好きで、散歩に連れて行ってもらえるなら朝だろうが夜だろうがいつでも良いのだ。
外は真冬の寒さである。気温はマイナス2度。雪山のような装備で外に出る。
冬はつとめて、霜のいと白き中、サクサクと草を踏み歩くさまいとをかし。
などと想っていると、犬がすぐ横でウンコをして気分台無し。
とにもかくにも早朝の公園は人もほとんどいなく、気持ちが良い。
今年は秋に暖かい日が続き、街の街路樹もまだ葉っぱを残しているが、最近になって山に雪が降った。
遠くに見える山はすっかり冬景色で、気の早いスキーヤーは既に滑ったようだ。
そうしているうちに山のてっぺんが赤く染まって、みるみるうちに山全体が朝日に染まる。
数週間後にはあのはるか彼方の山の山頂に立ち、こちらを見るだろう。
山の麓に住み常に山を見て暮らす友もいる。
それはそれでいい家だなと思う。
だが僕は今自分がいる、この距離感が好きでもある。
目をこらせばかろうじてどの斜面か識別できる距離は直線距離で言えば50kmぐらいだろうか。
途中に視界をさえぎる物もなく、またこれ以上遠くなったら肉眼では見えない、ぎりぎりの距離感なのだ。



牧場を歩いているうちに平野部にも日が差してきた。
目の高さから一点のまばゆい輝きが現れ、それはあっというまに大きさを増し黄金の玉になる。
これこれ、これがクライストチャーチの良い所だ。
クィーンズタウンは景色がきれいな所だが山あいの街なので太陽は山の陰から上がる。
場所によっても違うが、太陽がかなり高い角度になって顔を出すという所もあるし、冬の間は全く日が刺さない場所もある。
その点、平野というのは太陽が水平方向から上がる。
東側が海というのも一つの要素である。
地平線から上がっ他ばかりの太陽は美しく神々しい。
僕は朝日に向かって拝む。
声を出して拝む。
「お天道様、今日も昇ってきていただいてありがとうございます。今日もこの大地を照らしてください。」
そしてイメージを持つ。
自分が今居る社会、具体的にはクライストチャーチの一角ぐらいだ。
その社会の子供たちが元気に学校で学ぶ様を、通り行く車の運転手が明るく働く様を、そういう肯定的なイメージを浮かび上げる。
そういった地域全体を上に昇らせるようなイメージをお日様にお願いする。
太陽が昇るということは当たり前のことだが、その当たり前のことに意識を向けることが大切なのだと思う。
そんなことをしていると、犬のココがしびれをきらして「早く行こうよ」という顔で寄ってきた。
さて今日もいい1日になりそうだ。
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田舎の航空ショー

2016-06-03 | 過去の話
これまた古い話を載せる。
書いたのは10年前ぐらいだろうか。
航空ショーの仕事は1回きりだったが、普段とは違う色々な物事が見えた。
貴重な体験のお話。



3月の終わり、ニュージーランドはイースターホリデーを迎えた。
イースターは復活祭というもので日本ではあまり馴染みがない。
春分の日から数えて、最初の満月の日の後の週末がこのイースターホリデーである。
週末を挟むように金曜日と月曜日が休みになるので4連休となる。
この週末にはニュージーランド国内でも、あちらこちらでイベントがある。
今回の仕事はワナカの航空ショーへのドライバーである。ちなみにボクはこの航空ショーへは行ったことがない。
お客さんは世界の航空ショーを渡り歩いている航空マニアの人達である。
バカでかいレンズをつけたカメラをかまえカシャカシャと写真を撮るような人達だ。
何の世界であれ、その分野に優れた知識や経験を持っている人の話は面白い。
お客さんの一人に大学のセンセイがいて、いろいろと話をしてくれる。解説付きの航空ショーである。
僕らの目の前に一機の古い複葉機がやってきた。
メインのプロペラが2つ下の翼についているが、上の翼の左側、飛行機に肩という言い方があるのかどうか知らないが、ちょうど肩のあたりに小さなプロペラが一つついている。
ボクはセンセイに聞いた。
「あの小さなプロペラは何ですか?」
「あれはバッテリーを充電するもの」
「え~!バッテリーを」
ボクは思わず笑ってしまった。だってそんなのあまりに原始的じゃないか。
「君は笑うけどね、あれは電気系統が壊れた時にも使うんだよ。飛行中電気のものが動かなくなると困るでしょう。コンパスとかあるのだし」
「ナルホド、じゃあ他の飛行機にもあるんですか?しまってあるか何かで?」
「まあ、そうだね」
「ふーん、そうなんですか」
よく考えてみれば当たり前の話である。車であれば電気がなくなっても止まればよい。
だが飛行機は簡単に止まるわけにはいかない。安全に止まるためにも電気は必要だ。
飛行機は飛んでいる間は常に風を受けているんだし、その風をバッテリーの充電に使うことは理にかなっている。
メインのプロペラで生んだ動力エネルギーをワンクッションおいて電気エネルギーに変える。
文明の進化の過程にあった飛行機なのか。その後バッテリーはエンジンから直接充電されるようになり、小さなプロペラはなくなってしまったのだろう。
別のプロペラ機がやってきて、センセイの話は続く。
「この飛行機の前期型はプロペラの羽根が3枚、後期型は羽根が4枚なんです」
「へえ~」
この人はそんな事まで知っているのかスゴイなあ、とその時は思った。だがこれだって進化の過程だろう。
同じシャフトを回して風を作るなら、プロペラの羽根が多い方が効率が良いのではないか。
そういえばクィーンズタウンへ飛んでくる飛行機はプロペラの羽根は6枚だったな。
同じ飛行機の前期型と後期型の間には、研究室での度重なる実験なんてのもあっただろう。皆さん、ごくろうさん。
センセイのいろいろな話を聞いて、その時はへ~と思うだけだが、後でよくよく考えてみると全て理にかなっている。
文明の進化の過程が一つ一つの飛行機にやどっている。
人間はどんな話を聞いても、受取手がボンヤリしていると目の前を素通りしてしまう。へ~、で終わってしまうのだ。
話を聞き自分で考え、かみ砕き消化して自分の物とする。
知らなかった事を知るのは楽しいことである。勉強とはそもそも楽しいものなのだ。
楽しいはずの勉強をつまらなくしたのは誰だ!と怒ってみても始まらない。
センセイの話は続く。時々難しくてついていけないこともある。
話というのは聞く方もある程度の基礎知識が必要である。
でないと会話のレベルが下がり、文字通りお話にならないとなってしまう。
が、そこはそれシロートの強みで「ボクは何も知らないのでいろいろ教えて下さい」と頼みこみ話のレベルを下げてもらう。
それでもなおセンセイの話は難しいのだ。
これがお客さん同士の会話だとボクにはもうお手上げ、チンプンカンプンである。
「この飛行機は世界のどことどこにあり、どこそこではまだ飛ばしている」
「どこそこの航空ショーでは、こんな具合だ」
「どこそこの国でジェット機を操縦する免許をとった」
などなど、ボクは素直に『へ~、マニアってすごいな』と思うばかりである。
同じ飛行機の写真を撮るのでもバックが砂漠か山かで絵は全然違うそうだ。
バックに雪の載った山なんかがあると最高。今年は周りの山は緑だが、2年前は山が白かったと言う。
だが飛行機の音がするたびに、大の大人がワクワクと「次は何が来るんだろう」と滑走路を覗く姿は微笑ましいものだった。
この人達は本当に飛行機が好きなんだなあ。
これが軍事マニア(会ったことは無いが広い世の中には居てもおかしくはない)ならば軍用機にだけ興味を示すのだろう。
今回出会った人達は飛行機なら戦闘機から旅客機、輸送機、山火事を消すような仕事をする飛行機、自家用のセスナ、果てはグライダーや一人乗りのヘリコプターみたいな物まで空を飛ぶ物なら全ての飛行機がとことん好きなのだ。
古い飛行機をたんねんに整備して飛ばす喜びがあれば、それを見て楽しむ喜びだってある。
そこには愛がなくてはならない。人間が愛するものは生き物だけではない。
機械や道具に対する愛も存在する。女の人にはあまり理解ができないだろう。
そしてそれを『男のロマン』と呼ぶ。

それはそうとボクは航空ショーというものを見るのは初めてだったが、なかなか楽しいものだった。
一昨年はこの横の道路を車で通っただけで、何かやってるなあ、ぐらいにしか思わなかったのだ。
ショーにはプログラムがあり、シナリオごとにその時代の飛行機がでたり、アクロバットをやったり編隊で飛んだりする。
第一次世界大戦のシナリオではフランス対ドイツの模擬戦闘である。
複葉機というのは翼が上下に2つあるものだが、ドイツ軍のやつは上中下と3枚もある。ボクは思わず言った。
「へえ、3枚なんてのもありなんですね」
「そうさ、最高で8枚なんてのもあったんですよ」
複葉機の上には機関銃がちょこっと乗っかっている。
「あれはどうやって撃つんですか?」
「上からヒモがぶら下がっていて、それを引っ張ると弾が出るんです」
飛行機はほんのわずかな距離の滑走であっという間に飛び上がった。
スピードは極端に遅く、風の中でフワフワと飛ぶ様子はイメージとしては凧だ。
ベトナム戦争のシナリオでは、地元の軍事愛好家の人達だろうか、大砲を備え付け滑走路を挟んでドンパチとやる。
飛行機が低空飛行で機銃掃射をすると、向こう側のハリボテの基地から火の手が上がる。
BGMはジミーヘンドリックスそしてドアーズ。
カーキ色のスカートにシャツ、ネクタイ、斜めに帽子を頭に載せたお姉さん方がジープでやってきて愛敬をふりまく。
遠くから見るとお姉さんだが近くで見たらオバサンだった。
第二次世界大戦のシナリオではアメリカ対日本。
ゼロ戦に見立てた緑に赤い丸は日本軍、ただしこの飛行機は中国製だそうだ。
これがアメリカ軍にやっつけられるというもの。
どうせやるならBGMは軍艦マーチなんてのがいいな。
会場の周りは盆地のような地形で、山の手前にクルーサ川が流れている谷間がある。
谷間へ煙を出しながら下っていく様子は本当に落ちているようだ。
なかなか見せるね。

プログラムは昔の戦争のシナリオばかりではない。ニュージーランド空軍の時間もある。
ハーキュリーズという名前の輸送機が出てきた。
ギリシャ語で言えばヘラクレス、ギリシャ神話に出てくる神ゼウスの息子だ。
いかにも軍用機です、といった緑色の機体にプロペラが4つ。大きさは中型の旅客機ぐらいだろうか。
それが滑走路の中程からスピードを上げたかと思うとあっという間に離陸してしまった。
「あんなに短い距離で離陸できるんですね」
「そう。作戦によっては滑走路を長く取れない場所もあるからね」
「ナルホド、そうですよね」
飛行機は急上昇である程度の高さまで行くと、機体の後ろがパカリと口を開けナンダナンダと思う間にバラバラと人が落ちてきた。
落下傘部隊である。ショーなのでいろいろとある。
飛行機は谷間を旋回し急下降、谷間に入り着陸の前に姿を観衆の前から一瞬消し、フワッと浮かして着陸するサービスぶり。
やるじゃん、ロイヤルニュージーランド空軍。
「すごおい、軍用機ってあんなこと出来ちゃうんですね。普通の旅客機なら絶対にやらないでしょう」
「うん、そうだね。それよりも日本だったらまずあんな飛行許可おりないよ」
飛行機は滑走路に着陸。メインスタンドの前を通り過ぎるのかと思いきや、ブーンという音と共にピタっと止まってしまった。
これにはボクも驚いた。だって普通、あの大きさの飛行機なら滑走路の向こうまで行って戻ってくるのに。
「どどどどど、どうやって止まるんですか。あんな短い距離で?」
「あれはね、4つのプロペラが板になるでしょ?」
「板に?」
「プロペラの向きを変えれば高速で回っているんだから、板と同じことですよ」
「ナールーホードー」
短い距離で離陸しなければならないのなら、短い距離で着陸しなければいけないのも軍用機の宿命である。
プロペラの羽根の1枚1枚が向きを変えれるようになっているのだな。
マニアの間では当たり前の事かもしれないが、ニュージーランドの南島なんて羊しかいないような場所に住んでいる人間にとっては全てが珍しいのだ。

ロイヤルニュージーランド空軍に引き続き、ロイヤルオーストラリア空軍の時間である。
突然耳をつんざく音がしたと思ったら音速のジェット戦闘機がやってきた。
ボク達の頭上を轟音と共に通り過ぎる。空気がビリビリと震える。ボクは思わず聞いた。
「すごーい!これって最新なんですか?」
「これはベトナム戦争が終わる頃出た物だから40年ぐらい前の物です。今じゃあこの機は古くてオーストラリア軍ぐらいじゃないかな、使っているの」
最新の戦闘機がこんな田舎の航空ショーに来るわけがない。
「ニュージーランドはこういうのを持っていないんですかね?」
「昔はあったようだけど、今は無いですね」
こんな戦闘機を持つ必要の無い国がニュージーランドなのだ。お隣オーストラリアからショーの為に持ってきたのだという。
飛行機は盆地を大きく旋回しながら、時々会場の真上を飛ぶ。
一般席ではテントはビリビリ震えるわ子供はびっくりして泣き出すわの騒ぎだった。
見ていると飛行機の形が変わっていく。来た時には全体の形は三角形だったのだが今は翼が横に広がり普通の飛行機の形である。
「あれって、翼が出たり入ったりするんですか?」
「そう、音速で飛ぶときにはしまうんですよ。見ていてご覧なさい。そのうち火を吹くから」
火を吹くってなんだ?と思っていると機体の後ろから大きな炎が出た。
ジェット燃料を放出してそれが燃えるのだ。サービスサービス。
ジェット燃料のムダ使い、と言ってしまえばそれまでだが、多くの人が楽しむ為にちょっとぐらいのムダ使いはあってもいいと思う。
以前読んだゴルゴ13の中で、音速のジェット機は速すぎて複葉機を撃墜できないという話があった。
確かにこの鉄の塊がぶっ飛んでくるようなやつじゃあ、あのフワフワ飛ぶ凧みたいなのはやっつけられないな。
但し、凧でジェット機を打ち落とすこともできない。
戦闘機の次は大型輸送機である。さきほどのヘラクレスより一回り大きいジェット機が会場を旋回する。
車輪を出し低空で飛行するが着陸はせずに飛び去っていった。
会場のアナウンスによると、ワナカの飛行場の滑走路はこの飛行機の重さに耐えきれないので着陸はしない。
滑走路の重さ制限なんて普段考えたこともないがここでもやっぱり「へえ、そうなんだ」である。
「飛行機の歴史、というのはスピードの進化でもあるんですね」
「そうだね」
「最新式のが出てくる航空ショーもあるんですか?」
「あります。だけど一般に公開するのは1日か2日ですね」
「残りは?」
「軍の関係者とか」
「武器商人とか?」
「そうです」
あーあ全く、と思いながらこのニュージーランドの田舎の航空ショーにいることを喜んだ。
だって砂漠の武器商人やゴルゴ13みたいなのがウロウロしている航空ショーはいやだ!
「今、最高の戦闘機はどれぐらいのスピードなんですか?」
「マッハ1,5ぐらいかな」
マッハ1,5って時速何キロぐらいなんだろう。
「今でもスピードはどんどん上がっているんですか?」
「今はスピードを上げるのより電子機器関係を進めているんです。最高速で飛ぶのは緊急の時ぐらいです。あまりにロスが大きいから。それよりもコンピューターとか、機体なんかもエンジン以外は鉄を使ってないんですよ。まあ特殊なプラスティックみたいな物ですね」
「へえ~、だけどもしボクがその最新鋭の戦闘機を見ても、何が何だか分からないんじゃないでしょうかね?」
「たぶんね」
「それよりもボクには『この飛行機は翼が3枚もある』とか『この飛行機は大きいなあ』とか『この飛行機はずんぐりむっくりだなあ』ぐらいの誰が見ても分かるような航空ショー、まあニュージーランドの田舎の航空ショーが良いです」
センセイはニコニコと頷くのであった。

滑走路のはずれから低いエンジン音と共に見たこともない飛行機が来た。
「これは何をする飛行機ですか?」
「これは水に着水できるんです」
ナルホド、言われてみれば機体の下は船底のような形をしているし、羽根だって機体の上についているのはその訳なんだろう。
「元々はパイロットが海に不時着した時の救出用。機体の後ろの方に丸い窓があるでしょう。あれがパカっと開いて人を救出します。あとは対潜水艦用に爆撃もできる。舟はダメだけどね。遅いからねらわれちゃうでしょ」
確かに遅い。ゆっくりと滑走路を走り、ゆっくりと離陸していく。
ゆっくりと飛ぶ姿はダンボという愛称もある。耳で空を飛ぶ象さんのダンボだ。こういうネーミングのセンスは好きだ。
「今はもう使ってないですよね」
「今はねえ。だってホラ、形だって古いでしょ。羽根を支える支柱がついていたりして」
「フムフム」
「今はねえ、もっともっともっとすごいのがあるんだよ。日本の自衛隊が持っているスゴイのがあるよ」
どれくらいスゴイのかボクの乏しい想像力では思い浮かばないが、とにかくスゴイんだろう。

航空ショーとは飛行機が飛ぶのを見るだけではない。
会場内にはいろいろと飛行機に関連する物を売る出店や食べ物の屋台も出る。要は飛行機のお祭りなのだ。
航空ショーのロゴが入った帽子やシャツ。おもちゃやラジコンの飛行機。パイロットが被るヘルメット。鉄製のプレート。GPSなどの電子機器。遊覧飛行やニュージーランド空軍のブースもあり、その横ではセスナなんかも売っている。
会場の外れではランドローバーがズラズラと並んでいるし、昔のトラクターや消防車の展示もある。
古い機械が好きな人にはたまらないだろう。
散歩に行っていたセンセイが帰ってきて嬉しそうに言った。
「いやあ、探していたエンジンがありましたよ。迷わず買っちゃいました」
飛行機のエンジンっていくらぐらいするんだろう。マニアってすごいな。
センセイは第二次大戦当時の飛行機を復元するプロジェクトもやっているそうだ。
個人で何百万円もそれにつぎ込んでいるらしい。その世界ではスゴイ人なのかもしれない。
そんなセンセイが言う。
「私は本も書いているんですよ」
「へえ、どんな本ですか?」
「何冊か出しているんですが例えば『日本の小失敗』。これは第二次世界大戦の日本軍の失敗ですね。いろいろとあるでしょう。補給線が伸びきってしまったとか、暗号が筒抜けだったとか、そういう大きな失敗ではなく、小さな失敗もたくさんあったわけです」
「フムフム」
「例えば戦車の操縦のマニュアル。アメリカ軍はマニュアルがマンガだったわけです。基本的に頭があまり良くないからね。それに対して日本は漢字でズラズラ書いたのを読んで暗記させたわけです。戦車の操縦を覚える前に漢字の勉強をしなきゃならない」
「ナールホド。それは面白いですね」
「まあ、そういう数々の失敗が重なっていったわけですね」
新しい知識を得ることは楽しい。
戦車の操縦を覚えるのに費やすエネルギーが少なければ、余ったエネルギーを他のことに使える。
戦争は合理性の社会だ。より合理的にやったものが勝つのは当たり前だ。
合理性というのは白人の世界で生まれた誇るべき文化だと思う。
特にイギリス系の合理主義というのはスゴイ。
どこかの本で読んだが、イギリスの交通ルールはムダが無くスムーズに交通が流れるよう考えられている。
例えばラウンドアバウトというシステムがある。交差点にあるロータリーのようなものである。
大きいものは2車線、3車線もあり幾つもの道とつながっている。小さなモノは三叉路とか十字路などだ。
これは平面の交通を交差させる場合、どうすればより安全に滞らせることなく交通を流すか、という問題である。
基本的にロータリーは時計まわりで中にいる車は絶対優先。まわりの道から来た車は右から来る車に道をゆずる。
車が来なければ、もしくは安全に入れるならば入ってよし。
ドライバーは右からの交通に注意を集中させる。左側から車は来ないしラウンドアバウト内を渡る人間もいない。
このシステムの原則としては、システムを使うヒト(運転手)がきっちりと理解することだ。
でないと、『ホラ、今、行くところでしょ!』と後ろの車に思われてしまうし、システム自体を滞らせてしまうこともある。
もう一つの原則は、ルールを守ること。
どこの観光客か知らないが一度、ラウンドアバウトを逆に入った車を見たことがある。
事故にはならなかったが、立ち往生していた。こうなるとシステムは全く機能しない。
だがそのシステムを理解している人達が使えば実に効率良く交通を捌く。
もちろんシステムにも弱点はある。交通量が多すぎると滞るので信号による規制も必要になってくる。
しかしある程度の交通量でこんなに上手いシステムをボクは知らない。
車の来ない交差点で赤信号に止められてじっと待つようなバカげたことも起こらないわけだ。
このシステムが生まれたのがイギリスだがそこには『最小の規制と最大の自制』がある。
システムが円滑に動く為に自分の心を制してルールに従う。イギリス人の美徳である。
自分を中心に世界が回っている中国や、我先にという血の気の多いラテンの国では絶対に生まれないシステムなのだ。
もう一つギブウェイというものもある。
直訳すると道を与えなさい、要は道をゆずりなさい、である。
ラウンドアバウトの周りにも必ずある。
小さな交差点などにあり、安全が確認できれば行ってよし、止まる必要はない。相手がいれば道をゆいずりなさい。
日本にはこういうのはないのかな。
全てストップ、一旦停止。これは『最大の規制』である。
見通しの悪い場所や事故の多い場所で車を止めるのは仕方がない。安全の為だ。
だが安全が確認できるところで車を完全に止める必要はない。ガソリンのムダだ。
これだって最初から人に何かを譲るという観念のない中国や、行っちゃえ行っちゃえというラテンの国では生まれない。
必要なのは自制心である。
イギリスの国民性はジョークのネタにもなっているぐらいだ。
これはドイツの真面目さともちょっと違う。ゲルマン民族は時間にも几帳面でラテンとは大きく違う。
昔働いていたペンションのオヤジが豪快に笑いながら言っていた。
「日本とドイツが戦争で負けたのはイタ公のせいだぜ。ヤツら時間通りに来ねえんだから負けるわけさ。だから次やる時はイタ公抜きでやろうぜってことになってんだ」
まあ、それぐらい国民性というものは強い。
そこでイギリス系のバカがつくくらい生真面目な性格は合理性の社会で大成功をおさめる。
人間がルールに従って機械というものを操作する。
人と物との良い関係もあった。壊れれば自分で直して使い続ける。そこには愛がある。
クラッシックカーを見るのも好きだし、昔のゴーグルをつけてゆっくり走っている老夫婦を見ると手を振りたくなってしまう。
羨ましくても自分ではできないが、そういう人達は皆暖かい雰囲気に包まれている。
蒸気機関などというモノも大好きだ。そこには当時の人類の科学の先端が常にあった。
今や過去の遺物になってしまったようなモノを、今でも大事に動かしている人達もいる。
昔の飛行機を飛ばしている人も同じ雰囲気を持っている。
飛行機の進化はそのまま文明の進化でもある。
羽根は2枚から1枚になりプロペラからジェットエンジンになった。
機体を軽くし特殊な装備を付け、コンピューターで制御するようになった。
戦うために。
人を殺すために。
悲しいことだ。
もういいじゃないか。
戦を止め力を合わせれば今の人類の科学は格段に進歩するはずだ。
過去の戦争はショーのネタにして全ての人が楽しめばいいじゃないか。
だが人間は戦をやめず足をひっぱり合っている。
戦争という経験から何も学ばず、相変わらずいがみあっている。
過去は過去として目を背けず見つめて、今何をするべきか考える時だろう。
いつまで自分は正しく相手は間違っていると言い続けるのだろう。
そこからは何も始まらないし何も生まれてこない。
古いモノに愛を持ち、皆で楽しみ合うニュージーランドの田舎の航空ショーは最後まで和やかな雰囲気だった。

3日間のショーも終わった帰り道、ボクは皆を誘った。
「せっかくワナカに来たのだから、最後にちょっとだけ湖を見て帰りませんか?」
「いいですねえ、そうしましょう」
湖を見下ろす高台に立つと町と湖が一望できる。湖の周りのポプラが色づき始めている。
イースターホリデーということもあって、湖はボートやヨット、ジェットスキーなどで賑わっている。
「いいなあ、こんな所でヨットに乗りたいなあ」
センセイが言った。センセイはヨットもやる・・・が、普段は東京湾だそうだ。
「ボクはさっきの水に浮く飛行機、あんなのをここにドカーンと着水してほしいなあ。皆びっくりして喜ぶだろうなあ」
ニュージーランドでは水上飛行機をほとんど見ない。あちこちに滑走路はあるし、それよりもヘリの方が使いでがある。
テアナウ湖にセスナの水上飛行機が1台ある。その飛行機が飛ぶ時には皆なんとなく足を止めてみてしまう。
それぐらいここで水上飛行機は珍しい。
そんな場所にこんな飛行機を着水させて欲しい。
みんながびっくりするために。
へえ、あんな飛行機もあるんだなあ、と思うために。
戦うためではなく、人を殺すためでなく、皆で楽しむために。
機械とはそうやって使うモノだろう。

コメント
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