あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

8月30日 雪情報 マウントオリンパス

2011-08-31 | 最新雪情報
今シーズン初のオリンパスである。
朝のうちは晴れていたが、みぞれ混じりの雪、そして午後には再び陽がさした。
雪は全体的に柔らかく、完全に春の雪だ。
パトロールのロスが暖かく出迎えてくれて、新しいロッジの内部を紹介してくれた。


ホールからバンクルームに抜ける通路は薄汚い空間だったが、こざっぱりとした場所になりトイレも新設。



今までリサイクルゴミ置き場だったこの場所にバーができた。



ちなみにクラブフィールドで一番お酒を消費するのがオリンパスである。



こういうクレージーな格好で滑る人が多いのもオリンパスだ。



未圧雪、いまだかつて。もとから圧雪車は無い。



看板は手書き。雪崩コントロールにつき立ち入り禁止。



オリンパスには雪崩犬がいる。雪を掘り人を探す訓練をしてあるが、普段は人懐っこくみんなの遊び仲間である。



午後、神の山オリンパスに陽が射した。



オリンパスはクラブフィールドの中でも一番奥まった場所にある。秘境と呼んでもいいだろう。


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8月27日 雪情報

2011-08-29 | 最新雪情報
先週に引き続きブロークンリバー。
この日はクラブチャンプと呼ばれるクラブメンバーのスキーレースの日である。
前回の降雪から1週間が過ぎ、山は普段どおりの落ち着きを取り戻した。


高曇りの中、マウントロールストンが雲海に浮かぶ。マウントロールストンは南アルプスの真上、主分水嶺にある。



すり鉢状のボールの中には雪はたっぷりあるが、稜線上は雪が飛ばされて地面が出ている。



気温は高く、パトロールのヘイリーも春のいでたちだ。



パトロールのデイブが昼飯を作る。



今日の僕達の昼飯は骨付きカルビ焼き定食。



そして、いただきます。



パーマーロッジ内部。天気が良いので中はガラガラだ。



午後、ポールがセットされた。

種目はデュアルスラローム。当然ながらタイム計測装置などない。スタート係が「3、2、1、Go」の掛け声でスタート。ゴール係が下でストップウォッチでタイムを計る。多少のフライングは許される。



週末はボランティアのスキーパトロールが巡回する。



ここの子供は、スキー場とはこういうものだと思って育つ。



尾根上で昨夏に咲いたエーデルワイズを見つけた。
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庭仕事

2011-08-26 | 
寒波が去りクライストチャーチは春のような日が続いている。
絶好のガーデニング日和である。
冬の間、しばらくほったらかしにしてあった畑は雑草に覆われている。
土を耕し雑草を抜く。
抜いた雑草はまとめてニワトリコーナーへ。
ニワトリ達がうれしそうにそれをつつく。
食べられるところはヤツらが食べ、美味しい卵を産んでくれる。
今は毎日3個、これ以上ない新鮮な卵が手に入る。
雑草の根っこや茎は鳥の糞と混ざりまた土に還る。
その土は時間を経て、美味しい野菜を作ってくれる。
庭の中でサイクルができあがっている。
なんかうれしい。
家庭菜園はどれだけそこに手間をかけるかで出来が違ってくる。
雑草を抜く。土を耕す。堆肥を作る。液肥を作ってまく。雑草を煮出し虫除け液をつくりスプレーする。苗を植える。種を蒔く。弱い野菜には支えを立てる。剪定をする。水をまく。
やることはいくらでもある。
作業の合間に植物達に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜になってくれよ」
手間をかけることにより、ボクのエネルギーが野菜に伝わり、よく育つ。
冬が来る前に植えたソラマメはすくすく育ち、小さな花が付き始めた。収穫は1ヶ月ぐらい先か。
ニンニクはゆっくりと育っている。これからどんどん育ち、球根が大きくなることだろう。
ブロッコリーは花をつけ、収穫した後からまた小さな花芽が出てきた。花芽を摘み終わったブロッコリーの芯を食べたらこれもなかなかいけた。
青梗菜、水菜、白菜は雑草状態だ。ニワトリが喜んで食べる。
大根は根が筋っぽく美味くないが、葉っぱはゴマ油でいためて味噌汁の具に。これもいける。
イチゴは株分けして別の場所に植え替えた。うまく根付いてくれよ。
シルバービートは冬の間に大きな葉っぱを食べてしまったのでしばらく元気がなかったが、芯のあたりから新しい葉っぱが次々出てきてすくすく育っている。
青々とした葉っぱはつやつやして、作り物みたいだ。
キャベツは冬を超え、丸みを帯びた中心部が徐々に大きくなってきた。
自分で食べる物が庭で育つ。幸せである。

こうやって土いじりを喜んでやっているが、それが許されない場所もある。
放射能に汚染されてしまった所では土を触ることも出来ない。
自分が土いじりが好きなだけに、そのことを考えると心が痛む。
土がきれい。水がきれい。空気がきれい。
これはとことん幸せなことであり、喜ぶべきことだ。
この喜びを忘れてはいけない。
それを今、感じ取ることが自分のやることでもある。
当たり前にある物事に感謝をするのだ。
自然と手は合わさり目を閉じる。
瞑想のような状態になると、体が前後に揺れる。
心地よい揺れだ。
太陽の光はポカポカと心地よく、植物達もそれを受けて嬉しそうだ。

人間は文明を生み出したものだから、地球上で一番偉い、と思いがちだ。
自然を自分の都合の良い方へコントロールしようとする。
大きな間違いである。
どれが優れているとか、どれが劣っているとかはない。
人も動物も鳥も虫も植物も目に見えない微生物まで全ては一つ。
その中で、植物をいただき、鳥から卵をいただき、動物や魚や鳥の命をいただく。
いただきますは、命をいただきますなのだ。
変に手を加えたものよりも、できるだけ自然に近い状態のものを旬の時に美味しくいただく。
ボクの中に流れる日本人の血がそれを求める。
和食の真髄は素材の旨みを最大に引き出すことである。
それを掴んでいれば洋食だろうが中華だろうがメキシコ料理だろうがベトナム料理だろうが和の心なのだ。
料理を通しても世界は繋がる。
庭で取ってすぐに調理する野菜、産みたての卵。
今ここにある最高級のご馳走である。
ニワトリに感謝。野菜に感謝。
生ゴミを土に還してくれたミミズや微生物に感謝。
野菜を育ててくれたきれいな空気と水に感謝。
全ての物事に感謝するべきなのだが、相変わらずうちの庭でクソをする隣のクソ猫には感謝できん。
まだまだ人間ができていないのか、それともこれはボクに対する試練なのか。
悩むところである。
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スキーのメンタル理論

2011-08-25 | 日記
今回はスキーというものについて掘り下げて書いてみようと思う。
スキーというものは最初は歩くスキーから始まった。
雪の上を普通に歩くとズボズボと沈んでしまう。
そこで板を足に付けると浮力が生まれ、雪の上でも沈まない。
さらに板を前後に長くすることで歩きやすい。
さらにさらに斜面では歩かずとも滑っていける。
これがスキーの原点だ。
スキーというものが生活の手段からレジャーへそしてスポーツへ発達したのは、だいたい100年ぐらい前か。
以来、道具は進化してノルディックスキーからアルペンスキーへ。
環境も圧雪車やリフトによるスキー場というものへ進化した。
スキー自体もレジャーのためのスキーから競技のスキーへ、そして競技もレース、フリースタイル、日本では基礎スキーへと細分化されていく。
今回は、その細分化されたスキーのメンタル面の話である。

まずはレーシングスキー。
赤と青のゲートの間をどれだけ速く滑るか競う競技である。
これもスラロームのような回転系からダウンヒルのような高速系までいろいろとあるが、メンタル面では同じこと。
とにかく速いヤツが勝ち。
シンプルである。
速かったら後ろ向きに滑っても、逆立ちして滑っても勝ちであるが、実際には後ろ向きに滑る人が勝つことはない。
速く滑るために、無駄を徹底的に省く。
動きは流れるようにスムーズで無駄がなくきれいな滑りになる。
きれいな滑りをするためではなく、あくまで速さを追及した結果、きれいな滑りになるのだ。
以前アライでパトロールをしていた時にトンバがやってきた。
トンバとはアルベルト・トンバというイタリア人。
オリンピックで金メダルをいくつも取った人で、当時世界で一番速かった人だ。アルペンスキー界のスーパースターである。
トンバの滑りは美しかった。
レースをやっている人の滑りは力強いイメージがあるが、トンバの滑りは一切の無駄がなく動作は流れるように滑らかで、とにかく美しかった。
世界のトップレベルとはこういうものなんだと、感動した。
その美しい滑りで、ボク達が立てたスローフラッグ(見通しの悪い場所に立てるスローと大きく書かれた幕、暴走した人が突っ込んでも大丈夫なように看板ではなく幕なのだ)をジャンプして飛び越えて行きやがった。
まあ、トンバならこんなことも許されるのだ。
レースの世界ではタイムを縮めるために、いろいろなことをする。
選手は筋力トレーニングをするし、空気の抵抗を減らす為ダウンヒルワンピースという体にぴったりした服を着る。
スキー板だってエッジはギンギンに砥いでそれでヒゲが剃れるぐらいだし、ワックスも雪の温度にあったワックスを塗る。
全ては速く滑るためにだ。
ボクがやっているスキーとは根本的に違う。
ボクのスキーのように、ちょっとぐらい石を踏んじゃったけどまあいいや、というわけにはいかない。
石など踏みソール(底面)に傷がついたら即タイムに表われる。
シビアな世界だ。
彼らはメンタル的には他のスポーツのレースをやっている人と繋がっているのではないかと思う。
陸上競技(投てきを除いたもの)、車のレース、バイクのレース、水泳、スピードスケート、自転車のレースなどなど。
世の中にはレースというものは数あるが、根底はみな同じ。
速いもん勝ち、なのであり、人より早くゴールを切ることが目的である。

さてスキーにはフリースタイルという競技もある。
モーグルはコブコブの斜面を滑り途中2回エアーと呼ばれるジャンプをして速さ、滑り、ジャンプの演技で勝敗を決める。
それからエアリアルというものは専用のジャンプ台で飛び出し空中でくるくる回り着地する。アクロバットだ。
昔はバレースキーなるものがあったが今もやってるのかどうか知らない。
ハーフパイプなんてものは昔はスノーボード専門で、スキーでパイプに入ると変人扱いされたが、今ではスキーでもハーフパイプの競技もある。
パークと呼ばれる特設コースで技を競い合うものもある。
これらの競技に共通していることはジャッジがいるということだ。
審査員が滑りを見て得点を付け、それで勝敗を決める。
いかに自分をアピールするかに勝負の鍵がある。
こちらもトップの選手は無駄のない動きをするが、それは演技のための動きであり、レーサーの結果的に美しくなるのとは異質のものだ。
レーサーが速さだったら、フリースタイルは演技である。
人に見せるというところに根底がある。
誰も見ていない所で大技を決めても、さびしいものだろう。
これらの競技でメンタル的に共通するスポーツと言えば、フィギュイアスケート、体操、新体操、水泳の高飛び込み、などなどだろう。

さてボクがやっているバックカントリースキー。日本語では山スキーだ。
これは競技ではない。
最近ではエクストリームスキーの大会もあるが、それはジャッジがつくフリースタイルに近いものだ。
バックカントリースキー、山スキーの本質は自己満足である。
速さを競い合うわけではない、人に見せるわけではない。
ただ純粋に自分の快楽のためにスキーをする。
それも作り上げられた場所ではなく、自然のあるがままの場所で。
これにメンタル面で共通するものはサーフィンである。
良いパウダーは良い波だ。
それを当てるために、天気図を読む。
空に浮かぶ雲を見て、天気を読む。
風がどの方角から吹くのか考えて、行動を決める。
死なないために雪崩の勉強もする。
全ては一瞬の快楽の為に。
上級になるほど危険度は増し、一歩間違えばすぐ死につながるところも、山スキーとサーフィンは共通する。
パウダーや良い波は麻薬のようなもので、その快楽に溺れ人生が変わって(狂って)しまう人もいる。
実際、スキーやスノーボードとサーフィンの両方をやる人は多い。
ボクはサーフィンはやったことがないが、サーファーの友達は多い。
いやが上でも自然と徹底的に向き合い、そして自分と向き合う。
自然の中で遊ばせてもらう感覚、敬意と感謝の気持ちが自然と生まれる。
カヤックなんかもそうだろうな、たぶん。

こうやって見ると一口にスキーと言っても、いろいろあり、みんな違う。
ボクも若い頃、ちょっとだけレースの真似事をやったこともあるし、恥ずかしながらモーグルの大会に出たこともある。
だが行き着いたところは山スキーだった。
前にも書いたが、どれが正しくてどれが間違っているということはない。二元性の考えは毒だ。
持論だが、百人人がいれば百通りの山の楽しみ方がある。百人スキーヤーがいれば百通りのスキーの楽しみ方がある。こうでなければいけない、というものはない。
だがこれも自分をしっかり掴んでいないと、他のやり方を非難し排他的になる。
昔のボクがそうだった。
他人を妬み、ひがみ、一生懸命やってる人を冷たく見下ろしていた時もあった。
また自分が一生懸命やってる時に、楽しんでいる人を見下す事もあった。
自分に自信がなく、人のあらを探すことにより、自分を少しでも優位に保とうとしていた。
若気の至り、ということで勘弁してもらおう。
相手を認めることは自分を認めることである。
それに気が付いた時に世界は広がる。
自分を落とすことなく驕ることなく、人を蔑むことなく崇めることなく、我が道を行く。
その結果、今のボクがいる。
バカボンパパが降りて来てボクに言った。
「これでいいのだ」



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8月21日 雪情報

2011-08-23 | 
今シーズン初のBR(ブロークンリバー)である。
日曜日だったので女房と娘の3人でファミリースキーだ。
今年はクィーンズタウンへ行ったり、ポーターズへ通ったり、ハットで滑ったりしていて、BRへ来る時間がなかった。
まあシーズン始まる前からBRに行くのは8月半ばになるだろうと思っていたので、予定通りと言えば予定通りである。
途中でタイとキミに出会う。彼らに会うのも半年ぶり。フォークスへ遊びに行った時以来だ。連絡を取って待ち合わせなどしなくても、会うべく時に会うようにできている。
パーマーロッジでほっと一息。
やっぱり自分にとってこの場所が一番しっくりくる。
こここそがボクのホームゲレンデだ。
パトロールのヘイリーも健在。固い握手をしてホンギ(鼻と鼻をくっつける、マオリの挨拶)を交わす。
友達のマリリンも指を骨折しているにもかかわらず滑りに来ている。彼女にはこの山にいることが何よりの薬なのだろう。
シーズンで最初の日はいろいろな人と挨拶を交わすのが忙しい。なかなか滑りに行けない。
ロープトーを乗り継ぎ山頂へたどり着くと、山はいつもと変わらず優しさで暖かくボクを包んでくれた。


キャッスルヒルにも新雪20cm。誰かが滑った跡がある。



国道から正面がBR。パーマーロッジやロープトーもこの位置から見える。
ここから向こうが見えるということは、向こうからこの道も見えるということだ。



パーマーロッジは日曜日の賑わいを見せる。



娘が女房の後を滑ってきた。



娘は9歳。この日初めてロープトーに1人で乗った。



スノーボーダーが山頂から滑ってきた。



今シーズン初のBRで娘もご満悦。子供の笑顔に勝るものはない。



南アルプス。雪を載せた山並みがどこまでも連なる。



アランズベイスン。風で叩かれた新雪が20cmほど。



今年、新しい看板ができた。



娘が喜んでパウダーを滑る。



のんびりと家族でスキー。幸せは常にそこに有る。



名物コース、リマーカブルを誰かが滑った。



帰りは駐車場までパウダーラン。ヘリスキー1本分はある。
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イメージが心に浮かぶ。

2011-08-21 | 日記
常日頃から言っていることだが、人間は思ったことを現実化する力を持っている。
こうなればいいなと思ったことはその通りになる。
そんなうまくいくわけない、と思えばうまくいかない。
やる前からうまくいかないんじゃないか、と思う人がいるが、そう思ったらうまくいくこともできなくなってしまう。
かたく信じればそうなる。そういうものなのだ。
こうなりたい、と思うことはできるだけ具体的にイメージを造りあげる。
そのイメージが見えたら、それはできたようなものだ。
今すぐにではないかもしれないが、そのタイミングが来ればそうなる。
では何か悪い事を考えてしまったらどうすればよいか。
何か悪いことを考えてしまったら、自分からそれを打ち消し良いイメージ持ち続ける。
それでも繰り返し悪いイメージが浮かんだらどうするか。
その時は真剣にそれを受け止め、必要以上の被害にならないように気をつける。
このことはある本に書いてあったことだが、全く同じことがボクの身に起きた。

半年前、夏の話である。
ボクはドライバーガイドの仕事もする。
ある時、ふと車の鍵が水の中にポチャリと落ちるイメージが心に浮かんだ。
最初はそのイメージを打ち消したが、それが何度も何度も出てくる。
いくらそれを心から追い払っても、ふと気を抜いたときにそのイメージ、鍵が水に落ちる音とか波紋が広がる様子が鮮明に心に浮かぶのだ。
こんなの初めてだ。正直、良い感じはしない。
ツアーの仕事は行程表に沿ってツアーを進めることだ。
鍵がなくなって車を動かせません、なんてことになったら大事だ。
それも街で助けをすぐに呼べる場所ならともかく、ミルフォードサウンドのように一番近い街まで車で2時間なんて所でやってしまったら、目も当てられない。
ボクは仕事で水辺を歩く時は常に気を付けていた。
それでも鍵が水に落ちるイメージは時々現れた。
ある日クィーンズタウンの空港から街のホテルまで送迎という仕事があった。
お客さんの荷物をトレーラーに入れ、鍵をポケットから出すと、鍵は手からポロリとこぼれそのまま排水口の中へポチャリと落ちた。
何度もイメージに現れた映像が目の前で起きた。
なぜか困ったぞとは思わず、冷静に「ああ、これだったのか」と思った。
実際、排水口のふたは簡単に開き、ボクは中の水に手を入れて鍵を拾った。
お客さんはたぶん気が付かなかった、それぐらいの出来事である。
面白いことに鍵が水に落ちるイメージはそれ以来ピタリと止んだ。
だがボクには分かる。
同時進行しているパラレルワールドでは、ミルフォードサウンドで鍵を落とし途方にくれている自分がいる。
運が良かったと言えばそれまでの話だが、自分の気の持ち方で世界は変わる。
ひょっとするとボクの守護神が助けてくれたのかもしれない。
ただただ手を合わせ、何か大いなるものにありがとうと感謝をするのみ。
それ以来悪いイメージが心に浮かぶことはない。
悪いイメージが浮かんでこなくても、小さなハプニングは日々あるものだ。
そして、そういう物事は突然やってくる。
来たら来たでその時はその時、来る前にあれこれ心配するよりも、その時々で前向きに全力でその物事に対処する。
その覚悟があれば恐れる物は何もない。
そして最後にはやっぱり感謝。
全ての物事に感謝。
感謝感謝の大感謝祭の毎日なのである。
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寒波

2011-08-17 | 日記


寒波がやってきた。
今年はあまり寒くない冬で山にも雪が少なかったが、7月の終わりそして8月中旬と2回、低地に大雪を降らすような寒波がきた。
寒波とは寒さの波だ。
まさに波が押し寄せるようにそれは来た。
この寒波の特徴はダニーデンとかクライストチャーチといった太平洋側の町や平野部に大雪を降らせる。
西海岸の方はずーっと晴れマークだ。
都会というものは雪に弱く、交通はマヒ。物の流通も止まり、学校は休み。いろいろな所で困る人がいる。
困る人もいるが喜ぶ人もいる。
子供たちはそり遊びや、雪だるまやカマクラを作って大喜びだ。
子供たちだけではない、大人だって一緒になって遊んでいる。
この国の素晴らしいところは、大人がこういうときに子供と一緒に遊ぶ。
状況を受け入れ、それならそれで楽しんじゃえ、という心がある。
日本のように「いい大人がそんなことをして」などとつまらんことを言う人はいない。



街は雪景色。
とても美しく、普段見慣れたものとは別の姿を見せてくれる。
自宅の庭も雪に覆われて別世界だ。
ニワトリ達はちょっと寒そうだ。だがこんな時でも卵をしっかり産んでくれる。ありがたやありがたや。
雪は音を吸収するので、静かである。
普段は街の雑音も遠くに聞こえるのだが、今日はそれもなし。
静かな雪の庭に立ち、お茶を飲む。
幸せだ。
幸せとは常にどんな時でもそこに在る。
そのことに心を開いた時、幸せのエネルギーは倍増する。



町外れの丘ではちょっとした斜面で子供たちがそり遊びをして、さらに上に行くとボードやスキーを持った人が山を登っている。
ボクも友達と娘の3人で丘へ向かった。
住宅地の外れの公園に車を置き、上り始める。
見渡せる街は一面真っ白でとても美しい。
普段なら歩くコースを、スキーをつけて移動するというのは新鮮であり、この変化がたまらない。
またボクはとことん晴れ男なので、ボクが行くと雲の切れ目から晴れ間がのぞき、お日様もちらりと姿をあらわす。
街を見下ろすと強く雪が降っている場所がカーテンのようにゆらめき、それがゆっくりと移動をしている。幻想的な風景だ。
スキー場と違ってリフトはない。
歩いて上った分だけ滑れる。
たくさん滑りたかったらたくさん歩くのも良し、散歩程度に雪の上を歩き回るのも良し。
スコップを持ってきてジャンプ台を作るも良し。
スキーを脱いで雪の中の滑り台で滑るのも良し。
ボケーっと景色を眺めるのも良し。
こうしなければいけないというものはない。
そして出会う人々は全て笑顔である。とてもよろしい。
晴れ男のボクが丘を下ると同時に、再び雪が強く降り始めた。
とことんそういうふうにできている。



晴れ間を見つけ、娘と雪だるまを作る。
学校は休みだし、こんな時に外で遊ばないなんてもったいない。
最初は単純に雪をゴロゴロ転がして、単純な雪だるまを作ろうと思ったが途中で予定変更。
雪の塊を作り、それを削って雪像をつくることにした。
ボクと娘である程度の大きさに雪を積み上げた所で真打登場。
女房の出番だ。
うちの女房は芸術のセンスが抜群で、昔は高校の美術の先生もやっていたという経歴である。
絵も上手ければ、機織もやる。色のセンスも素晴らしいし、工作などもすごい物をちゃちゃっと作る。
芸術のセンスが全くない僕から見れば神業だ。
娘は女房の絵のセンスを引き継いだのか、絵がとても上手い。この家で一番絵がへたくそなのはボクだ。
昔、仏像を彫ったこともあるという女房が雪を彫り始め、あれよあれよという間にペンギンができた。
やっぱりこのセンスは素晴らしい。
ボクなら絶対にこんな上手くできない、変な自信がある。
娘に名前をつけさせたらボブになった。
ボブデュランのボブか、ボブマーリーのボブか、スポンジボブのボブか知らないが、とにかく命名ボブである。
ペンギンボブ、つかの間の命だが家族が一人増えた。


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ポーターズ

2011-08-15 | 日記
クィーンズタウンの仕事を無事終え、クライストチャーチへ戻ってから1週間。
今は毎日ポーターズへ行っている。
お客さんは日本からレーシングキャンプで来ている人達で、下は小学生から上は年輩の方までまで老若男女、にぎやかな大所帯である。
ボクの仕事はドライバー。スキー場までバスを運転する。
レーシングキャンプの朝は早い。スプリングフィールドの宿を7時に出発する。
ボクは家から通っているので、家を出るのは5時半ぐらいだ。毎朝5時起きである。
まあ、朝に強い体質なのでこれぐらいは平気なのだ。

朝、お客さんを乗せてバスで山道を上がる頃、山頂が茜色に染まる。
自然の中の美しさ、特に美しい色というのは一瞬のものだ。すぐに色は変わってしまう。
すぐに消えてしまうはかないものだからこそ、その瞬間の美しさがある。
車が駐車場につく頃には、赤い色はなくなり、黄金色の太陽が山を照らす。
レーサー達はすぐに準備を始めるが、僕はまだ滑り始めない。
スキー場のスタッフもまだ数人しか来ていない。
僕はこの時間の山が好きだ。
駐車場の端に立ち、谷間から上がってきた太陽を拝む。
手は自然に合わさり、ひたすら拝む。
朝の太陽、キリリと引き締まった空気、どっしりと構え動かぬ雪山、辺りを飛び回る鳥たち。
全ては調和され自然の気はボクの体に流れ込む。
また山から元気をいただいた。ありがたや、ありがたや。



しばらくするとスキー場のスタッフが上がってきて営業準備が始まる。
そしてスキー客の車がちらほらと上がってくる。
雪山がスキー場へと変わる。
忙しくなる前にオフィスでチケットをもらう。
ここはどこぞのケチなスキー場と違い、ドライバーにチケットを出してくれる。ありがたやありがたや。
ドライバーが滑ろうが滑らまいがリフトは回す。
ドライバーにリフト券を出したところで、それで損をするわけではない。
それをケチって、滑りたいならリフト券を買え、という態度は基本的におかしい。
どのみちそこで働く人をないがしろにする会社はろくなものでない。
日本のあるスキー場で働いていた時の話だが、リフトのおじさんがスキーをしたい時にリフトはタダだが、スキーレンタルは半額払うと言っていた。
週末の忙しい時なら分かるが、平日の暇な時、誰もレンタルを借りない時ぐらいタダで使わせてあげればいいのに。
シーズンで1回か2回ぐらいしか滑らないようなおじさんからもお金を取るのかねえ、と憤慨した記憶がある。
しけた話はもうやめよう。気が重くなる。

9時を過ぎると一般の営業が始まる。ボクもそろそろ滑りに行く。
スキー場の下部は半分人工雪。
バーンは固く締まりレーサー達の練習にちょうど良い。
リフト乗り場でコーチの岩谷さんが下りてきて、ニコニコしながら言った。
「いやあ、今日は固くてとても良いです。」
「そうですか、それは良かったですねえ」
ボクが求めるものはフカフカのパウダーで、硬いバーンは正直滑りたくない。
だがその硬いバーンを喜んで滑る人達もいる。
どちらが正しくてどちらが間違っているという事ではない。そういう比較は害になる。
ただ、違うのだ。
違いを認めるということは、良好な人間関係の第一歩である。
違って当たり前なのだ。必要以上に干渉すべきではない。
だが人間というヤツは、自分の価値観を人に押し付けたがる。
自分がやわらかい物が好きなら、人もそうだと思い込む。
その感情がひどくなると、自分と違う価値観を持つ人に敵対心を持ったり、もっとひどくなると迫害するようになる。
どうすれば良いか?
答は簡単である。
違いを認めること。
これは相手を認め、同時に自分自身を認めることだ。
ボブデュランの言葉だが、「君の立場で言えば君は正しい。僕の立場で言えば僕は正しい」これが答だ。
全ての人間がこれを理解すれば、争いはなくなる。



練習に励むレーサーを横目にボクは山頂へ向かう。
ボクのスキー板はキングスウッド。オフピステ用の板だ。
こんな板で硬いバーンを滑っても面白くもなんともない。
今、この山で一番(ボクにとって)良いバーンはビッグママだ。
だがそのコースも昼過ぎ、雪が緩まないと開かない。ガチガチのビッグママなぞ考えただけでもうんざりだ。
こうなるとボクのスキーは雪上を移動するための道具となる。
滑るためにではなく、景色を見るために山頂へ登る。
途中、雲が出て視界が悪くなっていたが、山頂まで来ると青空が広がりきれいな雲海が敷き詰めていた。
リフト下り場に板を置き、数分登る。
ほんのちょっとのハイクアップで世界が変わる。
スキー場の音は消え、聞こえるのは風の音だけ。
視界をさえぎる物は何も無く、眼下に雲海が広がり、空は透けるような青。
雲海から山が島のように突き出し、雪を載せた南アルプスが連なる。
雪山はとことん美しく、彼方にマウントクックが堂々とそびえ立つ。
「なんてきれいなんだ」
言葉が自然に口からこぼれ、サングラスの奥の目から涙がにじみ出る。
人間は大きな感動に震えると涙が出るものだ。
以前、ワーキングホリデーの女の子をここに連れてきたとき、その子は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
自然は人間に感動というエネルギーを与えてくれる。



山頂に一人。
この山で一番好きな場所だ。
人とワイワイくるのも良いが、一人でここに来るのも好きだ。
自分の居場所というものがあるとしたら、ボクはこの山では間違いなくここだ。
ここになら状況が許せば何時間でもいられる。
この場所に自分の身を置くということが、ボクにとっては一番大切なことであり、自分がこの世に存在する意味の一つがここにある。
自然と手は合わさり、山を拝む。
そして祈る。
今日という日が素晴らしいものになりますように。
この山にいる人達が今日1日ケガをしないでスキーを楽しみ、パトロールが出動しなくてもいいように。
友達のケガが早く治りますように。
何かで苦しんでいる人がいるならば、その苦しみから解放されるように。
祖国、日本で起こっている混乱が落ち着きますように。
世界の裏側で起こっている人間同士の諍いが止みますように。
目を閉じひたすら祈る。
そして目を開けて素晴らしい景色を見て、この場にいられる喜びを再びかみしめる。
「山よ、空よ、大地よ、ありがとう。ボクは元気です」
山は黙ってボクの言葉を受け止める。
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情報というもの

2011-08-12 | 日記
日本の地震以後、Twitterを見ることが多い。
ボクが見るのは原発関連の記事が圧倒的に多い。
これはやってみればわかることだがリツィートという機能があり、誰かが書いた言葉を自分の言葉の欄にボタン一つで貼り付けられる。
便利といえば便利だが、情報が一人歩きをすることもある。
原発関連の情報と言ってもさまざまなものがあり、もっともらしいものから眉ツバものまである。
放射能は危険だという情報があれば、放射能は体に良いという情報もある。
もちろん情報は操作されることもある。
こういうネット上など、顔の見えない場所の情報というのは特にそういう危険性はある。
九州電力でやらせのメールが問題になっていたが、そんなのあって当たり前だろうぐらいにボクは思っている。
だが今はインターネットの普及で、今まで隠されていた物も曝け出されるようになった。

情報というのは出所がはっきりしないものは、トイレの落書きと一緒だ。
ネットを開けばいくらでも情報は出てくる。
あるものは確かな物で、あるものはウソの情報。あるものは又聞きの情報であるものは自分の経験談。
自分の経験談というのは、ある意味確かな情報であろう。
だがその人の経験の厚みによっても、その情報の重さは変わってくる。
例えばある観光地のことを聞きたいとしよう。
そのことについて一度だけ行った事があるという人の話と、そこに住んでいる人の話では違って当然だ。
さらにそこに住んでいる人の話でも、その人の経験や価値観、物事のとらえ方などでも変わってくる。
暖房の効いた家から出ない人と雪山で働く人では寒さに関する感じ方も違うものだ。
そういったさまざまな情報を得て、どれを選ぶか決めるのは自分だ。
大切なのは自分。自分の考えをしっかりと持っていれば偽りの情報が見えてくるはずだ。
さらに偽の情報にだまされた時に、それを信じた自分を責められるか?
「だってテレビでこう言っていたから。悪いのはマスコミで自分は悪くないぞ。こんな事言われたら誰だって信じるもん。」
「いやいや、すっかり騙されちゃったよ。それにしても上手く作ったものだ。敵もさるものだ。そんな情報にコロっと引っかかっちゃう俺ってアホだよな~、あっはっは~。」
その時になってみないと分からないが、僕は後者でありたい。

情報を操作する方もいろいろな手をうってくる。
突拍子も無い事を言うのが一つの手だ。
「ガリレオが地動説を言ったときには誰も信じなかったでしょう?
今までそうだと信じられていたことが、本当は違っていたということはよくある話です
放射能は危険ではありません。実は放射能は体に良いんですよ。放射能を含んだ野菜やお肉をたくさん食べましょう。」
「プルトニウムというものは塩と大差ないんですよ。ちょっとだけなら食べても死にません。」
こういうことを大学の教授が言うと、偉い人が言っているんだからそうなのかな、と思う人もいるかもしれない。
そういう情報を信じる人はそうすればいい。ただそれだけのことだ。
正反対の話でなく、話をずらしてもっともらしく話を作る。
これはよくあることだ。
「原発が無くなれば電気が足りなくなります。そうなるととんでもないことになりますよ。都市の機能は麻痺していろいろな所で混乱が生まれます。経済も停滞するでしょう。電気代も高くなります。だから原発は必要なんです。」
「ただちに健康への被害はありません。気にしすぎるのは良くないですよ」
それはどこから来たものかと聞きたい。
どこかからお金をもらったからそれを言うのか?偉い人が言ったから、それを信じるのか?テレビでそう言ってるからか?

先日知り合いのスイス人と原発の話になった。
スイスは脱原発に向かっている国だ。彼が聞いた。
「それで実際の所はどうなんだ?いろいろな話が出ているけど・・・」
「俺にも分からないよ。あまりに偽りの情報が多すぎる。言える事は人々が政府を信用していないってことかな。悲しいことだが」
だがその政府を作る人間を選んだのはその国民だ。
言っておくが個人の意思と大衆の決定が相容れないことは常にある。
多数決が常に正しいとは限らない。
正しくないと知りながらも、しぶしぶ従わなければならないこともある。

何が正しくて、何が間違っているのか。
誰にも分からないことだが、考えることをあきらめてはいけない。
人が言ったからではなく、自分の直感でボクはそれを感じ取りたい。
それには常に自分を高め、心の奥のかすかなメッセージを逃さないよう、自分自身と向き合う気持ちが必要である。

人としてどうあるべきか。
結果は後からついてくる。
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ハイクアップ

2011-08-05 | 日記
休日の後、再びリマークス。
この日の天気は快晴。絶好のハイクアップ日和だ。
スキー場に着き、お客さんを送り出した後、一人で登り始める。
ゲレンデから奥へ入ると、とたんに雰囲気が変わる。
静寂に包まれた空気。
山が湖をぐるりと囲みボクを見下ろす。
これだ、この雰囲気、これが好きなんだ。
登っていると携帯電話にメッセージが入った。
友達のマイクが上がってくるというので合流することになった。
山の中でもここは携帯が通じる。これは便利だ。
ちなみにクラブフィールドでは携帯は通じない、だが不便だと思ったことは一度もない。
あれば便利は、無くても平気。JCとの合言葉である。
無いなら無いなりに人間は適応できるものなのだ。
いや、むしろこれだけ情報が発達した世の中で、携帯が通じない場所というのは、ある意味重要なのかもしれない。
マイクと合流した後、ルートを決める。
ルートはグランクローというバカでかいシュートに決定。
ここはシングルコーンとダブルコーンの間の沢で、この場所で一番目立つ場所だ。
湖を渡り、登り始める。



予想していたことだが、登り始めるとボクはマイクにおいていかれる。
マイクは友達のキヨミちゃんのパートナーで、二人でビジネスをやっている。
どういうビジネスかと言うと、お客さんの車をルートバーンの起点に持って行き、ルートバーンを走りぬけお客さんが乗ってきた自分の車を拾って下る。
このサービスを頼めば、お客さんはバスの時間を気にすることなく好きなように歩け、終点には自分の車が待っているということだ。
彼らは夏の間、何回も何回も多いときには毎日のようにルートバーンを走る。
彼らでしかできない商売だと思う。
そんな体力の塊りのようなマイクがすいすいと登る。
しかもヤツはスノーボード。それに加えて装備は無し。
こちらと言えばバックカントリー用のフル装備。ザックの中には水とランチまで入っている。
おまけにボクのブーツは山用ではなくレーシング用である。
今に始ったことではないが、レース用のブーツという物は山を登るようにはデザインされていない。ハイクアップは正直ツライ。
「それなら山用のハイクアップがしやすいブーツを買えばいいじゃん」
と言う人がいたら、その言葉をそっくりそのままボクの女房の前で言っていただきたい。
しかし最大の問題点は体が重いというところなのだが、それは見て見ぬふりをしておこう。
先頭を登る人を見てマイクが言った。
「やつらを追い抜けるぜ」
「オマエならな。俺には無理だし、そんなのやりたくない」



先頭を行った人が降りてきた。気持ちよく滑るとは言いがたく、かなり慎重にスピードをコントロールしながら滑って来る。
それもそうだろう。
この斜度なら普通にコケただけでも下までは止まらない。
滑って来る人を横目に、急な斜面に手をつきながらよじ登る。
気を抜くと背中のザックに引っ張られバランスを崩しそうになる。ここで落ちたら下までまっしぐらだ。
何回もうやめよう、この辺でじゅうぶんじゃないかと思ったことか。
一歩踏み上げ、左手のストックを前にさし、右手を雪の壁につく。そしてまた一歩足を上げる。延々とその繰り返し。
登り始めて3時間。なんとか稜線までたどり着いた。
稜線ではマイクが待ちくたびれた顔で待っていた。



上りきった瞬間にそれまでの疲れや、もうやめようと思った気持ちは消える。
それに代わり達成感、充実感、満足感が心を満たす。
ヘリでここに来たとしてもこの気持ちは味わえない。
稜線の手前は雪がついていて足場もあるが、向こう側は断崖絶壁だ。
恐る恐る岩の隙間から奥をのぞくと湖が横たわり、眼下にはワイクリークが伸びている。
この谷間を歩いたのはもう8年ぐらい前になるか。
夏の間、スキー場まで車で来て、雪が全くないタソックの野原を歩いた。
スキー場を出ると人口構造物が一切見えない谷間を、湖沿いを走る国道まで数時間かけて歩いた。
ボクはこのコースを堪能し、ここでもニュージーランドという国にやっつけられてしまったのだが、別のガイドは「タソックばかりでつまらなかった」と言った。
何をどう感じて良しとするかは本人の自由である。そのガイドとの付き合いはすでに無い。
このワイクリークというコースは雪があるときにバックカントリーのスキーツーリングでも楽しそうだ。
これは以前から思っていたが、こうして冬景色を見るとそのイメージは膨らむ。
たぶん何年後かにはそれをやるのではないだろうか。
そしてこの場所を見上げて今日のことを思い出すだろう。



待ちくたびれたマイクは冷えてしまったのだろう、寒そうだ。
「マイク、今日は俺はこれ1本だけだからここで時間をとるよ。先に下りてくれ」
「この斜面を降りるのは大丈夫かい?」
「ああ、俺なら大丈夫。問題ないからカフェかどこかで会おう」
「オマエと滑るのは初めてだから、どれぐらい滑れるのか分からなかったけど、そうだな、じゃあ先に行くよ」
マイクが去り僕は一人になった。
昼飯を食べながら、ゆっくりと景色を見る。
レイクへイズ、アロータウンの町並み、その向こうにマウントアスパイアリング。
遠くにはレイクハウェア、そして彼方にマウントクックが堂々とそびえ立つ。
音は風の音だけ。天気は良く、もう少し風が弱ければ昼寝でもしたいくらいだ。



天気は良いがそこは2300mの高さの雪上。
じっとしているとさすがに冷えてくる。
ここにとどまりたい気持ちを押し込めて滑り出す。
斜度は50度を超えているだろう。滑っていかないと下が見えない。
アイスバーンではないが雪は固くしまっており、かなりの急斜面でしかも狭く、連続ターンなどする気にもならない。
しかも今は一人。途中には岩も何箇所か出ている。
慎重に確実にターンを刻み、くびれの場所をこえると斜度も多少緩やかになりオープンバーンが広がる。
その後はヒャッホーと歓声をあげながら滑る。
2年前に同僚のエロルと、夏のハイキングの仕事をここでした。
その時に彼がここを滑った話を聞き、羨ましがった自分がいた。
「いいな、俺もここを滑りたいなあ」という思いは、自分が気づかないうちに現実となった。
とことんそういうふうに出来ているらしい。
下の方まで滑ってきた時に携帯に電話が入った。
マイクのパートナーのキヨミちゃんが仕事を終えて山に上がってきた。
カフェで落ち合う約束をして10分後、人ごみのスキー場のカフェでお茶を飲む自分がいた。
3時間登りの20分下り。
今日もまた1本だけだったが、もちろんこんな日も最高である。
コメント (7)
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