あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

老人の役割

2014-06-30 | 日記
生老病死という言葉をご存知か?
生きる、老いる、病、そして死という人生の上で避けることのできない事、
四苦八苦の四苦がこれだが、この苦はいわゆる『苦しみ』なのではなく『思うようにならない』というニュアンスがあるらしい。
今回は老いる話。

僕のお客さんはほとんどが中高年の人で、年齢的には50代から60代が多い。
みんな気になるのはこの国の老人の話で、僕がそういう話をすると身を乗り出して聴く。
「この国では定年というものがありません。スーパーやお店でもけっこうな年のおばあちゃんなんかも働いています。そういった人達が生活に追われて働くといった感じではなく、自分がまだ働けるから働くという雰囲気で楽しそうに生き生きと働いています」
もちろんそうでない人もいる。
介護が必要な人もいるし病院でチューブだらけになっている人もいるかもしれない。
お金が無くて食うに困っているホームレスの老人もいるだろう。
物事を語るにはどうしてもその人の主観というものが入る。
同じ物を見ても、見方や立ち位置で全く違う物に見える。
これはもう仕方がないものだ。
僕は僕の経験と僕から見える世界の話をするしかない。
僕から見えるこの国の老人達とは、お店で元気で働くばあちゃんや、スクールバスを運転するじいちゃんだったり、庭仕事に精を出すおばあちゃん、スキー場で孫を肩車して滑る爺ちゃんなどで、みんな生き生きと楽しそうにやっている。
そういう人達と接して思うことは、自分もこういうふうに年を取りたいな。
僕の目標はブロークンリバーの老クラブメンバーでドギーという爺さんだが、70を過ぎてまだまだ元気、週末には必ず山に上がってきて孫と一緒にスキーをしたり、孫が小さい時には肩車でその辺り(もちろん急斜面ではない)を滑ったりしていた。
いつも思うのだがドギーに限らずスキークラブの老人達からはいつもエネルギーをもらう。
それは年若い物が抱く夢なのかと。
ああ、いいな、自分もこうなりたいなという憧れか。
『こうなればいいな』と思えば実現するし、逆に『こうはなりたくないな』と思っても『こうなる』ことが前提にあるので実現してしまう。
楽しそうに生き生きと老いるということは、後に続く世代に夢を与え、それが社会を活性化させる。
それが老人の役割だと思う。

こういう話をするとすぐに出てくる言葉が「でもね・・・」「そうは言っても・・・」極めつけはこれ「あなたは若いからそういう事が言えるのよ、あなたも年をとれば分かるわ」
そう言う人には直接言えないので、ここで言おう。
そうやって自分を正当化するのをやめたら?
自分自身を見つめてみなよ。
若い自分が見たら、いいなあ、と思うような自分ですか?
老いたら老いたなりにその自分を見つめ今自分に出来ることをするのか、はたまた過去の栄光に浸り愚痴をこぼすのか。
たまにいるが、昔の自慢話を延々とするような人。
こういう人は老いという物を利用して他人からエネルギーを奪っている。
それを指摘されようものなら烈火のごとく怒り出す。
そして出てくる言葉は「この若造め!お前に何が分かる」
いやね、年とか関係ないから、上下じゃないから。
年功序列を曲解して、年上の人が偉いと思い込んでいるので常に上下がある。
下と思っている人からズバっと言われると人は傷つきそして怒る。
上下も左右も前後もなく、丸く一つなんだと言っても理解できない。
老醜などというあまりありがたくない言葉もある。
これは日本に限らずどこの世界にもある。
ニュージーランドにだって、金に目がくらんで周りが見えないどうしようもない老人はいる。
そういう人は早く死んでくれた方が世の為人の為だ。
だって誰でも死ねばホトケ様になるのだから。

老いる事によって体の機能は衰えても、経験や知識などで人々の尊敬を集める人もいる。
昔はどこの部族にも居たであろう長老という存在。
もしくは江戸の小噺に出てくるような長屋のご隠居さん、熊さんや喜多さんがちょいと相談事に行くような、若い人の心のより所のような存在。
こういった人は尊敬を集めようとしなくても自然と尊敬をされる。
奢り昂ぶらず、かといって卑屈にならず、中庸という物が自然と身に付いている。
僕がスキークラブで出会う老人はこういう人が多い。
自分たちが努力してスキー場を作ってきたのだが、それに対して偉ぶらないし自慢をしない。
そして今もなお自分達がやるべきことを淡々とやっている。
僕も含め若い世代は、尊敬をしその声を素直に聞き入れる。
実力のある老人の言葉には重みがある。
こういう老人達を見ていると老いるというのも悪いものではないかなと思うのだ。

生老病死という人生において避けられないもの。
どうせ避けられないならば、いっそのこと楽しんじゃったらどうだろう?
それには植えつけられた『恐怖』という殻を脱ぐことから始まる。
簡単なことだが、簡単な事は一番難しいことでもある。
老人達よ、立ち上がれ。
そして津波が来たときには、海に向かって走るのさ。






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中庸

2014-06-27 | 日記
自信の上に傲慢あり、謙遜の下に卑屈あり。

中庸であれ。

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冬至

2014-06-23 | 
季節は巡る。
南半球では冬至を迎えた。
毎年思うのだが、冬至の近くというのは日の出日の入りの時刻というのはほとんど変わらない。
クライストチャーチでは日の出は8時、日の入りは5時でここ1週間ぐらい変わっていない。
この毎日の変化が一番大きいのは春分、秋分の辺りである。
秋の日はつるべ落とし、なんて言葉もあるが、秋の日の入りはそれまでの夏から見ればそれこそあっという間であり、つるべお落としなんて上手く言ったものだ。
それぐらい春とか秋は毎日に変化があるのだが、今の時期というのは太陽の傾き、日照時間の長さはほぼ一定だ。
これはちょうど潮の満ち干きに似ていて、満潮と干潮の時には満ち干きは止まる。
そしてしばらくすると満ち干きの変化はどんどん大きくなっていく。
潮見表のあの放物線のグラフ、あれを日照時間に当てはめれば線が下がりきった場所が今なのだ。
そ大きなスケールで言えば、地球が太陽から一番遠い場所を通過している。
ここから放物線に沿って地球は太陽に近づいていく。
よく今回も同じ軌道で回ってくれました。
「ええい、このコースはもう飽きたからどっかへ行っちゃえ」と言ってそのままピューっと宇宙の果てへ飛んで行っちゃうこともなく、地球は同じ軌道で回る。ありがたや。
こうやって天体の動きに想いを馳せるのもこの時季あればこそだ。
ちっぽけな存在ながら自分が宇宙の一部であるという思いを感じるこの季節はきらいではない。
冬至とは冬に至るという意味で、これから冬に向かって行きますよ~という具合なのだが、僕の感覚では一番寒く感じるのは今の時期だ。
ニュージーランドでは紫外線が強く太陽が出ていれば暖かい。
これから気温はもっと下がっていくのだが、太陽の動きはこの時点から明らかに春そして夏に向かっていく。
まだ僕の冬は始まってもいないのだが。

冬といえば雪であり雪山でありスキーやスノーボードの時季である。
人工降雪機のあるスキー場はすでに営業を始めたが、僕が行く場所は天然雪のスキー場。
まともに滑るのは7月に入ってからだ。
ニュージーランドのスキーシーズンは短く7月から9月の3ヶ月ぐらいか。
日本で言えば1月から3月と考えればかなり短いのが分かるだろう。
若い時には人工降雪の仕事をやったこともあった。
人工雪というのは気温がマイナス4℃以下にならないと雪にならない。
今はたぶんテクノロジーの進化でもっと気温が高くても雪が作れるようになっているだろうが、普通に考えて氷点下にならないと雪はできないはずだ。
雪を作る仕事の時は気温が下がらなくて機械をまわせられないということがよくあった。
気候が狂っているのは地球規模での話だがニュージーランドも無縁ではない。
いつもは寒さをひしひしと感じるこの季節だが今年は暖かい。
我が家でもヒーターをほとんど使っていない。
日中はポカポカ陽気で庭仕事をしていると汗ばむぐらいだ。
かと思えば地球の裏側では、本来なら暑い場所で雪が降ったりしている。

http://119110.seesaa.net/article/399898582.html

http://119110.seesaa.net/article/399797194.html

http://119110.seesaa.net/article/399712991.html


まあ、どんなことが起きようが全てをありのままに受け入れようとしているので、暖かい気候はありがたく庭仕事に精を出してしまう。
ニンニクは冬至に植えて夏至に収穫という言葉があるが、今年は200株近くのニンニクを植えた。
そして温室のおかげで野菜は青々としている。
この時季にガーデンサラダが食べられるのは有難いことだ。
温室の中に植えている野菜はレタス、白菜、キャベツ、ほうれん草、イチゴ、さやえんどう、などである。
家の庭はスズメも多く、この時季ほうれん草やレタスやえんどう豆は食われてしまうのだが、温室の中には鳥が入ってこれないので野菜もよく育っている。
温室万歳なのだ。







とにもかくにも今年も半分はなんとか終わろうとしている。
あとの半分はどんな事が起こるのか予想もつかないが、その時に自分ができることをやるのみである。


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喫茶古

2014-06-18 | 
今年も実家から新茶が届いた。
♪清水みなとの名物は~ お茶の香りと男伊達。
というぐらい僕の故郷は茶所である。
家の近所にもお茶畑はあったし、お隣さんと筋向いはお茶屋さんだった。
漫画ちびまるこちゃんで、新茶の時季に先生がホームルームで新茶を飲んだ話をするシーンがあり、娘が「お父さんの学校でも先生が話した?」と尋ねた。
「そんなの覚えてねーよ」と身もふたもロマンのかけらもない会話をした。
お茶という物が子供の頃から当たり前にある環境だったのだが、子供の頃にお茶を飲んで感動した思い出はない。
それよりも今こうやって地球の裏側でいただく新茶。
今もお茶を飲みながら書いているのだが、感動がある。
この一杯のお茶に人間の英知が詰まっている。
たかだか木の葉っぱを煎じて飲むだけのことだが、先人の知恵や試行錯誤というものが今のお茶を完成させた。
そしてたかだかお茶を飲むだけのことが日本では道となった。
これが文化というものだと思う。
そしてそれを感じ取るかどうかはその人次第なのである。



家ではお茶も飲むがコーヒーもよく飲む。
我が家ではコーヒーは豆で買ってきて、淹れる直前に豆を砕く。
手でゴリゴリと回すミルがありそれで砕きプランジャーかフィルターで淹れる。
ニュージーランドではエスプレッソマシーンが主流で、どこのカフェでもこれでコーヒーを淹れるのだが、店によっては薄くて不味いコーヒーが出る。
人気のお店はやっぱりコーヒーも美味いし、賞を取るようなバリスタの淹れるコーヒーは美味い。
何故ここまで?というぐらいに不味い店と美味い店で違いがある。
最近は日本人のバリスタが賞をよく取るらしいのだが、何となくそれは分かる気がする。
それは淹れる人の気持ち、心の持ち方ではないか。
お茶やコーヒーを淹れる手順なんてそうそう変わるわけではない。
だがその一杯を美味しく淹れようという気持ちがあれば、本当にちょっとしたところでコツがあるのだろう。
それが決定的な味の差になって現れる。
茶道の真髄はおもてなしの心だ。
たかが一杯の茶を淹れるだけだが、媚を売るのでなく相手を喜ばせようと気遣いをし、自分が手に入れられる最高の物を用意する。
活躍している日本人バリスタは本人が気づいているかどうか知らないが、心の奥に茶の湯の心を持っているのだと思う。



実家から送られてくるお茶は、僕よりも味にうるさい父親が選んだもので、日本では最高級のレベルの物で当然値段も高い。
僕は一番高いお茶から順に飲む。
高い物を勿体ないから取っておこう、というのではない。
高い物だから美味しいものだから新しいうちに飲むのだ。
お茶はある程度は保存が利くが、時間が経てば品質は落ちる。
旨い物を旨い時に飲むのはその物に対する礼儀、そしてそれを作っている人に対しての礼儀だと思う。
よくありがちなのだが、美味しい物をいただき、ありがたさのあまり戸棚の奥に入れてわすれてしまい、賞味期限が切れてしまったり、古くなって香りが飛んでしまったり。
これはどこの家でもあると思う。
日本でもあると思うが、海外に住んでいると日本食が貴重なのでその傾向は著しい。
「普段飲むのに、そんなに良い物はもったいない」という声にはこう返そう。
普段飲むものだから、美味しいものを美味しい時に飲むのであり、毎回毎回、一期一会の心でお茶の味を楽しむのだ。
「お客様が来た時のために取っておきたい」という声には、来るか来ないか分からない人の為に良質の物を無駄にすることはない。
そこに見栄はないか?媚はないか?
来客があれば、その時その場にある最高の物をお出しするのが茶の湯の心である。
その場に最高級のお茶があればそれを出すし、それが無かったら次のランクのお茶を出す。何も無かったら水を出す。
とことんシンプルだ。




喫茶古という禅の言葉がある。
「まあ、お茶でもどうぞ」という意味の言葉だがこういう話だ。
昔の禅僧、趙州和尚の所へ教えを乞いたいと修行僧がやってきた。

和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧「はい、あります」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

またある時、別の修行僧がやってきた。
和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧 「いいえ、ありません」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

この様子を見ていたお寺の院主が和尚に尋ねた。
「和尚さんはここへ来たことがある人にも初めて来た人にも『お茶をどうぞ』と同じことを言われますが、何故ですか?」
和尚はその問いに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主が思わず「はい」と答えたその瞬間、和尚は「喫茶古(まあ、お茶でもどうですか)」

この時、院主ははっと悟ったのだという。
この何故悟ったかというのが禅問答の意図なのだそうだが、解釈はこうだ。
やってきた修行僧そして寺の院主と、立場が違う3人に対して和尚は「喫茶古」とだけ言って接した。
これは和尚の相対する分別、あちらとこちら、過去と現在、自分と相手、そういった全ての分けるという考えを切り離した境地。
そこには富んだ人も貧しい人もなく、男も女もなく、敵味方でなく勝ちも負けもなく、自分も相手もない。
一切の分別が無い、無心の境地からの「喫茶古」なのだと。
今の世の中に必要なワンネスの教えに通ずる物、というかワンネスそのものだな。
僕が自分に課している課題は「相手によって自分の態度を変えない」
誰に対しても無心で真心をもって接して「喫茶古、まあ、お茶でもいかがですか?」と言いたいものだ。



というわけでクライストチャーチ在住の皆さん。
今なら我が家で最高に旨い今年の新茶が味わえます。
ここらで一服いかがでしょう?
時間のある方はご連絡あれ。
「喫茶古」
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雨の日に石鹸作り

2014-06-12 | 日記
自給自足を目指す僕は石鹸も手作りである。
毎年仕事が忙しくない時を見計らって、秋と春に2回石鹸を作る。
いつもは天気の良い日に庭でやったりするのだが、天気の良い日はどうしても庭仕事をしてしまう。
今回はぐずついた天気が続くようなので、家の中で石鹸作りの作業をした。
音楽は作業用BGMなんてのを見つけ、さらに『雨の日の午後に』なんてピアノのしっとりしたジャズを見つけた。

さて石鹸というものは水と油と苛性ソーダ、この三つだけでできる。
作り方は簡単、ただ混ぜるだけだ。
誰でもできる。僕でもできる。
ただし苛性ソーダは劇薬なので取り扱い注意だ。
水と苛性ソーダを混ぜるとガスが出る。
これは非常に臭い。言うなれば毒ガスだ。
なのでこの作業は物置でやり、油と混ぜる作業は家の中で。
これでも充分臭いので窓を開けて換気をしてやる。
もう何回も作っているので分量は頭の中に入っている。
1回に8リットル分を2回、計16リットル分の石鹸を作る。
今回は台所用に何も入れない石鹸を半分と贈答用にラベンダー石鹸を半分。
いつもはマヌカの葉っぱを入れたマヌカ石鹸を作るのだが、今回はマヌカを取ってきていないので何も入れない石鹸を半分。
これで半年分の石鹸である。



ラベンダーは庭の片隅に2株あり、夏の間に娘に命じて花穂を収穫させて、女房が束ねてドライフラワーにしておいた物。



ラベンダーの花をバラバラにして、香りを出すためにすり鉢でする。
外は雨が降る時にジャズなぞ聞きながら、のんびりとこういう作業をするのも悪くない。



苛性ソーダと水と混ぜたもの、それを油に入れる。
ここまでは完全に手作業だが石鹸の撹拌には機械の力を借りる。
電動のミキサーを使うのだ。
以前はこれも手作業でやっていたのだが、友達が見るに見かねて電動のミキサーをプレゼントしてくれたのでそれを使う。
この作業になるとモーターが回ったりしてうるさいのでBGMもしっとりしたジャズからもっとにぎやかなものへ。
気分一新、ブルーハーツのパンクロックなぞ聴きながらノリノリでやる。
縦ノリで石鹸が飛び散らないように注意が必要だ。



撹拌はひたすら混ぜる、いつまでも混ぜる、これでもかというぐらい混ぜる、イヤになるぐらい混ぜる。
混ぜているうちに全体がクリーム状になり、トレースと言い表面をなぞった時に跡が残るようになる。
油が汚いとすぐに固まってくるが、きれいな油だとなかなかクリーム状にならない。
今回は油がきれいだったので1時間ぐらいかかってトレースができた。
そこにすっておいたラベンダー投入。



ニュージーランドの家ならどこにでもあるアイスクリームの容器に小分けして、



上にラベンダーの花穂を乗せてできあがり。
2~3週間後、容器から出して切り分け乾燥させる。

ブログ同様、この石鹸にも熱烈なファンがいて、毎年「あの石鹸はある?」と聞かれる。
そういう人には気前よくあげてしまう。
自分が作る物を喜んで使ってくれるならば、作り手としてこれ以上の喜びはない。
ブログを読んでいる人で石鹸が欲しい人はご連絡下さい。

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このブログ

2014-06-10 | 日記
このブログを書き始めて5年近く経つか。
よくもまあ飽きずに書いているなと思う。
自分で言うのもなんだが、僕の文は読むに値するものだと思う。だからこうやって書いている。
というのも巷にある本でも読むに値しない物はあるからだ。
このブログを楽しみにしている人も多く、1日あたり数百人は閲覧してくれる。
ブログをアップするとフェイスブックなどのお知らせ機能のせいかその数はぐんとあがる。
ありがたいことである。
せっかく書いても誰も見てくれなかったら寂しいじゃないか。
楽しみにしてくれる人には申し訳ないのだが毎日の更新は無理だ。
考えながら書くので、一つの話を書くのだって数時間かかる。
我ながらもっと速く書けないものかと思うのだが、こればかりはしかたない。
それに忙しくなるとブログどころではなくなる。
何日もほったらかしなんてこともちょくちょくある。
こんな不定期連載でも読者のみんなは愛想もつかずに読んでくれる。
やっぱりありがたいことである。

さてこうやって過去の話などパラパラと眺めていて思ったのだが、このブログの会社がつぶれたら消えてなくなっちゃうのかな、と。
僕は記事のバックアップを取っていない。
「取ればいいじゃん」と言われれば身もふたもないのだが、生来ズボラで面倒くさがりやなのでブログをアップしたら、もういいかと思ってしまう。
「そんな事あるわけないじゃん」と言われても、この先なにがあるのか分からない。
今までの常識が通用しない世界にすでに入っている。
無料でブログをさせてもらって、言うなればこの会社に依存していないか。
もちろんそんな事が起こらないように願うのだが、例えば今までになかったような大きな雷が落ちて一度システムが遮断。
大混雑の末、復旧したら何故か分からないが、ひらがなの『あ』で始まりひらがなだけを使う9文字のブログタイトルのデータだけどこかへ吹き飛んでしまったとか。
まあこちらはお金を払っているわけでもなく、無料サービスを利用しているのでそうなっても文句は言えないけど、今まで書き溜めた物がなくなってしまうのはいかにせん勿体ない。
いやいや待てよ、そうやって思うことがすでに執着か?
執着があるからそんな事を考えるのか、と深読みしてしまう。
無くなったら無くなったで、その時はその時、ブログを書いてそれを読んで共感してくれた人がいた、という事が大切なのに、文を書いてそれを公開した後もそれを永久に自分の物として保持しようとしている人間のあさましさか。
うーむ。

こんな事を書くのも、先日あるお客さんからのメールが僕の所へ届かずどこかへ行ってしまった。
それでちょっとした混乱があったのだ。
今の世の中コンピューターがなかったら回らない。
でもそれって、うーん、と思ってしまうのだ。
コンピューターが無くても庭の野菜は育つし鶏も育つが、野菜の種も鶏のひなもネットを利用して買った。
今あるシステムが明日もあるという保障はない。
その時が来たら自分は一体どういう行動を起こすのだろう。
自分としてはなるべく他の人や物やシステムに依存しないように生きていきたいと思っているのだが・・・。

ともあれこうやってこのブログはまだ続けていくつもりである。
もう止めます、というお知らせではないので御安心を。
自分自身を表現するやり方はいろいろあって、画家は絵を描き芸術家は作品を作る。
音楽家は楽器を奏でたり歌を歌ったり、作家は文を書く。
僕の場合はガイドの現場でお客さんに話すこともそうだが、このブログも自己の表現である。
自己の表現とはメッセージだと思う。
便利な世の中になったもので、ネットという物を利用して地球の裏側にいる人へもメッセージをおくることができる。
メッセージというのは発信者と受信者の波が合わなければ伝わらない。
目の見えない人に絵の良し悪しは伝わらないし、僕のように目が見えても絵の良し悪しが分からない人もいる。
波が合わないとはこういうことだと思う。善いとか悪いの問題ではないのだ。
違う言語の人には直接そのメッセージは伝わらないし、同じ言語でも伝わらない時は伝わらない。
ルドルフ・シュタイナーという人がいて、この人は神秘思想家で哲学者で、今ではシュタイナー教育という物が有名なのだが(シュタイナー教育については想う事はいろいろあるがここでは触れない)その人のメッセージでこういうものがある。
危険と向き合った時に「あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきか、という事だけを考える」
これなぞは僕が普段考えている事と全く同じでズバっと来たのだが、波が合わない人には「でもね・・・」「そうは言っても・・・」なのである。
そんな時はボブデュランのメッセージをあげよう。
「君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい。」

僕は自分の生きかたを通して、自分を表現する。
これには先ず自分ありきという強い芯が必要だ。
それが僕の場合、鶏であり庭の野菜であり、山でありスキーでありガイドという仕事なのだ。
その波に合う人もいれば合わない人もいる。
波が合えば人並みに嬉しいし、合わなければ仕方がないと思うだけだ。
全ての話がそうではないが少なくとも数百人の人とは波が合っている。
ありがたや、ありがたや。
そしてまだこれから、この波は広がっていくことであろう。
ふと頭の中にそのイメージが湧いた。
山の中の綺麗な湖の鏡のような湖面。
そこの中心から小さな波紋が広がり、それが静かにどこまでも広がっていく。
イメージの中で空は青く山は雪を載せて白く、麓には緑の森があり、森の奥には黒い闇がある。
あおしろみどりくろ、このブログがその波だ。
その波の行きつく先は・・・。
未だそのイメージは見えない。
だから面白いんだろうな、きっと。



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2014-06-07 | 日記
社会毒という言葉を知っているか?
今の世にあふれる物で毒になるものを言うそうな。
色々な化学物質、自然界にある物でもそうだし、電磁波とか放射能といったような目に見えないようなもの、とにかく体に悪い物を称して社会毒と言う。
毒と言ってもいろいろあって、青酸カリのようにわずかな量であの世へ逝ってしまう猛毒もあれば、その時には表に出ないが長い間に体に溜まると害を及ぼすような毒もある。
気づこうが気づかまいが僕達は毒の中で生きている。
食べ物で言えば農薬まみれの野菜や遺伝子操作された作物。
不健康な環境で薬を飲まされる動物達。
化学調味料だって毒だし、人工甘味料、保存料、着色剤、防腐剤、それらを使っている食品は全て毒だ。
マクドナルドのハンバーガーやコンビニ弁当なんて毒の固まりである。
気づいていない人は多いが砂糖も毒だ。
直接口に入れる物でなくても毒は溢れている。
皮膚に塗る色々なクリーム、化粧品、シャンプー、リンス、デオドラント。
タバコももちろん毒だし、各種多用の薬、麻薬は毒だ。
パソコンやテレビ、電子レンジや携帯電話から出る電磁波も毒だ。
普段使っている食器やペットボトルの中にも毒はあるし建材の中にだって毒はある。
あーあ、もう書くのがいやになっちゃった、と言うぐらい、とかくこの世は毒だらけ。
それを人々は気づいていない、気づかされないように操作されている、そして気づこうとしない。

「じゃあどうすればいいのさ!そんな事言ってたら何も食べれなくなるじゃないか。みんながみんなアンタのように野菜を作れるわけじゃあないだろ!そういう人は飢え死にしろって言うのか?どうしろって言うのさ!」
久々に出ましたクレクレ君。
自分では何も調べようとしないし何もしようとしないが、指摘されると逆ギレするクレクレ君。
思考は常に受身で、人が何かをしてくれると思っているクレクレ君。
自分で調べようとせず、すぐに人に聞くクレクレ君。
クレクレ君は誰の心の中にでも居て、こんな毒の社会になっているのもクレクレ君のおかげなのだ。
先ず僕らがしなくてはならないのは毒を認める。
信じたくない気持ちは分かるが、実際にこの世は毒だらけである、ということを認める。
誰か偉い人が言ってたから安全、テレビで言っていたから安全、という所から抜け出す。
情報というものを受身で受けていたら簡単に洗脳の罠にはまってしまう。
自分で考えて行動するという当たり前の事、この当たり前の事ができない人が最近多いのだし、それができていたらクレクレ君にならないのだが、このことをやるとやらないのでは雲泥の差である。

毒を認めたらできるだけ毒を取り入れないように努め、同時に排他的にならない。
ここはバランスを取りながら、このバランスが重要だ。
このバランスがずれると排他的になり、毒を遠ざけるあまり悪のように感じてしまう。
オーガニックなんかを宗教のように崇拝している人がいるが良い例だ。
「野菜はオーガニックに限る」
正論だが実際の生活でそれをやろうとしたら大変だぞ。
第一、金がかかる。
それに野菜だけオーガニックでやっても、その他の毒についてはどうすんだ?
こうなると、一つの欲が満たされると次へ、又次へという物欲のエゴとあまり変わらない。
排他的にならずに受け入れる。
ある料理専門家の言葉。
「マクドナルドは毒だが、大切なのはありがたくいただく気持ちです」
是につきると思う。
オーガニックな生活を目指している僕だが、たまに(1年に1回ぐらい)子供とファーストフードには行く。
そこでハンバーガーを食べポテトを食べてコーラを飲むわけだがそこでの会話は「これは毒だ」ではなく「美味しいね」なのである。
もちろんこの場合の『美味しい』とは健全な食品が持つ『美味しい』のではなく、たまには気分を変えてこういう場所で楽しく一緒に食べる『美味しい』のだ。
タバコは毒だが、1本のタバコを吸うのに「あ~あ、やめなきゃなあ」と言いながら渋い顔をして吸うのと「この一服が旨いんだ」と言って吸うのとどちらがいいか。
どうせ吸うのならばニコニコしながら吸ったほうがいい。
だからといってタバコを吸うのを勧めるわけではない。タバコが毒なのは変わりない。
まあその辺は本人の心の中で行ったり来たりなのだが、気持ちの持ちようとバランスだと思う。
毒をできるだけ取り入れないようにするには買い物の時も意識を持つこと。
大手の物とか極端に安い物は要注意だ。
情報を自分で取り入れて行動。
外食も化学調味料を多用しているような店には行かない。
そういう店の食べ物はカップラーメンの味がする。
自分の舌、そして勘を信じるのである。

努力はしても、今の世の中何かしらの形で毒は体に入ってくる。
最後に大切なのは排毒。
毒を体外に出す作業だ。
これは汗、小便、大便から出るし涙や鼻水でも出る。
サウナで汗を流すなんてのはそういう意味でも健康に良いのだ。
この前オノさんのところでボキボキやってもらったのだが、その後のおしっこの気持ちのいい事。
体の老廃物がスーッと抜ける感じで膀胱の辺りが楽になる。
これを知っているので僕はオノさんのマッサージの時にはガンガン水を飲んで行く。
サウナや運動で汗をかくというのも大切な排毒である。
我が家の女房は以前は運動をしてもサウナに入っても汗をかかなかったのだが、最近では体質が変わったのかズンバに行って汗をびっしょりかくという。
そのせいか最近はとても健康そうで益々美しくなった。
僕も野良仕事謎して汗をたっぷりかくと気持ちが良い。
なんと行ってもその後のビールが美味いのが好い。
そして大便、ウンコというのが一番大きな排毒なのだそうだ。
そりゃそうだな、容量から言ってもこれが一番だもの。
そう考えると毎日ウンコがすっきり出る、なんてのはありがたい状態なのだな。

このように巷には毒が溢れ、僕らは知らず知らずにそれを受け入れて生きている。
ちなみにこのブログも毒である。
毒というものは使い方によっては薬にもなるものなのだ。
だからといってこのブログが薬になるかと言えば一概にそうでもないだろう。
ある人には薬になるだろうし、ある人には猛毒だ。
毒にも薬にもならない、なんて言葉もあるな。
まあそんなものでよろしかろ。
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