タイトルで全てを表してしまったので、このことについてあーだこーだ書く。
日々の生活をしていると、ふと山に行くのが億劫になってしまうことがある。
まずは面倒臭い。装備を整えプランを立て行動を起こすという事がわずらわしくなってしまうのだ。
実際の距離とは別の話で『山が遠くなる』と僕は呼んでいる。
山行というのは時間も労力も時には金もかかる。
そんな事をしなくても生活はできるし、庭仕事だってあるし、いつまでたってもできない物置の片付けなどやらなくてはならない事はたくさんある。
そして人間というのは常に文句を言う生き物で、夏になれば暑い、冬になれば寒い、雨が降れば濡れる、風が吹けば風が強いと何かにつけて屁理屈を積み上げ、やらない言い訳をする。
それがいけないと言っているわけではなく、そういうものなのだ。
もちろん偉そうに言っている自分もその一人である。
足を怪我してしばらく大人しくしていて、山から離れたことがあった。
スキーは100%というわけではないが、普通の人並みにはできたが、本格的な山歩きはしないまま時が経った。
ブドウ畑の仕事や庭仕事など日々の生活に追われ、山から遠くなっていた。
ある時に知人に「今でも山歩きの仕事が出来るか」と問われ考えた。
簡単な山歩きや日帰りハイキングなどはできるが、何日間もかけて重いザックを背負っての歩きが出来るだろうか。
今一度自分の体のチェックも兼ねて、近くの山に出かけた。
気になっていた膝はほぼ治ったようで、変な足の使い方をしなければ大丈夫そうだ。
体力的にも年齢を差し引いて考えても問題なさそうである。
山のてっぺんで風に吹かれ、景色を見下ろしながら思った。
ああ、自分はこういう時を過ごすために生きているのかなあ。
いつも思っていたことだが、この環境の中に自分の身を置く喜び。
人は何のために生まれ、何のために生きるのか。
そういう人類が生まれてこのかたずーっと考え続け、今でも完全な答えが出ない問いがある。
その答えの一つがこれなのだという思いを持った。
それからは山歩きが日課となった。
仕事の時には時間がないが、今は毎日仕事があるわけではない。
そんな時にポートヒルを歩く。
一番近い場所は、車で5分ぐらいのHalswell Quarry Park という公園だ。
ここは昔の石切場でクライストチャーチの街を造るのに必要な石材を調達した。
今では石切場は使われていないが、石切場の周りを歩くコースからは平野が一望できる。
公園内はドッグパークあり、マウンテンバイクのコースあり、日本庭園もあり春には桜も咲き花見ができる。
そこからはポートヒルという昔の火山の噴火跡の山へ道が続いている。
歩いて1時間ぐらいだろうか、尾根状の地形で牧場の中を歩く。
牛もいれば羊もいるし、あちらこちらの動物の糞があるので、できるだけ踏まないように歩く。
そうやって歩いて行くと山の上まで出て、裏側の景色が一望できる。
火山の噴火口が大きな入江になっていて、景色は良い。
さらにそこからは、噴火口の淵をぐるりと歩くコースが続く。
歩く気になれば太平洋に面した砂浜まで20キロぐらい歩ける。
街から丘の上まではいくつものコースがある。
尾根状の地形もあれば、谷間を詰めていくものもあり、その日の気分でどこを歩くか決める。
たいていの場合、登山道まで車で行くので車のところまで戻ってくる。
時間に余裕がある時は、バスである程度の所まで行き縦走を楽しんでバスルートに降りて来る。
カシミアというわりと古くからある住宅地から数時間歩き、丘の裏側のリトルトンという港町まで歩くのがお気に入りだ。
尾根の上から街を見たり海を見たりと、景色の良い所を歩き、開拓者が歩いた道を下り港へ。
下った先にはパブがあり、そこでビールを一杯ひっかけてバスで家まで戻ってこれる。
こういう手軽にアウトドアを楽しめる所がニュージーランドの良いところだ。
以前出会った人でこういう人がいた。
「そのうちにテクノロジーが進んで、人はVRで何でも経験ができるようになる。だから自分は山に行かない」
聞くとその人は何年もここに住んでいながら、一番近い国立公園のアーサーズパスにも行ったことがない。
何を信じどういうふるまいをするかはその人の勝手なので、他人が口出しするべきではない。
ただその人とは一回会ったきりで、それ以降の付き合いはない。
僕が山に行くのは、体を鍛えるという目的もあるが、それと同等いやそれ以上に精神的な面が大きい。
街の近くだろうが国立公園だろうが、自然の中に身を置くことにより感覚を鍛えるのだ。
風が吹けば寒くなるのでそれなりの装備も必要だ。
そのことにより自然の中では人間は無力であるという当たり前のことを再確認する。
季節によって景色が変わる中で、無常感と今ある喜びを認識する。
そして先にも書いたが、その環境に身を置くことにより、今を生きるということに意識を置く。
そういった諸々のことを山を歩きながら、漠然と考えるのである。