これは10年以上前に書いた話だろうか。
今はさすがに当時ほどカンゴシという言葉に違和感を覚えないが、今でもなおしっくりくるのはカンゴフの方である。
ある仕事で新婚旅行のお客さんに会った。
20代ぐらいの新婚旅行だと2人でイチャイチャしてガイドのボクが困ってしまうような人もいるが、今回のお客さんは落ち着いていて感じが良い。
旦那はボクと同じ年ぐらいで物静かなタイプである。
奥さんは30代前半ぐらいのきれいな人で、夫婦ともにとにかく落ち着いたという感じのカップルだった。
イチャイチャバカカップルのように常に2人でいて会話が2対1というのではなく、2人が各自きっちりと人格を持っているので人間として対等の立場で話ができるのがよかった。
ボクはブナの森を案内しながら彼女に聞いた。
「失礼ですがお二方は新婚さんでしょうか?」
「ええ、と言っても8年以上もつきあいはあるんですけどね」
「へえ、そうなんですか」
きっと忙しい仕事をしている人なんだろう。
「お仕事は?」
「看護師です」
「カンゴシ?ああ、看護婦さんでしょう。ボクは看護師という言葉がきらいでね。昔からずーっと看護婦でやってきたのだから看護婦でもいいでしょうに、ねえ。第一現場でやっている人はそんなの気にしていないでしょう。そんなくだらないことを言うのはウーマンリブとかさけんでいる人なんでしょ?」
「ええ、まあ、そうですね。スエーデンあたりでは○○シスターなどという言葉があって男性の看護師もそう呼ばれるんです」
日本と逆である。社会のレベルが高いとこうなる。
男と女は違う生き物である。個人差はあるが、男の得意な分野があれば女の得意な分野もある。
看護という分野に関しては女が断然優れている。看護婦で何が悪い?
社会的な権利において男女は平等であるべきである。
例えば選挙権、学生となる権利、仕事をする権利などだ。
だが男と女が全て何でも一緒の権利を持つ考えに間違いがある。立ちションをする権利はどうなる?
女にだって子供を産むという男には逆立ちしたってできないことがあるじゃないか。
今、看護婦という美しい言葉はなくなりつつある。
せめて看護師などではなく、つい最近まで一般的でなかった男の方を看護夫とすれば読み方はカンゴフで今まで通り問題はないだろうに。
こんなつまらぬ事に余計なエネルギーを使っているので物事の本質が見えてこない。
「じゃあ旦那さんは?」
「医者です」
「ナルホドね。ボクはスキーパトロールをやっていましたから、けが人を送る方だったんです。雪山では基本的に何もできないから、とにかく固定して運ぶだけです。『あーあ、これからお医者さんや看護婦さんがこのねじれた体とか飛び出した骨を治すんだ。大変だなあ』とか思いながらね」
「いえ、現場の人は大変ですわ」
「お互いに現場じゃないですか」
「そうですね」
「専門は?」
「ICUです」
ボクはアルファベットが並んでいるのは苦手だ。
「へえ・・・ふうん・・・そのえっと何でしたっけCPUですか?」
「ICUです」
「それそれ、それは一体何ですか?」
「集中治療室ってことです。急患や交通事故などの緊急の時のものです」
「そうですかあ、じゃあ旦那さんも?」
「はい同じです」
「それは大変な仕事ですね」
大都市の病院の集中治療室なんて、それはスキーパトロールとは比べものにならないぐらい血なまぐさいものを見ているだろう。
それと同じくらい人の死というものも見ているのだ。
死とは何だろう、生とは何だろうという答の出ない質問を繰り返してきたに違いない。
2人に落ち着きがあるのはそこから来ているのだろう。
「それよりガイドさんも大変じゃないですか。私達みたいな素人を案内して」
自分が何者かを知っている人、とある分野で秀でた者は自分の事を簡単に素人と言える。
確かに山の世界では素人だが医療の世界では彼等はプロだ。
その強い自信は素直に自分を見つめている。強い人でもあるのだ。
「全ての人が知識や経験を持てるわけではないですよね。でもお二人のように自然を楽しみたいという人はたくさんいます。その為にガイドはいるんです」
「ガイドになる条件は?」
「ガイドの条件とは資格もありますが、先ずガイドが楽しむこと。ガイドが楽しめなければお客さんだって楽しめないわけです。だから申し訳ないけど、今この時もボクはお二人より楽しんでいます。楽しむためには時には知識も必要ですから、それを分け与えるのがガイドだと思っています」
彼女は静かに頷いた。
美人が素直に頷くというのはなかなかいいものだ。
この美しさは彼女の内面からきているものだろう。
ボクは看護婦や医者といった職業を尊敬する。
職業を尊敬するのであって、個人ではない。
中には金もうけや出世欲に目がくらんだ医者もいるし、自分のことしか考えない看護婦だっているだろう。
でも、もちろんいい人だってたくさんいる。
純粋に『人を助けたい』という気持ちを持ち続け、現場で働く人をボクは尊敬する。
もちろん仕事となれば常にお金はつきまとうが、それ以前に働くことの原動力に愛がある職業は立派だと思う。
時には職種というものが個人の人格を作っていく場合もある。
消防士や救急隊も立派な仕事だ。人の為に自分の身を危険にさらす。
家族とか友人とかの為ならともかく、赤の他人のためにそれをする。
これはなかなか出来るものではない。愛に基づいた職業である。
人間がどういった職業を選ぶかはその人の自由である。
中にはやりたくないことを仕事にしてしまうこともあるが、それもその人が決めたことなのでボクの知ったことではない。
それよりも自分でその道を選び、第一線の現場で働く人はいい顔をしている。
厳しさと優しさが同時にあり、人生の深さを知っている顔なのだ。
ボクは今までボクが出会ったり友達になった看護婦さんの事を思い出しながら森を歩いた。
こういう仕事もいいもんだ。
今はさすがに当時ほどカンゴシという言葉に違和感を覚えないが、今でもなおしっくりくるのはカンゴフの方である。
ある仕事で新婚旅行のお客さんに会った。
20代ぐらいの新婚旅行だと2人でイチャイチャしてガイドのボクが困ってしまうような人もいるが、今回のお客さんは落ち着いていて感じが良い。
旦那はボクと同じ年ぐらいで物静かなタイプである。
奥さんは30代前半ぐらいのきれいな人で、夫婦ともにとにかく落ち着いたという感じのカップルだった。
イチャイチャバカカップルのように常に2人でいて会話が2対1というのではなく、2人が各自きっちりと人格を持っているので人間として対等の立場で話ができるのがよかった。
ボクはブナの森を案内しながら彼女に聞いた。
「失礼ですがお二方は新婚さんでしょうか?」
「ええ、と言っても8年以上もつきあいはあるんですけどね」
「へえ、そうなんですか」
きっと忙しい仕事をしている人なんだろう。
「お仕事は?」
「看護師です」
「カンゴシ?ああ、看護婦さんでしょう。ボクは看護師という言葉がきらいでね。昔からずーっと看護婦でやってきたのだから看護婦でもいいでしょうに、ねえ。第一現場でやっている人はそんなの気にしていないでしょう。そんなくだらないことを言うのはウーマンリブとかさけんでいる人なんでしょ?」
「ええ、まあ、そうですね。スエーデンあたりでは○○シスターなどという言葉があって男性の看護師もそう呼ばれるんです」
日本と逆である。社会のレベルが高いとこうなる。
男と女は違う生き物である。個人差はあるが、男の得意な分野があれば女の得意な分野もある。
看護という分野に関しては女が断然優れている。看護婦で何が悪い?
社会的な権利において男女は平等であるべきである。
例えば選挙権、学生となる権利、仕事をする権利などだ。
だが男と女が全て何でも一緒の権利を持つ考えに間違いがある。立ちションをする権利はどうなる?
女にだって子供を産むという男には逆立ちしたってできないことがあるじゃないか。
今、看護婦という美しい言葉はなくなりつつある。
せめて看護師などではなく、つい最近まで一般的でなかった男の方を看護夫とすれば読み方はカンゴフで今まで通り問題はないだろうに。
こんなつまらぬ事に余計なエネルギーを使っているので物事の本質が見えてこない。
「じゃあ旦那さんは?」
「医者です」
「ナルホドね。ボクはスキーパトロールをやっていましたから、けが人を送る方だったんです。雪山では基本的に何もできないから、とにかく固定して運ぶだけです。『あーあ、これからお医者さんや看護婦さんがこのねじれた体とか飛び出した骨を治すんだ。大変だなあ』とか思いながらね」
「いえ、現場の人は大変ですわ」
「お互いに現場じゃないですか」
「そうですね」
「専門は?」
「ICUです」
ボクはアルファベットが並んでいるのは苦手だ。
「へえ・・・ふうん・・・そのえっと何でしたっけCPUですか?」
「ICUです」
「それそれ、それは一体何ですか?」
「集中治療室ってことです。急患や交通事故などの緊急の時のものです」
「そうですかあ、じゃあ旦那さんも?」
「はい同じです」
「それは大変な仕事ですね」
大都市の病院の集中治療室なんて、それはスキーパトロールとは比べものにならないぐらい血なまぐさいものを見ているだろう。
それと同じくらい人の死というものも見ているのだ。
死とは何だろう、生とは何だろうという答の出ない質問を繰り返してきたに違いない。
2人に落ち着きがあるのはそこから来ているのだろう。
「それよりガイドさんも大変じゃないですか。私達みたいな素人を案内して」
自分が何者かを知っている人、とある分野で秀でた者は自分の事を簡単に素人と言える。
確かに山の世界では素人だが医療の世界では彼等はプロだ。
その強い自信は素直に自分を見つめている。強い人でもあるのだ。
「全ての人が知識や経験を持てるわけではないですよね。でもお二人のように自然を楽しみたいという人はたくさんいます。その為にガイドはいるんです」
「ガイドになる条件は?」
「ガイドの条件とは資格もありますが、先ずガイドが楽しむこと。ガイドが楽しめなければお客さんだって楽しめないわけです。だから申し訳ないけど、今この時もボクはお二人より楽しんでいます。楽しむためには時には知識も必要ですから、それを分け与えるのがガイドだと思っています」
彼女は静かに頷いた。
美人が素直に頷くというのはなかなかいいものだ。
この美しさは彼女の内面からきているものだろう。
ボクは看護婦や医者といった職業を尊敬する。
職業を尊敬するのであって、個人ではない。
中には金もうけや出世欲に目がくらんだ医者もいるし、自分のことしか考えない看護婦だっているだろう。
でも、もちろんいい人だってたくさんいる。
純粋に『人を助けたい』という気持ちを持ち続け、現場で働く人をボクは尊敬する。
もちろん仕事となれば常にお金はつきまとうが、それ以前に働くことの原動力に愛がある職業は立派だと思う。
時には職種というものが個人の人格を作っていく場合もある。
消防士や救急隊も立派な仕事だ。人の為に自分の身を危険にさらす。
家族とか友人とかの為ならともかく、赤の他人のためにそれをする。
これはなかなか出来るものではない。愛に基づいた職業である。
人間がどういった職業を選ぶかはその人の自由である。
中にはやりたくないことを仕事にしてしまうこともあるが、それもその人が決めたことなのでボクの知ったことではない。
それよりも自分でその道を選び、第一線の現場で働く人はいい顔をしている。
厳しさと優しさが同時にあり、人生の深さを知っている顔なのだ。
ボクは今までボクが出会ったり友達になった看護婦さんの事を思い出しながら森を歩いた。
こういう仕事もいいもんだ。