あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

雑記

2013-02-11 | 日記
相変わらずツアーからツアーへの日々である。
ツアーから帰ってきて毎回思う。
家の飯が一番旨い。
そりゃそうだ。庭で取れたばかりの野菜と新鮮な卵。
これに勝る旨い物はない。
どんな野菜でも取った直後からしなびていく。
これは仕方がないことだ。
魚や肉などは絞めた直後より少し置いた方がたんぱく質が分解され旨みが増す。
魚はしめてすぐはコリコリ感はあるが、味はそれほどでもない。
なので僕は鮭を買ってから1日おいて食べる。旨みが増すのだ。
その日の晩飯は鮭の塩麹漬けのオーブン焼き。
ほうれん草の味噌汁。
豆を茹でた物。
そしてきゅうり。
土鍋で炊いたご飯。
鮭はツアーに行く前に塩麹に漬けておいたもので、充分に熟成されて食べごろだ。
しそが良い具合にできているので、しその葉っぱと一緒に食べる。
豆はランナービーンズと呼ばれるもので、日本ではあまり見ない豆だ。
これをさっと塩茹でにしてマヨネーズで食べる。
きゅうりも色々なものがあるが、今年から日本のきゅうりを作り始めた。
出来は上々。シンプルに味噌で食べる。
娘も喜んで食べ、あっという間になくなったので、食事中にもう1本取ってきてまるかじり。
こういう些細な事がうれしい。
こういうことも毎日こうだと当たり前になってしまう。
だが家から離れて帰ってくると、そのありがたみが身にしみる。
さらに頂き物の「越の寒梅」
旨い日本酒に旨い肴。
自分を含め、健康な家族。
今回の仕事もお客さんは喜んでくれて、自分も納得のいく仕事ができた。
こういう日の後は酒が旨いのだ。
幸せである。
幸せとは常にそこにあるものなのだ。

こうやって僕が旨い物を食べている間も、地球の裏側では子供達が餓えて死んでいる。
災害で住む場所がない人々もいる。
北半球では寒波、南半球では熱波と洪水を繰り返している。
先日もソロモン諸島で大きな地震があり、何人もの人が死んだ。
地球は相変わらず不安定だが、僕の家の庭は平和そのもの。
野菜と鶏はすくすく育ち、犬は幸せそうに芝生で寝転がっている。
この先はどうなるのか分からないが、今この瞬間を見れば僕はかなり恵まれた環境にいる。
この先に来る将来に不安を持つか、今この瞬間の幸せに意識を向けるか。
それはその人次第だろう。
僕は僕の道を行き、これからも人と幸せを分かち合うだろう。
その思いが心の奥にあるので僕には未来への不安はない。
今ある状態を受け入れ、その瞬間ごとに自分がやるべきことをやる。
それだけでこの世は天国になる。
同時に自分次第では、この世は地獄にも成り得る。
全ては自分の選択の結果。
目に見える現象の全ては自分が作り上げたものである。
他人と比べる、他人のせいにする、他人を見る、意識が外に向いているうちは前進はない。
これからの世界は内向、内省、自分の内への探求にある。
自分の心の内の殻をはがすのは自分の役目だ。
それを人がやると、目を向けたくない人は傷つくので殻を厚くして、さらに外を見る。
殻を厚くすればするほど、真実の愛から遠ざかり、全てが上手く回らなくなる。
それも自分の心の現れ。
自分自身の心の中は、自分が一番見えづらいもの。
なので僕は自分の周りに起こる出来事、自分と出会う人々を見て、自分の状態を判断する。
すると、自分の向いている方向は間違っていないのだなと思うわけだ。

食べ物の話がいつのまにかとりとめのない文になってしまったが雑記なのでこれでいいのだ。

コメント (2)
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薬になる使い方。

2013-02-03 | 日記
テレビの話を書いたら、思わぬ反響があった。
調子に乗って続きを書く。
僕がテレビで嫌いなことは、あの効果音。
面白くも無い所で入るあの笑い声、アメリカのドラマなどのあのバックの声が大嫌い。
驚く所で入る「ええ~」という声も嫌い。
「ここで笑え、ここで驚け」と強制されているようでいやだ。
ついでに言うなら字幕も嫌い。
耳の聞こえない人への配慮、という理由から始まったものだろうが、明らかに製作者はあれを利用している。
耳の聞こえる人でも一つの情報を目と耳で受け取る。
その元の情報が間違った物、もしくは操作された物でも、『無意識の受身』で受け入れてしまうだろう。
それがなんとなく分かるからか、あの効果音と字幕は嫌いだ。

さて、前回の話でいただいたコメントをそのまま載せる。

「今月三歳になったうちの息子ですが、保育園では、「お母さんと一緒」とかを待ち時間の時などに見せている模様。

うちでは、子供に見せたいor見せてもいいテレビというと、うちは「ピタゴラスイッチ」と「クインテット」、「トトロ」でした(全部録画です)。

なぜ過去形かというと、たったその三つでも、一度見始めると何回も繰り返し見たがってしまうので、夫婦で話し合った結果、半年前に「突然テレビが壊れた」と言って、それ以来家ではテレビはつけていません

これには、このブログで聖さんのお父さんがテレビを壊した、と教えてもらったことも相当影響してますが(笑)

それからは、それまで以上に絵本を読んだり、CDを聴いて踊ったり、積み木やブロックやパズルやプラレール、といった、自らが動かないと始まらない道具で遊んだり、タイミングが合えば料理を一緒に作るように働きかけています

そうそう、テレビ番組と言えば、うちのテレビが”壊れて”から放送が始まった「でざいん あ」とかいうテレビも、評判がいいと聞いています(ただ、そういう経緯なので自分では見たことがないですけど)  (笑)」


素晴らしいコメントをありがとう!このブログが元でこういう流れになったのなら、このブログもあながち無駄ではなかったということだな。
例え良い番組でも繰り返し同じ映像を見るのは良くないだろう。
特に小さい子供はコントロールできないので、注意が必要。
宮崎駿の本で、小さい子を持ったお母さんが「うちの子はトトロが好きで好きで百回以上も見るんですよ」
というシーンがあった。
宮崎駿本人が冷や汗をかき「やめて下さい」と言い、横にいた友達が「自分で描いといて、よく言うよ」と冷笑する場面である。
小さい子供はコントロールがきかないので同じ物を繰り返し見たがる。
親も見せておけばおとなしくしているので何回でも見せる。
これでは、いけませんなあ。
このコメントの『自らが動かないと始まらない道具』これがまた素晴らしい。
これは何も子供のおもちゃに限った事ではないが、自転車旅もしくは徒歩の旅、こんなの当てはまるんでないかい?
ペダルを踏まなければ、自分の足で踏み出さなければ、旅は始まらない。
そこには自分の強い意志が存在する。
その意思なくしての前進はありえない。
人生と似ているではあーりませんか。
自分の足で一歩踏み出る勇気。
受身と反対のうまい言葉が見つからないが、なにかとても大切なような気がする。
子供の頃にこういう道具で遊ぶのは大切だな、うん。
ふと思いついたのだが、コンピューターゲームというのも受身なのではないだろうかな。
コメントに「一緒に料理を作る」とあったがこれもいいな。
僕は娘が小さい頃には台所仕事をする時によく背中に背負ってやった。
子供も背負われていると機嫌がいいし、親が何をやっているか見せるのは良いことだと思うし、自分のトレーニングにもなる。

宮崎駿の作った物でも使い方によっては毒にもなる。
では薬になる使い方を紹介しよう。
地震の後、僕は娘と一緒に友達の家にお世話になった。
そこの家には名作「未来少年コナン」というシリーズ物のDVDがあった。
僕と娘、そしてそこの家の娘ニキは毎晩このプログラムを見た。
ニキは前にも見たが、僕と深雪は初めてである。
これを見る上で決めたこと、毎日2話まで。それ以上は見ないというルールを作った。
元々30分番組なので始まりの歌と終わりの歌、それにコマーシャルをなくすと正味20分ちょっと。
これだとちょっと物足りない。
なのでそれを二つ。
晩御飯が終わってからの楽しみがあるので、子供達も進んで後片付けをする。
生活のリズムができあがり、とてもよかった。
そして次の話が始まる時のドキドキワクワク感、たまりませんなあ。
ある程度の規律というのは必要である。
その日の見る分が終わって、先が気になるのは大人も同じだが、そこでガマン。
子供にガマンさせて大人も一緒にガマンする、これが僕の愛だ。
後は明日のお楽しみ~、というわけである。
よく連続ドラマなどを1日で全部見てしまう人がいるが、僕はそういう見方はしない。
それをすると、ただストーリーを追うだけになってしまうからだ。
これを見ている間、毎日僕も子供もワクワクしながら過ごした。
映像とはこうやって使うものじゃあないか?
それにしても地震直後。原発が問題になりかかった時に太陽エネルギーのこの話。
これを何十年も前に作った宮崎駿という人は天才なんだなあ、と思った。
これは映画にもなっているようだが、連続ドラマの方がよっぽど面白い。

ニュージーランドも地上デジタル放送があと数ヶ月で始まる。
今、使っているテレビではテレビ番組が見られなくなる。
テレビを新調する気もないし、これからますます我が家はテレビ離れするだろう。
それでもいいかな。
DVDはあることだし、日本からのお土産は家族で見るに値する素晴らしいプログラムをリクエストしよう。




コメント (2)
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