あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

雑記

2021-12-19 | 日記
クィーンズタウンの仕事を終えてクライストチャーチの我が家へ帰ってきたのが3週間前。
そしてすぐに葡萄畑の仕事に戻った。
一月半の間に葡萄はぐんぐん育ち、仕事が追いつかないほど伸びていた。
ニュージーランドでは半ば鎖国のような状態が続いており、海外から簡単に人が入って来られない。
農場では人手不足で、選り好みしなければ何かしらの仕事がある。
だが失業手当が目当てで仕事をしない人もいる。
社会福祉が充実すればそれに甘えるのは人間の弱さだ。
だが僕はそれを批判するわけではない。
かわいそうだと思うだけだ。
仕事というのは金を稼ぐだけのものではない。
何かしら社会に貢献する意味も含んでいる。
キリスト教の教えでも、仏教の悟りへの道でも、アフガニスタンで亡くなった中村先生の言葉「一隅を照らす」でもあった。
自分にできることを一生懸命やる。
それが心理追究への道でもあり、個人個人がやるべきことでもある。
それに気がついていない人を可哀想だと思うのだ。
上から目線だな。

ここ最近で起こったことは、ニュージーランドでは信号システムが導入された。
地域によって赤とかオレンジとかに分けられ、それにより行動が制限される
それはワクチンパスポートとも直結しており、ワクチンを打っていない人は外食ができない、公共の施設が使えない。
最近では主要メディアが流すニュースをまともに聞いていないので、これが発令されるのがまだまだ先だと思ってしまい、その日に友達と飲みに行こうとして入店を断られた。
元々が呑気なのだな、自分がそういう境遇になってからやっと、「ああ、こういう事なんだな」と気づく。
図書館もプールもダメ、外食関連はほぼダメ、テイクアウェイの店にもワクチンパスポート提示の張り紙がある。
そうかあ、図書館に行けないのは寂しいけど家にはこれから読む本がたくさんあったな。
プールは元々自分から進んで行くわけでない。
一番辛いのはバーに行けなくなる事か。
しょうがない、これからも自分でビールを作って家で飲むか。
スーパーとか食料品店で買い物はできるし、市バスにも乗れる。
こういう事に関して文句をいう気はさらさら無い。
文句があるくらいなら注射を打て、それが当局の言い分だろう。
外国ではワクチンが義務化され打っていないと罰金とか、スーパーで買い物をするのにもワクチンパスポートが要る所があるようだ。
それに比べてまだマシとは言え、このやり方はすごいなと思った。
不思議な事に、自分自身の中で憤りや怒りといった感情は湧かなかった。
それよりもこんな状況で、迫害される少数民族のような心持ちがあった。
これは今の世の中でも、本当に迫害されている人に失礼なところがあるかもしれない。
だが少数派への弾圧の中にいる事を実体験して楽しんでいる自分がいる。
思うに少数派の中でも、怒りを持つ人がいることだろう。
政府が悪い、首相が悪い、というのがその人たちの言い分だ。
まあこの状況ではそういう声が上がるのも無理はない。
独裁そして全体主義とも言える状況は戦前のナチスのようだ。
彼らがしたことは反対勢力の弾圧である。
似たような社会の構造がある。
これは会社とか地域といった小さな社会の中でも同じで、相手の意見を真っ向から批判し全く聞かない。
自分の意見だけが正しいといった原理主義だ。
ちなみに原理主義はイスラム原理主義が有名だが、歴史上ではキリスト教原理主義もあったし、今の世は科学原理主義的なところもある。
そういう思考の元ではバランスは崩れる。
男女の痴話喧嘩と同じで「自分は正しい、相手が間違っている」という話だ。
これは正義をふりかざす人も同じで、正論を利用して相手をやりこめる。
それはもはや攻撃であり暴力だ。
少数派でも多数派でも心を恐怖に支配されると、冷静な判断ができない。
集団ヒステリーというのも大元はここだろうな。

最近見たユーチューブで心理学から見た群集心理とパンデミックというものがあった。
これは実によく説明されていて、今の自分の状況に当てはまるものがいくつもあった。
僕はワクチンを打たない理由が、必要性がないからというものだった。
この『必要性』とは人によって違う。
仕事をするために必要、周りと同調する必要、病気にならないために必要、不便だから必要、バーで飲みたいから必要。
これは個人で違うものだから、何をもって必要かは強制できないし、自分と違うものを批判してはいけない。
僕の場合はどれにも当てはまらず、不必要だから打たないというのが理由だ。
どれかの理由で必要になれば打つだろうが、現時点では必要でないので打たない。
ただそれだけの事でいたってシンプル。
「自分は50代で健康だから打たない」とファイザー社の社長と同じ意見だ。
この『必要性』というのを全く無視して話が進んでいるのが今の状況。
そして政府という国家権力とマスコミ、フェイスブックもグーグルも含めた大手の企業による、情報統制。
盲目的に追従する人々と反対勢力。
まさにカオスだね。
そんな中ですることとは状況を見据え、自分にできる事をしながら静観する。
静観という言葉を入力した時にでてきたのだが、哲学の言葉で『移り変わる現象の背後にある不変的な本体を直観すること』だそうな。
これこれまさしくこれですよ。
情報に踊らされず、落ち着いて本質をつかめ、ということだ。
またまた落とし穴だが、傍観にならないように。
そんな具合に生きていこうと思う今日この頃である。

コメント
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