あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

クライストチャーチの美味しい水はどこへ行った?

2018-05-31 | 日記
クライストチャーチは水が美味しい都市。
今では文末に『だった』と付く。
美味しい水道水の街も過去形になってしまった。
この町の水源はアーサーズパスの氷河から来るワイマカリリ・リバーの地下水だ。
南島で最大の都市でも水道水は美味しく飲めたのだが最近変わった。
水が不味くなったのである。
急に不味くなったという話を聞いていたが、我が家に帰って来てからそれは感じなかった。
だがそれはある日突然来た。カルキ臭いのだ。
水道水をそのまま飲めば「ムムムこれは・・・」というぐらいだがお茶などいれたら「ダメだこりゃ」というぐらいである。
あーあ、悲しいな。
なので仕事でアーサーズパスに行った時に大きなポリタンクで水を汲んできてそれでお茶をいれている。
困ったのはビール作りである。
ビールのほとんどは水なので、その水が不味かったら旨いビールはできない。
正直、今の水道水でビールをつくろうとは思わない。
スプリングフィールドにはよく行くので、そこで水をもらってきて作ろう。

クライストチャーチは南側のラカイア川、北側のワイマカリリ川の間にある扇状地に位置する。
両方とも大きな川で水源は南アルプスの氷河だ。
ラカイアと街の間に、小さなセルウィン川が流れている。
流れていると言っても水は地下を流れているので、ほとんどの場所では枯れた沢のようにしか見えない。
このセルウィン川はクライストチャーチの南西にあるエルスメラ湖に流れ出す。
湖への流れ出しの辺りは川幅もそれなりに広い。
昔は釣り人のための集落があった。
今でも建物はあるのだが人影は見えない。
とにかく臭いのである。
ドブ川の匂いがあたりに充満して、とてもこんな所にいたくないというような場所だ。
前回にここへ来たのは10年以上前の話か。
釣り好きな友達が日本から訪れ、それなら近場でこんなところがあるよ、と連れてきた。
その時にはここまで臭くなかったが、今は酷いものだ。
自分が住んでいる場所の近くにこんなひどい場所があったのか、とショックを受けた。
観光客が絶対に目にする事の無いニュージーランドの姿である。



この川の中流部はカンタベリー平野を流れる。
国道一号線を通ると、穏やかな牧場が広がる場所だ。
この流域一帯も昔は羊の牧場だったのだが、ここ最近、と言っても20年ぐらいのスパンの話だが乳牛が増えた。
それにともない大型のスプリングクラーも目立つ。
国道を走っていると牧場の中にポツンと何やら大きな工場が目に入る。
中国が主に出資してできた粉ミルク工場である。
昔知り合った人がここで働いていた。
その人は日本の商事会社の派遣で来て3年ぐらいそこで働いていて、色々と興味深い話をしてくれた。
今や世界で流通している粉ミルクの3割はニュージーランド産であること。
そしてニュージーランド牛乳の国内消費は3パーセントだと。
後の97パーセントは粉ミルクにして輸出しているのだと。
それを聞いて驚いた。
3パーセントしか国内で消費していないのか、それでいてなんだこの乳製品の高さは。
ここニュージーランドは酪農大国になろうとしている、いやもうなっているのだが、スーパーでのバターをはじめとする乳製品の値段は高い。
ある話だと近隣諸国よりも高いと言う。
何だよそれ、おかしいじゃないか。
国内でそれだけしか需要が無いなら、国民用に牛乳用の蛇口があって誰でもそこへ行けば牛乳が汲める、ぐらいのことがあってもいいだろうに。
国民は高い金を払い乳製品を買い続ける。
そして利潤の行く先は最終的に多国籍企業なんだろうな、たぶん。
この3パーセントという数字を聞いたのもすでに10年前の話で、それからも酪農は増え続けているので数値も変わっていることだろう。

ある仕事でお客さんを連れて牧場へ行った。
そこは家族経営の牧場で昔ながらに羊を飼っている。
そこの牧場主が言った。
「羊の牧場というのはどこからも経済的な援助は出ないんだ」
僕は言葉の趣旨が分からずに聞いた。
「それって良い事?それとも悪い事?」
「良いことさ。どこからも援助を受けないってことは誰の言いなりにもならないってことだ。どれぐらいの羊を飼いどれぐらいの数を売るっていくことを、ワシはワシの判断で決められる。金をもらってしまったらそれができなくなる。」
そこから先は聞かなかったが、援助を受けて酪農を始める人への痛烈な批判であろう。



冬の仕事でお客さんと一緒に山へ向かった時にその人が言った。
「ワシは北島で酪農関連の仕事をしているが、この地域の降雨量の少なさでこのやり方で酪農をやるのは間違っている。」
その筋の人でも、今のこの辺りの牧畜をこう見ている。
だいたい1リットルの牛乳をつくるのに1000リットルぐらい水が必要だと言う。
雨が多い場所なら雨水で牧草が育つが、雨が少ない場所では川から水を引っ張ったり、地下水をくみ上げたりしなくてはならない。
あまりに多量の水を使うので、水力発電に必要な水が足りなくなる、なんて話も聞く。
ちなみにこの国の発電の6割が水力発電である。
クライストチャーチからクィーンズタウンへ向かう国道沿いでも大型の散水機械が目立つ。
この機械は1点を中心にコンパスで弧を描くように動きながら水を撒く。
長さ何百メートルもあるような機械は、水圧で車輪を回しGPSが内臓されたコンピューター制御だ。
この機械だって安くは無い。
そしてその中心点まではパイプで水を引っ張ってくる。
近くには貯水池も必要だ。
スキー場へ向かう道の途中にも大掛かりな散水のための貯水池が去年できた。
そういった設備投資で莫大な金がかかるだろうということは、素人の僕にも想像できる。
たぶん借金をしたり、どこぞの会社から援助を受けたりして、事業を始めるんだろう。
雇用が増える、経済発展の為、という意見もある。
まあそりゃそうだろうな。
牧場と粉ミルクプラントを行き来するトラックドライバーは高い給料をもらえるらしい。
そして1年のうち3ヶ月は有給休暇があるのだと。
そういった事柄が乳製品の価格を吊り上げているのではなかろうか。
僕の周りには大型の散水による酪農反対派が多いが、どんどんやって金稼げばいいじゃんという賛成派もいる。
この国の人でも意見が真っ二つに分かれている。



牛乳の話ではなく、水の話だった。
ひょっとすると水が不味くなったのと酪農は無関係かもしれない。
きっと御用学者ならばそう言うだろう。
だが下流のあの水の汚れを見てしまうと「なんだかなー」と思うのである。
水が不味くなって不快になるのは人間だけではない。
犬のココだってそれが分かる。
ココは水道の水はほとんど飲まないで、庭に溜まった雨水を飲んでいる。
犬用に雨水を貯めることも考えなくてはならないか。
そして物言わぬ植物も水の味の違いは気づいていることだろう。
温室では雨水を室内に引き込む仕組みにしてあるが、それ以外のところは水道水を使うしかない。
人間だけでなく生き物にとって空気の次に大切なのは水だ。
今の世の中で綺麗な水というのは贅沢な物になってしまったのか。
今の発表だと水道水にカルキを入れるのも1年ぐらいだと言うが、はてさてどうなることやら。
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教官デビュー。

2018-05-29 | 日記
ニュージーランドでは16歳から車の免許が取れる。
以前は15歳だったが法律が変わって16からになった。
最初はラーナーというカテゴリーで、これは筆記試験のみ。
筆記試験に合格すると免許がもらえ、車にLのマークを付け免許を持った大人が横に乗っていれば、という条件付きで運転ができる。

僕が日本で免許を取ったのは高校3年生の時だった。
家から自転車で20分ぐらいの所にある自動車学校へ通い免許を取った。
教わるのはそこの教官。
机に座っての講義もあるし、実際に車に乗ってもあった。
車はマニュアル車でクラッチのつなぎ方を覚えるまでに何回もエンストをおこしたものだった。
自動車学校内のコースで何時間か練習してハンコを貰うと路上へ出てテストを受けて仮免許をもらった。
そこを卒業して、運転免許試験場で筆記試験で合格して、晴れて免許を取った。
そうやって取った免許も今では日本にほとんど帰らないので失効してしまった。
だが日本に帰る時にはこちらで国際免許を取っていくので、何ら問題はない。

こちらでは自動車学校は無く、大体は親が教える。
諸事情で教えられない人には第三者によるドライビングレッスンもある。
それは公道を使ってする。
東京のような大都会でそれをやったら大変なことになるだろうが、ニュージーランドは所詮田舎。
道幅は広いし交通量は少ないのでそれでもいいのだ。
娘が15になる頃から近くのカンタベリー公園で運転の練習を始めた。
そこでは家畜のセリも行われるような場所で大型のトレーラーが何台も止まれるような場所も有る。
セリがない時はだだっ広いアスファルト舗装の場所が最初の練習にはもってこいである。
車はオートマなのでアクセルを踏めば走り出すしブレーキを踏めば止まる。
まっすぐ走らせるだけなら誰でもできる。
車の運転なんてものは走って曲がって止まる、それだけのものだ。
ただし曲がる時には減速しなければ道から外れるし、時にはスピンやひっくり返ってしまう。
車幅感覚というものは数多く運転して慣れて覚えるしかない。
さらには運転している時にタイヤがどこを通っているかなんて感覚も慣れて覚えるしかないのである。



娘が学校の秋休みにラーナーズ免許を取り、Lマークを付け、いざ路上実習へ。
大通りは交通量も多いが、そこから入った一角はほとんど車が通らない。
家の前の道は道幅が広い。4車線が取れるくらいの幅である。
そこで恐る恐る車を走らせる。
最初は助手席に乗っている感覚が抜けなくて、左に寄り過ぎていたがだんだん慣れてくるものである。
助手席に乗っていろいろと教えていると、自分がいかに無意識に運転しているか気づく。
対向車のスピードと位置関係、自車両のスピードとライン取り、駐車車両の動向、歩行者の有無、さらには猫などの飛び出しなど。
これが大通りに出れば、周りの車両との位置関係、道によって変わる制限速度、交差点、交通標識、信号、進路変更。
さらにはガンガン飛ばしている自転車や、前をウロウロ走っている車がレンタカーかどうかなんてものまで。
数多くの情報を取り込み、頭で整理して車という機械を操作しているのだ。
ニンゲンってすごいな。
そのうちに山道の運転の仕方とか、雪道でのチェーン脱着なども教えていこう。
娘もお年頃になり親と過ごす時間も少なくなってきたが、こうやって娘と一緒に過ごすのがオヤジの歓びなのである。

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日々の暮らし

2018-05-22 | 日記
クィーンズタウンの夏の仕事を終え、クライストチャーチへ戻ってきて1ヶ月が経った。
ブログの更新もしていなかったが、ぼちぼちと書いていこうと思う。
朝は娘の弁当を作り、送り出してから犬の散歩が日課である。
近所のだだっ広い公園を犬と歩く。
平野の空は広く太陽を遮るものはない。
低い角度から日は昇り、1日中、大地を照らし低い角度で日が沈む。
朝の太陽に手を合わせて拝む。
今日という1日、できるだけ多くの人が幸せに過ごせますように。
遠くを走るトラックの運転手が無事に仕事ができ、無事に帰宅できますように。
上空を飛行機が飛び去る。
空を旅する人々もご安全に。
風に乗って近所の小学校から子供達の声も届く。
ガキ共よ、すくすく育てよ。
その日の仕事を終えて帰途につき、家でまったりとした時間を過ごす。
当たり前の事だが、ひとつ何かあればそれは簡単に崩れる。
事故、事件、病気、怪我、その他トラブル諸々。
安泰というものは、いともたやすく崩壊するからこそ、愛おしく大切なものなのだ。
だが当たり前すぎて、人は感謝の念を忘れる。
太陽が昇って当たり前だが、そこに人は気づいているだろうか。
せめて自分だけでも、それは忘れたくないので、朝日に手を合わせて拝む。
「今日も上がってきてくれてありがとうございます。」

散歩から帰ってきて天気が良ければ洗濯をする。
洗濯をすると言っても実際にするのは洗濯機で、人間は干すだけだ。
昔に比べればずいぶん楽になったものだろう。
洗濯板でゴシゴシやっていた頃はそれに費やす時間も馬鹿にならかったと思う。
洗濯機を発明してくれた人、誰か知らないがありがとう。
そして庭仕事。
庭仕事なんてものは終わりのない無限のループだ。
この事を片付ける為にこっちのことをやらなきゃ。
いやいや、それにはあっちをやらなくてはいけないな。
その為にはそっちの事もしなくては。
どの作業も必要で大切なものである。
手は抜かない。
一つの事柄で手を抜けば、別の場所にそれが現れる。
行動、これこそが人の心の現れであり、行動なくしての思想はない。
雑草を抜かなければ畑もできず野菜も作れないのだ。
そしてその行動とは自分の心を映し出す鏡でもある。



仕事がないこの時期、僕は専業主夫となる。
炊事、洗濯、掃除、その他もろもろ。
買い物も仕事の一つである。
僕は肉は肉屋で、魚は魚屋で、野菜は八百屋で買う。
時間がなければ仕方が無いが、時間がある時はできるだけ小売の店で買う。
肉は近所に韓国人の家族でやっている小さな店で買う。
近くには安売りの大型肉屋もあり、値段だけ考えればそちらの方が安い。
だが個人商店を応援したいという気持ち、そして何と言っても買い物をして気持ちが良い。
そこの肉屋は、僕と同年代の夫婦に従業員が一人、たまに娘も店を手伝っている。
普通の肉も売っているが、ブルコギや骨付きカルビの味付けなど、韓国風のお肉も売っている。
娘のリクエストでトンカツを作る事になり、その日は豚ロースの固まりを買った。
同様に野菜は八百屋で、そこの八百屋も活気があり気持ちが良い。
トンカツと言えばキャベツの千切りだろう。
庭のキャベツは夏の収穫後、育てていないのでキャベツを買った。
ちなみに豆腐は近所に豆腐工場で買う。
そこは看板も出していない所だが、行けば小売もしてくれる。
なんといっても豆腐は鮮度が命。
出来立ての豆腐は旨いのだ。
『買い物は投票』という言葉がある。
お金をどういうように使うかで社会に投票をするのだと。ナルホド。
安いという理由で買い物をするのもその人の選択である。
だが安さの裏側には何があるのだろう。
物には正当な値段というものがある。
安さを追求するあまり、生産者が辛い思いをしているのが今の世の中ではないか。
日本の日野商人の言葉で三方良しというものがある。
作り手、売り手、買い手、これらがすべて幸せになるには正当な値段は守らなくてはいけない。
そういう世の中になる事を僕は夢見る。



買い物から帰り、再び野良仕事。
夕方、日が沈む頃に再び犬の散歩。
遠くの山に沈むお日様に再び手を合わせ拝む。
「今日も1日ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします。」
そして夕餉の支度。
リクエストにお応えしてトンカツ。
女房殿はパン屋で働いているので食パンの耳をもらってくる。
それをブレンダーで細かくパン粉を作る。
生パン粉で揚げるフライは旨い。
思えば僕が子供の頃も我が家では古くなったパンをパン粉にして揚げ物にしていたなあ。
パンをそのまま食べるのもありだが、パン粉にして冷凍しておけばハンバーグなどのつなぎにも使える。
塊の肉をそれなりの厚さに切って塩コショウ。
小麦粉を振り、溶き卵に浸し、パン粉をつけて揚げる。
トンカツといえばキャベツの千切り。
それにつけるマヨネーズも我が家の卵の自家製だ。
そして作りたての豆腐の味噌汁。
味噌はネルソン産の手作り味噌。
特別なものではないがご馳走である。
料理とはどれだけ真摯にその作業に向かうかだと思う。
手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。
煮物一つとっても、灰汁を取らなくてもできるが、その作業をやるかやらないかで結果は変わる。
それを作る自分自身を甘やかさずに、きっちりとやる。
他人の目は欺けても、自分の心には偽れない。
これは禅僧が修行としてやる作務に繋がるものでもある。
これは料理だけに限るものではないな。
全ての家事仕事がそこに繋がるものだろう。
そしてこういう仕事に休日は無い。
毎日がその積み重ねであり、それが人の生き様ではないかと、トンカツを揚げながら思う今日この頃である。

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