変化
2011-03-31 | 日記
物事に不変のものは無い。
どんなに頑強に見える物でも形ある物はいつか崩れる。
人間は誕生と死を繰り返し、その間に成長と老化がある。
地球という星も常に変わりつつある。
2011年になって地球規模の大きな変化があり、身の回りの些細な事にも変化があった。
2月にはクライストチャーチに大きな地震があった。
その直後から日本からのツアーはキャンセル続出。仕事が全くなくなった。
そして今回の日本の地震である。
旅行業というものは、日々の平和と安定があって成り立つものだ。
混乱と不安定の中で人々は旅行を楽しむことはできない。
自粛についても賛否両論はあるが、悪者になりたくないために自粛をするのと、自分自身が楽しむ気分にならないから自粛するのでは自粛のとらえ方が大きく違ってくる。
なにはともあれボクは失業者となり、今は毎日畑を耕す日々である。
クィーンズタウンの夏の仕事は今期限りで辞めるつもりでいた。
8シーズン働いたタンケンツアーズという会社はとても居心地が良く、そこに自分の居場所もあった。
ボスは昔からの友達でボクのことをよく理解してくれる人達だ。
ボクの苦手な細々したことはボスに任せて、自分はガイドの現場に集中できた。そのおかげで納得のいく良い仕事ができた。
ボクを知る人にハイキングガイドを辞める話をすると、みんな口をそろえて「あなたはいいガイドなのにもったいない」と言ってくれる。ありがたいことだ。
お客さんは1日の終わりに「ありがとうございます」と言ってくれるし、ツアーを終えたお客さんから感謝のメールや手紙をもらうことも度々あった。ありがたいことである。
一緒に仕事をした添乗員から、次のツアーの依頼もあった。ありがたやありがたや、である。
ボクは20代から30代にかけてスキーパトロールという仕事をしていた。
スキーパトロールになる前にはスキーインストラクターをしたこともあったし、人工降雪機で雪を作ったこともあった。
あちこちのスキー場を渡り歩き、ざっと数えただけでも10ぐらいのスキー場で働いた。
いろいろな人と知り合いになり、音信不通になってしまった人もいれば、今でもメールなどでやりとりをしている人もいる。
スキー場の正社員となればそこに定住しているわけだが、バイトは季節労働者で渡り鳥である。
出会った渡り鳥の多くが居心地の良さ、という理由で同じ場所に帰ってきていた。
本人が自分の本当にやりたいことはこれではない、自分の行く場所はここではないと知りつつも・・・・・・。
極端な例をあげると、パウダーが好きだという人が、別の場所にパウダー三昧のスキー場があるのを知りつつ完全圧雪のスキー場で働いてしまう。
未知への恐れ、ぬるま湯のような居心地の良さで、本質を覆い隠してしまう。妥協だ。
これはスキーヤーの観点で書いたが、世の中には似たような話はいくらでもあるはずだ。
ボクの場合はあちこちのスキー場を渡り歩き、やっと納得のいくスキー場を見つけたと思ったら追い出されてしまった。出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は抜かれてしまう。
まあ、その時に働いていた仲間も「あなたはあの時にやめてよかったよ」と言ってくれるし、今ではその想い出多きスキー場もつぶれてしまって、文字通り伝説のスキー場となってしまった。
世の中に不変のものはない。
今期限りで夏の仕事を辞めるということをボスにはシーズン初めに言ってあった。
なので2月の地震で仕事がなくなって終わったとしても、ボクには『いつもよりちょっと早くシーズンが終わったな』ぐらいのものだ。
できればもう一度ぐらいルートバーンに行って、ブナの神様(と勝手にボクが呼んでいる大木)に会っておきたかったのだが仕方がない。
まあクライストチャーチの家にはその神様の一部がご神木となり置いてあるし、意識はいつでもルートバーンのあの森に戻れるので未練はない。
クィーンズタウンを出る前には、深雪と一緒にルートバーンの近くにあるレイクシルバンの森を歩き、森に別れを告げてきた。
クィーンズタウンの知人に今期限りで辞めるという話をすると、皆口をそろえて「次はどうするの?」と聞く。
それはボクにも分からない。
彼らには次が決まっていないのに辞めることが信じられないようだ。「なんとかなるさ」と考えられない人もいる。
ただボクの直感からだと先に辞めることを決意しなければダメなんだと。
決心とは心を決めることだ。
いくら今の会社の居心地がいいからといってズルズルとそこに留まっていれば何も始まらない。
ボクが望めば今の会社は来シーズンも雇ってくれるだろう。だがそれでは自分の場所から抜け出せない渡り鳥と同じだ。
それは執着であり依存である。人生の目的とは執着を解き放つことだ。
辞めると決めて行動をすれば、次の道は開けてくる。逆に言えば行動を起こさなければ道は開けない。
直感がそう言っている。
そしてそれをするのは今なんだと。
この場を借りて発表するが、冬のスキーの仕事も辞めるつもりである。
ボクを頼って来てくれた方々には厚く感謝を申し上げる。
本当にありがとうございました。
さてその先は?
分からない。
これが今の正直な気持ちである。
何年後に又ガイドとして戻るかもしれない。
完全に別のことをするかもしれない。
それは誰にも分からない。自分にも分からない。
ただこれも辞めると決心しなければ、次の道は開けてこない。
ボクには何かしら次が来るような気がする。強い確信と呼んでもいいと思う。
それは何だろう?
ワクワクしながらそれを考えているのだが、まだイメージは湧かない。
そのイメージが見えた時はできたも同然だ。
近い将来、地球の変動と共に自分が動き出すという漠然とした気はする。
ピンと来るものは直感から来ているもので、これに沿って動いていれば間違いはない。全て上手くいくようにできているのだ。
そのピンがいつ来てもいいように、心を研ぎ澄まし身のまわりの準備はしてある。
これからまだ地球はいろいろな変化を続けることだろう。
今回のように人間が考えられなかったことが、まだまだ起こるとボクは見ている。
何が起こるか?それは何か分からないから未曾有の災害となる。
それがわかるなら予言者だ。
それはヨーロッパで起こるかもしれないし、中国で起こるかもしれない。アメリカかもしれないし南極かもしれない。
日本で起こらなければいいという問題ではない。
例えば南米で今回のようなことが起こった時に、同じように心に痛みを感じるか?中国だったらどうだ?
世界のどこかで何かが起こった時に、人々はもはや他人事として片づけられないようになる。
国境というものを越え、地球という単位で考える時に来ているとのだ。
それが本当の意味でのグローバリズムだろう。グローバルとはアメリカの物差しを押しつけることではないのだ。
そういう意味において、今回クライストチャーチで地震が起こったことに意味はあるし、日本で地震が起こったことに意味がある。
全ての物事に意味はあり、偶然というものはない。
人間は根本的に変化を恐れる。未知の物事は不安なのだ。
渡り鳥達よ、ぬるま湯から出て大空へ羽ばたけ。
旅立ちに不安、苦しみ、哀しみ、痛みはつきものだが、その先には比べものにならないほどの明るい世界が待っている。
物事は常に変化し続ける。
この世に不変の物はない。
さればこそ、今この瞬間に存在するものが大切なのだ。
どんなに頑強に見える物でも形ある物はいつか崩れる。
人間は誕生と死を繰り返し、その間に成長と老化がある。
地球という星も常に変わりつつある。
2011年になって地球規模の大きな変化があり、身の回りの些細な事にも変化があった。
2月にはクライストチャーチに大きな地震があった。
その直後から日本からのツアーはキャンセル続出。仕事が全くなくなった。
そして今回の日本の地震である。
旅行業というものは、日々の平和と安定があって成り立つものだ。
混乱と不安定の中で人々は旅行を楽しむことはできない。
自粛についても賛否両論はあるが、悪者になりたくないために自粛をするのと、自分自身が楽しむ気分にならないから自粛するのでは自粛のとらえ方が大きく違ってくる。
なにはともあれボクは失業者となり、今は毎日畑を耕す日々である。
クィーンズタウンの夏の仕事は今期限りで辞めるつもりでいた。
8シーズン働いたタンケンツアーズという会社はとても居心地が良く、そこに自分の居場所もあった。
ボスは昔からの友達でボクのことをよく理解してくれる人達だ。
ボクの苦手な細々したことはボスに任せて、自分はガイドの現場に集中できた。そのおかげで納得のいく良い仕事ができた。
ボクを知る人にハイキングガイドを辞める話をすると、みんな口をそろえて「あなたはいいガイドなのにもったいない」と言ってくれる。ありがたいことだ。
お客さんは1日の終わりに「ありがとうございます」と言ってくれるし、ツアーを終えたお客さんから感謝のメールや手紙をもらうことも度々あった。ありがたいことである。
一緒に仕事をした添乗員から、次のツアーの依頼もあった。ありがたやありがたや、である。
ボクは20代から30代にかけてスキーパトロールという仕事をしていた。
スキーパトロールになる前にはスキーインストラクターをしたこともあったし、人工降雪機で雪を作ったこともあった。
あちこちのスキー場を渡り歩き、ざっと数えただけでも10ぐらいのスキー場で働いた。
いろいろな人と知り合いになり、音信不通になってしまった人もいれば、今でもメールなどでやりとりをしている人もいる。
スキー場の正社員となればそこに定住しているわけだが、バイトは季節労働者で渡り鳥である。
出会った渡り鳥の多くが居心地の良さ、という理由で同じ場所に帰ってきていた。
本人が自分の本当にやりたいことはこれではない、自分の行く場所はここではないと知りつつも・・・・・・。
極端な例をあげると、パウダーが好きだという人が、別の場所にパウダー三昧のスキー場があるのを知りつつ完全圧雪のスキー場で働いてしまう。
未知への恐れ、ぬるま湯のような居心地の良さで、本質を覆い隠してしまう。妥協だ。
これはスキーヤーの観点で書いたが、世の中には似たような話はいくらでもあるはずだ。
ボクの場合はあちこちのスキー場を渡り歩き、やっと納得のいくスキー場を見つけたと思ったら追い出されてしまった。出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は抜かれてしまう。
まあ、その時に働いていた仲間も「あなたはあの時にやめてよかったよ」と言ってくれるし、今ではその想い出多きスキー場もつぶれてしまって、文字通り伝説のスキー場となってしまった。
世の中に不変のものはない。
今期限りで夏の仕事を辞めるということをボスにはシーズン初めに言ってあった。
なので2月の地震で仕事がなくなって終わったとしても、ボクには『いつもよりちょっと早くシーズンが終わったな』ぐらいのものだ。
できればもう一度ぐらいルートバーンに行って、ブナの神様(と勝手にボクが呼んでいる大木)に会っておきたかったのだが仕方がない。
まあクライストチャーチの家にはその神様の一部がご神木となり置いてあるし、意識はいつでもルートバーンのあの森に戻れるので未練はない。
クィーンズタウンを出る前には、深雪と一緒にルートバーンの近くにあるレイクシルバンの森を歩き、森に別れを告げてきた。
クィーンズタウンの知人に今期限りで辞めるという話をすると、皆口をそろえて「次はどうするの?」と聞く。
それはボクにも分からない。
彼らには次が決まっていないのに辞めることが信じられないようだ。「なんとかなるさ」と考えられない人もいる。
ただボクの直感からだと先に辞めることを決意しなければダメなんだと。
決心とは心を決めることだ。
いくら今の会社の居心地がいいからといってズルズルとそこに留まっていれば何も始まらない。
ボクが望めば今の会社は来シーズンも雇ってくれるだろう。だがそれでは自分の場所から抜け出せない渡り鳥と同じだ。
それは執着であり依存である。人生の目的とは執着を解き放つことだ。
辞めると決めて行動をすれば、次の道は開けてくる。逆に言えば行動を起こさなければ道は開けない。
直感がそう言っている。
そしてそれをするのは今なんだと。
この場を借りて発表するが、冬のスキーの仕事も辞めるつもりである。
ボクを頼って来てくれた方々には厚く感謝を申し上げる。
本当にありがとうございました。
さてその先は?
分からない。
これが今の正直な気持ちである。
何年後に又ガイドとして戻るかもしれない。
完全に別のことをするかもしれない。
それは誰にも分からない。自分にも分からない。
ただこれも辞めると決心しなければ、次の道は開けてこない。
ボクには何かしら次が来るような気がする。強い確信と呼んでもいいと思う。
それは何だろう?
ワクワクしながらそれを考えているのだが、まだイメージは湧かない。
そのイメージが見えた時はできたも同然だ。
近い将来、地球の変動と共に自分が動き出すという漠然とした気はする。
ピンと来るものは直感から来ているもので、これに沿って動いていれば間違いはない。全て上手くいくようにできているのだ。
そのピンがいつ来てもいいように、心を研ぎ澄まし身のまわりの準備はしてある。
これからまだ地球はいろいろな変化を続けることだろう。
今回のように人間が考えられなかったことが、まだまだ起こるとボクは見ている。
何が起こるか?それは何か分からないから未曾有の災害となる。
それがわかるなら予言者だ。
それはヨーロッパで起こるかもしれないし、中国で起こるかもしれない。アメリカかもしれないし南極かもしれない。
日本で起こらなければいいという問題ではない。
例えば南米で今回のようなことが起こった時に、同じように心に痛みを感じるか?中国だったらどうだ?
世界のどこかで何かが起こった時に、人々はもはや他人事として片づけられないようになる。
国境というものを越え、地球という単位で考える時に来ているとのだ。
それが本当の意味でのグローバリズムだろう。グローバルとはアメリカの物差しを押しつけることではないのだ。
そういう意味において、今回クライストチャーチで地震が起こったことに意味はあるし、日本で地震が起こったことに意味がある。
全ての物事に意味はあり、偶然というものはない。
人間は根本的に変化を恐れる。未知の物事は不安なのだ。
渡り鳥達よ、ぬるま湯から出て大空へ羽ばたけ。
旅立ちに不安、苦しみ、哀しみ、痛みはつきものだが、その先には比べものにならないほどの明るい世界が待っている。
物事は常に変化し続ける。
この世に不変の物はない。
さればこそ、今この瞬間に存在するものが大切なのだ。