普段ならそろそろ夏の仕事でクィーンズタウンへ行く時期である。
だが今年は日本からのツアーの仕事は全く無い。
3月にロックダウンが始まった時に、なんとなくそうなるのかなぁ、と思っていたのだがやっぱりそうなった。
こういう勘が当たってもあまり嬉しくない。
今の状態だと日本にも気軽に帰れない。
親父もいい歳だが、死んでも葬式にも出られないわけだ。
去年帰った時に「俺も簡単にパッと帰って来れるわけでない、だけど今死ねば俺があんたの葬式に出られるぜ。今夜あたり、三途の川を平泳ぎで渡ってみたらどうでしょう」なんてことを言ったのだが、シャレにならなくなった。
まあ今でも電話では「美味い物を好きに食べてポックリ死ね」と親父には言っている。
ともあれクィーンズタウンでのツアーの仕事は無くなった。
酒蔵の仕事もそれほど忙しいわけではなさそうだ。
別の仕事の誘いもあることはあったのだが、色々と考えこの夏はクライストチャーチに居ることに決めた。
脳天気に見えて色々と考えるのである。
今は細々と仕事を探しながら、農業兼主夫の毎日である。
主夫と書いたが元々の言葉は主婦であり、その後で主夫という言葉が出来てきたのだろう。
昔は女が家の事をやり、男は外で働くという公式があった。
今は世の中が変わってきていて、女が外で働くのは当たり前になっている。
それでいて家事や育児もするのだから女の人は大変だ。
もちろん旦那もそれなりに手伝いをするのだろうが、家の中の事は奥さんがやるのが一般的だ。
だから奥さんの事を家内と呼ぶのであろう。
看護婦は看護師になったが、主婦は主夫で主師にならない。
種子なのか主旨なのか主枝なのか朱子なのか殊死なのか、分からなくなるから無いのか。
それとも心の奥底で女は家にいろ、と男尊女卑の考えがあるのかどうかは知らん。
とにかく『しゅふ』は主婦であり主夫なのである。
主夫の主だった仕事では毎度毎度の炊事であろう。
もともと料理をするのは好きなので、炊事は苦にならない。
最近の我が家での流行りは、ピリ辛ローストナッツ。
ピーナッツやカシューナッツ、アーモンドやクルミなどをクミン、スモークパプリカ、カイエンペッパーなどで和え、オーブンでカリカリに焼く。
これだけの物だが絶品でありビールによく合い、食べ過ぎキケンである。
そしてザワークラフト。
キャベツを塩でもみ、瓶に詰めて2週間ほど発酵させる。ただそれだけ。
材料はキャベツと塩だけだが、これだけのものが文句なく美味い。
発酵食品万歳である。
普段は夏はクィーンズタウンに居るので庭のことがほとんどできない。
今年はちょっと気合を入れて野菜も育ててみようと思っている。
野菜作りはあくまで自分そして家族ありきなので、自分が好きな食べ物を作るのが基本だ。
女房の大好物がソラマメなので、毎年ソラマメは大量に作る。
冬を越したソラマメが大きくなって食べ頃である。
人間誰しも好きなものばかりではない。
嫌い、もしくは苦手なものもあるが、そういう野菜は気持ちが乗らない。
それは無理に作る必要は無い。
体に良いから、というだけの理由で野菜を作りたくはない。
美味しくて体に良いから、というなら有りだろう。
畑を見ていれば、何が旬なのか自ずと分かる。
旬の野菜は先ずなんといっても美味い、そして体に良いのだ。
旬の物を食べていれば、そうそう病気になることもない気がする。
野菜を作る上で大切なのは土作りである。
今までも土作りをやっていたが、今年はコンポスト置き場を拡張した。
トタンの板を安く買ってきて支えを立て、外側は庭から掘り出した大きい石と粘土で固めた。
そこにある物を上手く使うというのが好きなのだ。
左右二層式で片方の土を使う間に、もう片方で土を作る。
庭木を切った葉っぱや小枝、芝生を刈ったものなどは今まではゴミとして出していたが、今ではそのゴミもなくなった。
雑草はニワトリのエサになった後でコンポストへ。
調理の時に出る野菜クズや残飯も、もちろん土になる。
鶏糞は良い肥料だ。
EM菌によるボカシも自分で作っているので、堆肥の分解は格段に早い。
ミミズも多量にいるし、その他の微生物も多い。
山積みにした堆肥があっというまに沈んでいく様は見事である。
微生物のおかげで僕らの暮らしが成り立っていると言っても過言ではない。
そうやって自分の庭で消費と生産を循環させるのが、何となく心地良い。
それには色々な作業が必要なのだ。
そういった作業を喜んで楽しんでやるのか、もしくは面倒臭いけど仕方なくやるのか。
その意識の持ち方で結果も変わってくるのだと思う。
庭の野菜は大きく分けて二通りある。
種を蒔いたり苗を買ったりして、きちんと植えて育てる物。
そしてこぼれ種から雑草状態で育っていくもの。
こぼれ種はシルバービート、春菊、コリアンダー、ごぼう、大根菜、セロリ、人参、シソ、パセリなどがある。
こういった物は植物が発芽する時期を知っているのだろう。
何と言っても強い。
畑の脇とか雑草の中とか思いもよらない場所でも育つ。
そこに植物の意思のような物を感じるのである。
植物に意識は無いという意見もあるだろうが、それは人間の思い上がりだ。
植物にも動物にも意識はある。
野菜を育てるのに声をかけるなんてバカバカしい、と思う人とは友達になれない。
その行為をするかどうかは自分で決めるが、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいの感覚を持つ人とつきあっていきたい。
霊の存在を信じるかどうか、と言い換えても同じことである。
ちなみに僕はミミズにさえ話しかける。
畑以外の雑草を抜いている時に大きなミミズが出てきたりすると、「君はこっちで働いてください、ありがとね」と言ってコンポスト置き場に入れるのだ。
雑草状態で生えてくる物と別に、きっちりと手入れをしてあげる野菜がある。
例えばトマトなどは放っておくと脇芽が育ち茂みになり、結果的に実が小さくなってしまう。
そら豆は茎を支えてあげるし、蔓系の豆はネットに絡まらせて育てる。
暑いのが好きなもの、ある程度寒さに強いもの、風に強いもの弱いもの、日当たりが悪くても育つもの、雑草の中でも育つもの。
これは植物の種類によって様々だ。
そういった個性を知り、それにあった環境を作ってあげる。
植える場所も色々と考えてやるのである。
今年は山芋(長芋)を頑張って育ててみようと思い、トタンの波板の端切れを地面に埋め込んだ。
山芋は掘るのが大変ですぐに折れてしまう。
そこでトタン板を地面に斜めに埋め込み、それに沿わせて植えてみた。
さてどうなることやら。
そうやって野菜を作っていると家族では消費できないぐらいの量ができる。
それはそのまま友達家族の食卓にも行き渡る。
物事は奪い合えば足りなくなるが、分け合えば余るのだ。
マウントクックに住むタイの娘アイリは3歳になるが、きゅうりを見ると僕のことを思い出すらしい。
去年の夏にうちのきゅうりを食べてよっぽど美味かったのだろう。
きゅうり=ヒッジさん、という公式が彼女の中で出来上がったようだ。
ようし、それなら今年はもっと美味いヤツを作ってご馳走してあげよう、と色々なきゅうりを植えてみた。
子供に美味しくて健全な食べ物を食べさせるのは大人の役目だ。
人の子は地球の子。
子供は世界の宝と言うではないか。
アイリよ、もうすぐ美味いきゅうりを食わせてあげるからな、首を洗って待ってろよ。
ん、なんか違うか。
だが今年は日本からのツアーの仕事は全く無い。
3月にロックダウンが始まった時に、なんとなくそうなるのかなぁ、と思っていたのだがやっぱりそうなった。
こういう勘が当たってもあまり嬉しくない。
今の状態だと日本にも気軽に帰れない。
親父もいい歳だが、死んでも葬式にも出られないわけだ。
去年帰った時に「俺も簡単にパッと帰って来れるわけでない、だけど今死ねば俺があんたの葬式に出られるぜ。今夜あたり、三途の川を平泳ぎで渡ってみたらどうでしょう」なんてことを言ったのだが、シャレにならなくなった。
まあ今でも電話では「美味い物を好きに食べてポックリ死ね」と親父には言っている。
ともあれクィーンズタウンでのツアーの仕事は無くなった。
酒蔵の仕事もそれほど忙しいわけではなさそうだ。
別の仕事の誘いもあることはあったのだが、色々と考えこの夏はクライストチャーチに居ることに決めた。
脳天気に見えて色々と考えるのである。
今は細々と仕事を探しながら、農業兼主夫の毎日である。
主夫と書いたが元々の言葉は主婦であり、その後で主夫という言葉が出来てきたのだろう。
昔は女が家の事をやり、男は外で働くという公式があった。
今は世の中が変わってきていて、女が外で働くのは当たり前になっている。
それでいて家事や育児もするのだから女の人は大変だ。
もちろん旦那もそれなりに手伝いをするのだろうが、家の中の事は奥さんがやるのが一般的だ。
だから奥さんの事を家内と呼ぶのであろう。
看護婦は看護師になったが、主婦は主夫で主師にならない。
種子なのか主旨なのか主枝なのか朱子なのか殊死なのか、分からなくなるから無いのか。
それとも心の奥底で女は家にいろ、と男尊女卑の考えがあるのかどうかは知らん。
とにかく『しゅふ』は主婦であり主夫なのである。
主夫の主だった仕事では毎度毎度の炊事であろう。
もともと料理をするのは好きなので、炊事は苦にならない。
最近の我が家での流行りは、ピリ辛ローストナッツ。
ピーナッツやカシューナッツ、アーモンドやクルミなどをクミン、スモークパプリカ、カイエンペッパーなどで和え、オーブンでカリカリに焼く。
これだけの物だが絶品でありビールによく合い、食べ過ぎキケンである。
そしてザワークラフト。
キャベツを塩でもみ、瓶に詰めて2週間ほど発酵させる。ただそれだけ。
材料はキャベツと塩だけだが、これだけのものが文句なく美味い。
発酵食品万歳である。
普段は夏はクィーンズタウンに居るので庭のことがほとんどできない。
今年はちょっと気合を入れて野菜も育ててみようと思っている。
野菜作りはあくまで自分そして家族ありきなので、自分が好きな食べ物を作るのが基本だ。
女房の大好物がソラマメなので、毎年ソラマメは大量に作る。
冬を越したソラマメが大きくなって食べ頃である。
人間誰しも好きなものばかりではない。
嫌い、もしくは苦手なものもあるが、そういう野菜は気持ちが乗らない。
それは無理に作る必要は無い。
体に良いから、というだけの理由で野菜を作りたくはない。
美味しくて体に良いから、というなら有りだろう。
畑を見ていれば、何が旬なのか自ずと分かる。
旬の野菜は先ずなんといっても美味い、そして体に良いのだ。
旬の物を食べていれば、そうそう病気になることもない気がする。
野菜を作る上で大切なのは土作りである。
今までも土作りをやっていたが、今年はコンポスト置き場を拡張した。
トタンの板を安く買ってきて支えを立て、外側は庭から掘り出した大きい石と粘土で固めた。
そこにある物を上手く使うというのが好きなのだ。
左右二層式で片方の土を使う間に、もう片方で土を作る。
庭木を切った葉っぱや小枝、芝生を刈ったものなどは今まではゴミとして出していたが、今ではそのゴミもなくなった。
雑草はニワトリのエサになった後でコンポストへ。
調理の時に出る野菜クズや残飯も、もちろん土になる。
鶏糞は良い肥料だ。
EM菌によるボカシも自分で作っているので、堆肥の分解は格段に早い。
ミミズも多量にいるし、その他の微生物も多い。
山積みにした堆肥があっというまに沈んでいく様は見事である。
微生物のおかげで僕らの暮らしが成り立っていると言っても過言ではない。
そうやって自分の庭で消費と生産を循環させるのが、何となく心地良い。
それには色々な作業が必要なのだ。
そういった作業を喜んで楽しんでやるのか、もしくは面倒臭いけど仕方なくやるのか。
その意識の持ち方で結果も変わってくるのだと思う。
庭の野菜は大きく分けて二通りある。
種を蒔いたり苗を買ったりして、きちんと植えて育てる物。
そしてこぼれ種から雑草状態で育っていくもの。
こぼれ種はシルバービート、春菊、コリアンダー、ごぼう、大根菜、セロリ、人参、シソ、パセリなどがある。
こういった物は植物が発芽する時期を知っているのだろう。
何と言っても強い。
畑の脇とか雑草の中とか思いもよらない場所でも育つ。
そこに植物の意思のような物を感じるのである。
植物に意識は無いという意見もあるだろうが、それは人間の思い上がりだ。
植物にも動物にも意識はある。
野菜を育てるのに声をかけるなんてバカバカしい、と思う人とは友達になれない。
その行為をするかどうかは自分で決めるが、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいの感覚を持つ人とつきあっていきたい。
霊の存在を信じるかどうか、と言い換えても同じことである。
ちなみに僕はミミズにさえ話しかける。
畑以外の雑草を抜いている時に大きなミミズが出てきたりすると、「君はこっちで働いてください、ありがとね」と言ってコンポスト置き場に入れるのだ。
雑草状態で生えてくる物と別に、きっちりと手入れをしてあげる野菜がある。
例えばトマトなどは放っておくと脇芽が育ち茂みになり、結果的に実が小さくなってしまう。
そら豆は茎を支えてあげるし、蔓系の豆はネットに絡まらせて育てる。
暑いのが好きなもの、ある程度寒さに強いもの、風に強いもの弱いもの、日当たりが悪くても育つもの、雑草の中でも育つもの。
これは植物の種類によって様々だ。
そういった個性を知り、それにあった環境を作ってあげる。
植える場所も色々と考えてやるのである。
今年は山芋(長芋)を頑張って育ててみようと思い、トタンの波板の端切れを地面に埋め込んだ。
山芋は掘るのが大変ですぐに折れてしまう。
そこでトタン板を地面に斜めに埋め込み、それに沿わせて植えてみた。
さてどうなることやら。
そうやって野菜を作っていると家族では消費できないぐらいの量ができる。
それはそのまま友達家族の食卓にも行き渡る。
物事は奪い合えば足りなくなるが、分け合えば余るのだ。
マウントクックに住むタイの娘アイリは3歳になるが、きゅうりを見ると僕のことを思い出すらしい。
去年の夏にうちのきゅうりを食べてよっぽど美味かったのだろう。
きゅうり=ヒッジさん、という公式が彼女の中で出来上がったようだ。
ようし、それなら今年はもっと美味いヤツを作ってご馳走してあげよう、と色々なきゅうりを植えてみた。
子供に美味しくて健全な食べ物を食べさせるのは大人の役目だ。
人の子は地球の子。
子供は世界の宝と言うではないか。
アイリよ、もうすぐ美味いきゅうりを食わせてあげるからな、首を洗って待ってろよ。
ん、なんか違うか。