あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

自然に沿うか否か

2014-02-15 | 日記
ブログの更新がおろそかになった。
気がつけば2月も半ば。
1月は往き2月は逃げるとは良く言ったもので、時の経つのは早い。
最近は毎日ルートバーンを歩いており、帰っても一人でビールを飲み飯を食って寝るという生活をしていて、テレビも一切見ないので世の中で何が起こっているのか分からない。
情報社会から隔離されたような生活でニュースも見ない、唯一当てにするのは天気予報ぐらいか。
こうやって外の情報を遮断していると意識は自分の内側へ向く。
人間とは自分自身が一番見えないものだが、それを承知で自分を見ようとするわけだ。
自分が起こす行動一つ一つを振り返り、それが自然の摂理に沿っているかどうかを問う。
自然に沿うとは調和が取れているということで、愛に基づく行動であり、誰も不幸せにならない。
その行動が果たして自分だけのためなのか、自分や家族だけのためなのか、所属する社会だけのためなのか、それとも一切合切を含めた全てのためなのか、常に自分自身をチェックする。
例えばゴミを拾うという行動がある。
それ自体は何の問題もないのだが、仮にそれを人がいるところだけでやり、人が見ていない所ではやらないとしたらどうだろう。
そこにあるのは見栄であり、ゴミ拾いという物を利用している。
これは極端な例だが、自分の意識の中にそういうところがないか徹底的にチェックするのだ。
具体的に言えば、プンプン怒りながらゴミを拾う自分と、ニコニコ笑いながらゴミを拾う自分がいる。
どちらが好きか、自分に問う。
笑いながらゴミひろいをする自分が好きだ、という答が返ってくる。
ならばそうするだけ。シンプルじゃないか。
そうやってぼくは常に自分の行動一つ一つを見るようにしている。
野菜を作る自分が好きだから、野菜を作る。
ガイドをする自分が好きだからガイドをする。
山を歩く自分が好きだから山を歩く。
これが自然に沿うということなのだろう。

そしてそれが本質というものでもある。
本質、先にゴミひろいの例をあげたが、同じ行動でも本質を履き違えると違うもの、違う結果が現れる。
物を買う時にはお金を支払う。
自分が支払うお金は少ないほうがいい。
できるだけ少ない支出で、できるだけ大きな、もしくは多くの物を得る。
これが資本主義の基本的な考えであり、今の世の中は成り立っている。
お金を支払う事の本質は、感謝をしつつ正当な対価の金銀を支払う事である。
だが、資本主義に毒されてしまうと、お金を払うことイコール損をする事と思ってしまう。そこに感謝はない。
できるだけ安い物を買い求め、その結果生活の質を下げてしまう。
100円ショップが普及して生活の質が下がった、と聞いたことがあるがなるほどなと思う。
偉そうに言う自分も昔はよく100円ショップに行った。
100円で何でも買えることの何が悪い?
何も悪くない。
問題は必要のないものまで買ってしまうこと。
これは消費者の心の弱さだな。
そうやって大量消費の世ができていく。
それより何よりお金を支払う側に感謝の気持ちがなくなるのが一番の問題ではないかと思う。
自分が野菜を作り初めて気がついた。
お店で売っている野菜は安いなあ。
自分が作っている野菜がこの値段だったら悲しくなるだろう。
もっとも作り方も違えば味も違う。
それでも売っている野菜は安いと思う。作る立場で言えば。
肉だってそうだ。
先日タイのところで肉の解体を手伝ってから、パックされて売っている肉は安いと思った。
ありがたやありがたや。
これが本質なのだと思う。
高いと文句を言いながら買うか、ありがたやといいながら買うか。
それは自分次第であり、他人に言われてやることではない。
自分の心と向き合って涌き出る感情、それが感謝の心だ。
偉そうに言う自分は、スーパーで定価は高くて(値段の分旨い)値引率の大きなワインをしこたま買い込み、夜な夜な美味しくいただくのである。
ありがたやありがたや。

コメント
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