あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

テレビで言ってた。

2013-01-28 | 日記
勘のいい人はタイトルを見て、「ああ、今回はテレビの事をけちょんけちょんにけなすのかなあ」と思われるかもしれない。
その通り。今回はテレビをけなす話である。
僕はほとんどテレビを見ない。
テレビをはじめマスコミという物を全否定する気はないが、かなり疑いの目で見ている。
第一にテレビは作り物である。
どこかのだれかが作った物である。
これを認識していない人が多い。
その作り手によっては毒にも薬にもなる。
そして今、その毒のなんと多いことか。
その毒にかなり早いうちに気が付いたので、若い頃から見る番組は限られていた。
以前にも書いたが、我が家では親父が僕たち兄弟の前でテレビを叩き潰し、テレビの無い少年時代を送った。
このことは自分の人格形成にもとてもよかったと思っている。
テレビを叩き潰してくれた父親に感謝である。ありがたや、ありがたや。

大人なら自分をコントロールできるが、子供はコントロールできない。
知らず知らずにテレビに中毒になっていた自分には、それぐらいのインパクトが必要だったのであろう。
テレビが無かったので家ではラジオをよく聞いていた。
ラジオも作り物なのだが映像が無い分、想像力を伸ばすという点では良かったと思う。
そして本を読んだ。とにかくたくさんの本を読んだ。
マンガも読んだが小説も読んだ。
本は自分でページを開き、字を目で追い、そして理解して頭の中で想像化する。
こういう面倒くさい作業を知らず知らずのうちにやっている。
テレビは基本的に受身である。
チャンネルの選択はあるものの、基本的に与えられた情報を受け入れる。
想像力はなくとも映像という物の力で分かった気になってしまう。
そして又、中毒性もある。
たまに、見ないのにテレビをつけっぱなしにする人がいるが、あきらかに中毒だ。
「音がないとさびしいから」自己を正当化する言い訳だ。
情報を垂れ流しにしていれば、意識は情報の方、自分にとって外側へ向き、自己の内面を見つめるという本当にやらなくてはならないものから目を背けることができる。
その情報とはどこかの誰かが自分達に都合の良いように作り上げた物、ということに気づこうとしない。
洗脳である。

以前出会った、芸能人のマネージャーが言っていた。
「映画の人達は中身があるけど、テレビの人は中身がない」
なるほどなと思った。
映画とテレビの違いは誰がその仕事にお金を出すかである。
映画は基本、見る人がお金を払い劇場に足を運び作品を見る。
そこには受け手の行動の判断がある。
テレビの場合お金を出すのはスポンサーだ。
スポンサーの気に入らなければどんなに良い作品を作ろうが日の目を見ない。
当然ながらスポンサーにとって不利な情報は流れない。
そんなことを言うタレントは即刻降ろされる。
今は無き元RCのキヨシローがライブで「エースコックは体に悪いぜベイベー」と言ってコマーシャルから降ろされたし、最近では山本太郎が原発反対を唱えたら仕事を干された。
御用学者という人達も存在する。
権力者にとって都合のいい事をもっともらしく言う。
「放射能は身体に良い」「原発が無ければ電気は足りなくなる」などなど。
考えずに見る人は「学者の言う事だから」「偉い人の言うことだから」ということで信じてしまう。
権威への弱さがここで現れる。
本質を見極めない人は権威に弱い。
特に国際的な権威は絶対的だと思っている。
世界遺産がいい例だ。
以前、世界遺産を特集した番組を見た。
そこでは司会者が「世界遺産に選ばれることがいかに名誉であるか」というようなことを繰り返し言っていた。
それ自体は何も間違っていないが、その裏に見えるものは世界的権威を利用した番組作りだ。
ある場所が世界遺産に認定されるとどうなるか。
それまで見向きもしなかった人々が押しかけ、静かに取っておくべき世界遺産は観光地となる。
ゴミは増え道は整備され開発への流れとなる。
ツアーの名目も「世界遺産を巡る旅」というものになる。
さらにそうなると、人を集めるために、地域の活性化のために自分の場所も世界遺産に登録しようとする人も出てくる。
本末転倒だ。
以前のワークメイトが言っていた。
「世界遺産なんてものはどこかの誰かが線を引いて決めた物で、それ以前からこの国の自然はここにある」
まったく同感だ。
ケチを付けたがる人に一言言っておく。
世界遺産が悪いなどとは言っていない。
世界が一つになり、人類の遺産を守ろうという態度は納得できる。
納得できないのは、それを利権のために利用する事、そしてそれに踊らされる事なのだ。
似たような話はある。
ノーベル賞、オリンピック、ワールドカップ、数々の国際会議などなど。

今の世の中、特に日本ではテレビの影響は大きい。
テレビで納豆が体に良い、と言えば次の日スーパーで納豆が売り切れとなる。
そこである情報がやらせだったと分かれば「テレビで良いって言ったから納豆をたくさん買ったんだ。どうしてくれる!」などという訳の分からんヤツも出てくる。
「どうしてくれる?」などと言われたら「食えばいいじゃん。テレビで言おうが言わまいが納豆は体に良いんだから」ということはテレビ局の苦情受け付け係は言わないだろう。
平謝りに謝り、ひょっとすると見舞金でも渡すのかもしれない。
こうしてクレーマー一丁できあがり。毎度ありー、ちーん。
テレビの宣伝効果は大きいので自分の商品を取り上げてもらおうと業者は番組の製作者に賄賂を渡すかもしれない。
そうやって購買意欲を駆り立て経済は回っているのだろうなあ。

さらにテレビは本当の事を言わない。
「エアコンよりテレビの方が消費電力が高いので、節電にはテレビを消しましょう」とは絶対に言わない。
「原発に反対するため何万人もの人が集まりました」これも言わない。
「今回の選挙で不正選挙の疑いがあります」言わないなあ。
今やニュースもエンターテイメントだ。
ハリウッド映画も同じだが、真実を少しだけ混ぜもっともらしく番組を作り上げる。
そうやって民衆というものを同じ方向に向けようとしている。
その方向とは権力者にとって都合の良い方向だ。
ある統計では若い人のテレビ離れが進んでいるそうな。
まことによろしい。
今はPCの普及により、情報は自分で選ぶ事ができる。
与えられた情報ではなく、自分の判断で情報を選び、では自分はどうするか、と考える。
自分が選んだ情報が間違っていたことが後から分かれば、それは自分の責任。
「いやいや、すっかり騙されちゃったなあ、あっはは~」と笑い飛ばせば良いのだ。
僕もすっかり騙されていた情報を一つ。
アメリカの911テロの映像。
飛行機がビルにどっかーんと突っ込む映像があった。
あの映像、お昼のニュースでは飛行機が突っ込むシーンはなくただビルが爆発するだけだったが、夕方のニュースでは、なんとそこに飛行機がしっかりと写っていた。
そして僕をはじめ世界中の人が見たものは夕方のニュースの映像だ。
あれを見たときに「飛行機があの高さでビルに突っ込んだらあそこまで崩壊するのかな」と自然な疑問を持ったのだけど、御用学者がもっともらしい事を言い、僕もなんとなく納得してしまった。
いやいや、すごいではありませんか。
世界中をペテンにかけた大茶番劇。ハリウッド映画も真っ青。
さすがアメリカ、やることがでっかいね。
ただ、今やネットのおかげで茶番劇の種明かしまでされてしまっている。
まあテレビとはそういう物だ、と思えば腹も立たない。
そしてその後の世界の流れを見れば、そういう風に世界は操作されているんだなあと感じるわけだ。
若い世代ではテレビ離れが進んでいるようだが、中高年や老人の世代では未だテレビを盲目的に信じている人も多い。
そして出てくる言葉は「テレビで言ってた」なのである。
テレビ教の信者達よ、そろそろ気づきなさいよ。
「テレビで言ってた」ではなく、あれは出演者が「言わされていた」のだと。
とまあこんな所で毒を吐いたところで、テレビ教の信者は僕のブログなど読まないだろうなあ。

毒を吐きっぱなしでは後味が悪いので薬も付け加えておく。
僕が見て面白い子供に見せたいと思う番組はNHKの「ピタゴラスイッチ」
作っている人の頭の良さ、センスが伝わってくる。
そして実家から「ちびまるこちゃん」のDVDが多量に送られてきて、娘が喜んで見ている。
こういうのは日本語の勉強にもなるし、良いと思う。
個人的には時代劇も好きだ。
これを読んでいる皆さん。
「おまんは物を知らなすぎる。つべこべ言わんとこの番組を見てみんしゃい」
というものがあったら是非教えて下さい。


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今日の食卓

2013-01-24 | 
今日の晩飯のメニュー。
鳥の手羽と大根、人参、こんにゃく、豆の煮物。
大根は初物。種から育て食べごろになったので収穫した。
葉っぱは鳥があまりに喜んで食べるので、鳥にあげてしまった。
人参も好調。まだまだ取れる。
豆はランナービーンズといってツルでからまりながら2mぐらいの高さに育つ。
さやは20cmぐらいの長さになり、さやごと食べられ、味はインゲンからくせを取ったようなもの。
今年はこれが育ちに育ち、食べきれないぐらい、たわわに実っている。
鶏の手羽から出たダシが野菜にしみこみ旨い。

ズッキーニとピーマンのオーブン焼き。
ズッキーニは今年3株植えたのだが、どれも良く育ち立派な実をつけてくれる。
ピーマンは鉢植えでやってみたところ一つだけできた。
ズッキーニは二つに、ピーマンは四つに切りオーブン皿に並べ塩とコショウ。
その上にパン粉とパルメザンチーズを粉にしたものをかけてオリーブオイルを多少垂らしてオーブンで焼く。
隙間があったので、収穫したばかりの生ニンニクも焼いてみた。
どれもシンプルに旨い。

メインはチキンカツ。
近くの肉屋で衣をつけた状態で売っているのを買ってきた。
これを網の上に載せ、油を少したらしオーブンで焼く。

味噌汁はシルバービート。
市販のシルバービートはアクが強く、好きでないという人が多いが、我が家のシルバービートは土がいいのかアクが全く無い。
そして雑草のごとくあちこちに生えている。強い野菜なのだ。
駐車場のすみにまで生えている。
しっかりと数えた事はないが、多分50株ぐらいはあるだろう。
当然ながら食べきれない。
そういうのを放っておくと花を咲かせ種を大量につける。
それを空いている所にばらまいておくと勝手に芽が出て育つ。
煮物、炒め物、和食、洋食、中華、なんでもござれ
今日はこの葉っぱで味噌汁にした。

そして今日一番の目玉はご飯である。
これは日本にいる友達が実家で作っているものを送ってくれた。
我が家では米は土鍋で炊く。
まあ、この米のうまいこと。
ツヤが違う。色が違う。炊き上がりの立ち方が違う。そして味が違う。
日本のお米は感動的に旨い。
深雪なぞは「なくなっちゃうのがもったいなくて食べられな~い」などと言っている。

子供にも旨いものは分かる。
子供に健全で美味しい物を食べさせるのは大人の役目である。
子供にこそ最高の物を食べさせなくてはいけない。
子供だからといって手を抜いてはいけない。
もちろん子供好みの味、大人好みの味はあるが、どんなものでもきっちりと手を抜かずに作る。
それが大人が子供に捧げる愛だと思う。
僕は家で取れた野菜をよく友達にあげる。
それも子供の居る家にあげる。
子供が喜んで僕の野菜を食べた、などと聞くと単純に嬉しい。
なぜなら子供とはその家だけのものではなく、地球の財産だからだ。
地球の財産である子供に健全な食べ物を提供する。
何も間違っていない。
そして何の迷いもない。
自分ができる範囲で、自分がやるべき事をやる。
愛に基づいた行動は、それに関わる全ての人が幸せになる。
人だけではない、家の野菜だって卵だってその方が幸せだ。

家の野菜、日本からの米、近所の肉屋の肉。
旨い物をバランスよく食べ、今夜も幸せである。
ありがたや、ありがたや。



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構想を練る

2013-01-20 | 日記
一つのツアーが終わり数日ぶりに家に帰ってきた。
朝、お日様が昇る数時間前に起き、夜に日が沈んで数時間後に寝る。
今ではすっかりこのスタイルがなじんでいる。
夜明け前の庭で、お茶をすすりながら菜園を見る。
ツアー前に植えていったきゅうりやかぼちゃなどが根付いて元気に育っている。
最近では日本のきゅうりの種が買える。
試しにやってみたら、これがめっぽう旨い。
これをゴーティーの味噌で食おうものなら、「あんたそれはもう」というくらいに美味いのだ。

にんにくとそら豆の収穫が終わり日当たりのいい壁沿いにスペースができた。
前々からここに温室が欲しいと思っていた。
お茶をすすりながら構想を練る。これが好きなのだ。
壁はコンクリートの柱で支えている。これを使わない手はない。
そこを基準に柱を2本立てればコーナーが決まる。
柱の1本が立つであろう場所はニンニクを収穫し終えた場所だ。
もう1本の場所には赤玉ねぎが収穫の時期を迎えている。今日の仕事はこれだな。
赤玉ねぎも初めて植えてみたが、いい出来だ。
女房がこの玉ねぎで作るドレッシングも絶品である。
柱の材料となる長く太い木は、庭の隅に長い間転がっていた物を使う。
柱の根元を支えるコンクリートは、ドライブウェイを舗装した残りがある。
愛が原動力にある出来事はとんとん拍子に事が進む。
逆を返して言えば、とんとん拍子に事が進まないのは原動力が愛でない証拠。シンプルだ。
穴の深さは70cmも掘ればいいだろう。
そこにコンクリートを適当に入れて柱を挿し水平機でまっすぐに立てる。
よしよし、イメージが湧いてきたぞ。
こういう時が好きだ。

お茶を飲みながら畑を眺めていると、お日様が昇ってきた。
雲の切れ目から真っ赤な太陽が昇る。
僕は両手を合わせ太陽を拝んだ。
お日様は雲の切れ目をあっという間に通り、すぐに厚い雲の裏側へ行ってしまったが、時間にしたらわずか1分ほどのドラマをぼくは充分に堪能した。
そしてまた出てくる言葉はありがとうなのだ。

温室の壁はガラス戸がいいな。
近くの建築廃材屋で調達できるだろう。
家の近くには廃材屋があり、そこでは床材、壁材、屋根を葺く資材、柱、内装、ガラス窓、水周り、家を建てるありとあらゆる物、なんでもそろう。
業者も来るが一般の人もそこで買える。
使える物は使うというニュージーランド人気質に沿った店である。
自分でやろうとする意思があれば、それができる土壌がある。
これがニュージーランドだ。
こうやって僕は構想を練る。
そしてイメージを作る。
イメージが湧かないものはできない。
イメージが湧けばそれは実現する。
あとはタイミングだけだ。

犬のココが鼻をクンクン鳴らしている。
どれ、散歩にでも行こうかな。
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変化というもの。

2013-01-08 | 日記
皆様、明けましておめでとうございます。
というわけで2013年も無事に明けた。
無事に、と言っても僕の周りの話だけであって、世界に目を向ければ「正月だあ?クリスマスだあ?こちとらそれどころじゃねえんでい。」という人はたくさんいる。
オーストラリアやアルゼンチンでは熱波で人が死んでいる。
インドや他の北半球の地域では寒波で人が死んでいる。
洪水で家を失った人もいれば、干ばつで野菜が育たず餓えに苦しむ人はいるし、原発だってまだ終わっていない。
地球は今まで以上に大きく動いている。
とはいえお正月である。お正月はめでたいものであるが、ここで一句。

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし

これは一休さんの歌だが、正月に浮かれる人々に警告をする歌とも言えよう。
死とは誰にでもやってくるものである。
その死から目を背けることなく今ある生を生きよ、というように僕は解釈している。


年末の話題はマヤ歴の終わりが2012年の12月21日にやってくる、という話だった。
これを多くの人は世界の終わりと思い込んだ。
マスコミもそうやって煽り立てた。
人々の恐怖心を権力者は常に利用する。
ノストラダムスだって2000年問題だって皆同じこと。
そして「ほら見ろ、何も起こらないじゃないか」と言う。
クリスマスに『2012』という映画をテレビでやっていた。
俗に言うパニック映画であり、ついつい見てしまったのだが、感想は時間の無駄。
いかにもというアメリカの話であり、やっぱりハリウッドの映画はこうなのか、とため息をついた。
ハリウッド映画は真実をすこしづつ入れ、人々を洗脳する。
そうやって大衆というものをコントロールするのだ。
テレビも同じ。
映像というものはインパクトが強いので、大勢の人に同一の価値観を植え付けるにはもってこいの道具だ。
話がそれた。
マヤの文明というのは暦に長けていた文明である。
その暦が2012年に終わるというだけで、世界が終わるとは言っていないはずだ。
世界が終わると言ったのは誰か?
今に生きる人々がそう解釈したのである。
第一、2012年というのもあやふやだ。
2010年という説もあるし、「いやいや本当は2015年ですよ」という説もある。
本当のことは分からないし、分からなくてもいいのではなかろうか。
生に固執、執着するが故に人は死を必要以上に恐れる。
その恐れを一握りの人間が利用する。
これは今に始まった話ではない。
そのマヤ歴が終わり(終わってないかもしれないけど)2013年が明けた。

さてこの先どうなるか。
丸尾君なみにずばり言いましょう。
「これからは変化の時代です」
変化を恐れてはいけない。
人は誰も未知なる物に恐怖を抱く。
なので今のまま、ぬるま湯に浸りながらズルズルと現状維持をしたがる。
今まではそれで何とかやってきただろう。
だがこれからは違う。
今まで正しいと信じていた物が、実は違っていたことに気づく時が来たのである。
注意すべき点は、その今までの物を否定してはいけない。
今まで騙されていた自分に気が付いたらそれを認め、今どうあるべきかを考える。
そういう時代がこれから来る。
日本の震災は、あれはあれで意味があったと思う。
その震災が豆粒みたいに見える出来事がこれからやってくる。
ある人にそれを言ったら「まあ、怖い」と言った。
それはその人が持つ恐怖そのものだ。
この先、様々な事が起こるだろう。
天地異変は続き、多くの人が死ぬだろう。自分もその一人かもしれない。
だがたとえそうなっても、僕は笑いながら死ぬだろう。
そうなったらそうなったで、しゃあないやん。
その時が来るまで、自分がやるべき事をやる、この信念があれば怖いものなどない。
ポールシフトは起こり、北と南がひっくり返るだろう。
すでに太陽の昇る位置と沈む位置はずれてきている。星座もずれている。
地震、津波、台風、地割れ、竜巻はあちこちで起こるだろう。
今まではこれでよかった、と言い続ける人はそれに執着したまま死を迎えるであろう。
そして再び別の地でやり直すのだ。
地球の脱皮という言い方を僕はするが、まさに地球も変わろうとしている。
人間の今の科学では予測もできない事が起こる。
それをワクワクしながら見るか、恐怖に囚われながら見るか、結果は正反対の方向になるだろう。
過去は過ぎ去ったものであり、未来は未だ来ないものだ。
あるのは今この瞬間。
それが現在である。
そういう意味で僕は今年はますます面白い年になると思う。
常に心に愛を持ちながら、自分自身がやるべきことをやりながら、「大丈夫 心配するな なんとかなる」なのである。
そういうわけで「あおしろみどりくろ」の読者の皆様、まめに更新はできないけど今年もよろしく。

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