あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

畑から台所へ

2011-05-21 | 
家庭菜園を始めて数年になる。
それはネギから始まった。
ボクはよく料理をする。
昔、味噌汁を作りながら思った。
こんな時、庭にネギがあってそれを味噌汁に入れられたらいいな。
ネギは強い野菜である。
買ってきたネギを食べ、根っこを地面に植えておいたら自然に生える。
とにかくやってみること。経験に勝る学習はない。
多少の知識も必要である。
ある人は食べた後のネギを植えておけば生えてくるという話を聞き、根っこを上に切り口の方を地面に植えてしまった。
僕らにとって常識なことは別の人にとって常識ではない。
その人を責める訳ではないが、物を知らないということはこういうことだと思う。
これだってどうせゴミになる物だし、やってみればそのまま枯れてしまうに決まっている。
失敗という経験でその人は一つ覚えたことだろう。何と言っても経験に勝る学習はないのだから。
もし万が一反対に植えたネギがすくすく育ち美味しい野菜になったら、それはそれで世界がひっくり返るくらいの大発見となるだろうが、そういうニュースは未だ聞いたことがない。
まあそんなわけでボクはネギから植え始めた。
家のネギは上下間違えることなくすくすく育ち、勝手に花を咲かせ種を落とし勝手に増えている。
味噌汁やうどんなどを作るときにちょっと庭に出てネギを切り刻んで入れる。香り良く旨いのだ。
こうなればいいなあ、と思うことは常に実現する。

人間は欲張りな生き物である。
ネギが上手くいくと次は「味噌汁に入れる青菜なんか庭にあって、その都度葉っぱをとって味噌汁ができたらいいなあ」と思った。
人間の欲望とは次から次へと進化するものだ。
青菜はネギのようにはいかないので苗を買ってきた。
シルバービートが最初だったような覚えがある。
シルバービートは日本では馴染みのない野菜だが、鉄分も豊富で強い野菜だ。
青い葉っぱの部分はほうれん草のように使えるし、白い茎の部分は白菜のように使える。
和食、中間、洋食、何にでも使える。
切り刻んで餃子の具に、茹でてしぼってお浸しやゴマ和えに、葉っぱの部分をバターソテーに、下ごしらえをしてグラタンやラザーニアに入れても良し、もちろん味噌汁の具にしても旨い。
そしてまた強いというのが良い。
外側から葉っぱを取っていけばどんどん生えてくる。花芽が出て種をつけた後も根っこが残っていればそこから再び葉っぱが生えてくる。
勝手に花を咲かせ種をつけ、その種を空いている場所に蒔いておいたら今では雑草状態で庭にある。葉っぱはつやつやとひかり、まるで作り物のようだ。
一年中青菜に困らないというのはとてもありがたい。
ニワトリ達も喜んで食べる。
良いことづくめで、シルバービート万歳である。
シルバービートだけ食べていても生きていけるが、それだけだと飽きてしまうしちょっとアクが強くてサラダには向かない。
生野菜用にレタスなんかあったらいいな、と思った。
レタスも雑草のように育ったが、こちらは季節物でシルバービートのように年中というわけにはいかない。
それでも毎年種を飛ばし、庭のあちこちでレタスは育つ。
今この季節に新しい芽がではじめたころだ。
その他白菜、水菜、チンゲンサイなどはどれも雑草状態で庭にある。
いつのまにか味噌汁の具には全く困らなくなった。



さらに別の野菜もあったらいいな、と欲望は続く。
去年はジャガイモに挑戦してみたらこれがうまくいった。
夏野菜はズッキーニ、トマトなどがよくできた。
堆肥の中からカボチャが育ち、大きなかぼちゃがいくつも取れた。
去年収穫をし忘れたニンニクが育ち、それを植え替えた。ニンニクが球根というのも知識はあったが経験をして自分のものになっていく。
豆類もソラ豆、エンドウ豆、インゲンその他。どれも旨い。
薬味にあさつきもあるし、洋食に欠かせないパセリも常にある。
我が家の食卓には常に何かしら庭の野菜が入っている。
菜園で取った野菜をそのまま台所で調理できるというのは贅沢なことだ。
その距離わずか30m。思い立った時にすぐに行ける距離である。
新鮮というのは何ものにも勝る美味さであり、ご馳走とはこういうことを言う。



こうなればいいなと思うことは実現するのだが行動も必要だ。
野菜作りの基本は土作りである。
台所の生ゴミは堆肥にする。秋になってその辺に落ちた葉っぱも、ニワトリの糞も堆肥となる。
EMボカシで堆肥を作る際に出る汁は液肥となり野菜を育てる。
土を掘った時に出てくるミミズは、シャベルでちょん切ってしまったものはニワトリのご馳走に、切れないで元気に出てきたものは菜園に埋め土作りに一役かってもらう。
何よりも土いじりが好き、というのが成功の秘訣だ。
そうやってできた健康な土からは、丈夫で美味しい野菜ができる。
もし自分が大事に作った土が放射能で汚染されたら、などと考えると心が痛む。
ニュージーランドは放射能汚染の心配もなく土も水も安全である。
このことがどれほど素晴らしいことか、ここに住むほとんどの人は気付いていない。
ともあれ家の菜園は土が良い。なので雑草も良く育つ。
土を耕すときに雑草は一掃するが、すぐにまた生えてくる。
除草剤は当然使わない。
育てたい野菜にかかるようなものは抜くが、多少の雑草は仕方がないので目をつぶる。
雑誌に出てくるような雑草が一つもない菜園は逆に不自然だ。
行動には常に思考が伴う。
大地に対する感謝。野菜達に対する感謝。そこに住むミミズや目に見えない微生物に対する感謝。
それを感じたときに言葉に出すのも大切だ。
なのでボクはいつも野菜に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜を作ってくれよ」
ミミズにも話しかける。
「うちの生ゴミをたくさん食べて良い土を作ってくれよ」
ボクの思いは生き物たちに伝わり、全てが調和してさらに良い菜園ができる。
そして大地からの物はみんなで。
友達に野菜を配ると皆喜んでくれる。
こうやって幸せのバイブレーションは広がる。
大地から人へ。
人から人へ。

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フォークス日記 8

2011-05-14 | 
フォークス最終日。
今日はクィーンズタウンへ帰る日だ。いつまでも遊んでいる訳にはいかない。
前日はテントをあきらめ家の中のソファーで寝た。
朝、小降りの雨の中、キミが仕事へ出かけた。
じきにタイも起きてきた。ヤツは今日は休みだ。
朝飯を食べているうちに辺りが明るくなってきた。
これは雨が上がるかもしれないな、などと思っていると本当に止んでしまい青空も見えてきた。
こういう時は即行動に移るべし。
マー君とタイでオカリトツアーだ。今日のガイドはタイである。
オカリトはフォークスから車で10分。海岸沿いにある小さな集落で人口は推定15人。
こんな場所でもゴールドラッシュの時には何千人もの人が住んでいた。
オカリトには潟があり、そこは鳥の聖域でもある。
白鷺を始めとする水鳥達、そしてこの辺りはキウィもいる。道にはキウィ注意の看板があり、記念撮影をする人も多い。
7年ぐらい前か、ここでシーカヤックをやって感動のあまり涙を流したこともあった。この国にやっつけられてしまったのだ。
今日のオカリトツアーは、まずはビーチへ。雨上がりの散歩を楽しむ人がチラホラ。
山に囲まれたクィーンズタウンにいると、突発的に海が見たくなる。
山のエネルギーがあるように、海には海のエネルギーがある。
ボクが山で感じるエネルギーを一言で現すと、絶対的な存在感というものか。
海は全ての生命の源であり、大きな力で包み込んでくれるもの。
氷河が娘ならば、海は母だ。そうなると山は父だな。



次は近くの高台までちょっとしたハイキング。
ここは今まで何回も来ているが、コースのレイアウトが変わったようで、タイも変わってから初めてきたようだ。
フラックスの茂みを抜けると湿地帯にかかる木道が出てきた。これは新しいものだ。
「へえ、こうなったんだねえ。見てよこのS字。センスあるじゃないの」
ボクはタイに言った。
「いやあ、ホント、これは良いセンスだ。氷河での道作りもそうなんですけどね、センスのあるヤツが作ると面白いコースが出来るんですよ。センスの無いヤツが作るとただの移動の為の道になっちゃうんですよね」
この木道も合理性と機能性だけ考えれば直線にした方が作業も楽だ。だがそこに面白みはなくなる。ただの道になってしまう。
そこをあえてこういう風に作ったのはプランした人のセンスというものだ。



「あれ?何だろう?」
前方に何か白い物が動いている。
白鷺だ。
白鷺はマオリの言葉でコトゥク。神聖な神の使いでもある。
ニュージーランドではオカリトに唯一の繁殖コロニーがある。
大きくて優雅な鳥は見栄えも良い。
「いやあ、やるなオカリト。こんなタイミングでこの鳥を見せてくれるなんて。ありがとうありがとう」
しばし鳥に見とれていたがいつまでもそうしているわけにもいかない。
もっと見ていたいなあ、と思いつつ近づくと鳥は飛び立ち、その先S字型の遊歩道の先端に再び止まった。
まるで僕らを待っていてくれるかのように。
こうなればいいなあ、と思うとそうなる。
ボクの心は鳥に対する感謝、天気に対する感謝、そして自然に対する感謝で一杯だ。
再び鳥に近づく。今回は水面に姿を映してくれている。
やるなあオカリト。演出がにくいぜ。
鳥はしばらくそこにいたが「さあ、もういいでしょう」というように飛び立ち、優雅に湿地帯の上を飛び去って行った。
ボクは心の中で何回もありがとうとつぶやいた。



木道が終わると山道になり、ゆっくりと上りになる。
この道はゴールドラッシュ時代に、この奥にある集落まで続いていた道だ。今は人は住んでいないでトレッキングの道だけがある。
タイが言った。
「この奥は3マイルラグーン、それから5マイルラグーンと続いているんですよ。ひっぢさん、行ったことあります?」
「いや、無いんだよ。いつか行きたいなあと思っているんだけどね」
「そうですか。この奥もなかなかいいですよ。どうでしょう?天気も良いですし、この先まで行ってみませんか?」
こういう誘いは危険だ。
ここに住んでいるタイはこんな時にいくらでも遊べるが、ボクはこの後テント撤収そしてクィーンズタウンまで5時間のドライブが待っている。
「行ったら数時間のコースだろ?テントもそのままだし今日は止めとく」
行けば面白いのは分かっているが、後先を考えずに遊んだら痛い思いをするのは自分だ。
それに今日はそこに行くタイミングではないな、という思いがなんとなくした。
なんとなくは直感だ。それに従っていれば間違いはない。
先になにがあるか分からないが、今この瞬間を楽しむのみ。
タスマン海を見ながらボーッとそんなことを考えていた。



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脱原発への大きな一歩

2011-05-10 | 日記
浜岡原発の停止が決まった。
素直に喜んでいいのだと思う。
ボクの実家は静岡にある。浜岡からの距離は50kmぐらいだろうか。
ニュージーランドにいながら、一番気がかりだったことがこれだ。
父親は何十年も浜岡原発に反対をしていたが、これで一つ肩の荷が下りたことだろう。

物事の動きの方向を変えるのにはエネルギーが必要だ。
自転車である方向に進んでいる事を想像して欲しい。
あるところで反対方向に行かなければならないことに気が付いた。
その方法は二通りある。
一つはブレーキをかけ自転車を完全に停止させ、反転して走り始める。
もう一つは弧を描きながら徐徐に方向を変え、反対方向へ進む。
どちらがエネルギーの無駄がないかはちょっと考えればすぐに分かる。
弧が大きければブレーキをかけなくても惰性である程度の方向は変えられる。
原発推進派が言うのは前者である。
「原発を止めれば江戸時代の生活に戻らなければいけなくなる。だから原発は必要だ」
彼らには徐徐に方向を変えていくという考えはない。
今進んでいる方向へ猪突猛進。とにかくひたすらまっすぐ、加速しながら進んでいく。
その先にあるのは破滅だ。
これに対して原発反対派が望んでいることは急停止である。
仮に全てが止まればどうなるか?大混乱である。
自転車を止めて反対向きに走り出すのにエネルギーが必要なように、混乱を落ち着かせ平静を保つのにもエネルギーは要る。
混乱はない、もしくは出来るだけ少ないのが望ましい。
脱原発とは今あるエネルギーを使いながら、大きく弧を描きつつ向きを変えていくものだ。
今まで原発に反対だった人も、脱原発を唱えるようになっていくのではないだろうか。ボクがそうであるように。

脱原発に対し反対意見もある。
反対意見おおいに結構。
君の立場で言えば君は正しく、僕の立場で言えば僕は正しいのだから。
財界はじめ経済に関わっている人は反対するだろう。
経団連の会長が首相を強く非難した、というニュースがあった。
当然のことだろう。
経済というものの本質が、常に成長をし続けなければいけないものなのだ。
大量生産大量消費、どんどん作れどんどん使え、足りなくなったらもっと作れ。物でも電気でも。
古くなった物はドンドン捨てろ。使える物でも捨てて新しい物に買い変えろ。
安全性?経済の発展には多少の犠牲は止むを得ない。金で解決しろ。
そんなことより止まるな、進め、競争をしろ。
なんか猪突猛進の原発推進派と似てるところがある。
ともあれこれが経済というものだろう。
今まではそれでもよかった。
文明の進化には経済や合理主義や競争は必要だ。
だが時代は変わろうとしている。
そのターニングポイントが今だ。

脱原発の言葉の裏にはこれからのエネルギーをどうするのかという課題がついて回る。
新しいエネルギーの開発もそうだが、限りあるエネルギーをどのように使うか、ということだ。
そしてエネルギーだけではなく、物を消費するとはどういうことか、という質問へ続いていく。
個人の生活のスタイルも当然変わっていく。
今あるものをありがたく使い、ムダにしない。
自分を見つめ自分にできることをする。
大量生産大量消費の経済とはかけ離れていくことになるだろう。
浪費をしながらの脱原発はありえない。

今、日本という大きな船は大きく舵をきったところだ。
船に乗っていると、その時は分からないが後ろを振り返ると軌跡が見える。
舵をきって方向を変えた時には軌跡が弧となって見える。
舵を切り始めた時に見えないものも、時が経つに連れ見えてくるのだ。
大切なのはこのまま舵を切り続ける事。
そして時間はかかるかも知れないが、いつかは今とは別の方向へ向かって進むこと。
その時に軌跡を見て思うだろう。
『いろいろあったけど、まあこうなって良かったなあ』
それが脱原発だと思う。

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フォークス日記 7

2011-05-09 | 
西海岸の雨は甘くない。
今日は雨音を聞きながら寝よう、などと呑気に構えていたのだが、夜になり雨は強さを増しテント内も浸水した。
さすがのマックパックのテントも西海岸の雨にはかなわないようだ。
テントの中が水浸しになる想い出は南米ペルーでもあった。
20代半ばで南米に放浪の旅に出かけた時、ペルーのインカトレイルを歩いた。
3泊4日、テントに泊まりながらのトレッキングだ。
今では人気コースで入山制限も厳しいようだが、当時はまだ人も少なくマチュピチュへ行く穴場的な存在だった。
その時はボクはまだ晴れ男ではなく、行動中雨が降り続いた。
テント内には数cmの水がたまり、寝袋はびしょびしょ。
楽な山旅ではなかったが、最終日にマチュピチュにたどり着いた時、それまで降っていた雨は止み太陽が差し込んだ。
インカの神様は太陽である。その神様がここ一番という所で味方してくれた。
辛い山旅が全て報われた。あの感動は今も忘れない。

西海岸の雨は夜通し降り続き、朝になっても雨である。
今日は1日雨かな。
テント内から荷物を撤収。寝袋などを干す。
今日はキミもタイも仕事が休みなのだが、この雨ではどこかへ行く気にもなれない。
午前中はダラダラと過ごし、午後はキミにフラックス・ウィービングを教える。
フラックスはニュージーランド原産の植物でこの国ならどこにでもある。
葉っぱは繊維が強く、マオリ族はこの葉を編んで籠やバスケット等を作った。
ボクも数年前にマオリのおばちゃんにやり方を習い、いくつか作った。
家のトイレにあるトイレットペーパー入れも作ったし、形を整えればペン立てにもなる。
何と言ってもどこにでもある素材というのが良い。タイの家の周りにも生えている。
葉っぱを取るのにもルールがある。
真ん中の3本は残し、その外側の葉を取っていく。一番真ん中の短い葉は子供でそれを包むようにお父さんとお母さんの葉なのだそうだ。
葉っぱをある程度の長さにまとめ、編んでいく。
難しい作業ではない。キミにコツを教え、おしゃべりをしながら作業をする。
一度基本を覚えれば、それをもとにして自分で応用できる。
「図書館で本を借りて読んでみたけどなんかピンと来なくて」
キミが言った。
「オレもそうだったんだけど、最初は誰かに教わるのがいいんだよ。そのやり方でいくつか作ってみてから本を読めば理解もできるよ」
マオリの文化は、マオリのおばちゃんからボクへ、ボクからキミへと伝わる。そしてたぶんキミから別の誰かに伝わっていくのだろう。
とてもよろしい。

夕方になり皆で自家製クライミングウォールへ。
皆がやる様子を眺めながらボクはビールを飲む。
こういう自堕落な1日もたまにはよかろう。

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何故ニュージーランドに来たのか。

2011-05-07 | 日記
お客さんによく聞かれる質問である。
「なんでガイドさんはニュージーランドに来たのですか?最初のきっかけは何だったんですか?」
ボクの答は「ん~、なんとなくですね」
なんとなくと言われればお客さんだって「はあ、そうですか」と言うしかない。
これだけだと会話が終わってしまうので、この先はガイドトークである。

ボクには3つ年上の兄がいる。
この人は立派な人で、子供の頃から大工になりたいと言って工業高校の建築科に進み、その後大工になった。
こうなればいいな、と思ったことを実現できた人だ。
僕たち兄弟は一つの部屋をカーテンで仕切って使っていた。
大きなベッドに布団が並び、間にカーテンを吊って寝ていた。
ベッドの両側がお互い一応のプライバシーが保たれるスペースである。
部屋の奥が兄で入り口側がボクだった。
兄のプライバシーはかなり守られるが、ボクのプライバシーはかなり侵害される。
部屋を決める時にじゃんけんでボクが勝ったにもかかわらず、その後の交渉で兄が奥になった。
交渉と言えば聞こえは良いが、当時小学生だったボクを兄が買収したのだ。
ボクは500円という大金(当時のボクにとっては)で部屋の奥の権利を譲った。
今から考えれば、文書や契約といった概念を持たないマオリ族に白人が自分達の法律を押しつけたワイタンギ条約に似ていなくもない。
はめられた、と気付いたのはそれからしばらく経ってからだった。500円を返すからやっぱ奥の部屋が良い、と言っても兄が頷く訳がない。最高裁判所(父)に訴えてもあえなく却下。
こうして『後の祭り』という言葉を覚えた。体験型学習とも言えよう。
僕たち兄弟はそんな部屋で成長し、兄は高校へ進みボクは中学生となった。
カーテン越しでも兄の様子は分かる。ボクは兄が家で宿題をやっている姿をほとんど見たことがなかった。
中学生のボクは思った。
「そうか、あの学校の建築科というところに行けば3年間、ああやって遊んで暮らせるんだ。よしオレもそうしよう。」
というわけでボクは自分の進路を兄と同じ県立高校の建築科に決めた。
周りの大人には「学校に行っても勉強したくないし、遊んで暮らしたいから」とは言えず「なんか、建築とか興味があるから」とごまかした。
高校に行ったらその年から先生が代わり、宿題をどっさり出してくれて兄のように遊んでばかりもいかなかくて、ボクの『高校で遊んで暮らす大計画』は崩れてしまったが…。
高校の3年間でボクが一番大きく学んだことは「どうやら自分には建築のセンスがない」ということだった。
自分が一生懸命デザインした家のなんとつまらないものか、それに比べて友達がちゃっちゃと書いたものが素晴らしいものか。
建築は芸術でもある。芸術はセンスだ。センスのない人がどんなにがんばってもセンスのある人にはかなわない。
第一に自分が書いた製図などが好きになれないのだからどうしようもない。
「そうか、自分は建築には向いてない。」これをはっきりと自覚できたことは大きな収穫である。

高校も3年になると進路も決めなくてはいけない。
工業高校の建築科なんて来てしまったから普通の大学に行くような勉強はしていない。
クラスから大学に行く人は推薦だけで、そういう人は普段から勉強もでき、言うなればエリートである。
遊びたいがために建築科を選んだボクとは格が違う。
大学は高校のかなり早い時点であきらめていた。
いや、むしろボクには学歴というものをバカにするような節さえあった。それには理由がある。
高校3年の時にボクは近所のスーパーでアルバイトをしていた。
バイトの中でボクは年長でお店での経験も長く、他のバイトに仕事を割り振るチーフのような存在だった。
春休みだか夏休みだか忘れてしまったが、その店に立教大学に行っている大学生がやってきた。年はボクより2つ3つ上だったと思う。。
ボクの当時の感覚では立教も慶応も東大も東京6大学はひとまとめに「エライ大学」で、そこに行く人は「エライ大学生」だった。これは田舎のスーパー内でも同じようなもので、彼は『立教』と影で呼ばれていた。
彼が入ってきて数日経ったのだが、オタクのなりをした彼は仕事は鈍く、営業時間が終わると他の人が働いていても帰ってしまう。
スーパーの営業時間は8時までで、そこから片づけなどをやるとタイムカードを押すのは8時5分か6分ぐらいになる。
その分の時給は出ないのだが、それぐらいはヒマな時に倉庫のすみでサボっていたので誰も文句も言わずに働いていた。
その彼はきっちり8時にタイムカードを押すように8時数分前にいなくなり、僕らが仕事を終えたときにはいつも帰った後だった。
当然他の高校生からもブーイングは出る。
ある日、ボクはオタク調の彼に詰め寄った。
「あんたねえ、なんでいつも先に帰るの?他の高校生のバイトだって片づけやってるじゃないの。大学生になってそんなことが分からないの?」
彼はボクの目を見ずにモゴモゴと何かつぶやくのみだった。
次の日、ボクは店長に呼ばれた。
「オマエなあ、あんまりバイトの大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?何があったんですか?」
「昨日の夜、『立教』が倉庫の隅でシクシク泣いていてな。聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』って言ってたぞ」
「いじめてなんかいませんよ。『立教』が毎日先に帰るからそう言っただけです」
「まあ、そうだけどな。あんまりいじめるなよ」
ボクは店長に気に入られていて、普段のボクの働きぶりも知っているので、店長も苦笑いをするしかなかった。
今考えるとそいつはひょっとすると重役かなんかの息子かもしれない。
店長をはじめ社員の人が彼に言わないことを、ボクが引き受けてしまったのかもしれない。
その時に思った。
学歴ってこんなものか。
エライ大学(と勝手に思っていただけだが)に行ってもこんな程度か。
自分が大学に行けないのを棚に上げ「よし大学はヤメだ」などと言う始末である。
その後、人生という経験を積み、今では学歴、職歴、社会的地位に関係なく人とつきあえるようになった。
だが今でも学歴社会というシステムは嫌いだ。

さて、進路である。
残りのクラスメイトは就職もしくは専門学校に進んだ。
どちらもボクが今やりたいことではないような気がした。
「さあて、どうしようかな」と思っている時にワーキングホリデー、通称ワーホリの話を聞いた。
これなら海外で働きながら学ぶ、という大義名分になる。
当時はフリーターという言葉が出始めた時代で、正社員にならずアルバイトで生活をしていくという人もチラホラ出始めた時だった。
それでも終身雇用制という制度は染み渡り、学校を出たらどこかの会社に正社員として働く、それが当たり前という観念をほとんどの人が持っていた。
「いい若い者が定職にも就かず、フラフラして」というような口うるさい人には「ちょっと海外へ英語の勉強をしに行きます」なんてことも言えた。
たとえ本来の目的は遊びに行くことだったとしても、静岡の片田舎では「英語を勉強に行く」=「海外留学」=「えらいなあ」ということで、ボクはこの伝家の宝刀を度々使った。
当時はワーホリという制度が始まって2~3年ぐらいか。オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの3カ国だけにワーホリがあった。
カナダもオーストラリアも当時からよく知られていたが、「ニュージーランド?それどこ?」というぐらいマイナーな国だった。
あまのじゃくなボクは「どうせなら誰も知らない国へ行っちゃえ」というわけで、なんとなくニュージーランド行きを決めた。
オークランドに初めて着いた時にはまさか自分がこの国に住むとは思わなかったし、スキーや山のガイドをするなんて考えもしなかった。
それからもなんとなくスキーを始めたらそれで仕事になるぐらいの腕前になったし、なんとなく趣味で山歩きを始めたらトレッキングブームにも乗り、いつのまにかガイドになっていた。
なんとなく、というのは進路を決める上でとても大きな要素なのだ、ボクにとっては。他の人は知らん。
今ではその『なんとなく』というのが直感だったような気がする。
この地に導かれていて、その道にそって来た事に気が付いたのだ。
それ以来ボクは『理由はないけどなんとなくこうしようかな』という想いは大切にしている。

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丸投げ

2011-05-04 | 日記
インターネットの普及で色々な話が知られるようになった。
便利な世の中になったものだ。
知人のサイトからたどっていくとこんな話も見つけた。
ボクが普段思っていることと全く一緒。
拍手喝采、賛成同意、一字一句、賛美賞賛、読後感想、感謝感激、ぐらいの勢いで読んだ。
普段はしないが、このページを貼り付ける。
ここまで書かれてはボクがこれ以上書く必要なし。ボクの出番ではない。
もう全てまかせます、という感じで丸投げだ。
長い文なので、お茶でも飲みながら読んでみてくれ。

http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=216
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早起き

2011-05-03 | 日記
ボクはとても早起きである。
毎朝4時に目が覚める。目が覚めてしまうのだから仕方がない。そういうものだと開き直り行動をしている。
こういう文を書くのも早朝だ。
1年のうちでもサイクルがあり、夏は普通に6時くらいに起きるのだが、秋から冬にかけてはだいたい4時起きだ。
ちなみにこの時期、寝るのは10時ぐらい。就寝時間は6時間である。
12時に寝て6時に起きることを考えると2時間ずれているだけだ。
個人の行動時間は、その人が生まれた時間に深く関わっているらしく、宵っ張りの人もいれば朝型の人もいる。
たまには朝寝をしてみたいのだが、朝からシャキーンと覚醒してしまうので、二度寝三度寝ができる人がうらやましい時もある。
宇宙からのエネルギーは夜中の2時~4時ぐらいが強くなるので、この時間に起きるのは悪いことではない。
ただし毎日この時間帯に起きているのは日常生活に支障を与えることもある。

ボクのこの生活パターンは太陽に関係していると思う
日の出3時間前ぐらいから行動して、日の入り後4時間ぐらいしてから寝る。
理にかなっているじゃないか。
夏は日が長いので明るくなる頃に起きて、暗くなってしばらくして寝る。
クィーンズタウンなどいつまでも日が沈まないので、太陽につきあって遊んでいて気が付くと9時10時なんてこともよくある。
だいたい夏は12時に寝て6時起きぐらいか。睡眠時間は夏も冬もたいして変わらない。
朝4時起きと人に言うと、「え~そんなに早く起きるの?」と変人扱いされることもある。
ある時ネルソンのフジイさんが教えてくれた。
「それってダライラマもそうみたいですよ」
あのダライラマ?エライ坊さんだってそうなのか。
そういうエライ人もそうだと聞くと、自分もエラクなったような気になる。人間とは単純なものだ。
朝からエンジン全開でぶっとばせるが、寝起きの悪い人にはうるさがられることもある。
そして夜は弱い。
すぐに眠くなる。
これは若いときからそうだったが、飲みに行ったりしても12時過ぎまで起きていられない。
徹夜マージャンなんかやったら最初のほうはいいんだけど、12時を過ぎたら眠くて眠くて「もう負けてもいいですから寝かせてください」となってしまうので勝ったためしがない。

個人差というのは面白いもので、JCなどは極端に寝付きが悪く、横になって眠気が来るまでじっと待つのだそうな。
その間ヤツはボクのイビキを聞き続ける。
横になって3分でイビキをかくボクのことを常に羨ましがっていた。
上には上がいるもので、アライでパトロールをしてた時には同室のノリさんはボク以上に寝付きが早かった。
ボクとJCとノリさんで話をしていて、あれ?返事がこないなあ、と思うともう寝ている。
時間にして0.1秒。ゴルゴ13も真っ青の早業である。
電気がついていようが音楽がガンガンかかっていようがお構いなし。
どんな状況でも寝たくなった時にすぐに寝られる。というのは特技なのかもしれない。
スキーパトロールで共同生活をしてた時には、部屋の電気を消すのはいつもJCの役目で「誰かが電気を消してくれないかな~」とボヤいていた。

早起きでいいこととしては朝焼けの空が見られることである。
雲が赤く染まるのを見ながら自然と手を合わせる。
美しい赤を見られることに感謝をし、心を空にして瞑想をする。
この瞬間がボクは好きだ。
赤い色はあっというまにオレンジから黄色そして白い色へ変わる。
はかないものだからこそ愛おしい。
そうしているうちに辺りはどんどん白くなり、黄金色の太陽が昇ってくる。
気力は充実し「さあ、今日も1日やるぞ~」という気持ちになる。
やはりお日様というのは偉大なものだ。
インカの神が太陽というのも理解できる。
ひょっとすると前世のどれかでボクはインカ人として生きていたのかもしれない。
そうしているうちにニワトリが卵を産んでくれた。
ヤツらが卵を産むのも朝だ。
朝というのはやはり特別な時間だ。

そしてまた、夜明け前というのは1日のうちで一番暗い時でもある。
明治維新を一つの夜明けと考えるならば幕末というのはずいぶん暗い時代だったのだなあ。
そんな暗い時代でも人々は生きてきた。闇夜だって草木が生きるように。
闇があればこそ、朝日の輝かしさを知る。
暗い時代の後には必ず光りが訪れる。
太陽の来ない朝がないように。
ボクを含め、人々の心に重くのしかかるエネルギー問題は、夜明け前の闇の一部だ。
「そういえば、あの時はこんなこともあったねえ」そういう事を言えるようになるのが、地球の夜明けである。
その夜明けは、僕らが考えている以上に早くやってくるだろう。

闇に脅え、光に和んで。
風を聴いて、水と歩んで。
その唄は届く、心から心へ。
みんなみんな大地を、心から心へ

ボクが好きなバンドの歌のフレーズが、ふと心に浮かんだ。

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