家庭菜園を始めて数年になる。
それはネギから始まった。
ボクはよく料理をする。
昔、味噌汁を作りながら思った。
こんな時、庭にネギがあってそれを味噌汁に入れられたらいいな。
ネギは強い野菜である。
買ってきたネギを食べ、根っこを地面に植えておいたら自然に生える。
とにかくやってみること。経験に勝る学習はない。
多少の知識も必要である。
ある人は食べた後のネギを植えておけば生えてくるという話を聞き、根っこを上に切り口の方を地面に植えてしまった。
僕らにとって常識なことは別の人にとって常識ではない。
その人を責める訳ではないが、物を知らないということはこういうことだと思う。
これだってどうせゴミになる物だし、やってみればそのまま枯れてしまうに決まっている。
失敗という経験でその人は一つ覚えたことだろう。何と言っても経験に勝る学習はないのだから。
もし万が一反対に植えたネギがすくすく育ち美味しい野菜になったら、それはそれで世界がひっくり返るくらいの大発見となるだろうが、そういうニュースは未だ聞いたことがない。
まあそんなわけでボクはネギから植え始めた。
家のネギは上下間違えることなくすくすく育ち、勝手に花を咲かせ種を落とし勝手に増えている。
味噌汁やうどんなどを作るときにちょっと庭に出てネギを切り刻んで入れる。香り良く旨いのだ。
こうなればいいなあ、と思うことは常に実現する。
人間は欲張りな生き物である。
ネギが上手くいくと次は「味噌汁に入れる青菜なんか庭にあって、その都度葉っぱをとって味噌汁ができたらいいなあ」と思った。
人間の欲望とは次から次へと進化するものだ。
青菜はネギのようにはいかないので苗を買ってきた。
シルバービートが最初だったような覚えがある。
シルバービートは日本では馴染みのない野菜だが、鉄分も豊富で強い野菜だ。
青い葉っぱの部分はほうれん草のように使えるし、白い茎の部分は白菜のように使える。
和食、中間、洋食、何にでも使える。
切り刻んで餃子の具に、茹でてしぼってお浸しやゴマ和えに、葉っぱの部分をバターソテーに、下ごしらえをしてグラタンやラザーニアに入れても良し、もちろん味噌汁の具にしても旨い。
そしてまた強いというのが良い。
外側から葉っぱを取っていけばどんどん生えてくる。花芽が出て種をつけた後も根っこが残っていればそこから再び葉っぱが生えてくる。
勝手に花を咲かせ種をつけ、その種を空いている場所に蒔いておいたら今では雑草状態で庭にある。葉っぱはつやつやとひかり、まるで作り物のようだ。
一年中青菜に困らないというのはとてもありがたい。
ニワトリ達も喜んで食べる。
良いことづくめで、シルバービート万歳である。
シルバービートだけ食べていても生きていけるが、それだけだと飽きてしまうしちょっとアクが強くてサラダには向かない。
生野菜用にレタスなんかあったらいいな、と思った。
レタスも雑草のように育ったが、こちらは季節物でシルバービートのように年中というわけにはいかない。
それでも毎年種を飛ばし、庭のあちこちでレタスは育つ。
今この季節に新しい芽がではじめたころだ。
その他白菜、水菜、チンゲンサイなどはどれも雑草状態で庭にある。
いつのまにか味噌汁の具には全く困らなくなった。
さらに別の野菜もあったらいいな、と欲望は続く。
去年はジャガイモに挑戦してみたらこれがうまくいった。
夏野菜はズッキーニ、トマトなどがよくできた。
堆肥の中からカボチャが育ち、大きなかぼちゃがいくつも取れた。
去年収穫をし忘れたニンニクが育ち、それを植え替えた。ニンニクが球根というのも知識はあったが経験をして自分のものになっていく。
豆類もソラ豆、エンドウ豆、インゲンその他。どれも旨い。
薬味にあさつきもあるし、洋食に欠かせないパセリも常にある。
我が家の食卓には常に何かしら庭の野菜が入っている。
菜園で取った野菜をそのまま台所で調理できるというのは贅沢なことだ。
その距離わずか30m。思い立った時にすぐに行ける距離である。
新鮮というのは何ものにも勝る美味さであり、ご馳走とはこういうことを言う。
こうなればいいなと思うことは実現するのだが行動も必要だ。
野菜作りの基本は土作りである。
台所の生ゴミは堆肥にする。秋になってその辺に落ちた葉っぱも、ニワトリの糞も堆肥となる。
EMボカシで堆肥を作る際に出る汁は液肥となり野菜を育てる。
土を掘った時に出てくるミミズは、シャベルでちょん切ってしまったものはニワトリのご馳走に、切れないで元気に出てきたものは菜園に埋め土作りに一役かってもらう。
何よりも土いじりが好き、というのが成功の秘訣だ。
そうやってできた健康な土からは、丈夫で美味しい野菜ができる。
もし自分が大事に作った土が放射能で汚染されたら、などと考えると心が痛む。
ニュージーランドは放射能汚染の心配もなく土も水も安全である。
このことがどれほど素晴らしいことか、ここに住むほとんどの人は気付いていない。
ともあれ家の菜園は土が良い。なので雑草も良く育つ。
土を耕すときに雑草は一掃するが、すぐにまた生えてくる。
除草剤は当然使わない。
育てたい野菜にかかるようなものは抜くが、多少の雑草は仕方がないので目をつぶる。
雑誌に出てくるような雑草が一つもない菜園は逆に不自然だ。
行動には常に思考が伴う。
大地に対する感謝。野菜達に対する感謝。そこに住むミミズや目に見えない微生物に対する感謝。
それを感じたときに言葉に出すのも大切だ。
なのでボクはいつも野菜に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜を作ってくれよ」
ミミズにも話しかける。
「うちの生ゴミをたくさん食べて良い土を作ってくれよ」
ボクの思いは生き物たちに伝わり、全てが調和してさらに良い菜園ができる。
そして大地からの物はみんなで。
友達に野菜を配ると皆喜んでくれる。
こうやって幸せのバイブレーションは広がる。
大地から人へ。
人から人へ。
それはネギから始まった。
ボクはよく料理をする。
昔、味噌汁を作りながら思った。
こんな時、庭にネギがあってそれを味噌汁に入れられたらいいな。
ネギは強い野菜である。
買ってきたネギを食べ、根っこを地面に植えておいたら自然に生える。
とにかくやってみること。経験に勝る学習はない。
多少の知識も必要である。
ある人は食べた後のネギを植えておけば生えてくるという話を聞き、根っこを上に切り口の方を地面に植えてしまった。
僕らにとって常識なことは別の人にとって常識ではない。
その人を責める訳ではないが、物を知らないということはこういうことだと思う。
これだってどうせゴミになる物だし、やってみればそのまま枯れてしまうに決まっている。
失敗という経験でその人は一つ覚えたことだろう。何と言っても経験に勝る学習はないのだから。
もし万が一反対に植えたネギがすくすく育ち美味しい野菜になったら、それはそれで世界がひっくり返るくらいの大発見となるだろうが、そういうニュースは未だ聞いたことがない。
まあそんなわけでボクはネギから植え始めた。
家のネギは上下間違えることなくすくすく育ち、勝手に花を咲かせ種を落とし勝手に増えている。
味噌汁やうどんなどを作るときにちょっと庭に出てネギを切り刻んで入れる。香り良く旨いのだ。
こうなればいいなあ、と思うことは常に実現する。
人間は欲張りな生き物である。
ネギが上手くいくと次は「味噌汁に入れる青菜なんか庭にあって、その都度葉っぱをとって味噌汁ができたらいいなあ」と思った。
人間の欲望とは次から次へと進化するものだ。
青菜はネギのようにはいかないので苗を買ってきた。
シルバービートが最初だったような覚えがある。
シルバービートは日本では馴染みのない野菜だが、鉄分も豊富で強い野菜だ。
青い葉っぱの部分はほうれん草のように使えるし、白い茎の部分は白菜のように使える。
和食、中間、洋食、何にでも使える。
切り刻んで餃子の具に、茹でてしぼってお浸しやゴマ和えに、葉っぱの部分をバターソテーに、下ごしらえをしてグラタンやラザーニアに入れても良し、もちろん味噌汁の具にしても旨い。
そしてまた強いというのが良い。
外側から葉っぱを取っていけばどんどん生えてくる。花芽が出て種をつけた後も根っこが残っていればそこから再び葉っぱが生えてくる。
勝手に花を咲かせ種をつけ、その種を空いている場所に蒔いておいたら今では雑草状態で庭にある。葉っぱはつやつやとひかり、まるで作り物のようだ。
一年中青菜に困らないというのはとてもありがたい。
ニワトリ達も喜んで食べる。
良いことづくめで、シルバービート万歳である。
シルバービートだけ食べていても生きていけるが、それだけだと飽きてしまうしちょっとアクが強くてサラダには向かない。
生野菜用にレタスなんかあったらいいな、と思った。
レタスも雑草のように育ったが、こちらは季節物でシルバービートのように年中というわけにはいかない。
それでも毎年種を飛ばし、庭のあちこちでレタスは育つ。
今この季節に新しい芽がではじめたころだ。
その他白菜、水菜、チンゲンサイなどはどれも雑草状態で庭にある。
いつのまにか味噌汁の具には全く困らなくなった。
さらに別の野菜もあったらいいな、と欲望は続く。
去年はジャガイモに挑戦してみたらこれがうまくいった。
夏野菜はズッキーニ、トマトなどがよくできた。
堆肥の中からカボチャが育ち、大きなかぼちゃがいくつも取れた。
去年収穫をし忘れたニンニクが育ち、それを植え替えた。ニンニクが球根というのも知識はあったが経験をして自分のものになっていく。
豆類もソラ豆、エンドウ豆、インゲンその他。どれも旨い。
薬味にあさつきもあるし、洋食に欠かせないパセリも常にある。
我が家の食卓には常に何かしら庭の野菜が入っている。
菜園で取った野菜をそのまま台所で調理できるというのは贅沢なことだ。
その距離わずか30m。思い立った時にすぐに行ける距離である。
新鮮というのは何ものにも勝る美味さであり、ご馳走とはこういうことを言う。
こうなればいいなと思うことは実現するのだが行動も必要だ。
野菜作りの基本は土作りである。
台所の生ゴミは堆肥にする。秋になってその辺に落ちた葉っぱも、ニワトリの糞も堆肥となる。
EMボカシで堆肥を作る際に出る汁は液肥となり野菜を育てる。
土を掘った時に出てくるミミズは、シャベルでちょん切ってしまったものはニワトリのご馳走に、切れないで元気に出てきたものは菜園に埋め土作りに一役かってもらう。
何よりも土いじりが好き、というのが成功の秘訣だ。
そうやってできた健康な土からは、丈夫で美味しい野菜ができる。
もし自分が大事に作った土が放射能で汚染されたら、などと考えると心が痛む。
ニュージーランドは放射能汚染の心配もなく土も水も安全である。
このことがどれほど素晴らしいことか、ここに住むほとんどの人は気付いていない。
ともあれ家の菜園は土が良い。なので雑草も良く育つ。
土を耕すときに雑草は一掃するが、すぐにまた生えてくる。
除草剤は当然使わない。
育てたい野菜にかかるようなものは抜くが、多少の雑草は仕方がないので目をつぶる。
雑誌に出てくるような雑草が一つもない菜園は逆に不自然だ。
行動には常に思考が伴う。
大地に対する感謝。野菜達に対する感謝。そこに住むミミズや目に見えない微生物に対する感謝。
それを感じたときに言葉に出すのも大切だ。
なのでボクはいつも野菜に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜を作ってくれよ」
ミミズにも話しかける。
「うちの生ゴミをたくさん食べて良い土を作ってくれよ」
ボクの思いは生き物たちに伝わり、全てが調和してさらに良い菜園ができる。
そして大地からの物はみんなで。
友達に野菜を配ると皆喜んでくれる。
こうやって幸せのバイブレーションは広がる。
大地から人へ。
人から人へ。