あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2024年 日本旅行記 12

2024-10-05 | 
だらだらと書き連ねたこの話もそろそろきちんと終わらせよう。
日本から帰ってきたのは4月の終わりぐらいだったから5ヶ月も経ってしまった。
冬が始まるまでに終わらせようと思ったのだが、その冬も終わり春になり桜も散ってしまった。
新宿での後は、羽田に泊まり次の日の便で香港経由で帰ってきた。
と一言で片付けられるぐらいで、大きな発見も感動もなかった。
強いて言うならば香港での数時間の滞在の間に、別の都市が持つエネルギーのようなものを一瞬だけ感じたぐらいだ。



ニュージーランドに帰り再びこの国の自然に包まれ、いろいろ考えた。
一体自分は何のためにここに存在するのか。
答えは出ないが、その鍵のようなものは今回の旅で閃いたような気がする。
それは自分の足元を固めるような印象だ。
今回の旅で見て聞いて味わい感じた全ての経験、これがあるから旅は面白いのであり深い意識を呼び起こすような感覚だ。
漫画おいしんぼに出てくる話をしよう。
パリで活躍している日本人のアーティストがフランスでの活動をやめ日本に帰ってきた。
その人の言う事には、どうも心が奮い立たない、アートそのものに興味がなくなってしまった。
才能のある人なのにそれはもったいない、どうすればその人が再びやる気を出してパリでの活動を続けられるようになるかと、山岡と海原雄山がその人に食事を出す。
山岡は本場と同じフランス料理を出してもてなし、氏も喜んでそれを食べ、これはどこそこのレストランの味だとパリを懐かしんだ。
そして一言「東京でこれだけの物が食べられるのならパリにいなくてもいいですね」
一方雄山が出したものはおむすびとキョウリの漬け物。
もちろん至高の料理なので厳選した物を最高の状態で出すのだが、ただそれだけである。
だが画家は質素な料理に感動して、日本人の自分の基を感じ取りフランスでの活動を続ける決意をする。
そういう話だが今の自分にはそれが痛いほど沁みる。
自分も若い頃からニュージーランドへ来て色々やってきて自分の足元がぐらついているような感覚があった。
日本人としての誇りを忘れ、日本人である事が恥ずかしいなどと思った時期もあった。
最近は自分の軸のようなものができてきたが、今回の旅ではそれを再確認するような感覚である。
それはふと訪れた神社の境内だったり、友人達の活動であったり、ガンコに自分のやり方を貫いている店の人だったり、散りゆく桜であったり、そういった全てを感じ取り自分の故郷というものを強く感じた。
だからこそ自分はニュージーランドで思いっきりやれるのであり、それなくしての生活は考えられない。
人間は一人では生きていけないが、自分も色々な人とのご縁や物事などに支えられている。
その奥に湧き出る感情は感謝である。
たくさんの友が招いてくれてもてなしてくれてお土産までくれた。
手料理をご馳走してくれた人も、お店でご馳走してくれた人も、自分が作った物をくれた人も、僕に似合う物を買ってくれた人も、全て最高のおもてなしだった。
おもてなしという言葉が一時流行ったことがあったが、もてなすというのは表面的に相手に気に入られようとすることではない。
心底相手の事を想い、自分が出来ることで相手が喜ぶことをする。
相手が喜ぶ姿に自分の喜びを見出し、共に楽しい時間と空間を共有する。
自分が出来ることを見極めるためには、自分自身を見つめなくてはならない。
一見相手のための行動でも自分の中心を見る、自分と相手それは表裏一体のものだ。
突き詰めれば実にシンプルな話なのだが、答えは自分の中にある。
そういった深い事を含めてのおもてなしなのだ。
漠然と分かっていた事が、より強くより深く理解でき今はそれが信念となりつつある。

今回出会った全ての人達とタイミングが合わずに会えなかった全ての人達に感謝を捧げ、今回の話を終えるとしよう。


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2024年 日本旅行記 11

2024-08-29 | 
金沢出発の日、東京へ向かう。
北陸新幹線に乗れば3時間で東京へ行けるが、旅情もへったくれもない高速鉄道には興味はない。
速さなら飛行機の方が速い、しかも値段が安く次の日のことを考えて東京までは飛行機で行くことにした。
ヒデと奥さんが小松空港まで送ってくれて、僕らは硬い握手をして別れた。
飛行機から白山が見えるかと期待したが、雲に覆われ霊峰は見えず。
この山とは結局今回は会えずじまいだったが、それもまあご縁というものだろう。
1時間ちょっとのフライトで大都会東京へ。
東京では旧友Mと会い、彼がガイドとなってくれた。
M
さてどこに行こうかという話になり、浅草はどうかと提案されたが観光客がうじゃうじゃいて、店の人もそれを見込んでいるような場所には行きたくない。
それよりも観光客があまりいない所で日本を感じられる場所はないかと聞いたら、それならMが昔からよく行っていた北千住にある昭和の喫茶店に行こうという話になった。
北千住という町には来たことがない。
名前は聞いたことがあるが、東京の東の方というぐらいしか知らない。
どんな所かと駅に降り立ち、お目当てのコーヒー屋さんに向かう途中でも居酒屋や立ち飲みの店などフラフラ入りたくなってしまう、とても危険な町だ。
近くに大学があるのだろうか斬新な芸術系のチラシがベタベタと貼られていて、他の東京の町とは明らかに違う。
持論では音楽でも美術でもファッションでも芸術というものはある程度の都会で生まれるもので、そこに住む人間によって作られている。
そういうのは都会が持つ良いエネルギーだ。
とにかくそんな雑多な街を抜けていくと、あったあったありましたよ。
まさに昭和から抜け出たような外観で、渋い爺さん婆さんがやっている喫茶店。
店に入りお勧めのコーヒーをいただく。
正直に美味しい。何がどう美味いという事は上手く言えないが、香り良く酸味と苦味と旨味のバランスがよいのは分かる。
僕はまるでタイムスリップをしたかのごとく、店の雰囲気に飲み込まれた。
お店の電話が黒電話というのも徹底してさらに良し。
なんか白馬の絵夢を思い出したが、こういう店が実存して社会の一部を作っているのを見ると、やっぱり日本大丈夫じゃないかと思う。



その後はちょっと移動して根津神社でちょうどつつじ祭りというのをやっていて見学。
色とりどりのつつじが満開でこれはこれで綺麗だ。
観光客もある程度いるが、あまり気にならないぐらいの混み方である。
バランスが崩れない程度の人の賑わいは大切なのだな。
そしてそのまま歩いて谷中へ。
どうでもいい話だが谷中は鬼平犯科帳で同心の木村忠吾が見回りをさぼって、谷中のいろは茶屋に出入りしているのを鬼平に見つかった、あの谷中である。
もちろん当時の面影は全くなく、今は昭和の面影を残す下町の商店街だ。
だが観光客のための街でなくそこに住む人のための街であり、通りには佃煮屋とか総菜屋とか瀬戸物屋とか庶民の店が立ち並ぶ。
これはこれで楽しく時間があるのならばゆっくりと浸りたくなるような街だ。
北千住もそうだったが、同じ東京でも場所によってこうも雰囲気は変わるものなんだな。
一部分だけを見て全体を把握しようとするのは人間の本性なのだろうが、東京という大都会の違う一面を見る事ができたのはこれまたよい経験である。

Mと別れ新宿へ。
夜は別の友達と会うことになっている。
前回新宿に来たのはゲイのユーマに会って二丁目を案内してもらうというものだったが、今回は西やんという友達と久しぶりに会うのである。
西やんとは実際には3回ぐらいしか会っていないが、ネットを通じてかれこれ20年近くのつきあいがある。
またあれこれ書くと長くなるので昔の話を貼り付けておこう。

百レボと愉快な仲間たち 1 - あおしろみどりくろ

百レボと愉快な仲間たち 1 - あおしろみどりくろ

きっかけは去年の夏、クィーンズタウンのフラットメイトのタカに借りた本からだった。『百姓レボリューション』というタイトルの本で、僕はその本を数日で貪り読んでしまっ...

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百レボと愉快な仲間達

アジトと呼ばれている中華の店でビールを飲みながら近況報告とか世界情勢とか色々と語る。
僕が行くということで会いたいという人が何人かいたが、みんな都合が合わなくて結局は西やんと2人で、後から西やんの上司なのか友達なのかごっちゃんも参加する。
みんなでワイワイやるのも良いが、心の芯が同じ方向を向いている人とじっくり話すというのも良い。
人に会うというのが今回の旅の大きな目的だが、じっくりと人と話をする事の大切さを感じる事は多々あった。
西やんの話を聞くと、コロナ禍の間に飲食店は時間短縮だの営業縮小だのを半ば強制された。
このアジトと呼ばれる店では、窓をテープで貼り明かりが外に漏れないようにして、中で酒を飲んでいたという。
なんか反政府勢力の集まりみたいで、やっている事は楽しく明るく酒を飲むという愉快痛快な話だ。
時代が変われば命をかけて陰々滅々になるだろうが、時代と環境が違うので社会構造は同じでも暗さが違う。
そんな話を聞きながらやっぱりこの人は同志なんだなと思った。
住む所ややっている事は違えど、芯で繋がる関係は固い絆のようなものを感じる。
互いに相手の事を尊重尊敬しつつ、自分の道を突き進む姿が今の人間に必要なことなのではないか。
向こうも僕から何かしらのエネルギーを受け、僕も西やんとごっちゃんから刺激を受けた。
そこには奪い合いでないエネルギーの交流、突き詰めてしまえば愛が根底にある人間関係が存在する。
結局のところ、答えはそこにあり逆に言えば答えはそこにしかない。
実にシンプルだ。
新宿アジトにて今回の旅の最後の夜を堪能した。




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日本旅行記 10

2024-08-14 | 
金沢三日目は市内観光である。
まずは市内を見渡す見晴台から。
「いつもならここから白山が見えるのに」とヒデが残念そうに言うが、春の霞で霊峰白山は見えず。
そして東の茶屋街を歩く。
小京都と呼ばれるだけあって昔の茶屋が並ぶ街並みは素敵である。
こりゃいかにも観光客が喜ぶだろうなぁというような場所で、あちこちで写真を撮る観光客が絶えない。
貸衣装を着て写真を撮るなんてのも、観光地らしい一コマである。
ヒデに勧められるままに入った試飲ができる酒屋で飲んでみたが不味くないというだけの感想で、人生で一番かもしれないというほどの手取川を飲んだ感動からは程遠いものだった。
だからと言って「手取川の方が美味い」などとその店の人にいう気はない。
それこそヤボってもんだろう。



僕らが行ったのは朝も早い時間だったので人の出が少ないほうだが、繁忙期にはごった返すのは想像出来る。
自分の率直な感想を言うと、昔に賑わったお茶屋街と今現在の物とは違う物であり、そこから昔の社会風俗を想像するのは難しい。
実際に一つのお茶屋を解放して中に入れるような場所を見てみたが、引っ切り無しに人が出入りし子供が走り回るような状況では当時の様子を思い浮かべ心静かにその世界に浸る気分にはなれない。
一度は行ってもいいが二回行く気はない。
それよりもその近くの観光客目当てでなく人も少ないお茶屋街、一見さんお断りという雰囲気を建物が滲ませているような路地を歩く方が雰囲気があり好きだった。

そして兼六園である。
これは言わずもがな見事な日本庭園であるので僕がくどくど書かなくてもいいだろう。
一通り歩いてはみたものの、ここでも何故か自分の心が揺れ動くようなことはなかった。
兼六園を出て観光バスが停まる所では、バスドライバーがつまらなそうな顔をしてお客さんを待っている姿が妙に記憶に残っている。
ひがしの茶屋街、兼六園、金沢城跡、近江町市場、武家屋敷跡界隈、といったいわゆる観光名所を歩いたのだがどうも心が奮い立たない。
それぞれに日本っぽく良い所なのだが、何なのだろうなこれは。
お茶屋街では芸妓が歩く様を、兼六園では殿様が庭を愛でる様を、武家屋敷では武家が生きる様を想像するのだが、どれも今ひとつなのである。
旅の疲れがでてるのか、はたまた観光業に携わる者としてさめてしまっているのか、何かは分からないがモヤモヤは残る。



金沢市内の観光名所を巡って考えたのだが、ここでもオーバーツーリズムの波からは免れないのはもはや仕方がないだろう。
綺麗な場所に行きたいという感情は人間の自然な欲求であり、誰もそれを止めることはできない。
ましてやコロナ禍で世界中の人間の行動が急激に制限され、それが解放された現在は以前よりその動きが活発になっている。
そういう自分もコロナが終わって落ち着いたので日本に里帰りをした一人だ。
善悪の判断をしようとすると、物事がゆがんで見えてしまうのでそういう話は抜きにしてどういう状況か考えるようにしている。
人が動けば金も動く。
観光地のような場所に店ができて経済が潤うというのは、当たり前の話でどこの世界でも同じだ。
ただそこを訪れる人の数が多すぎるとバランスが崩れ、いろいろな弊害が起こる。
現在のように情報が一人歩きをし、全ての人が情報発信者になりたいという状況もその一つの要因だ。
旅をするということはただ空間を移動するのではなく、自分が生きる社会との相違点を見出し比較をすることで客観的に物を見ることができるようになる。
きれいごとだけでなく汚い所や危ない事もあることを知り、他人と出会うことで自分自身を見つめる。
それが旅の醍醐味なのだが、そんなのは小難しいことを言って大人の風を吹かせたい僕の戯言だ。
今の人には今の考えや価値観があり、それに乗って人は行動する。
そういう状況があるというだけの話だ。
それとは別に、自分が求める旅とは他人の価値観を物差しにすることなく、あくまで自分の持つ感性や心を動かされる事に焦点を当てて物を見る。
そういう意味では金沢市内の観光地にもう行く事はないだろうし、もしもう一度この地を訪れるのならば手取川の酒蔵に行ってみたいし、その奥にある霊峰白山を近くで見たいというのが素直な感想である。



金沢最後の夜はお好み焼きの店へ行くという。
日本のあちこちでいろいろと美味い物を食ってきた僕が行くと言うので、ヒデは聖が来たら何をご馳走しようかとあれこれ考えてくれていたらしい。
場所は前日に行った鶴来の町外れにある店で、人が多く集まる金沢より鶴来の方が好きだった僕には何の異存もない。
金沢と鶴来の関係はクィーンスタウンとアロータウンのようなものだ。
景色が綺麗でお店も多く観光客がごった返すクィーンスタウンと、その近くで派手さはなく小さいながらひっそりと昔風の情緒を残すアロータウン。
自分が連れて行ったお客さんのほとんどがアロータウンを気に入ってくれたし、僕自身も何故か心惹かれる街なのだ。
街が持つエネルギーというのか雰囲気というのか、何か特別これ!というものがあるわけではないし、うまく言葉にできないがなんとなく好きになる街。
目に見えてはっきり分かる特別にこれ!というものがあったらそこはすでに有名な観光地になっている。
インスタ映えする場所なんてのがいい例だ。
そんな鶴来へ行くまでにヒデが素敵な提案をしてくれた。
金沢から鶴来までは北陸鉄道石川線というローカル線があるのでそれに乗っていき、ヒデは終点鶴来まで車を回してくれる。
ローカル線が好きな僕としてはとても嬉しい。
新幹線の旅が移動としての手段であり、旅情のかけらが微塵もないなどと話していたのだ。
車で最寄り駅まで送ってくれて、そこからは30分ほどのローカル線の旅だ。
ワンマン車両の車内は部活を終えた高校生や家路に向かう勤め人など、生活の匂いがプンプンする。
電車は住宅街を抜け日が傾く田んぼの中をカタンカタンと走る。
停車駅はほとんどが無人駅で、家路に向かう人々が運転手に定期券を見せたり料金を払い降りていく。
こういうなんてことのない日常の一コマの中に異邦人の自分がいる。
運転手をはじめ乗客には当たり前の情景だが、僕には非日常だ。
終点鶴来駅でヒデが待っていて、そこから車でお目当のお好み焼屋へ。
まだ線路のレールが残っている廃線跡地の前にそのお店はあった。



お店の名前は八尾屋(やおや)お好み焼きのフルコースのお店で、古民家を改造した店構えの雰囲気が良い。
カウンターに僕とヒデが並んで座り、店主の親父が目の前で焼いてくれる。
お好み焼きでフルコースってなんなの?と思っていたが鉄板で前菜からメインへと流れるように次々と焼いてくれる料理だ。
もちろん全部が全部お好み焼きというわけではなく、前菜は薄焼き卵で包んだお肉だったりレンコンの薄切りえおお好み焼きっぽく作ったものだったり、エビ焼だったり、カキだったり。
そしてメインはお腹にたまるお好み焼きから焼うどんへ。
確かにこれはコース料理だな。
味は素材にこだわっているのだろう、文句なく美味い。
店主の親父は僕と同年代だろう。
最初は気難しくとっつきにくい雰囲気だったが、お店の片隅にあるスノーボードを僕が見つけスノーボードの話になり、自分昔のスキーパトロールの話をすると、うちとけて一気に饒舌になり色々な話で盛り上がった。
聞くと元々大阪のお好み焼き屋だったが、この地が気に入りお店を開くことにした。
ただしお店の場所で銀行と一悶着あったという。
というのもお店が辺鄙な場所なので銀行が渋って融資の話がまとまらなかった。
銀行側の言い分としては、こんな人が来にくい場所でやるより人が多く集まる金沢市街でやるべきだと。
それはそれで資本主義の基本に沿った考え方であり、何も間違っていない。
捨てる神あれば拾う神ありありで、別の銀行が融資を申し出てくれて今の場所に店を出すことができた。
神様はこんなところにも居る。
ミシュランでも星を取り、今やお店は大人気で予約が絶えない。
そうなると隠れ家的な名店ということで、テレビの取材の依頼も来るがそういうのは一切断っていると。
あーもう、昭和の頑固親父みたいでいい、とてもいい、すごくいい、なまらいい。
料理も美味かったが、僕は親父の生き様みたいなこの店が醸し出す雰囲気がとてつもなく気に入ってしまった。
白馬の食堂の絵夢のおかみさんもそうだったが、時代の流れに流されずかたくなに自分の信念を貫き通す人をみて、ここでも日本は大丈夫なんだろうなと思うのだ。
金沢最後の晩にこういう店に出会えたのは大きな喜びで、こういう思いがけない感動が旅の醍醐味だ。
人と人とのご縁、ご縁で全てこの世は成り立っている。



続く

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日本旅行記 9

2024-07-28 | 
一夜明け、この日は金沢近郊の観光である。
いつものごとく下調べは一切せずに、ガイドのヒデにお任せで連れて行ってもらう。
ヒデは僕がいくというので、どこに連れて行くのか色々と考えてくれていたようだ。
先ずは車で30分ぐらいにある鶴来という街に向かう。
つるぎという名前は元々は剣だったらしいが今は鶴が来る鶴来となったようである。
扇状地の扇の付け根の部分で平野の方から来ると谷がぎゅっとつまったような地形をしている。
綺麗な川が流れ昔の街並みがたたずむ、観光客が少ない僕好みの街だ。
そこにある白山比咩神社をお参り。
参道を登っていく途中で神様のパワーをビンビンと感じ指先がしびれる。
これはすごい所だと一人で昂奮するのだが、地元に住むヒデにとってはあまりに当たり前すぎる場所のようだ。
全国で2000ある白山神社の総本宮というのを知り、ナルホドと感心した。
これを書いていて気付いたのだが神社の写真を1枚も撮っていない。
あまりに強く氣を感じて写真を撮ることを忘れてしまったようである。
もともと写真を撮るのが目的ではないし、写真は残らなくても自分がそこで感じたことは心に深く刻み込まれている。
白山とそれを取り巻く自然環境、そこに長く住む人々の信仰心がこういった神社であり、そこに神が宿る。
今回の旅で何度目だろう、日本は護られている国だと感じ、そしてまた日本は大丈夫なんだろうなぁという思い。
旅を続けるうちに最初に感じた漠然とした想いは、今や強い確信となっていた。



神社で参拝を済ませ、次は近くにある獅子吼高原へ。
そこはゴンドラがかかっていて景色の良い場所なのだが、ゴンドラには乗らずその麓にある獅子ワールド館へ行く。
獅子吼とは仏教用語で獅子が吠える様子、仏の説法で真理を説き邪説を喝破すること、とある。
そんな大層な名前が地名になっているだけあり、そこは獅子頭の産地のようである。
獅子頭とは獅子舞の頭のアレだ。
獅子舞は知っているし生で見たこともないが、それがどこから来たかアジアのあちこちの獅子頭が展示されていて面白い。
そうやって見ると日本という国も、周りの国や民族の影響を受けて長い間に今のようになっていったのだとわかる。
違う角度で物を見る、ということに最近ハマっているのでこのような自分の知らない物事を学ぶのは楽しい。

金沢に戻り、金沢名物チャンピオンカレーを食す。
B級グルメというものが日本中で流行っているが、このカレーもその一つである。
カレー屋は金沢市内にいくつも店舗があるようだが、ヒデが連れて行ってくれたのはその本店で大学の近くにある庶民の味方だ。
店内にはカレー屋の創業当時から現代までの写真などが展示されていて歴史が見える。
味は普通に美味く、毎日食べても飽きのこないほっとする味だ。
日本に来てからの食事は圧倒的に和食が多く、行くとこ行くとこでは当地のご馳走を出してくれる。
もちろんそれは美味しくて又嬉しいのであるが、地元の人が日々の生活で食べるものを食べたいという想いもある。
そんな僕の欲求を満たせてくれた金沢カレー。
そもそもカレーはインドの料理でインドにはカレー粉というものはない。
スパイスを調合して作った料理をカレーと呼び、植民地料理をイギリスに持ち帰りスパイスの調合が苦手なイギリス人用にカレー粉というものができた。
そのカレー粉を日本に持ち込み、日本人の味覚に合うようにしてややとろみをつけたのが日本のカレーだ。
日本人は他所の食べ物を魔改造して美味い物を作り上げてしまうという特性がある。
ラーメン、カレー、アンパン、コロッケ、カツ丼、どれにも歴史があり今に至っている。
そこには食に対する真摯な姿勢と美味い物を食いたいという人間本来の欲求、好奇心や探究心といった遊び心、イチゴを大福に入れるなんて発想だれが思いつくというのか。
それらを全て包括した物が日本食なのではないだろうか。
そこでもう一度問いたい。
カレーは和食か?
僕の答えはまぎれもなくイエスである。



そのまま車で市内観光へ。
本格的な市内観光は次の日に行くということで、この日は街の中心部からちょっと外れた西の茶屋街へ。
金沢には西の茶屋街と東の茶屋街があり、東の方は結構な観光地のようである。
ブラブラそぞろ歩きをして、そこにある甘味処でぜんざいなんてものをいただく。
テーブルに置かれた炭火で餅を焼きぜんざいに入れて、茶店の奥の日本庭園を見ながらほっと一服、風流じゃのう。
金沢の街をヒデが運転する車に乗り感じたことは、どこの家も庭が綺麗だ。
きっちりと木々が剪定されて、手入れが行き届いている。
ヒデの家にも小さな庭が玄関先にあるが、小さいながらも日本庭園の流れが見えてとても好ましい。
北陸という土地柄、冬囲いという事をやらねば雪で木が折れてしまうので最低年に2回は庭の手入れをしなければならない。
これは南国では全く考えなくてよいことだ。
それに加え兼六園という日本三名園があるので、腕の立つ庭師が多いのは想像できるし組合や寄り合いのような職業集団だってあるだろう。
カリスマ庭師の師匠がいて、その技術の惚れ込み弟子入りするなんてのも絶対にあるはずだ。
こういう地域性というものに気がつくのも自分が他所者であり、他の地域と比較をするという事ができるからだ。
これが旅の醍醐味で、違う視点で物を観ることであり、今の世で必要な人文学でメタ認知(そうなのか?)なのである。



晩飯はヒデの家でじっくりと飲む。
北陸の名物といえば押し寿司で、それをリクエストして用意してもらった。
押し寿司と一言で言っても金沢の笹寿司と富山のます寿司と福井の鯖寿司と新潟の笹寿司ではそれぞれに違う。
金沢の笹寿司は笹の葉で包んであり、笹の葉は抗菌作用もあって腐敗を防ぐ保存食にもなる。
先人の生活の知恵というのは素晴らしいものだな。
それから午前中に行った鶴来で奥さんに頼んで買ってもらった手作りコンニャク。
コンニャク自家生産者としては、気になるところだ。
そして日本海の海の幸の甘エビとホタルイカ。
わーい、全部日本酒に合う肴だ。



その肴に合う日本酒、これが凄まじかった。
何がすごかったかって、その酒を飲んだ時に水の美味さを感じ取り、僕は呻いた。
「何これ!これはすごい酒だ!」
長年日本酒に関わってきたが、水の美味さを感じられる酒は初めてだ。
今回の日本の旅で行くとこ行くとこで美味しい日本酒を飲んできたが、間違いなくこの酒がベストだと言い切れる。
その名も手取川。
「手取川という川は今日の朝行った鶴来の所を流れている川だ」とヒデが教えてくれた。
さらに日本酒が好きな僕のために地元の友達に聞いて、それならこの1本だろうということでヒデが調達してくれた酒だ
確かに鶴来の街に行った時に、綺麗な川が流れているなと思った。
そうか、あの川かあ、色々な事が繋がるものだが、こういう物事の繋がり方は大好きだ。
そしてこの川の源流は霊峰白山である。
この酒蔵に行ってみたいと思った。
もちろん利き酒もしたいが、蔵に行ってこの水を飲んでみたいと思った。
水というのは地球上の全ての生き物、人間を始めとする動物や植物や虫や魚に関係なく、生きとし生けるもの全てにとって空気の次に大切なものだ。
当たり前のことだが当たり前すぎて人々はそこをあまり深く考えない。
そして失われた時に初めてその存在を知り、嘆く。



クライストチャーチも地震までは水道水が美味しい都市だったが、地震の後でカルキが入るようになり水が美味しくなくなった。
我が家でも山に行った時に水を汲んできたり、水道水にフィルターをかけたりしてなんとかやっている。
それでもニュージーランドはまだ良い方で、世界の中では水道の水が飲めないという国が圧倒的に多い。
そういう意味でも日本は水に恵まれた国だ。
美味しい綺麗な水が豊富というのは本当の意味で豊かなことなのだ。
自由市場経済を基盤とする資本主義社会では全ての物が商品となりうる、とはプロレタリア万歳の冒頭の言葉であるが昨今はあちこちで水源や水道システムが売られるようになっている。
まあそれもこの世の流れなので仕方あるまい。



そんな美味い酒をヒデの家にあった九谷焼きのおちょこで飲む。
いつものことながら何の事前学習もしなかったので九谷焼きの事は何も知らなかったが、金沢の名産品で市内にはいくつもの九谷焼きに店がある。
一言で言えば派手である。
黄色とか緑とか色とりどりで、書かれている物も鳥とか動物とかドラえもんとか何でもありだ。
わびさびとはエラい違いであるのだが、色々と見てみると何か芯というのか流れというのかがあるような気がする。
西洋の派手さ、中国の派手さとは違う、これはこれで日本の美なんだろうなぁと思うのである。
ヒデの家のおちょこは鶴が3羽描かれた物で、なんとなく気に入って、それをニュージーランドに帰るお土産にもらった。
物との出会いも人と同じでご縁があると思う。
お店で気に入った物を買うのもご縁であれば、友人宅にあった物をいただくのもご縁だ。
九谷焼きのお店を次の日にいくつか回ったがピンと来る物はなかった。
それよりもどういう経緯があるのか知らないがヒデの家で使っていたお猪口が何よりピンときたのだ。
地元の酒を地元の肴をつまみに地元の器で飲む。
ここへきてこれ以上のご馳走はあるまいか。
加賀の殿様もこういう器で酒を飲んだのだろうな。
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日本旅行記 8

2024-07-20 | 
ダイスケのすさまじいほどの盛り上がりっぷりから一晩明け、静かな朝を迎えた。
朝早くに仕事で出かけるアスカを見送り、ぼんやりと桜の花がちらほら舞う庭を眺めていた。
何気ない庭の、ある春の朝の一コマだが妙に心に打たれる情景である。
そこではっきりと気がついた。
桜は散りゆく姿が美しいのだと。
確かに満開の桜は綺麗だし見栄えが良いので、観光客がそれを写真に収めようとするのも分かる。
ただそれは綺麗に咲いた見栄えの良い景色を思いも馳せずにボタンを押しただけのもので、時間の流れはそこに映らない。
プロの写真家が瞬間を切り取るのとはわけが違う。
もっとひどい事を言えば、今の風潮は誰かがどこかで撮った写真を自分がそこにいって写すのが目的で、さらにSNSであげることが最終目標だ。
これは国籍に関係なく、世界中で同じような現象がある。
桜は満開もきれいだが、同時に散りゆく姿に本質があるのだと思う。
そこにあるのは時の流れと共に存在するなくなってしまうという現実、さらにその奥には生きることのはかなさと必ずやってくる死というものに対する死生観である。
これは生き物に限る話ではなく、文明や権力でも同じことを歴史は繰り返す。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。

有名な平家物語の冒頭であるが、平家にあらずんば人にあらず、と言ったぐらいの平家も滅ぶ。
永遠に続くと思われた徳川幕府も滅んだ。
世界に目を向ければ、全ての道はローマに通づると言われたローマ帝国。
ユーラシア大陸を蹂躙したオスマン帝国。
我が辞書に不可能という言葉はないと言ったナポレオン。
7つの海を制した大英帝国。
その他諸々、数え上げればきりがないが、みーんな栄えて滅ぶの繰り返しだ。
諸行無常だな。
桜という花はそれを現している、だからこそ日本でこれだけ愛されている。
そこに侍は死を見出し、いかに死ぬかという答えのない問いに、いかに今を生きるかという答えを出した。
死があるから生があり、生があるから死が来る。
当たり前の事だがあまりに当たり前すぎて誰も考えない。
桜の散る様はそんなメッセージを含んでいる。
そんな当たり前の事に改めて気づかせてくれた、今井家の庭であった。



この日、娘は白馬に戻り僕は金沢へ向かう。
旧知の友人ヒデが金沢に住んでいて「日本に来たら金沢に来てくれ。自分が全て案内するから。とにかく来い。つべこべ言わずに黙って来い」という具合に誘われていて、今回それがようやく実現した。
金沢までは新幹線で行くつもりだったが、エリが神戸に帰るので金沢は通り道だからというので乗せて行ってもらうこととなった。
新潟から富山へ入り親不知を超えたあたりから立山が見えた。
静岡や山梨の人が富士山を心の拠り所とするように、富山の人には立山がその存在なのだろう。
そう考えれば日本各地にある主だった山は山岳信仰の対象であり、山が神様なのである。
ニュージーランドの最高峰はアオラキマウントクックであり、マオリ族の神話に残っているぐらいに神様の山なのだが、やはり日本のそれとは何か違う。
どこがどう違うのか上手く言い表せられないが何か違う。
そしてまたどちらが優れていてどちらが劣っているという話でもない。
ただ単に違うというだけの話であり、僕はどちらも好きだし山を見れば自然に手を合わせ拝んでしまう。
そんな立山を横目に見ながら車を快調に飛ばし金沢に着いた。



ここで神戸へ帰るエリとお別れをして、そこからはヒデに案内をしてもらう。
まずはお昼時ということで、山深い所にある茶屋でニジマスの塩焼きだの山菜だのの御膳を食し観光へ。
向かったのは五箇山という谷間の小さな集落で、合掌造りの家が残る。
合掌造りと言えば白川郷が有名だが、白川郷のある庄川の下流にあるのが五箇山だ。
合掌造り=白川郷というイメージは強く、白川郷がブランド化していて皆がそこへ向かい、そこだけが全てだと思い込んでしまうのは大きな誤りだ。
人間は一部分の情報で全てを把握できるという勘違いをする性質がある。
テカポの星空がブランド化しているのと同じ構造であり、テカポで星空を見ることが旅の目的になっている人も多く、テカポでなければ意味が無い、なにがなんでもテカポという風潮には首を傾げてしまう。
白川郷と違い五箇山は規模が小さいのでそれほど有名ではなく、観光地になりきっていないので人も少ない。
人がうじゃうじゃいる観光地はあまり行きたくない僕にはおあつらえ向きである。



民俗資料館を見学し、ぶらぶらと散策して当時の人々の生活に想いを馳せる。
昔は流刑地だっとされ罪人が流されてきた場所であるが、今はそのおどろおどろらしさは微塵も感じられない。
表面的には日本らしさが残るのどかな観光地だが、過去には暗い歴史が渦巻いている。
こういう見方をするようになったのも、コテンラジオで歴史を勉強して人文学を学んだからだ。
人里離れたというより隔離されたような場所では、戦で重要だった火薬の製造が行われていた。
加賀百万石という北陸では巨大な勢力の末端で、人々は何を想い暮らしていたのだろう。
とある資料館では中で働いていた女性が当時の様子を事細かに説明してくれたが、これが素晴らしかった。
歴史や生活や当時の社会情勢など学問的な話もさることながら、その奥には彼女の郷土愛が根付いており、ガイドというのは本来こういう姿なのだろうと思い知らされたのである。



金沢に戻ってきて夜は街に繰り出す。
白馬や能生といった当たり前に夜は暗い場所から一転して、ネオンが眩い歓楽街へ。
金沢という街は北陸では一番の歓楽街があるようで、富山や福井といったお隣の県からも人が来るそうな。
こういうのも加賀百万石という歴史が関係しているのだろう。
連れて行ってもらったのは『ぴるぜん』という本格的なビール酒場で、ヒデが若い頃によく行った店だという。
ビール好きな僕としては、名前だけで喜んでしまう。
ドイツで生まれたラガービールがチェコのピルゼン醸造所で醸されてできたのがピルスナーというビールであるとか、なぜそこのビールが他所と違うのかはそこの水が軟水だったからだとか、それと同じような製法で作られたビールがアメリカに渡ってバドワイザーになったとか、そんなのを最近勉強したばかりである。
創業1968年というから55年、僕が生まれたのと同じ年だ。
ドイツ風の内装でビールは当然本格派、そして料理もソーセージとかビールに合うようなものばかりで嬉しい。
アナゴのフィッシュ&チップスというのをオーダーしたが、これがまた美味かった。
ニュージーランドのフィッシュ&チップスとは違う、日本のフィッシュ&チップスはやはり日本人シェフが日本人好みに作るのだな。
前日は新潟で海の幸山の幸をご馳走になったが、それとは一転して歓楽街でビール居酒屋。
表面的にはぜんぜん違うものだが、そこに流れる芯は同じである。
自分が好きな店に、この人が喜ぶだろうと連れて行ってくれる。
時に豪華絢爛な食事が最高のおもてなしとなるし、時に一杯のお茶が最高のおもてなしとなる。
それには主人と客人の関係性もあるし、季節や場所や時間といった状況その他諸々でその形は常に変わる。
だが奥にある物事の本質は同じで、それが茶の湯の心であり、和食の真髄なのである
和食が世界遺産になるという話は前回でも書いたが、一体和食とは何かという根本的な問いを考えなくては本質は見えない。
カレーは和食か?ラーメンは和食か?寿司は和食か?
歴史を辿れば寿司だって今僕らが思い浮かべる寿司と原型の寿司とはぜんぜん違う。
表面だけを見ず、その奥にある本質を見極めることで洋風居酒屋が和食の心になる。
ここでも本質とはつまり、大きな人間愛なのだと気付いた金沢の夜。


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2024年 日本旅行記 7

2024-07-12 | 
白馬出発の朝、昨晩の約束通りみんなでお宮にお参りに行く。
オトシの家から歩いて5分もかからない。
ボコっとした、丘とや小山と呼ぶには小さすぎるような、まるでそこだけ突き上げたような地形の中にその祠はあった。
小さいながらも鳥居があり、その奥にひっそりと、まるで息を殺すかのように建っている。
ナルホド、ゲームもスマホもパソコンも何もない子供達が、かくれんぼや鬼ごっこをして遊ぶのには恰好の場所だろう。
そうやってここで遊んだ子供達ご大人になって大きな仕事をする話なんだな。
ふと思い出したが自分の家の近所にも小さな神社があり、そこで草野球だの鬼ごっこだのして遊んだものだったな。
カモメが前の晩に語ったお宮の秘密では、みんなでお参りをしたらカモメが神隠しになり行方不明となってしまうものだったが、そういった事も起こる事なく無事にお参りをした。
祠の周りは冬が終わったばかりだからか、雪の重みで折れて落ちた枝が多いが荒れ果てたという感じではない。
小さいながらもやっぱりここにも氏神様がいるのをひしひしと感じた。



娘が迎えに来てオトシ宅を後にした。
この日は古巣のシャルマン火打で一緒に滑り、その後で友達の家に泊めてもらうことになっている。
白馬から糸魚川までの道は姫川に沿って狭い谷間を走り、糸魚川に近づくと一気に視界が広がる。
ニュージーランドのアーサーズパスからグレイマウスに抜ける国道と似た感覚である。
しばらく走ると左手に日本海が見え、道は海岸沿いを行き能生に入る。
今は合併して糸魚川市になってしまったが、僕がいた頃は能生町(のうまち)だった。
自分の故郷の清水もそうだが、日本中どこでも合併合併で小さな町や村が大きな市に吸い込まれてしまった。
文化というのは狭い地域から生まれるもので、大きな町に吸収されると地域特性は薄まりどこにでもあるようなつまらない街ができあがる。嘆かわしいことだ。
日本海を背にして能生川に沿って谷間をさかのぼっていく。
4月も半ばになると雪もほとんど無いが、谷を進むにつれ雪が出始めて、その奥にスキー場がある。
シャルマン火打というスキー場に居たのは娘が1歳か2歳かそれぐらいだったから20年前か。
僕はその時はニュージーランドで長距離バスドライバーをしていたが、過酷な労働に耐えかね仕事をやめたところだった、
そこに相棒JCの誘いがあり、半年間という期間限定の出稼ぎでシャルマンでパトロールをすることになった。
当時は日本円がまだ強く、1ニュージーランドドルが60円ぐらいだったような気がする。
豪雪地帯で名高い上越地方なので雪の降りかたもすさまじく、仕事はハードだがやりがいのある職場だったし、パウダー目当てで集まる地元ローカルとも仲良くなった。
寮では夜な夜なギターを弾きながら飲むという事を繰り返し、ローカルで楽器が出来る人を集め西飛山ブルースハウスという名前のバンドも結成した。
僕とJCが同じ部屋で、そこがみんなの溜まり場であり、横の部屋にいたのが圧雪係のダイスケだった。
カズヤの事も事細かく書いたから今井ダイスケの事も書かねばなるまい。
僕らが20代の頃、バブル最盛期でマウントハットとかメスベンでブイブイ言わせていた時にカズヤと一緒にいたのがダイスケだった。
僕とJCがその頃セットで動いていたように、ダイスケとカズヤも二人で一組のような間柄だった。
大きく違う所は、僕とJCは対等の関係だが、ダイスケ達は圧倒的な上下関係があり、殿様と家臣のような主従関係なのか軍隊の指揮官と兵卒のようなものかダイスケの言うことには絶対服従であり、まさに体育会系のノリだった。
そんなカズヤにとっては王様のようなダイスケも僕には可愛い弟であり、ニュージーランドでも御嶽にいた時もよく遊んだし、シャルマンの時も毎日一緒に過ごした仲なのだ。
若い頃には本当によく飲んでバカなことをやったものだが、ある日いつものように飲んでいたら誰かがジャンプして軒先の梁に頭をぶつけ、突発的に誰が一番強く頭をぶつけられるか選手権みたいなことが始まり、ダイスケとカズヤがジャンプして頭をぶつけて「痛え!」などと頭を抱え込むのを見てみんなでゲラゲラ笑ったりしたものだった。
よくあの時に死ななかったと思うが、若いというのはバカで無知で分別がなく、途方もなく明るい。
シャルマンではダイスケは隣の部屋で、僕が二段ベッドの下で布団の中で本なぞ読んでると、暇を持て余したダイスケが狭いベッドに潜り込んで来て「ひっぢさ〜ん、遊んでくださいよ」などと言いつつ太ももを擦り寄せ「気持ち悪いなーダイスケあっち行けよ!」とゲイのユーマが聞いたら喜びそうな事もされた。
そんなダイスケに会えるのも9年ぶりだ。





シャルマンに着くとダイスケの妻のアスカが僕ら親子を迎えてくれた。
アスカも同じ時代をニュージーランドで過ごした仲間で、クラブフィールドにも出入りしたし家にも来た事があり、今では週に何日かスキーパトロールをして何日かは雑貨TREEというお店をやっている。
アスカがニュージーランドに来ていた時は娘がまだ3歳か4歳かそれぐらいだったのだろう、アスカは覚えているが当然ながら娘は覚えていない。
今シーズン半ばに娘がシャルマンを滑りに行くというので連絡して、その日は一緒に滑ってくれてその晩にアスカの泊めてもらったという間柄だ。
この日はやはりニュージーランドで一緒の時代を過ごしたエリが来ていて、アスカ、エリ、僕ら親子の4人で滑った。
お互いの近況や共通の友達の話、スキー場の状況や取り巻く人間関係など話は止まらない。
久しぶりに来た昔の職場では滑るうちに、ああ、そういえばここの地形はこんなだったなあ、ここではこんな出来事があったなあ、などと思い出す。
アスカはお昼からお店を開けるというので先に下り、我らは山頂のレストランで昼飯を食い、その後も数本滑る。
若い深雪はせっかく来た他所のスキー場なのでまだまだ滑りたい、エリはのんびり山菜など取りたい、そして僕は山頂からの景色を眺め若い頃に過ごした思い出にどっぷりと浸りたい、と三者三様なのでしばらくは自由行動。
バカな上司の下で働く人生の理不尽さも味わったが、それ以上に楽しい仲間との思い出も多いし、大雪の中で汗だくになって作業をしたことや死人を搬送した事など、酸いも甘いも苦いも辛い経験も全てが鮮明に呼び起こされる。
そういった経験全てが今の自分の心の中核となっている。
ここで働いたのは20年前だが、16年前に僕はイベントで再び訪れている。
ニュージーランドのブロークンリバーとの交流イベントで、当時パトロールだったヘイリーやクラブキャプテンのブラウニー、スキーガイドのヘザー、スキーメーカーのアレックス達と1週間を過ごした。
オフピステを滑るフリーライドの大会の走りのようなもので、これは伝説のイベントとなり同じ顔ぶれで集まることはもうないだろう。
懐かしい顔が揃った写真をオトシが送ってくれたので貼り付けておこう。




午後も早い時間にスキー場を後にして、温泉に浸かり世話になった親父さんに挨拶をして山を下る。
この親父さんも前はシャチョーと呼ばれていたが今では息子に代を譲りカイチョーになったようだ。
夕方まではのんびりと地元の道の駅やアスカの雑貨屋を見て回る。
雑貨屋では手染めのTシャツや手ぬぐいなど扱っていて、手染めのワークショップなどもやっている。
ここも地元に溶け込み地に足がついた暮らしをしている。
当時一緒にバンドをやっていたサイトーデンキという人が、今晩は用事で来れないからとわざわざアスカの店にウィスキーを手土産に来てくれた。
地元の電気屋さんで斎藤電気だが僕はこの人の下の名前をしらない、だが昔の仲間がこうやって会いに来てくれるのは嬉しいものだ。
ダイスケとアスカの家は店から車で5分ぐらいで、大きな家で部屋もたくさんあるので僕も娘も友達のエリもみんなそこに泊めてもらうのである。
海岸からちょっとだけ入った所にあり、海が見える家はサーファーのダイスケにはもってこいなんだろうな、古い家を綺麗に改装してある。
ダイスケは娘が働く八方尾根スキー場で圧雪の仕事をしていて、僕が来る日もひょっとすると仕事かもなんて言ってたが、休みが取れて家で待っていた。
娘はスキーパトロールで昼間の仕事、ダイスケは圧雪で夜の仕事なので面識は無いが、無線の声はお互いに聞いた事があるという関係だ。






ダイスケと再開を祝しビールなど飲んでいると夕方になり地元の友達が続々と集まってきた。
大工のノブさんはスキー好きなローカル代表みたいな人で、20年前からよく知っている間柄でダイスケの家の改装をしたと言う。
そしてパンチ家族。
パンチは僕がパトロールをしていた時に一緒に働いた仲間で、当時からパンチパーマだったのでパンチと呼ばれ今でも愛称はパンチである。
その当時は若くて独り者だったが、今は奥さんと娘二人で幸せそうだ。
他にも山菜を採ってもってきてくれた友達がいたり、魚のお造りを作ってくれた友達もいた。
この日の今井家の食卓はヤバかった。
なにがヤバイって、海の幸山の幸が所狭しとテーブルに並ぶ。
山の幸で言えばコゴミ、タラの芽、タケノコ、その他名前を忘れてしまったが、茹でてあったり、天ぷらにしたり。
旬の物の旨いこと。旬とは季節ごとの食材の一番美味い時であり、四季がある日本ならではのものだ。
そして山菜の旬は悲しいほどに短い。
ある時にはとんでもなくたくさんあるが、時間が経つとあっというまに育ちすぎて食べごろを過ぎてしまう。
その瞬間の旨さを最大限に引き出し、季節ごとの大地の恵みに感謝をする、というのが和食の基本であり日本の芯だと思う。
海の幸は皿に大盛りのカニが何杯分だろうか、それも全部剥いてあって食べる状態で並んでいる。
カニというものは美味いが剥くのに手間がかかり、気がつくとみんな無言でカニを剥く作業に徹するなんてことが宴会ではあるのだが、今回は大工のノブさんが全て下ごしらえで剥いてくれた。
さすが大工だけに手先が器用なのか、前回娘が一人で来たときもカニをたらふくご馳走になったようだ。
そして鯛や地元の魚のお造り、カワハギなのかウマヅラハギなのか刺身をキモを醤油に溶かして食すも美味、甘エビのまた甘いこと、そして食いきれないほどのカニ。
カニはアスカが地元の漁師の子供にスキーを教え、そのお礼にいただいたものらしい。
こんなふうな物と労働力の交換は本来の人間社会では当たり前にあるものだ。
極め付けはワカメ。
ワカメなんてものは実にありふれた食材であり、味噌汁の具がない時に乾燥ワカメを使ったりもする。
ただこの日のワカメはそんじょそこらのワカメと違う。
その日にダイスケが海に入って採ってきたものだ。
旬のワカメがこれほどまでに旨いものとは。まさに感動する美味さであり娘もびっくりしていた。
日本人はもっと海藻を食べるべきだと僕は常日頃から思っている。
食物繊維もビタミンもミネラルも豊富な健康食で、海に囲まれた日本ではどこでも取れる。
今回日本に帰った時も、北海道の昆布のプロに連絡をして昆布をたくさん買ってきたし、アオサやその他の海藻類をお土産に持ってきた。
とにもかくにもそういった食材が食卓に並び、新潟の旨い酒がある、文字通りご馳走だ。
ご馳走とは高い食材を遠くから運んでくることではない。
自分が走り回り、旬の旨いものを用意して客人にもてなすことだ。
ダイスケが自ら海に入って採ってきたワカメ、ノブさんが剥いてくれたカニ、友が作ってくれたお造り、別の友人が採ってきてくれた山菜、地元産の米。
食べ物に囲まれてなんと豊かな土地なんだろう。
貧しいとは物が無いことではなく、有り余るほどの物がありながら足りないと嘆く心の状態を貧しいと言うのだ。





「今日の食材は全部この辺で採れたものなんでよう」ノブさんが自慢気に言った。
こういうおらが自慢は大好きだ。
これだけの食材が取れる土地に根付く友の顔ぶれを見て、僕は今回何度目かの日本は大丈夫だなという気持ちを感じた。
食料自給率が低いと言われる日本だが食べ物が無いわけではない。
要は今の西洋文明主体の生活を続けるのには自給率が低いわけであって、実際に品目別に見ればコメの自給率は100%だ。
だからと言ってパンをやめてコメを食えばいいという短絡的な考えではない。
社会構造の話だが食料自給率が低いからなんとかせにゃいかんと、生産側を変えていく方に目を向けがちだが同時に消費側も考えなくてはならない。
年間2000万トンとも言われる廃棄食材いわゆるフードロスを減らすというのも一つの鍵だが、それには利権にまみれた食品業界の闇に光を当てる必要がある。
基本に戻ってそこにあるものを食う、その時にあるものを食うという当たり前の考え方、これは思考の問題なのでもある。
日本食が世界遺産になる話があるが、世界遺産というブランドでその本来の考え方が薄まってはいないか。
ただ単に美味い不味いという話ではなく、根底には自然をコントロールするのでなく四季の変化に人間が合わせる生活、そして海の恵み大地の恵みを慈しむ心、ひいては人それぞれが持つ生き様、その上で味を追求する探究心や技術の向上、人をもてなすという上での茶の湯の心、そういったもの全てを包括したものが日本食である。
この晩の食卓にはそれら全てがあり、日本食の真髄をまじまじと見せつけられた。
だから日本は大丈夫だと感じたのであり、その根底にあるのは大きな人間愛だ。
それにしてもこの晩のダイスケのはしゃぎっぷりはすごかった。
僕が来たのがそんなに嬉しかったのか、ダイスケ節が炸裂して僕らは大いに飲み食いし大いに笑った。
あまりに笑いすぎてヒビの入った肋骨が折れるかと思ったぐらいだ。



続く
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2024年 日本旅行記 6

2024-06-29 | 
白馬4日目の朝は古瀬家で迎えた。
前の晩は炭火焼バーベキューに加え、暗くなってからは焚き火で盛り上がったのである。
カズヤと火を囲んで色々と話して、夜は居間で愛犬のフクちゃんと一緒に寝た。
朝早くに娘が仕事に行き、次いでミホが用事で出かけるのを見送り、子供達が学校に行くのを見送った。
カズヤがコーヒーを淹れてまったりと過ごしているとキョーコがやってきた。
話の流れからキョーコの事も書かねばなるまい。
あれはもう何年前になるのか。
2000年問題が一段落したらパソコンを買おうなどと思っていた頃だから1999年か、もう25年も前になる。
僕と相方JCは数年働いたアライというスキー場を追い出され、アルツ磐梯で働いていた時に同僚だった奴がパトロール隊長を務めるチャオ御岳というスキー場で働いていた。
もう今は営業していないスキー場だから言えるが、滑るという点においては本当につまらないスキー場だった。
コースは圧雪バーンのみで急斜面はほとんどなく、オフピステ?何それ?という具合で新雪を滑るのには程遠いスキー場だった。
名古屋からの客層を目当てにJR東海が作った新しいスキー場で、スキー場の所長は鉄道関係の人でスキー業界の事をほとんど知らない、そんなスキー場だった。
そこに来るお客さんも名古屋近辺から来る人で、雪道の事など全く知らないで夏タイヤにチェーンも持たずにやってきて、雪道でスタックしてスキー場に助けを呼ぶという有様だ。
それまで雪崩管理とか新雪の中でのコース管理作業や時にはコース外に外れた人の救難などヘビーな仕事だったが、そこではコース外には行きようのない場所なので主に看板やネットやロープの設置、怪我人の手当てやゴンドラで一気に上がって高山病になった人の対処(ゴンドラで下ればすぐに治るので下りゴンドラに乗せる)など、そんな仕事だった。
スキー場での仕事はつまらなかったが、その分僕らのエネルギーは違う方向に向いていった。
近隣のスキー場のスタッフに声をかけ週一でスキー場対抗バレーボールのリーグ戦を開催したり、パトロールのメンバーでバンドを結成して週一で近所の喫茶店でライブをやったり。
自分の働くスキー場があまりにつまらなかったので、休みの日には新穂高ロープウェイで滑ったり御嶽山に登って滑ったりもした。
ちなみに寮は山奥と言っていいぐらいの場所で最寄りのコンビニまで車で1時間という場所だった。
今は時効だから書くが、仕事が終わってから飛騨高山まで車で2時間かけて飲みに行き、飲んだ後にガチガチに凍った道を2時間かけて帰ってきて次の日に何もなかったように仕事をした。
スキーパトロールの待機所で馬鹿話をしていたら誰かが「フルーチェを腹一杯食いたい」などと言い出し、それならやろうという事になり、10リットルのフルーチェを待機中に作る『砂漠の果樹園大作戦』などという実にくだらない事に全精力をかけたりもした。
ちなみにカズヤと次の話で出てくるダイスケは近くの御嶽ロープウェイスキー場で働いていて、この当時もよく一緒に遊んだものだった。
みんな若かったな。
なんか青春の思い出話みたいになってしまったが、そのスキー場のインフォメーションで働いていたのがキョーコだ。
僕とJCが企画した数々のイベントにつきあってくれて一緒によく遊んだ昔の仲間で、若い頃はレースクィーンのアルバイトをしたというだけあってなかなかの美人である。
ちなみにそのスキー場で友達になって今でも連絡が途絶えないのはキョーコだけだ。
雪の上で出会った仲間達も年を重ねるとスキー業界から離れていき、いつのまにか音信不通となってしまう。
寂しくもあるが新しい出会いもあるし、そういうのも全てご縁というものなのだろう。
キョーコも今は飛騨高山に住んでいるが僕に会いになのか白馬を滑りになのかその両方なのか、とにかく3時間もかけて白馬に滑りに来てくれた。
カズヤもこの日は休みなので、案内をしてもらいがてら3人で八方尾根で滑る。
カズヤが先に滑り所々で止まりながら、地形の説明や雪の説明などを聞いていると、さすがベテランガイドだなぁと納得する。
多分本人は無意識のうちにやっているのだろう、滑って止まって話をするというタイミングが絶妙なのだ。
後ろを振り返りもせずにバコーンと一番下まで突っ走ってしまうトモヤとはえらい違いだ。
もともとスキーは上手いヤツだったが、スキーの技術だけでなく説明の仕方も上手くなったし、経験を積んで話す内容にも深みが出た。
若い頃に一緒にバカをやっていた時の自分達からは想像もできないぐらいに、互いに年を重ねたということなんだろう。

トラベルの語源はトラブルであり、旅をしていると色々な困難にぶちあたるものだ。
病気や怪我という健康面から、窃盗スリ置き引き強盗という犯罪がらみのものまで色々ある。
そしてそういうものは思いもがけぬ所で起こるものだ。
今回の旅ではスキーシーズン終わり近くで雪もそんなにないだろうからガンガン滑るつもりはなく、道具も自分のブーツだけ持ってきてスキーは誰かの板を借りようと思ってやってきた。
初日はトモヤのスキーを借りたがあまり調子よくないので、二日目からはカズヤの所で試乗用の板を借りた。
この金具が自分が使っているものとは違うものなので、慣れない道具に戸惑っていた。
そこそこの斜度のある場所を滑っていたら、いきなりスキー板が外れ転んでしまった。
外れたスキー板はずーっと下の方まで行ってしまい、幸いに誰に迷惑をかけることなく平らな場所で止まった。
そこまで片方のスキーで滑って回収したのだが何かしら違和感がある。
改めて体をチェックすると、大きく息をすると脇腹が痛む。
どうやら肋骨にヒビが入ったようだが、肋骨のヒビというのは対処法はなく、衝撃を与えると折れてしまうので無理をしないように注意するぐらいだろう。
ちなみに友達のえーちゃんは肋骨にヒビが入り、その後でっかいくしゃみをして完全に折るという荒技なのかマヌケなのか、まあそういう事例もある事を身を持って証明した。
僕の場合は軽い怪我で済んだが、もしもこれが大きい怪我でそれこそパトロールの世話になるような事になって、娘に搬送されたりしたら、それはそれで話題のネタに事欠かないが娘に一生頭が上がらなくなるところであった。
この肋骨のヒビは普通の生活をしていたらなんてことないが、寝返りをするときに痛むというのが帰国まで続いた。



この日は娘が仕事だったので一緒に滑る事はできなかったが、作業の様子など仕事ぶりを見た。
竹ポールの束を担いで滑るのはパトロールにとって当たり前の仕事だが、20年以上前に自分がやっていた仕事を娘がする事は素直に嬉しい。
自分の人生が家族に肯定されるような感覚だ。
ここで書いておくが、僕は娘に「スキーパトロールになれ」とは言っていない。
それどころか人生の選択について「こうなりなさい、これをやりなさい」などと言った事は一度もない。
冗談で「そんなにスキーをしたきゃあスキーパトロールになりゃいいじゃねーか」とは言ったが最終的には自分の選択だと思っていた。
一時はスキーから離れてしまったこともあり、このままスキーをしないのも娘の人生だから仕方ないかと思ったこともあった。
大学卒業を機に白馬で働いてみたい、というのは自分の意思だったので知り合いに頼んで仕事を紹介してもらったがこれは業界に入るきっかけを作ってやっただけだ。
知り合いがいない所に行くのは不安だろうから、オトシとカズヤに何か困った事があるようなら手伝ってやってくれと頼んだが、彼らに面倒をかけることなく奴隷契約をすることなく昨年のシーズンを無事に終え、自分の力でスキーパトロールの仕事を見つけてきた。
娘が語る仕事の話やゲレンデの説明を聞いているだけで、きっちりと仕事を理解しているのが分かる。
そこに至るのには周囲の先輩方の助けもあっただろうし、頼りない同僚トモヤや一緒に働く仲間の存在もある。
ニュージーランドとは違う、良くも悪くも日本の体育会系の組織の中に身を置くことで人間として大きく成長したのではなかろうか。
これもそれもあれも全てご縁なのであり、娘には娘のご縁があるのだとつくづく思うのである。



昼飯を3人で食べカズヤは先に下り、午後はキョーコと一緒に滑る。
昔はヘタクソなスノーボーダーでブロークンリバーのメイントーに四苦八苦していたキョーコだが、相当滑り込んだと見え当時とは比べものにならないぐらい上手くなっていた。
前回会ったのは何年前なのか覚えていないが、二人でじっくりと話をするのも久しぶりだ。
互いの生活のこと、コロナ禍のこと、ビジネスやインバウンドのこと、人生観や社会観のことなどリフトに乗りながら話をした。
ロープトーと違ってチェアリフトはおしゃべりができるのがいいな。
心の方向性が同じ人とは、どんなに離れていてもすぐに繋がることができるので話が早い。
キョーコもしっかりと自分の軸を持っていて、キョーコの立場でこの世界で生きている、まあ当たり前と言えば当たり前の事なんだが、そんな彼女の軸を話してみて感じたのである。
後日、飛騨高山でいよいよ自分の店を開くという連絡があった。
高山駅から徒歩8分、築180年の古民家を生かしたリラクゼーションサロンで7月7日オープン、楽リラクゼーション惣助店というのが正式名称だそうな。



今回の旅では『人に会って話をする事』というのが一つのテーマでもある。
人と話をするのでもたくさんの人でワイワイというのもあるし、二人だけでじっくりと、というのもある。
人と人が会えば『場』と言うものが生まれ、そこで会話の内容も決まっていく。
バカ話や与太話もあれば、これからの世界についてとか人生とはなんぞやといった哲学的な話もある。
自分が望むような話の展開にならないこともあれば、思わぬことからとても有意義な言葉が生まれることもある。
ばくぜんとした想いが言語化することにより、より明確なビジョンとなるのも人と出会い『場』からうまれる。
そういう意味でも、今の世に必要なことは人と会って話をすることなのだ。
キョーコとの久しぶりの再会で一緒に滑り楽しかったが、それ以上に人と会って話をする重要性にも気づいた1日だった。

晩飯はオトシが焼肉屋へ連れってくれた。
僕としてはオトシに丸投げで、連れて行ってくれる所に行くだけだ。
楽だし僕にとっては知らない所だらけだし、下調べも一切しないので常に新しい発見がある。
焼肉屋の名前も忘れてしまったが、ちゃんとしたお店なのだが何故かその日は僕らだけの貸切状態で、オトシ家族ともゆっくりと話ができたのが嬉しい。
帰ってきてから再びワイワイと飲むわけで、オトシの家には常に誰かがいる。
そこに居合わせたのはカモメという若い女の子で、デザインとかをやっているオトシの弟子なんだそうな。
村ガチャのデザインも手がけているし、『一期一会を何度でも』というコピーライトも彼女のアイデアだという。
「おお、そうか、オトシにも弟子ができたか、じゃあ俺の孫弟子だな。」
「はいオトシさんの68番目の弟子です」
「そんなにいるのか?大安売りじゃないんだから増やせばいいってもんじゃないだろうに。だいたいオトシ、お前は弟子って言葉の意味が分かっているのか?」
「ハイ、その辺は充分に理解しております。師匠」
どこまで本当か分からないお調子者の弟子にはかける言葉もない。
酔っ払った席で孫弟子カモメが面白い事を言い始めた。
オトシ宅のある集落は8世帯あり、そのすぐ近くには小さな祠があり、そこで子どもの頃に遊んだ人が何かしら大きな事をやりとげるという噂話なのか本当なのか、とにかくそういう話がある。
それを聞いたカモメの頭の中に、映画のストーリーのようなイメージが湧いた。
聞いて面白い話だったので、記録がてらその場でプロレタリア万歳の収録をした。
実は何回かオトシ宅で収録をしたのだが声が聞こえなかったり、酔っ払いすぎてハチャメチャになったりで使えなかったのだ。
3回目の正直、夜も更け酔いもかなり回っているがなんとか録音もできた。
そのお宮に隠された秘密とは・・・。



そこのお宮で遊んだ子どもは大人になって色々な業界で成功するという話があるので、僕らみんなでお宮にお参りに行った。
その際ふとしたはずみでカモメの姿が見えなくなってしまった。
みんながカモメを探すが見つけられない、同時にカモメはそこにいてみんなに呼びかけるがみんなにはカモメの姿が見えないらしくどうしても見つけられない。
時を同じくしてオトシのビジネスが軌道に乗り大成功を収め、スノーボードは爆売れで村ガチャも大繁盛、挙げ句の果てにハリウッド映画になるなんて大きな話も持ち上がる。
その時にオトシは隠されたお宮の秘密を知ってしまう。
そこのお宮では大成功をする人もいるが時々神隠しにあう子供もいて、そういった子供達の犠牲の上に成功が成り立つというものだった。
秘密を知ったオトシは悩みに悩む。
大成功をしている裏には行方不明になったカモメがいる。
カモメを救うのかそのまま成功の道を取るのか。
苦渋の決断の結果、オトシはハリウッド映画のオファーを断る。
その瞬間、今までの大成功が夢のように崩れていき、お宮でカモメが一人横たわる。

大まかなあらすじはそんな具合であるが、それをカモメが面白おかしく語ってくれた。
確かに短い映画になりそうなストーリーである。
では次の日の朝にみんなでその祠にお参りに行こうと決まり、その晩はお開きとなったのである。

続く
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2024年 日本旅行記 5

2024-06-18 | 
白馬3日目、この日は娘が休みなので一緒に八方尾根に行く。
知り合いのつてで、娘は先シーズンから八方尾根で働き始めた。
先シーズンはゴンドラ山頂駅のインフォメーションセンターで仕事をしたが、外に出る仕事をしたくて今年からスキーパトロールとなった。
きっかけは親の人脈だったが一冬を過ごして自分なりの人間関係を作り、晴れて今年からパトになった。
今回の日本行きの目的の一つは、娘の仕事場を見に行きパトロールの隊長に「娘がおせわになっています」と菓子折りの一つでも持って挨拶に伺うという、まるで絵に描いたような親父になろうと思ったわけだ。
一緒に滑るのは昨日に引き続きトモヤとジャカそしてカズヤの息子のヒュージである。
八方尾根は昔から日本のスキー業界では名だたるスキー場で、長野オリンピックも開催されたし、腕自慢のスキーヤーが集まる。
そんな上手い人に囲まれてシーズンを過ごしたせいか、娘のスキー技術も去年とは比べものにならないぐらいに上手くなった。
小さい頃からブロークンリバーなどでスキーをしてきたからスキー操作とバランス感覚はある。
そこにきて僕が苦手なスキー理論や基礎的なことも多分先輩達に教わったんだろう、そしてパトロールの仕事は重たい荷物を持って滑るなど体力も使うので筋力も鍛えられたのだろうな。
若者達が滑るスピードが速いのでついていくのがやっとだし、ちょっとしたギャップで飛ぶなんてのは自分も20代30代の頃にはよくやったが、それはすでに過去の話だ。
今が盛りの20代の若者が体力に任せて滑るのには、どうあがいても敵わない現実がある。
こうやって人は子供に追い越されていくのだろうな。
親としては嬉しいやら寂しいやら、複雑な気持ちだ。
パトロール隊長が休みだったが古参の隊員に挨拶をしてパトロール部屋を見せてもらった。
パトロールやスキースクールの部屋というのは、どこかしら学校の部室のような雰囲気がある。
なんだかんだ言って体育会系の実力社会なのである。
スキーは滑れて当たり前、その上でチームで働くのでスキー場全体を俯瞰的に見る視点や、事が起こった時に一歩先を考えて行動する事も必要とされる。
古参のパトロール隊員と話をした感じでは、娘は仕事もきちんとやっているようで皆に可愛がられているのが感じられた。
親バカ親父としては一安心という具合だ。



午前中をそんな具合に滑り、麓に下りトモヤが働いている絵夢という食堂でお昼である。
トモヤは昼間はスキーパトロールで夜は絵夢で働き、このお店の上の部屋で寝泊りをしている。
今から考えれば自分もまだ駆け出しの頃は、昼はスキーインストラクターをして夜はペンションでお客さんに出す晩飯を作り、屋根裏部屋で寝泊りをしてシーズンを過ごしていた頃があった。
あれは20代前半だったから、ちょうど今のトモヤや深雪と同じ頃だ。
トモヤから絵夢という食堂の話は聞いていて行ってみたいと思っていたし、トモヤも僕を連れて行きたいと考えていたようだ。
メニューはラーメンとかギョーザとか定食とかお好み焼きといたって普通で、街の定食屋という感じである。
僕はトモヤが勧めるままに定食にしたが、半ラーメンが付いてきて、それが普通に美味くてなおかつとんでもなく安い。
定食が800円ぐらいだっただろうか。
よそものの僕が見ても「えー、この値段設定で大丈夫なの?」と思ってしまう。
スキー場のそばではハンバーガーとチップスで1500円とニュージーランド並みの値段を取る店もある。
こりゃ人気の店だろうなぁ、庶民の味方だ。
おかみさんと二言三言交わしたが、昭和の頑固オヤジの女版みたいな雰囲気で非常に好感が持てた。
こういう人が現場にいるのを見て、トモヤが何故ここで働いているのが分かる気がした。



そして夕方はカズヤの家でバーベキューをする。
カズヤの話も過去の話で書いているはずだが、見つからないのであらためて書いておこう。
古瀬カズヤ 通称カズー 今や白馬ではレジェンドスキーヤーとして名高く Locus Guide Serviceというガイド会社を運営する。
カズヤに最初に会ったのは90年代半ばぐらいだから、もう30年も前になるのか。
僕はその頃マウントハットで働いていて、日本から来ていた若くて無鉄砲でやんちゃなスキーヤーカズヤに会った。
よく一緒に滑ったしよく一緒に飲んだ、まあそうだな、同じ青春時代を過ごした仲間だ。
そんないつもの飲みの席で奴が言い始めた。
「JCとかヒッヂさんとかニックネームがあるじゃないッスか?俺もカズってこっちの奴に呼ばれるけど、カズって結構多くて当たり前なんスよね。カズじゃあなくて何か欲しいッス。何かないッスか?」
確かに日本人の男が外国で呼ばれるニックネームはタカとかマサとかカズとかトシとか、英語話者が言いやすい名前がつく。
ちょうどその時に、いつものようにJCがギターを弾きながら僕はハーモニカとかカズーとかを演りながら飲んでいた。
ちなみにカズーとは楽器の名前で、口にくわえてハミングして演奏する。
発音はカー のようにズにアクセントを置く。
JCが言ったのか僕が言ったのかよく覚えていないが「じゃあカズーはどうだ?」
「何スか、カズーって?」
「これだよ、この楽器。これはカズーって言うんだよ。カズヤとゴロも似てるし良いじゃないか?」
「おお、いいッスね!カズーか!じゃあ俺は今日からカズーで行きますんでヨロシク」
そんな具合にヤツが年が少し下ということで弟のように可愛がっていたが、ある時ヤツがヘマをして僕と相方のJCが面倒を見て、一生僕らの奴隷となる運びとなった。
そんな奴隷のカズヤも結婚をして双子の子供ができて、白馬に家を持ち幸せそうに暮らしている。
奥さんのミホも結婚する前から知っているし、壮絶な夫婦ゲンカの現場に出くわした事もあった。
僕の娘はシーズン中は会社の寮に寝泊りしていたが、シーズン終わりに近づき寮も閉鎖となり古瀬家にホームステイをしている。
彼らの子供のように扱ってもらい、双子の子供達と同じ部屋に寝泊りをして兄弟同様に過ごしている。
現にこれを書いている5月末は双子の娘みそらと女二人でベトナム旅行をしているのである。
ちなみに写真でカズヤが着ているTシャツは、去年ヤツが家に来た時に酔っ払って犬のココのベッドで寝てしまい、ココがとても迷惑そうな顔をしているのを女房画伯が描いてTシャツに仕立てた、この世に1枚だけの特性Tシャツである。
ミホの着ているTシャツはもう1枚コピーがある。



ヤツの白馬の家がこれまた素晴らしい。
田んぼと畑に囲まれた一軒家で視界を遮るものはなく目の前には山がどーんと広がり、自分が滑ったラインや登った尾根が見えるだろう。
家の近くには大糸線というローカル線が走っている。
ジブリの『千と千尋の神隠し』に出てくるような雰囲気の列車が畑の中をカタンコトンと通っていくのを見る様がまたよろしい。
庭では季節ごとの野菜を育てているし、味噌や醤油も自分で作っているという、地に足がついた暮らしがある。
カズヤの女房ミホに言わせると、ニュージーランドの我が家の暮らしが彼らの数年先を行くモデルになっているそうだ。
家庭菜園での野菜作り、手作りの発酵食品や地元の食材を使う食生活、ガイドを生業とする生活、子供の成長から犬を飼うことまで、住む場所や細々したことは違えど芯というのか向いている方向性が同じなんだろう。



軒先にハンモックを掛けて、山を見ながらボンヤリと考え事をしていたらミホがビールを出してくれた。
至れり尽くせりだな。
つまみはホタルイカの漬けである。
春は日本海側でホタルイカがあがる。
先週に日本海まで行ってホタルイカをどっさり取ってきたと言う。
娘も連れて行ってもらい一緒に取ったらしいが、貴重な経験をさせてもらった。
春うららかな午後、暑くも寒くもなく、のどかなひたすらにのどかな景色の中でうたた寝なんぞ贅沢な時間を過ごしているといつのまにか夕方となり、家人も帰ってきて客人も訪れ古瀬家は一気に賑やかになる。
客人とはトモヤとケイスケ兄弟にジャカ、皆若くて生きのいい滑り手である。
そこに家主のカズヤが立山の仕事から帰ってきた。
立山の話や雪の話をせがんで聞きたがる若者達のカズヤへの敬いっぷしが微笑ましい。
そうなろうと本人が望んでいるわけではないが、いつのまにかそういう立場に自分が立っている事がある。
僕にとっては出来の悪い弟のような、階級としては最下層のカズヤだが、やはりここでは実力者なんだなぁと感心をするのだ。
その晩は古瀬家4人、僕と娘の深雪、トモヤ、ケイスケ、ジャカというメンバーで焼肉バーベキューの至福の時を味わった。







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2024年 日本旅行記 4

2024-06-05 | 


白馬二日目は文字通り二日酔いで始まった。
午前中はオトシに観光がてら白馬村を案内してもらう。
先ずはオトシがやっているモンスタークリフという会社訪問。
東京で車の販売をやっていた彼が脱サラで白馬にスノーボード買取の会社を立ち上げたのが10年ちょっと前になるのか。
そんなものがビジネスになるのだろうかと思ったが、今ではスノーボードだけでなくスキー用品全般を扱うようになった。
9年前に来た時には家の一部を倉庫に使っていたが手狭になったのだろう、今は倉庫兼オフィスを持っていてそこを見学させてもらう。
オフィスのホワイトボードには買取時の注意事項や作業の手順等が書かれていて、スタッフもテキパキ働いていてきっちり仕事をしてる感にあふれている。
なかなかどうして立派な会社じゃあないか。
若い頃からヤツのちゃらんぽらんな部分とかいいかげんな所とかおっちょこちょいな所ばかり見ているので、ヤツなりにちゃんとやっているんだなぁと妙な感心をした。
もう何年前になるか覚えていないが、クラブフィールドをガイドした時にローカルの間で出回っているキングスウッドスキーに感化され、自社ブランドのスノーボードも作り始めた。
コンセプトは白馬のこの沢を滑るためのボードであったり、こういう状況で滑るためのボードといった、非常に狭い客層に向けた物を作り始め、今やそれがモノになりつつある。
会社の一部屋はサイドビジネスでやっている村ガチャというガチャガチャの商品が並んでいて、お土産に白馬村キャラクターのキーホルダーをもらった。
白馬に来るお客さんと村人を繋げる企画で、「一期一会を何度でも」というコンセプトで新しい社会での試みを試行錯誤しながら突き進んで行く。
夢を見てそれを現実化するには行動力というエネルギーが絶対的に必要であり、なおかつ家人や周りの人の支えも要る。
「そんなの上手くいくわけない」という声は絶対にあるだろう。
いつの世も新しいことをすると批判をする輩はいるが、そういうヤツらは自分からは何も生み出さない。
それより自分さえよければいいというエゴではなく、ここに来る人も村の人も地域全体もハッピーになるような心が原動力になっているのが素晴らしい。
真の愛とは誰も不幸せにならないことなのだ。
また会社運営とは別に、地元の人たちに呼びかけ地域のゴミ拾い活動なども行っている。
お調子者の一番弟子にかける言葉は「その調子でどんどんやりなさい」の一言である。



観光は続く。
青木湖、山の中の湧き水の場所などオトシがガイドとなり車で連れ廻してくれる。
ありきたりの観光スポットでないのがよろしい。
次に車を降り立ったのはとある神社の前。
周りだけ見ると過疎の集落といった雰囲気で、昔のスキー場の跡地もある。
雨降宮嶺方諏訪神社というのが正式名称らしいが、ここの杉がすごかった。
樹齢は1000年にもなるような大木がそびえ立ち、これぞまさに鎮守の森。
一際大きい御神木があり、神の木にふさわしい堂々とした姿だ。
社は大きくもないがとにかく森がすごいパワーを持っている。
観光地でもないので僕らの他に人影もなく凛とした空気が漂う。
ボーっと木を見ながらふと思った。
日本大丈夫じゃん。
悪いニュースはたくさん入ってくるけど、ここはやっぱり護られている国だ。



「日本は神の国である」と言っただけで叩かれた総理大臣がいたが、当たり前の事を言っただけである。
そいつがどんなアホでマヌケでトンチンカンな大馬鹿野郎か知らんが、この言葉だけは同意する。
日本には日本の神様がいて、八百万という言葉通りたくさんいて、それらの神様はこういう普段人が訪れない所にもいる。
もちろん伊勢神宮にも出雲大社にもいるが、それはこの国のツートップでありスポットライトが浴びやすい場所にいる話だ。
どの神社にも神はいて、それを支えているのは人の信仰心だ。
現にこの神社は手入れが行き届き、荒れ果てた雰囲気は微塵もない。
人があっての神であり、神があっての人。
そういうものじゃあないか。
たぶんこれからももっともっと悪いニュースは続くんだろうし血も流れるだろうが、最後の最後にはこういう氏神様に護られるというのが日本じゃないのかね。
それは想いというより確信に近い感情で、フッと肩の力が抜けるような安堵感、神の存在を感じるってこういうことなんだろうか。
この『日本大丈夫じゃん』という想いはこの後、日本を出るまで何回も感じることがあった。



さらに観光は続く。
大出公園という公園は桜がきれいで、白馬連峰と姫川と桜という景色が見れる撮影スポットでもある。
ここまで来ると観光客もチラホラと出てくる、どこにでもある田舎の風景だ。
そして線路を挟んだ駅前とは雰囲気が全く違うのに気がついた。
ひょっとすると鉄道ができる前はこっちが村の中心だったのかもしれない。
鉄道が通り道路が出来て、村の中心が駅前に移っていったのだろう。
駅前の雰囲気は昭和時代、高度経済成長からバブルぐらいのそれだ。
そしてスキーという文化なのか産業が発達して、今はスキー場の麓が賑わっている。
ざっくりとそういう歴史があったのだろう、ということで次なる観光スポットは観光協会の山とスキーの資料館である。
スキー場の山麓は観光客もスキー客も多いのだろう、今も新しいホテルなのか店なのかあちこちで工事をしている。
線路の向こう側の集落に住む人とスキー場近くに住む人では意識とか世界観も違うかもしれないな。
資料館には村の歴史の展示もあるが、スキー関連の展示がすごかった。
とりわけ山とスキーの蔵書の量がすさまじく、時間があるならゆっくり読みたい本が山ほどあった。



オトシは昼から仕事があるというので後で拾ってもらうことにして、弟子のトモヤと合流した。
トモヤの事も過去ブログで書いたから、気になる人は読んでいただきたい。

内弟子トモヤ

軽く飯を済ませスキー場へ。
この日はトモヤの友達のジャカも合流して、白馬47というスキー場で一緒に何本か滑った。
ジャカはロシアと日本のハーフで日本語は堪能、やはり白馬でスキーパトロールの仕事をしている。
ジャカルタに住んでいたのでジャカという安直なあだ名がついたようである。
去年ニュージーランドに滑りに来て、その時に一度だけ面識はある。
白馬47と五竜はてっぺんで繋がっていて、どちらにも滑って行けるスキー場だ。
シーズンも終盤の平日とあって人も雪も少なく、滑れる場所も限られている。
一生懸命滑るというより地形を見て山を見るのが主な目的だ。
五竜ではトモヤの双子の兄なのか弟なのか、ケイスケもパトロールで働いていてちょっと挨拶。
ケイスケも去年ジャカとニュージーランドに来て、我が家にも滞在した。
一卵性双生児というものがここまで似ているものなのか、ということを初めて目の当たりにしたがまあ面白いものだ。
二人とも白馬で働いているということもあって、よく間違われるそうだ。
よく推理小説とかの題材にはなるが、ナルホドだなぁ。
これなら替え玉試験とかもできるだろうし、悪だくみに使う人もいるだろう。
あとはそうだなぁ、兄弟の誕生日を忘れることがないという特性もあるな。



帰りはトモヤが車で送りがてら、僕に見せたい場所があるというのでちょっとドライブ。
行った先は山の麓の林道入り口。
一見なんてことのない場所だが、そこでスキーヤーならではの地形の説明を聞かせてくれた。
一言で言うと大きな標高差を滑って下の林道に出てこれるということだ。
山スキー、今ではバックカントリーと言うが、スキー場以外の山を自由に滑って常に問題なのが、滑るのはいいがどうやって戻ってくるかである。
ニュージーランドの場合は滑り終わってから道に戻ってくるまで、何十分も歩いたりもする。
時にはトレッキングブーツを持って行って、雪があるところまで滑りブーツを履き換えて歩くなんてこともある。
その感覚から見れば、滑って車の道まで出てこれるのはありがたい。
しかもゴンドラやリフトを利用して効率よく、なおかつでっかい斜面を滑っての話だ。
これはニュージーランド人に限らず世界中から人が集まるわけだ。
河口湖のオーバーツーリズムと同じ話で、それだけ魅力的だという話である。
そこで山をどれだけ効率よく、なおかつ最高の状況の斜面を滑るかということでガイドが雇われる。
自然相手のものだから雪の状況は毎日、いや時間によっても変わる。
スキーのガイドというのは地形や天気や雪質に精通していて、それでいて安全を問われる仕事だ。
夕食難民という言葉を初めて聞いたが、ガイドが不足するガイド難民というものもある。
ガイドがいないので地理や雪を知らない人が自分で山に入り事故になる、なんてこともある。
オーバーツーリズムという流れは今や誰にも止められないものだが、白馬でも色々な問題が起こりつつあるというのをトモヤの説明を聞いてあらためて感じるのである。






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2024年 日本旅行記 3

2024-05-29 | 
一夜明け、再び僕は旅の空。
8時ちょうどのあずさ5号(2号ではない)で新宿を発つ。
駅のホームで列車を待っていたら白人の旅行者が荷物をガサガサやっていた。
彼のバックパックには見慣れたMacpacのロゴ。
「おはよう。ひょっとしてニュージーランドから?」
「やあ、そうだけど何でわかった?」
「いや、そのバックパック見たら分かるよ。ひょっとして白馬まで?」
「そうそう、スノーボードしに来たんだけど、まだ雪はあるかな」
「多分大丈夫なはずだよ」
彼は今はカナダでボード関係の仕事をしているが今回は旅行で日本へ。
しばし日本やニュージーランドやカナダのスキー事情の話で盛り上がる。
袖すり合うのも多少の縁、こういうちょっとしたのもご縁というものだ。
甲府までは満席の車内もその先はガラガラ、左手に南アルプスが出てきたら次は右手に八ヶ岳と存分に外の景色を眺めて旅をする。
松本から大糸線になり、田園風景から山あいの村落という具合に変化し、列車もスピードを落として走るのかレールのカタンカタンという音が心地良い。
これこれ、こういうのを求めていたのだよな。
鉄道オタクというわけではないが基本的に鉄道は好きで、子供時代は蒸気機関車の運転士に憧れたものだった。
あの2本のレールに感じる慕情は何なんだろうか。
ただ新幹線には何のロマンも感じられない。
前々回のジャパンライブツアーの時には東北新幹線、北陸新幹線、東海道山陽新幹線と乗ったが共通して言えることは、まるでチューブの中を移動するだけだ。
新幹線には一切の踏切はなく、高架やトンネルで一般の人間の暮らしとは切り離されている。
高速で走るという特性上仕方がないことかもしれない。
平面上の種類の違う交通機関を交差させるのは踏切か信号か、もしくは高架や下をくぐらせるトンネル(この時点ですでに平面上ではないが)となるのは理解できる。
そういった効率重視の交通機関と僕が求めている旅のロマンとは合致しない。
僕の望む鉄道の旅とは、民家の軒先をかすめたり、列車の窓から人様の庭が見えたり、田んぼの中の踏切で軽自動車に乗っているおじいちゃんおばあちゃんが見えたりとか、そういう暮らしの中に存在するものだ。
さらに追い求めるならば、客車の座席は進行方向に向かって座るもので通勤通学に使う車両の両側に一列で座るタイプでないもの。
線路は複線より単線、できることならば電車ではなく機関車が引っ張るタイプならば言うことない。
これで蒸気機関車なんてことになれば、それこそ興奮してしまう。
なんてことはない、これじゃあただの鉄道オタクじゃないか。
そんな僕の旅情を満たしながら白馬駅に降り立つとオトシが出迎えてくれた。



オトシとの付き合いは20年近くになるか、ニュージーランドで出会い、今では僕のことを人生の師匠と仰いでいる。
若い時はちゃらんぽらんでこいつは大丈夫かと思ったが、スノーボード好きな夢を追い続け、今ではスノーボードやスキー用品などの買取会社を運営して、自前のスノーボード製作販売も行う立派なシャッチョサーンとなった。
僕の師匠ごっこに付き合ってくれる一番弟子である。
今回の白馬滞在は基本的に奴の家がベースだ。
写真のブランコは奥さんのヤヨイで、本気で遊ぶ家を作っている感がすごい。
この写真はリアルハイジという名前でバズったらしい。
午後も早い時間に日帰り温泉で旅の疲れを癒す。
平日の昼間とあって客はまばらだが、シーズン中はこの温泉も満杯で行列を作って待つこともあると言う。
ええ〜、温泉に行列?と思ったがよくよく話を聞くと、ここもオーバーツーリズムの波はすさまじく、レストランが予約で一杯になると飯を求めてコンビニやスーパーへ行きその結果コンビニスーパーから食べ物が消えるということが起こる。
ランチ難民なんて言葉もあるし、お客さんが食うものがない夕食難民なんて言葉も初めて聞いた。
たまに日本に帰ってくると知らない言葉が生まれているものだ。
夕方、仕事を終えた娘と合流してお隣小谷村にあるオトシ宅へ。
そこには仕事を終えたシナとカオルがすでに来ていた。

この二人のことも紹介しよう。
二人は千葉で長いこと美容師として働いていたが一念発起して白馬で自分のお店を開いた。
二人ともオトシの古くからの友人で、ニュージーランドに何回も滑りに来て、その都度僕がガイドをした。
千葉ではそれなりに売れっ子の美容師で固定客もついていたようだが、そのお客さん達に別れを告げ自分の夢を追い求め白馬にやって来た。
こういう行動力がある人は好きだなぁ。
今では美容室は大人気で、先の先まで予約がびっしり埋まる。
僕は坊主頭で床屋とか美容室は何十年も行っていないが、もし自分の髪がフサフサで自由に髪型を選べるならば彼らにやってもらいたいと思う。
白馬界隈で髪を切りたい人は是非とも行って欲しい。

Hair Studio Senses



この晩はシナ夫妻、オトシ一家、娘の深雪と楽しい時を過ごした。
昨晩はネオンギラギラ日本最大の歓楽街でオカマとオナベと一緒に遊んでいたのだが、それとは程遠い山の中の一軒家で昔からの仲間と飲むという対比が面白い。
特にシナが持ってきた大吟醸が美味くてついつい飲みすぎてしまい、前日は新宿で遅くまで飲んだというのもあり、早々とつぶれてしまった。
みごと撃沈。



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