あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

山のガイドと名乗るからには山にいなきゃならん。

2023-05-26 | 


タイトルで全てを表してしまったので、このことについてあーだこーだ書く。
日々の生活をしていると、ふと山に行くのが億劫になってしまうことがある。
まずは面倒臭い。装備を整えプランを立て行動を起こすという事がわずらわしくなってしまうのだ。
実際の距離とは別の話で『山が遠くなる』と僕は呼んでいる。
山行というのは時間も労力も時には金もかかる。
そんな事をしなくても生活はできるし、庭仕事だってあるし、いつまでたってもできない物置の片付けなどやらなくてはならない事はたくさんある。
そして人間というのは常に文句を言う生き物で、夏になれば暑い、冬になれば寒い、雨が降れば濡れる、風が吹けば風が強いと何かにつけて屁理屈を積み上げ、やらない言い訳をする。
それがいけないと言っているわけではなく、そういうものなのだ。
もちろん偉そうに言っている自分もその一人である。



足を怪我してしばらく大人しくしていて、山から離れたことがあった。
スキーは100%というわけではないが、普通の人並みにはできたが、本格的な山歩きはしないまま時が経った。
ブドウ畑の仕事や庭仕事など日々の生活に追われ、山から遠くなっていた。
ある時に知人に「今でも山歩きの仕事が出来るか」と問われ考えた。
簡単な山歩きや日帰りハイキングなどはできるが、何日間もかけて重いザックを背負っての歩きが出来るだろうか。
今一度自分の体のチェックも兼ねて、近くの山に出かけた。
気になっていた膝はほぼ治ったようで、変な足の使い方をしなければ大丈夫そうだ。
体力的にも年齢を差し引いて考えても問題なさそうである。
山のてっぺんで風に吹かれ、景色を見下ろしながら思った。
ああ、自分はこういう時を過ごすために生きているのかなあ。
いつも思っていたことだが、この環境の中に自分の身を置く喜び。
人は何のために生まれ、何のために生きるのか。
そういう人類が生まれてこのかたずーっと考え続け、今でも完全な答えが出ない問いがある。
その答えの一つがこれなのだという思いを持った。



それからは山歩きが日課となった。
仕事の時には時間がないが、今は毎日仕事があるわけではない。
そんな時にポートヒルを歩く。
一番近い場所は、車で5分ぐらいのHalswell Quarry Park という公園だ。
ここは昔の石切場でクライストチャーチの街を造るのに必要な石材を調達した。
今では石切場は使われていないが、石切場の周りを歩くコースからは平野が一望できる。
公園内はドッグパークあり、マウンテンバイクのコースあり、日本庭園もあり春には桜も咲き花見ができる。
そこからはポートヒルという昔の火山の噴火跡の山へ道が続いている。



歩いて1時間ぐらいだろうか、尾根状の地形で牧場の中を歩く。
牛もいれば羊もいるし、あちらこちらの動物の糞があるので、できるだけ踏まないように歩く。
そうやって歩いて行くと山の上まで出て、裏側の景色が一望できる。
火山の噴火口が大きな入江になっていて、景色は良い。
さらにそこからは、噴火口の淵をぐるりと歩くコースが続く。
歩く気になれば太平洋に面した砂浜まで20キロぐらい歩ける。



街から丘の上まではいくつものコースがある。
尾根状の地形もあれば、谷間を詰めていくものもあり、その日の気分でどこを歩くか決める。
たいていの場合、登山道まで車で行くので車のところまで戻ってくる。
時間に余裕がある時は、バスである程度の所まで行き縦走を楽しんでバスルートに降りて来る。
カシミアというわりと古くからある住宅地から数時間歩き、丘の裏側のリトルトンという港町まで歩くのがお気に入りだ。
尾根の上から街を見たり海を見たりと、景色の良い所を歩き、開拓者が歩いた道を下り港へ。
下った先にはパブがあり、そこでビールを一杯ひっかけてバスで家まで戻ってこれる。
こういう手軽にアウトドアを楽しめる所がニュージーランドの良いところだ。



以前出会った人でこういう人がいた。
「そのうちにテクノロジーが進んで、人はVRで何でも経験ができるようになる。だから自分は山に行かない」
聞くとその人は何年もここに住んでいながら、一番近い国立公園のアーサーズパスにも行ったことがない。
何を信じどういうふるまいをするかはその人の勝手なので、他人が口出しするべきではない。
ただその人とは一回会ったきりで、それ以降の付き合いはない。
僕が山に行くのは、体を鍛えるという目的もあるが、それと同等いやそれ以上に精神的な面が大きい。
街の近くだろうが国立公園だろうが、自然の中に身を置くことにより感覚を鍛えるのだ。
風が吹けば寒くなるのでそれなりの装備も必要だ。
そのことにより自然の中では人間は無力であるという当たり前のことを再確認する。
季節によって景色が変わる中で、無常感と今ある喜びを認識する。
そして先にも書いたが、その環境に身を置くことにより、今を生きるということに意識を置く。
そういった諸々のことを山を歩きながら、漠然と考えるのである。


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10月21日 The Remarkable Single corn

2018-10-26 | 
クィーンズタウンから正面に見える岩山がリマーカブルズである。
これは連峰の名称で主峰はダブルコーンとシングルコーンという尖った岩山だ。
僕は15年ぐらい前にこの山に登ろうとしたことがある。
その時は岩にうっすらと雪が乗った状態で、登れることは登れるだろうが降りられないだろうな、と山頂直下であきらめた。
その時に一緒に登ったのがお馴染みトーマスである。
今回は雪がついているから、どうせなら山頂から滑っちゃおうとトーマスを誘った。
タンケンツアーズのボスのリチャードに話をすると、それなら途中まで一緒に行くということで3人で山へ向かった。
前回は一人で山へ行ったが、今回は3人。
一人で自分の世界に浸りながら行くのも良いが、気心の知れた仲間と山に行くのも良い。





リフト脇を登り、湖のそばで小休止。そして前回滑ってきたルートを登る。
サドルまで出てリチャードはそこから下り、僕とトーマスは再び登り始めた。
リチャードのスキー板は細いので、緩んだ雪に沈んでしまいそこから上へは行けない。
なので彼は一足先に降りて湖のほとりで僕達を待つ。







サドルから1時間ほどスキーで登ると頂上までの急斜の下へたどりついた。
スキーで上がれるのもここまで、ここでスキーをバックパックにつけて登る。
岩の隙間の雪がついている所を一歩一歩、両手を使いながらよじ登る。
前回、登頂を断念した場所もここだ。







急な場所を登りきると一気に景色が広がる。
眼下には真っ青な水を湛えたワカティプ湖、遠くに雪を載せた南アルプス、そして目の前にはダブルコーンが見えた。
山頂までは20mほど、両側が切り落ちたナイフリッジを行く。
一歩踏み外せば岩場を滑落するので、慎重に歩を進め山頂にたどり着いた。





地元の新聞に9歳の女の子が父親と一緒にシングルコーンを登って滑った記事があった。
世界のてっぺんにいるようだったという女の子のコメントが載っていた。
確かにここに立てばそう思うだろう。
いつも遠くから見ているダブルコーンが目の前にある。
何百回、この山を街から見上げたことだろう。
似たような景色を体験して行った気になるのと、実際に自分がその場所に立つのとでは違うものがある。
今はバーチャル・リアリティーなどというものがあるようで。色々な事柄が本物のように体験できるらしい。
だが一歩踏み間違えれば死ぬ、というようなピリピリした緊張感と同時に存在する景色の美しさは体験できないと思う。
それこそが生きる証ではなかろうか。
そして僕はそれを大切にしたい。












急な山は登るより下る方が大変である。
事故の確率が多いのも下りである。
雪がついていればスキーで下る方が歩くより安全だ。
それはスキーの技術があればの話である。
スキーの技術があっても高度にびびってしまえば普段通りに滑れなくなる。
先行した二人組はたぶん怖くなってしまったのだろう。
岩場をゆっくり三転確保の姿勢で下って行ったが、僕とトーマスは頂上からスキーで下ることにした。
二人組が下っている斜面を避け、その横の雪がついている所から下り始めた。
まっさらな斜面にスキーで踏み込むと同時に、表面20cmぐらいの緩んだ雪が足元から雪崩始めた。
雪は斜面を滑り落ち、その下の崖に吸い込まれるように消えていく。
雪が見えなくなってからもしばらくは音が続いていた。
この下には人はいないはずだよな、大丈夫大丈夫、ここは登ってくるルートじゃない、そんな想いが頭をよぎった。
雪が落ち着いてからゆっくりと下る。
斜度は50度を超えていることだろう。
雪の少ない岩場を超えればダブルコーンとシングルコーンの間のシュートが見えてきた。
ここからはお楽しみの時間だ。
斜度が急なので緩んだ雪がすぐに落ちる。
その雪に足をすくわれないように滑っていく。
すでにアドレナリンは全開、全身全霊をかけて滑る。
狭いシュートを抜け、荒れていないリップを見つけては当て込み、岩を避けながらターンを刻んだ。











湖のところまで滑るとリチャードが待ちくたびれた顔で言った。
「お前たち、よくやったな。あまりに時間がかかるから落ちたんじゃないかと、携帯に何回も電話したんだぞ」
「あ、いけねえ、携帯、車に置いて来てた」
「バカだなあ」
下までまったりと滑り、車に戻ると案の定、携帯にはリチャードからのコールがいくつも入っていた。
家に帰り、装備を干して、夕餉の支度。
トーマスは今晩泊まりなので、男二人で七輪ナイトなのだ。
シマアジの良さそうな奴があったので捌いて刺身。
アスパラのベーコン巻き、焼きナス、マッシュルーム、シマアジのあら、豚肉の酒粕と味噌漬けなどを七輪で焼く。
先ずは自慢のボヘミアンピルスナーで乾杯。
そして全黒の酒とトーマスが造った酒。
気の合う仲間と山へ行くのもいいが、気の合う仲間と七輪を囲み酒を飲むのも良い。
シングルコーンからの滑降。
50歳の節目というタイミングにあの山を滑ったことは一生ものの思い出になった。
きっとあの山を見る度に僕はこの日の事を思い出すだろう。








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トーマスと川下り 4

2017-06-13 | 
次の日の朝、辺りは明るくなっても谷の底にはなかなか日が差し込まない。
特にこの時期、太陽の角度は低く、それに加えU字の谷は深い。
全てのものが露でびっしょりと濡れる時に小屋泊まりはありがたい。
昨日の川下りで濡れた物も乾いて快適である。
ゆっくりと朝飯を食べ、小屋の掃除、そして昨日外に干してあったパックラフトをたたみバックパックにつめ、小屋を後にした。
パックラフトの利点は小さく畳める、そして軽いことで、バックパックにすっぽりと収まるし、パドルは切り離してバックパックの横に収まる。
上りは背負って歩き、下りは川をどんぶらこ、と流れていく旅ができる。
昨晩、小屋の中の地図を見ながらトーマスと目論んだプランは、この川を海までパックラフトで下り、そこから山を登り再び川下りである程度内陸部へ戻り、最後は歩いて戻ってくるというプラン。
これはホリフォード・ビッグベイパイク・ルートと言ってニュージーランドではクラッシックなルートである。
トーマスは以前歩いたことがあり、僕もいつかはやりたいコースの一つだ。
6日間のルートで行程的には問題ないのだが、問題はお互いがそんなに休みを合わせられるかというところだろう。



歩き始めるとすぐに小川にかかるつり橋がでてきた。
ヒドゥンフォール、隠れ滝から来ている川だ。
つり橋を渡り、ちょっと寄り道をして滝を見に行く。
隠れ滝の名の通り近くへ行くまで見えないが、近寄って見ると存在感のある立派な滝だ。
水量も豊富で雨の時にはすごい光景になるのだろう。
トーマスが「たまにはね」と言いつつスマホを出して、セルフィーで二人仲良く、はいチーズ(死語)。
死語が似合うオヤジ二人、再び歩く。







道は平坦で歩きやすい。お散歩のようなものだ。
道は川沿いを通り、昨日ハイカーとすれ違ったであろうという場所に来た。
ナルホド、こんな所をプカプカ流れるのをこちらから見れば羨ましいだろうな。




「そうそう、これが最後のトラップだ」
前を歩いていたトーマスが声をあげた。
近寄って見るとストート(おこじょ)を捕るためのワナがしかけてある。
何年か前にトーマスが設置したのだと言う。
最後のという意味は、川の上流方面からワナを設置してきて、ここまでやったという意味だ。
道から離れれば離れるほど、それを担いで歩く距離も長くなる。ワナだって軽くはない。
そういう地道な作業によってこの国の自然は守られている。
表立って見えないけれど立派な仕事だ。
こういう友を僕は尊敬する。






さらに先へ進むと一つの橋に差し掛かった。
「ここは何回直しても大雨が降る度に壊れちゃうんですよ」
言われて見るとナルホド、直した跡が見える。
「ゴール地点ではサンドフライが多いので、ここでご飯にしましょう。ここはヘリパッドでサンドフライも少ないんです。」
まるでガイド付きの山歩きみたいだな。
僕はこの場所は初めてなのだが、トーマスには仕事場なのである。
昼食後、歩き始めてすぐに釣り橋が見えてきて、あっけなくゴール。
昨日ボートを漕ぎ出してから24時間、たかが24時間されど24時間。
距離でいえば片道10キロちょっとか。
やる気になれば日帰りで、いやもっと急げば半日あればできる行程だろう。
だが急ぎ足では見えない物もあるし、じっくりと自然に浸る感もできなかろう。
じっくりと、のんびりと、ゆったりと、徹底的に密度の濃い時間を過ごした。



充実感に浸りながらテアナウまでドライブ。
「次はどこのトリップへ行こうかね」
「エグリントン川を一番上から下まで下るなんてのもあるよ」
「ふむふむ、それもいいかもね」
ワクワク感は止まらない。
パックラフトという物で、今までとは一味違うコースの組み立てができる。
必要なのは走り続けることじゃない、走り始め続けることだと、竹原ピストルも歌っている。
新しいことを始める時に、「そんなの大変じゃないの?」「そんなのうまくいかないんじゃないか」などと否定から入る人がいる。
大切なのはやってみること。行動を起こすと、結構なんとかなっちゃうものである。
新しいこと、面白そうなことをどんどん始められる人は素敵だ。



テアナウのトーマス宅に帰ると奥さんのミホコから伝言の張り紙があった。
「至急、ボスのリチャードに連絡してください。」
テアナウから先は携帯の電波が届かない。
ボスのリチャードが仕事のことで連絡を取ろうとしたが圏外だった為アロータウンの家のフラットメイトに連絡し、そこでヤツはテアナウに行っているという話でテアナウのトーマス宅に連絡、奥さんのミホコにメッセージを託したわけだ。
ボスに連絡を取ると、その日のうちにケトリンズに来いと。
当初の予定は次の日からの仕事だったが急にプランが変わったのだろう。
撮影の仕事でこういうことはよくあることだ。
ホリフォードの余韻に浸るひまもなく、僕はそのままケトリンズへ向かった。
翌日は早朝からの仕事で、その時に目が覚めるような朝焼けを見た。
つい前日までは西海岸に近い手付かずの原生林にいたのに、今は南海岸で太平洋から上がる朝日を見ている。
ギャップの大きさに頭がクラクラしてしまうが、こんな旅の終わり方も自分らしくて面白いものだ。
地球ってやっぱり素敵だな。
朝焼けの海を見ながら、ふとそんな事を思った。





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トーマスと川下り 3

2017-06-11 | 
さらに川を下っていくと遠くに人影が見えてきた。
こんな所に自分たち以外にも人がいるんだ。
近寄って行き、挨拶をする。
僕達と同じようにパックラフトで川下りをしながら、途中で釣りをやっている男達が3人。
彼らのパックラフトはアメリカ製だがトーマスのはニュージーランド産。
その名もコアロ。コアロとはマオリの言葉でこの国の川魚の名前である。
激流ではなく穏やかな流れに住むこの小魚、ときどきルートバーンを歩いていても見る。
パックラフトも急流ではなく、流れが緩やかな場所向きで、それを商品名とするところが好い。
ひとしきりパックラフトの話で盛り上がり、僕達は再び漕ぎ出した。





川から見る眺めは森歩きとは違う。
森歩きだと木々の切れ間から山が見えたりするが視界は開けない。
川下りだと常に視界が開けていて、気分が良い。
その分、雨の日や風が強い日は大変なんだろう。
森の中から鳥が川の方へ飛び出して、虫を捕まえてまた森に戻っていく、そんな光景を何十回と見る。
こんなのも普通に山歩きをしていたら気付かない。
川を下ることでここまで劇的に自然の見方が変わる。
今までとは違う角度でこの国の自然を楽しめる。
こりゃトーマスが夢中になっちまうわけだな。



穏やかな流れを進んでいくと人の声が聞こえてきた。
歩く道も川と平行しているのだろうが、川の方が低いのでこちらからは山道が見えない。
まもなく川の下流方向から数人のハイカーが歩いてくるのが見え、その中の一人が声をかけてきた。
「あらあら、あなた達、それは楽しそうね。」
「こんにちは。とっても気分がいいよ」
「なんと言っても、歩かなくていいしね」
「楽ちんさ」
「気をつけて楽しんでいらっしゃい」
向こうから僕達はどういうふうに見えるのだろう。



遠くから水音が聞こえてきた。
Hidden Falls 日本語で言えば隠れ滝という滝の音だろう。
この滝のそばの山小屋が今回の折り返し地点である。
上陸地点までそんなに遠くなく、日はまだ高い。
このままフィニッシュしてしまうのはもったいないので、川岸に船を上げて上陸。
しばし休息である。



倒木に腰を下ろすのと同時にサンドフライがやってきた。
サンドフライはブヨのような虫で、刺されると痒いが、かかなければ痒みはすぐに引く。
ただし、かきむしったりすると腫れは広がりいつまでも残る。
西海岸はサンドフライも多い。
マオリの言い伝えでは、人間に来てほしくないようなきれいな場所にはサンドフライが多いのだと、なるほど。
僕らはもう慣れっこで、そういうものだと思っているが、他所から来た人には恐怖と憎悪の対象だ。
観光客のおばさんがこの虫を追い回す時はすごい形相であるし、ヒステリックに嫌がる人も多い。
無造作に追い払う地元の人より、必要以上に毛嫌いする人の方へ虫も多くたかるのが不思議だ。
現代人が虫を毛嫌いするのは、無菌室で育った人が菌に対して免疫が無いのと同様の脆さのようなものを感じる。
以前、ミルフォードサウンドで仕事で行った時に、別のグループの添乗員(50代、オバサン)がお客さんにこう言っていた。
「サンドフライをつぶさないでください。臭いですから」
僕は長年ここに住んでいるがサンドフライを臭いと思ったことなどなく、変な事を言う人だなあと思った。
それを聞いたお客さんの反応がすごかった。
サンドフライがブーンと飛んでくると鼻をつまんで「わあ臭い、わあ臭い」と言って必死で追い払うのだ。
「お前、自分で匂いを嗅いでないだろ」という心の声を胸の奥に、人間の心理とはこういうものだなあと、僕はあきれて見ていたのだった。





再び川を下り始めると滝の音は聞こえなくなった。
「この先に小川があるはずです。それを超えた場所が上陸地点です」
トーマスが言った。ガイドとはありがたいものだな。
ほどなくしてそのポイントが見えてきた。
僕らは船を岸に着け、降りてボートをたたんだ。
たたんだボートをバックパックに縛りつけ、川から一段上の草原へ上がるとすぐに山小屋が見えてきた。
ナルホドこりゃ近くていいな。
5分ほどの歩きで今夜の宿であるヒドゥンフォールスの山小屋に到着。





山小屋は一つの建物の4分の3ぐらいが一般用で残りがスタッフ用になっている。
スタッフ用の施設は二段ベッド、キッチン、ストーブ、僕らは使わなかったがシャワーまでもついている。
トーマスはドックのスタッフなのであらかじめ鍵を借りてきていて、僕達はスタッフ用の施設を使える。
こんな時に日本だったら木っ端役人が「仕事で行くのではないのだからスタッフ用の施設は使ってはいけません」などと言うこともあるのだろう。
ここではそんなケチ臭いことは言わない。
それはトーマスの信用もあるのだろうが、僕も役得にあずかり快適な二人部屋を使わせてもらった。
先ずは服を着替え、パックラフトその他濡れているものを外に干す。
暖炉を点ける前にポンプを手で回し水をタンクに貯めるなどと、小屋には使用上の注意が書いてある。
ポンプを回す、外の薪を運んでくるなど、作業をしていると夕暮れ時になった。





外に出て山すそに沈む夕日を眺めながら、本日の乾杯。
今日も文句なしに「大地に」だな。
自然の中でとことん遊んだ日の最初の一口を大地に捧げるという儀式を始めた相方のJCは、今では北海道で鹿撃ちの猟師になっている。
そして友と乾杯。
今日はビールではなく、トーマス特製のプラムワイン。
けっこうずっしりとくる赤ワインである。
これがなかなかどうして、旨い。
ヤツはこんなものも作っちゃうのか、すごいな。
人里から遠く離れ、太古の昔から続いている自然に抱かれ、友の作った酒を飲む。
人間とはちっぽけな存在だが、小さいなら小さいなりに存在し続ける。
こうやってこの瞬間にこの場で酒を飲むこともまた、自分なりの存在なのだろう。



そのまま晩飯に突入。
晩飯はステーキに白飯である。
奮発して高いステーキ肉を買ってきたからね。
男同士の夜もまた楽し。
ワインを飲みながらテーブルの上の地図を眺めて、あーだこーだ。それがいいのだ。
2本目のワインの終盤でトーマスがダウン。
昨晩は僕が先につぶれてしまったが、今宵はヤツが先につぶれた。
これで1勝1敗か。

続く




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トーマスと川下り 2

2017-06-11 | 
翌日、僕達はホリフォード・バレーへ向かった。
いよいよ今回のメイントリップ、1泊2日の川下り&山歩きである。
今回は翌日の仕事に備えて早めにクィーンズタウンに戻りたいという僕の都合を聞き入れてトーマスが予定をしてくれた。
半日かけてのんびり川下り、半日かけてのんびり歩いて戻ってくる、そしてのんびりとクィーンズタウンに戻るという、とことんのんびりトリップだ。
のんびりと朝飯を食べ、妻子を送り出し、のんびりと準備をして出発。
5月になると太陽の角度も低く、谷底に日が差すのはお昼時から数時間。
なので出発地点でお昼を食べて、日が高い時に川下りをしようという話である。
おなじみのミルフォードロードから折れてホリフォード・ロードへ。
観光道路からの道は未舗装となり車もほとんど通らない。
この最果て感がたまらなく良い。



車を進めていくとモレーンクリークの登山道にさしかかった。
僕らは車を停め、吊橋から川を眺めた。
「トーマスよお、ここを歩いたのは何年前だっけ?」
「あれは娘のマキが生まれる前だったから、かれこれ10年以上も前じゃないかな。」
「そうかあ、そんなになるんだ。お主との二人旅もあれ以来だよな」
「そうそう、お互いに忙しくなっちゃったからねえ」
10年前に歩いた話を僕はに残した。
その時にボランティアだったトーマスは今では正式に雇用され、鳥を保護するチームの主力メンバーとなり、若い世代に仕事を教える立場になっている。
僕は基本的には変わらずに同じ事をやっている。
10年前に歩いた時に見上げたリムは同じ場所に立ち続け、あの時と同じように僕らを暖かく見守っていた。





車を進め、道の終点へたどり着いた。
この先は歩く道しかない。ホリフォードトラックの出発点でもある。
ボートに空気を入れて膨らませ、水に浮かべて、昼飯を食う。
ランチはトーマスが作ったおにぎり。日本人じゃのう。
昼飯を食ってる間に中の空気が冷やされ収縮する。
そして乗り込む時に空気を足して再度パンパンにするのだ。
と偉そうに言うが、全部トーマスの受け売りである。
バックパックを船の前部にしばりつけ、船に乗り込み、いざ出発。
流れに漕ぎ出した。





漕ぎ始めて数分、人の気配は一切消えて、完全な大自然の中に身をゆだねる。
流れは穏やかで漕ぐというよりボーっと流されて、時々思い出したように船の軌道を修正する程度だ。
スキーで言えば初級者用コースと言った具合。
ただしスキーの初級者コースでも完全に平らではなく所々にちょっとした凹凸や一瞬だけ斜度が変わるような場所はある。
それと同じように小さい瀬があったり、川が折れ曲がっている場所などで二つの流れが合わさるような所もある。
油断して流されていたら倒木にぶつかって沈しそうになった。
もし沈をしても川は浅いし流れは緩やかなので溺れる心配はない。
ちなみに僕はまだ沈したことはない。
したことは無いが、もしそうなったらどうする、ということを頭の中でシュミレーションはしている。
してはいるが、頭で想像するのと、実際にやってみるのとでは違うものということも理解している。
経験として沈は何回かした方がいいと思うが、できれば夏の暑い日にやりたいものだ。
季節は秋、水は切れるほどに冷たく、濡れてもいいような服は着てはいるものの、できることなら服は濡らしたくない。





「この辺まで来るとだいぶリムが増えますね」
トーマスがつぶやいた。
確かにその通りで、ミルフォードロードはこの川の上流から源流部を通り、植生も高山植物から標高の高い所に生えるブナの森だ。
だがここまで来ると標高は200mぐらいで川の周りは湿地帯。
植生もリム、カヒカテア、といったこの国固有の針葉樹が増える。
林相が変わるとはこういうことだ。
雰囲気はもはやタスマン海がある西海岸のそれだ。
僕はここの西海岸の雰囲気が好きで、以前は1年に1回は足を運んでいたのだが、最近はそういうこともめっきり少なくなった。
今回は忘れかけていた西海岸への想いも思い出すことができた。





船体の横にカラビナでコップをくっつけてあり、川の水をすくって飲む。
水は透き通るように綺麗で冷たく、当然ながら美味い。
そのまま飲めるような水が流れる川の川下りなんて贅沢な遊びだ。
綺麗な空気と綺麗な水、本来は地球上のどこにでもあったものだろうが、それらが今や人間の世界からは最も遠い所にある物になってしまった。
川は適度に折れ曲がっていて、その場その場で景色が微妙に変わる。
雲が切れて切り立った山と氷河が姿を現した。
一つの流れ込みを通過。この沢はあの氷河から来ているんだろうな。
そしてまたその水をすくって飲む。
幸せだ。





ひたすらのんびりの川旅はいろいろなことを考える時間もある。
時間的に言えば数時間だが、密度の濃い時間である。
大自然という言葉が世俗的に感じてしまうぐらいの環境なのだが、そんな中にいると否応なしに自然のこと、地球のこと、地球の上での人間社会のことを考えてしまう。
僕達がこうやってのんべんだらりんと川下りをしている間にも、地球の裏側では人間同士が殺し合いをしているし、住む所を追われ日々の暮らしに窮している人もいる。
あまりに我が身とかけ離れた出来事だが自分と無関係ではない。
戦争を止めない人達を「あいつが悪い」と言うのは簡単だが、自分にもその責任は僅かでもある。
同じ星に住んでいる者としての責任は常に存在する。
もちろん僕は悪くない。悪くないが関係なくもない。
自分だけが良いのではなく、戦争を止めない人達の心の痛みも自分の物として受け入れることが、ワンネスというものではないだろうか。
そして目の前の自然に浸れることに喜びを見出し、今この瞬間に自分のできること、のんびりと川下りをするということを思いっきり楽しむのが、自分のやるべきことなのだろう。
人間とはどうあるべきか、何をするべきなのか。
答えの出ない問いを考え続けるのも、これまた人間の役割なのだろうか。

続く


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トーマスと川下り 1

2017-06-09 | 
「今年もダメだったかな」
そんな会話をトーマスとしていたのが4月の半ばのことだった。
以前は1シーズンに1回ぐらいは時間を合わせて二人で山に行ったりしていたのだが、最近はめっきりそんなこともできなくなった。
テアナウに行けばヤツの家に世話になり、一緒に飲んだりするのだが、山に一緒にという機会はここ数年ない。
数年どころかもう十年近くになるか、最後に一緒に行ったのはモレーンクリークだ。
今年もダメだったかなという話の矢先に僕のスケジュールが変わった。
ゴールデンウィークのツアーが金曜日の朝早くに終わり、その後の週末がまるまる休みになった。
トーマスも週明けから忙しくなるが週末は大丈夫ということだ。
そして天気も週末にかけて晴れそうな具合だ。
これは「行け」という神様の訓示であろう。
こういう指図には素直に従わなくてはいけない。
金曜日の朝にツアーの仕事を終わらせ、身支度を整えテアナウへ。
トーマスもお昼までの仕事だということだ。
勝手知ったるトーマスの家では誰も帰っていなかったので、勝手に犬のソラを散歩に連れて友を待つ。



そうしているうちにトーマスが仕事から帰ってきて、お昼からエグリントンリバーで川下り。
翌日からのホリフォードリバートリップの前哨戦というか、練習というか、足慣らしならぬ腕慣らしである。
今までの僕達の山旅は、頼るものは自分の足のみという、まあ普通にすべての物を担いで歩く山行だった。
今回はパックラフトというものを使って川下りと山歩きの両方を楽しもうというわけである。
パックラフトとは簡単に言えば一人乗りの空気で膨らませるカヤックのようなものだ。
ラフティングのボートの一人用と思えばいいかもしれない。
カヤックとラフトボートの中間と言ったところで、スプレースカートもついているので多少波をかぶっても水が入ってこない。
あまり急流や激流には向かず、静かな流れの所をゆっくりと流されるのに適している。
僕は1回だけ試させてもらったが、初心者でもそれほど難しくなく、2回目はどこへ行こうなどとトーマスと話していたのだ。
川下りをするのでゴール地点に車をデポして、スタート地点へもう1台の車で向かう。
行く先はエグリントンリバー、ミルフォードサウンドへ行く途中にある川である。
見慣れた道から数分歩き、ボートを組み立てる。
そしていざ、流れに漕ぎ出す。



秋の日差しは柔らかく、優しく僕達を包む。
普段見慣れているはずの景色が、川からだと違う風景となり、五感をくすぐる。
「これはいいぞ!」思わず声が出た。
こんなワクワクする瞬間は久しぶりだ。
だだっ広い谷間の中を進んでいくと前方に森が見えてきた。
まるで僕達の行く手を遮るように森が広がる。
「どこに行くんだろう、この先は!」
なんて思わず声が出るが、トーマスはニヤニヤ笑っている。
まあ行き止まりなんてことはないだろうが、行く先が見えないドキドキワクワク感は上がる一方だ。
そんなドキドキ感が極まりきった頃、エグリントンゴージ到着。



なるほどな、だだっ広い谷間がキュッと狭まっているので遠目には谷間が見えない。
間近に来れば、川が渓谷に入っていくのが見える。
この渓谷が本日のハイライトである。
渓谷に入る前に上陸してしばし休憩。
渓谷の中は流れも穏やかで、深い淵になっているのが見える。
水遊びをするにはちょうどいい場所だ。
夏の暑い日に、家族と僕の姪の瑞穂を連れてきて、ここでスイカ割りをしたのだと言う。
ううむ、きっちりと父親の仕事をしてるなあ。





いよいよ渓谷の中へ入っていく。
両側が切り立った岸壁の中をゆっくりと流されていく。
奇岩と呼んでいいような岩は自然が作り上げた芸術だ。
車で何百回も通っていたすぐ脇にこんな場所が存在していたなんて。
こういう場所があることは聞いてはいたが、それと自分の身を実際にここへ運んで感じるものとは別物である。
この空間は晴れの日も雨の日も存在し続け、その一瞬を僕は垣間見た。
大雨で増水した時には違う景色になっていることだろう。
自分が知っていることは、自分が何も知らないことである。
どこかの哲学者の言葉が頭に浮かんだ。



川の流れは一定ではなく、常に動いているものである。
流れが横から来て岩にぶつかって向きを変えるという場所もある。
そこに不用意に近づいた時、流れに押され岩にぶつかりそうになり、船体が横にぐらっと傾いた。
教わったわけではないが反射的にパドルで水面を叩くように押してバランスを取り戻した。
そうか、こういう感じで沈をするんだな、気をつけよう。



渓谷を抜けると青空が広がっていた。
渓谷の中と外とでは別世界のようだ。
見慣れた山が遠くに見える。
遠くに車の音が聞こえる。
ミルフォードロードから一瞬だけこの川が見える所があるが、その辺りなんだろう。
人間の住む世界に戻ってきた感じだ。
そしてまもなく上陸。
前哨戦のエグリントンゴージ・トリップ無事終了である。



車をピックアップしてトーマス家に戻り、後片付けと翌日の準備。
翌日は1泊2日のトリップなので寝袋、洗面用具、食料、酒、その他もろもろをバックパックに詰めてラフトボートの前部に縛り付けていく。
バックパックがどのように取り付けられるかあらかじめテストをしておく。
山行にはいろいろな準備が必要なのだ。
その晩はトーマス家で団欒の食卓である。
奥さんのミホコとも短くは無い付き合いである。
昔僕は長距離路線バスのドライバーをやっていたことがあり、その時に最悪中の最悪な客がいて、そいつが日本人のワーホリ娘の横に座った。
「ごめんね、こんなヤツが横に座って」とその娘に謝ったのだが、それが彼女だった。
彼女は彼女で、ドライバーが日本人だったとは思わなかったらしく、大変な仕事だなと同情してくれた。
ミホコとトーマスの結婚式にも呼ばれたし、お父っつあんと一緒に山を歩いたこともケプラー日記いう話のネタにした。
トーマスもミホコも僕もお互いに歳を取り、子供は育つ。
赤ん坊だった娘は少女となり、パックラフトで一人でエグリントンゴージを漕いだ。
僕の娘の深雪はティーンエイジャーとなり、親父と一緒にスキーになんぞ行ってくれない。
その晩はトーマス特製ビール、これがアルコール分が強いというのを忘れ、うっかり飲みすぎて早々とつぶれてしまった。
カヌーで沈はしなかったが、トーマスのビールで沈没。

続く
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ガートルートサドル 再び

2017-04-17 | 
夏は忙しい。
サービス業の性なのだが、人が遊ぶ時に働く。
一年で一番いい時は一番忙しい時であり、時間を取るのが難しい。
それでも以前は一夏に何回かは自分の為の山歩きができたのだが、最近はそれもままならぬようになってきた。
忙しい夏もピークを過ぎたころ連休が取れ、しかも高気圧に覆われて天気も安定した。
この機会を逃してはいけない。
姪の瑞穂を連れて一泊二日の山旅に出かけた。
行く先はガートルートサドル。
片道2~3時間ぐらいで充分日帰りでもできるのだが、そこはそれ、あえてテント泊でじっくりと山を味わうことにした。
このコースは以前一人で行った場所で、手軽に行ける場所だがフィヨルドランドのU字谷を満喫できる。
山歩き初心者の姪っ子を連れて行くには最適だろう。
手軽に行けるといっても山をなめてはいけない。
今年はここで死亡事故も起こっているようだ。
確かに一歩間違えば簡単に人が死ぬような場所ではある。
事故が起これば行政は何かしらの行動を起こさなくてはならない。
そして以前より注意を促す看板が増えたというわけだ。
しかし、ここに来る人達の軽装振りを見てると、また事故は起こるだろうという気になる。
「山をなめるな」などとお説教をする気は毛頭ない。
だが装備も心身も計画も万端でも、事故が起こるのが山だと思う。
それの内どれか一つでもおろそかにすれば事故の確率は跳ね上がる。
そういうものだろう。
そして人間は痛い思いをして初めて気がつくものなのだ。



この場所に来たのは数年ぶりか、その時は一人ですべて背負ってきたわけだが、気のせいかその時よりもきつい。
年を重ねたせいか、体力が落ちているのか。
軽装の若者達がヒョイヒョイ登っていくのに道を譲り、のっしのっしと歩を重ねる。
山は競争ではないぞと自分に言い聞かせ、ペースを崩さずに登る。
それでもしばらく登れば景色も変わってくる。



U字谷の奥まった所を登ると遠くにミルフォードロードが見えてきた。
あの道を何回ドライブしたことか。
車の中で見るものと、自分の身を自然の中にさらけ出すものとでは、物事の捉え方や自然観などが全く違う。
汗をかけばそこに流れる水も最上のご馳走となる。



水場を超え、さらに登ると足元は土の道から岩へ変わる。
登りには違いなにのだが、こういう変化があると気分も変わる。
大きな一枚岩の上を歩くわけだが、こんな所は雨でぬれた時には歩きたくないなあ。





急な鎖場を登り切るとブラックレイクという湖がある。
確かに黒っぽい湖だが、水は透き通っている。





さらに岩場を登っていくとお花畑もあった。
こういう変化もうれしい。
そのお花畑を過ぎると鞍部に出た。





U字谷の先にミルフォードサウンドが見える。
目を凝らせば観光の遊覧船が滝の真下に舳先を突っ込んでいるのも見える。
いつもはあの船からこっちを見上げるのだが、たまには視点を変えるのもいいな。





荷物を置き、今晩の食事の為に水を汲みに行く。
歩いて10分ぐらいの所に小さい湖があるのだ。
水はとことん透き通っていて、氷河を載せた岩山を鏡のように映し出す。
ただただ、ひたすらに、美しい。





キャンプ地のそばにニュージーランドエーデルワイズが咲いていた。
そういえば今年はこの花を見るのが初めてだな。
普段ガイドをしているコースには咲いていない。
ニュージーランドのものは、ヨーロッパのものとも日本のものとも違うと人は言う。
僕はこのエーデルワイズしか知らない。
いつか向こうのエーデルワイズを見る日が来るのだろうか。



水を確保し、テントを張り寝る準備を整えれば、後はやることはない。
ここからはお楽しみの時間である。
今回はワインを2本、白を1本、赤を1本持ってきた。
肴は鹿肉のサラミ、ブルーチーズ、これがまたワインに合うのである。
景色をつまみに瑞穂と乾杯。
瑞穂がこの国に来て早7ヶ月。
若い時の経験は財産になる。
今まで何もしてこなかった叔父さんが、ガイドになりこういう経験をさせてあげるのも、まあよかろう。
白ワインが赤ワインに変わり、酔っ払いながら晩飯に突入。
日が落ちて暗くなると空には満点の星。
星がきれいなのはテカポだけではない。
確かにテカポの星もきれいなのだが、暗い所、人が住んでいない所に行けばどこだってきれいなのだ。
最近はテカポの星空が人気だが、そこでなくてはいけない、と思うところがマスコミに踊らされている証拠だ。
なんてことはお客さんの前では言わない。
無数の星が黙って僕達を見下ろしていた。






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マウント・アルフレッド 2016

2016-02-18 | 
前々回でも書いたがフラットメイトのユキノは山歩きをしたくてニュージーランドに来た。
4年前にカナダにワーホリで行き、そこで山が好きになった。
先日はルートバーンを歩き、今度はミルフォードトラックを歩く。
明日からミルフォードを歩くという日でも、仕事が休みで天気が良いなら山に行きたい。
その日は僕も仕事が朝のうちに終わったので一緒に山に行こうということになった。
友達のカナも休みだというので3人で山に向かった。
カナは僕と同い歳で子供の歳も同じ、何かと馬が合い兄妹のような関係だ。
彼女に言わせると彼女がお姉さんで僕が弟なんだそうな。
四十の手習いではないが、30代後半で山に目覚め、勢いでハイキングガイドになってしまった。
彼女がガイドになる前にトレーニングをしたのが僕なので、今でもたまに僕のことをセンパイと呼ぶ。
もともとピアノが得意で週に何回かはピアノを教えているし、タロット占いもするので僕は彼女のことを黒魔術の女と呼ぶ。
ブラック マジック ウーマンという昔の歌が好きなのでね。



マウントアルフレッドに最後に登ったのはいつだったろうか。
もう十年ぐらい前になるかもしれない。
山頂からの眺めは素晴らしく、この山は晴れた日に行く山だ。
天候によっていく先を選べるのは地元のアドバンテージである。
登り始めは緩やかに斜面を横切るように登るが途中から直登となる。
景色は開けず単調な登りは精神的に参る。
一人でこういう所を歩くと何か修行のようだが、女の子のおしゃべりを聞きながらだと多少気もまぎれる。
女のおしゃべりもたまにはいいのだな、たまにはね。



森林限界を超えるとこれまた急な坂が待っている。
だがやはり景色が見えると気分も変わる。
下から見上げると「うへえ」と思う坂もいざ歩いてみるとあっという間に登ってしまった。
山頂付近はかなり急な斜面で転げ落ちたら痛いでは済まないだろう。
高所恐怖症の人は登れない。
友達のエーちゃんは高い所が苦手で、女の子と行ったバンジージャンプで女の子は飛んだが自分は飛べなかったという苦い経験を持っているのだが、お約束のようにその場所で断念した。
僕から見ればなんてことない斜面も、他人から見れば恐怖で足がすくんでしまう。
足がすくむので腰が引けてしまい、ますます危なくなる。
この怖さは当事者にしか分からないものなのでどうしようもない。
ただ僕は自分が感じない恐怖を持つ人を臆病者と言う言葉で片付けたくない。
それは傲慢であり、人の心が分からない大馬鹿者であり、自分の心が持つかもしれない恐怖が見えない盲だ。
どうしようもないものはどうしようもない。
かわいそうだが仕方がない。
ただそれだけのことである。



かわいそうなエーちゃんが挫折した場所を登りきると尾根の上へ出た。
尾根上は当然ながら景色が良い。
氷河を見ながら尾根道を歩き山頂に着いた。
何百回も歩いたルートバーンの谷間もはっきり見えるし、大好きなレイクシルバンの森も見える。
この山はどこからでも見える山であり、当然ながらそういった場所が山から全て見える。
毎回ルートバーンの仕事の時には必ずこの山を見るのだが、やはりたまに登って角度を変えて地形を見るのもいいものだ。





下りはユキノの人生相談を聞きながら下る。
彼女も将来に対する漠然とした不安を持っているようだ。
そこはそれ、酸いも甘いも味わったカナが上手く話を聞かせる。
ユキノの頭には漠然と『長野』と『自給自足』というキーワードがあるという。
山歩きが好きで自給自足という考えを持つ人が僕の同居人になるのは自然のなりゆきだ。
今の家に来てひと月になるが、我ながら立派な家庭菜園ができている。
この場所でもこれだけの事ができる、という証を僕は作る。
そして自給自足をしていきたいという人に、不安ではなく夢を与えるのだ。





街へ帰り我が家で皆で食事。
ムール貝のワイン蒸し、タラコスパゲッティ、ガーデンサラダ。
翌日からミルフォードへ入るユキノに栄養をつけてあげるのだ。
山に入ったらインスタントの食事ばかりになるからね。
自家製ビールで喉を潤おし、その後は白ワインへ。
食事の後はカナがタロット占い。
下山の時に話をしたのと全く同じ結果になったのも当然といえば当然なのか。
僕はと言えば疲れと酔いが一気に回り、皆より先にさっさと寝てしまった。
充実した1日というのはこういうことを言うのだろうな。







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ガートルートサドル

2015-02-04 | 
この国で自分のやりたいことリストというものがある。
未だ自分が行ったことのない場所や登ったことのない山で、歩いてみたいなと常々思っているコースがある。
スチュワート島のトレッキング、マウンットクックのボールパス、ヒーフィートラック、ワンガヌイジャーニー、トンガリロクロッシング、数を挙げていったらきりがない。
果ては土星の輪の上をマウンテンバイクで走るとか、まったく光が届かない海底の居酒屋で黄桜のカッパの姉さんと酒を飲むとか。
そこまでぶっ飛んでしまうと現実味にかけるが、わりと手の届くところでやりたいことは色々ある。
そのうちの一つにガートルートサドルの上でキャンプをする、というものがあった。
ガートルートはミルフォードサウンドに行く途中にある谷で、仕事で何回も近くを通ったことはあるが歩いたことはない。
日帰りでもいけるが、天気のよい時にテントを持っていきキャンプすると良い、というのは友人トーマスの意見だ。
こういう話は素直に聞くべきだ。



正月の喧騒が一段落したころ、2日間の休みがあった。
天気は上々、タスマン海にどかっと高気圧が張りだした。
こうなると安定した天気が続き、どこに行っても良いのでどこに行こうか迷ってしまう。
泊で山へ行こうとするとそれなりに準備が必要で、正直な話、面倒くさい。
日帰りでどこかへ行き、家に帰って来て飯を食いベッドで寝る方が楽だ。
こうやって山が遠くなっていく。
それでも大きなザックに寝袋とテントを入れると気持ちも入れ替わり、必要な物も見えてくる。
こういう山行でいつも悩むのは何を食い何を飲むか。
今回は一泊だけだし、寒くないだろうから、ガスや食器は無し。
夕飯はサブウェイのサンドイッチでも持っていくか。
あとはドライフルーツとナッツなどの行動食でいいかな。
酒は?景色の良いところでビールをプハっといくのがいつものやり方だが、尾根の上でビールを冷やす所があるかどうか分からない。
よって今回はワイン。
頂き物の上物のピノ・ノワールをザックに入れて家を出た。



テアナウのトーマスの所に立ち寄り情報収集、そして街で必要な物を買い足し、車を走らせた。
クィーンズタウンから車で三時間ちょっと、ガートルートの谷間に着いた。
駐車場で支度を整えていると、若い旅行者が話しかけてきた。
「車のバッテリーがあがっちゃったみたいなんだけど、何か持っていませんか?」
「おお、ジャンパーケーブルがあるぞ。どれ、繋いでやるからボンネットを開けてバッテリーを出してみろ。」
ダメ元で声をかけてみたけどという顔から、頼れるオジサンを見る顔へ急展開。実に分りやすい。
「ありがとうございます!助かります。」
僕の車には常に牽引用のロープとジャンパーケーブルは積んである。
自分が助けてもらうかもしれないし、人を助けることもできる。
その場で繋いでエンジンをかけてあげると、彼らは丁寧にお礼を言いにこやかに去っていった。
自分に出来ることをするのである。




午後も遅い時間に歩き始めた。
日没が9時近くなので、夕方からでも行動できるのがこの国の山歩きのいいところだ。
日本では雷を伴った夕立が多いので、とにかく早い時間に山小屋へ着くのが一般的だ。
日本には日本の歩き方があり、ここにはここの歩き方がある。
大きなU字谷の底を歩く。
今は夏だからいいけど、こんなところ冬は雪崩の巣で恐ろしいだろうな。
真横の岩の壁から何とも言えない威圧感を感じる。
岩がもつエネルギーというものだろうか、自然というものは美しくもあり同時に恐ろしいものでもある。
人間はそこでは圧倒的に無力だ。
無力な存在であればこそ、感ずる何かがある。



平らな谷底をしばらく歩くと、U字谷のどん詰まりにたどり着き、そこから登り始める。
この日は天気も良く、わりと多くの人が登っているようだが、この時間に自分より後に登ってくる人はいないだろう。
携帯は繋がらず、頼れるものは自分のみ。
単独行の時に感じるピリピリした緊張感は嫌いではない。
このコースはさほど難しくはないが、どんな簡単なコースでも山では人が死ぬということは分かっているつもりだ。
こんなとき旧日本式の考えだと、何かあったらどうするの?などという事を言うヤツらがいる。
不安という怖れから来る感情に縛られ何もできない人達、子供や孫に何もさせない人達がこの国をどんなつまらないものにしてきたか、本人達は分かろうとしないし死ぬまで分からないだろう。
「危ないからやめなさい」ではなく「こういう危険があるし、痛い思いをするのは自分だ。それを承知の上でやりなさい」と娘には言って育ててきた。
そして同じ言葉は自分にも常に言っている。





滝に沿って登っていくと平らで大きな岩に出た。
コースはその岩の上を行く。
オレンジマーカーは無いが、所々にケルンがある。
滝の横を上り詰めると小さな湖に出た。
きれいな湖の周囲をぐるりと岩が囲む。
そのなかでも比較的なだらかな場所に鎖がある。
斜度は30度ぐらいか。
上から人が恐る恐る降りてくる。
確かに上からは怖いだろうな。
転げ落ちたら、痛いでは済まないだろう。





岩は乾いていて靴のグリップが効くのでわりと楽に登れる。
ただし濡れていたり、もしくは雪が少しでも積もっていたら別の次元の話だ。
ハードな歩きを想像してたのだが、わりとあっけなくサドルに着いた。
そして向こう側の景色を見て息を呑んだ。
足元からは数百メートルの絶壁で真下は見えない。
そこからU字谷がクネクネと伸びている。
その先にはミルフォードサウンドが見える。
と言ってもミルフォードサウンド自体曲がりくねったU字谷なので全体はみえないが、スターリングの滝に舳先を突っ込んでいる観光船もはっきり見える。
何回あの船に乗ったことか。
それをこの角度から僕は見ている。
この経験は僕だけの物であり、こういう事をするために僕はここにいる。





サドルの上にテントを張り、着替えをしてくつろぎの時間。
登り始めの時間が遅かったが、わりと早く着いてしまったので日もまだ高い。
絶景を見ながらワインを開けた。
今日は大地に、だな。
大自然の中で徹底的に遊ばせてもらった日に飲む酒の最初の一口を大地に垂らす。
20年も前に相棒が始めた儀式をぼくは今でも律儀にやっている。
そういえば今シーズン初の「大地に」だな。
上物のピノ・ノワールが腹に染みる。
絶景に旨い酒。
後は何が要るのだろうか。



夜になって風が出てきた。
峠を吹き抜ける風がゴワンゴワンとテントを揺らす。
高気圧におおわれていても夜は風が出て寒い。
街にいると感じられない自然の営みがある。



朝になり周りの山に日が射し始めても、深い谷間には日が届かない。
やっと日が照り、温かくなる頃、テントから出た。
相変わらずとんでもない景色の中に僕は存在する。
次にミルフォードサウンドに行く時には向こうからこっちを見てやろう。
その時の自分は何を思うのだろう。



日が高くなり人もボチボチと上がってきた。
そろそろ潮時か。
僕は荷物をまとめ、山に手を合わせ拝み、下り始めた。




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夏の思ひ出 ブローピーク。

2014-05-20 | 
今年の夏はサイクリングに没頭していたのだが、近くでも思い出に残るような山行もした。
夏の初めにボスのリチャードが話を持ちかけた。
リチャードはイギリス生まれでニュージーランドに来て二十数年。
日本にも何回も行っていて日本語は堪能、ニュージーランドの植物や鳥の本を日本語で出しているほどだ。
彼との付き合いも二十年を超えるか。長い付き合いなのでお互いをよく知っている。
言いたいことを言えて無理に繕うことがなく、言い出しにくいことでも察してくれる。
こういう人のところで働くのは楽だ。
ずーっと夏の間はクィーンズタウンの彼の会社(ボスは3人だが)タンケンツアーズでハイキングや観光ガイドをしていたのだが3年前の地震で仕事が無くなってしまい、昨2シーズンはクライストチャーチの会社で働いていた。
こちらは観光ガイド専門で山歩きの仕事は無く、もっぱら車を運転しながらガイドをするドライバーガイドだった。
そろそろ山に戻りたいな、と思った頃リチャードから連絡があり、古巣のタンケンツアーズに舞い戻ったわけだ。
その彼が言うにはコロネットピークからアロータウンまでのルートがあり、そこを一緒に歩こうというわけだ。
すでに彼は奥さんと一緒に逆ルート、アロータウンからコロネットピークまでを歩いていてなかなか好い所だからオマエさんを連れてもう一度歩きたいぜ、という話なのである。
ふむ、コロネットからアロータウンねえ。
昔、雪がもっとたくさんあった時には滑ってアロータウンまで行った、なんて話は聞いたことがある。
リチャード曰く、正規のルートではないが尾根上は踏み跡があり行く先が見えるので迷う心配もない。
そうか、それなら時間を見つけてやろうじゃないか、そんな話で夏が始まった。




プランを暖める、という言葉がある。
プランを立ててその山を遠くから眺めたり地図を見たりして想像を膨らませるのだ。
クィーンズタウンで間借りをしている家から山が見える。
なだらかな起伏の尾根が横に走る。
尾根上は木が生えてなく、茶色いタソックに覆われた山だ。
あそこを歩くのか、景色はどうやって見えるのかな、などと思いながら近い将来にそこを歩く自分を思い浮かべた。
自転車に乗っていても、仕事をしていても、家に居ても、その山は見える。
どこからも見えるということは、そこに行けば全てそのポイントが見えるということだ。
コロネットピークからも似た景色は見えるし、遊覧飛行でその上空を飛んだことはある。
そこから見える景色の想像はつくが、いざ自分の身をそこへ置けば想像以上の物があるのは数々の経験で知っている。
その感動を味わうために人は山へ登る。
その場所に立った自分は何を想うのだろう。
そんなことを考えながら、僕は毎日その山を眺めて夏をすごした。




ガイドの夏は多忙だ。
それでも休みがないわけではない。
僕は気ままな単身赴任の生活で、時間という物を全て自分の為に使うことができる。
だがリチャードには家庭があり、やれこの日は息子のサッカーの試合だ、この日は家族で何やらするので都合が悪いとなかなかタイミングが合わない。
この日ならば大丈夫か、という時もあったがそういう時は天気が悪い。
山行と言ってもわずか数時間のものなのだが、その数時間が合わせられない。
僕は近辺の山を時間のある時に歩き、また違った角度からその山を眺めたりした。
自分の中でプランは充分に熟している。
痺れを切らして僕はリチャードに言った。
「オレはいつでも行けるぞ。早くしないとオレ一人で歩いちゃうぞ」
「スマンスマン、もうちょっと待ってくれ。そうだな、来週ならば時間が取れるからその時に行こう」
そんな会話を交わし、夏の終わりにその日は来た。



その日が来てもリチャードは相変わらず忙しく、彼が午前中の仕事を終えて昼からスタートした。
スタート地点とゴール地点が違う場合、常に問題なのはそのアプローチをどうするかということだ。
今回はフラットメイトのトモコさんにドライブを頼んだ。
トモコさんもこの会社のスタッフなのでリチャードもよく知っていて話が早い。
コロネットピークまで30分のドライブの後、僕達は歩き始めた。
二十数年前、僕がスキーを覚えた思い出のスキー場の何十回も滑った斜面を登る。
登りは十五分ぐらいか、Tバーリフト1本分を登りそこからは尾根歩きだ。
リチャードと2人で歩くのは初めてだが、波の合う人と一緒にいる心地よさを感じる。
黙って歩いても沈黙が心地よいし、話をすればぴったり合うところもあるし考えが違う所もお互いを認め合いその奥の根底で繋がることで一体感を持てる。
スピリチュアルな人、という言い方は好きではないが、言葉で表すならばそうなるのだろう。
日本の文化の理解も深く、3年前には家族で日本に住んでいた。
そう、3年前、ちょうど震災の時に彼は仙台に住んでいたのだ。
僕はその時にテレビで津波の映像を見たのだが、リチャードの事を一切心配しなかった。
それよりも何故か分からないが、ヤツは大丈夫という強い予感があったのだ。
実際に大変な思いもしたようだが、彼の家族は無事にニュージーランドに帰ってきた。



そんなリチャードが言う。
「この尾根歩きは日本の山みたいじゃないか」
「そうか?オレは日本の夏山は知らないからな。そう言われてみればそうなのかもしれないな」
確かに尾根が緩やかにアップダウンを繰り返し、稜線上に道が見える感じは写真で見た日本の山に似ている。
ただし日本と圧倒的に違う所は人の少なさ、そして人口構造物の少なさだろう。
この尾根はどこからも見えるので、そこから見える景色も街であり街をつなぐ道であり牧場やパラパラと散らばる農家だったり、まあ人間が作り上げたものだ。
尾根の反対側を望めば、殺伐とした山が延々と続きはるか彼方に氷河を乗せた山が居座るという、人口構造物が一切見えない世界だ。
人間界と自然界のはざま、とでも言おうか。
そんな場所である。
山から街の方向を見下ろせば、自分がガイドをしている街、自転車を漕いだ道、そして住んでいる場所も見える。
景色だけ見れば想像していたものだ。
だがこの場所に立つ自分の背後に続く山の存在感。
それを感覚として感じる。
写真には映らない感覚で、これは人に伝わらない。
自分の身をこういう場所に置く、ということに意識をあてて僕は山を歩く。
それは自分の存在価値であり、何故自分がこの世に生まれてきたかという答えの出ない問いの一つの答でもある。



ブローピークというのがその山の名前で直訳すれば眉毛峰、名の通り眉毛の形をしている山で山頂付近はなだらかで原っぱのような雰囲気だ。
山頂には申し訳程度にケルンが積んであり、かろうじてそこが山頂だと分かる。
山頂に立てば景色が劇的に変わるわけではない。
今まで歩きながら見てきた景色とほぼ同じで、登りつめたという感動はない。
ただ僕の場合、プランを暖める時間が長かったので、その意味での達成感はある。
やろうやろうと思っていた事をやり終えた達成感、同時に祭りの後のようなさびしさも少し。
このコースは標識もなく整備された道ではないが、特別難しい所があるわけでもなく誰でも歩ける。
時間だって3時間ぐらいだ。
人によってはつまらない山、と思うかもしれない。
実際、国立公園に行けば素晴らしい場所はいくらでもあるし、僕はそういう場所を歩いてきた。
ただそこに立つ人の感動はその人だけのもので、何処に行けば、というものでもないと思う。
僕が感動して歩いた場所をつまらないと言った人もいたし、国立公園へ行っても感動のない人はいる。
逆にえーちゃんのようにワナカの郊外のキャンプ場とかトワイズルの夕日とか、普通の町でも感動の嵐に出会う幸せ者もいる。
それはその時の天気やシチュエーション、何よりその人の心情も深く関係する。



『1mの旅』という話をあるお客さんから聞いた。
ある人が家を出てから1mの間に様々な物を見て聴いて感じたのだと。
それは空の色かもしれないし鳥の声かもしれないし道端に咲いている花かもしれない。
普段見慣れているはずの生活のすぐ近くでも自分の心次第で旅になるのだと。
山も全く同じだと僕は思う。
人は高い山や遠くて有名な山を目指すが、どこへ行けばという外に要因を求めていたら見える物も見えてこない。
自分の足元に咲く一輪の花を愛でる心、これが禅の教えなのだが、これがあればどこへ行っても素晴らしい経験ができるだろう。
結局のところ、帰ってくる場所は自分の心、そしてまた外の世界へと行ったり来たりするものだと思う。



山から下り一般のコースに合流して散歩をしている人に出会った。
大げさな言い方だが人の世界に戻ってきた。
人間の世界にはそれなりの良さもある。
アロータウンに着きパブへ直行。
リチャードとビールで乾杯。
達成感がたっぷりつまったビールが喉にしみる。
嗚呼、人生とはかくも楽しき事なり。
そんな夏の思ひ出の一日。
コメント (3)
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