あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

進化する庭

2013-10-27 | 
ご満悦である。
数ヶ月前から続いていた温室作りがやっと一段落した。
所々隙間があるが夏の間はこれで充分というぐらいにできた。
これも作務の一つ。
そして好きなことで楽しいことでもある。
こうなればいいなあ、と想ったことは実現するのだが、数ヶ月前に何もない所に温室が建っている姿をイメージした。
そして今そこに温室がある。
おおむねイメージした通りの物だが、大きさは最初の予想よりもかなり大きくなった。
中に植える野菜はトマト、ピーマン、枝豆、きゅうり、茄子、唐辛子、オクラ、そんなところかな。
野良仕事をしていて突然にわか雨が降ることもあり、今までは家の中に退散したが温室の中ならばそこで作業もできる。
屋根に当たる雨の音、そして鳥の声を聞きながら作務をするのもいと楽し。
このご時世で大きな温室は一つの財産だと僕は思う。
気候というものが今までと全く違うからだ。
「天の異変気付と申してあろが冬の次が春とは限らんと申してあろが。夏雪降ることもあるのざぞ。人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。」
「冬の先春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。」
と日月神示でも言っているが、何があってもおかしくない時が来ている。
仮に夏に雪が降ったら夏野菜は全滅だ。
そんな中でも人間は物を食べて生きていかなければならない。
そうならないことを願うが、今の世界の天気ニュースを見ていると洪水と干ばつが同時に起こり、猛暑の中で雪が降ったりとメチャクチャだ。
ここで言っておくが、そういう可能性があり、恐怖にかられ温室を作ったわけではない。
自分だけ、自分の家族だけ助かりたいからというエゴではない。
自分の心にそういう思いがあったらきっとうまくいかないだろう。
旨くて健康な野菜を食いたい。これが根底で人間の欲求の原点だ。
それを家族にも友達にも食わせたい。
できることなら世界中の人にうちの野菜を食べてもらいたいが、個人の力では限界というものもある。
なので友達に卵や野菜を配って歩く。
自分ができることとは自分を知るところから、自分の内側を見るところから始まる。
そして直感に基づき出来たのがこの温室なのである。



温室の壁は大きな窓がいいなあ、と漠然と思っていた。
人間は考えることが現実化するという力があるのだが、それには行動も必要である。
想っていれば行動を起こすタイミングは向こうからやってくる。
ある時、近所のリサイクルショップへ立ち寄るとおあつらえ向きの窓があった。
値段は80ドル。即決。その場でニコニコ現金払い。毎度あり~、チーン。
もうひとつ同じようなサイズもあるが、どうしよう。
ええい、買っちゃえ。毎度あり~、チーン。
この二つめの窓は家に運ぶ途中で割れてしまい、ゴミが増えてしまった。
そういうハプニングもありながら温室計画は続く。
おおまかな計画はあったが、状況と気分で現場は変わっていく。
ニワトリエリアの柵を修理するついでに少しずらしたらスペースが出来たので、ええい温室も広げちゃえと出入り口をもう一つつけてしまった。
そうなると梁が長くなるから真ん中に柱をもう1本立てて補強も必要だ。
穴を掘りコンクリートを練って柱を立てた。
屋根材は奮発してホームセンターで新品を購入。
大きなガラス窓のドアが20ドル。これをスライドドアにした。
そうやってなんとか形ができた。



土は粘土に近いので近くのガーデンセンターからコンポストを買って一輪車でせっせと運びこみ、自分で作った堆肥と鶏糞を寝かせたものと一緒に混ぜ込む。
トマトを2種類、大きな実になるタイプとチェリートマトを植え、下草用にレタスの種をばらまいた。
ピーマン、きゅうりも植え、枝豆もそろそろ芽が出る頃だ。
茄子やオクラはこれからだな。
そして今僕はイメージする。
温室の中で野菜がグングン育っている姿を。
みずみずしいトマトがたわわに実っている姿を。
青々としたレタスが大きな玉をつけている姿を。
枝豆が実り、それを子供が収穫して喜んで食べている姿をイメージする。
イメージができたら行動。
行動が作務であり、行動あればこそ現実化するのだ。



クライストチャーチの中心部もニュージーランド流にゆったりと復興は進む。
たまに行くと新しい建物が出来ていたりする。
そうなると以前はここに何があったのか思い出せない。
家の庭も同じでどんどん進化すると前の状態を忘れてしまう。
以前の写真を探して引っ張り出してみた。



これは4年ぐらい前か。シーズンが終わって山の道具を日干した写真である。
この時点でも庭はかなり進化しているのだが、庭の写真で残っているのはこれが一番古い
まだ庭の真ん中にキャベッジツリーがある。


そして今の写真。こうやって比べるとよく分かる。



キャベッジツリーを切って、その後で根っこを掘り起こした。
この木は分解されにくく埋め立てゴミである。
この木を捨てるのもトレーラーを借りて、近所のゴミ処理場に捨てに行った。
埋め立てゴミなので値段も高く200ドルぐらいかかった。



ニワトリコーナーも最初はこんなに広かったんだなあ。
今はこの半分ぐらいの広さで、イチジクの木と梨の木が育っている。。


この菜園と温室は財産である。
人間の社会ではこの土地は一応我が家の物だが、もともと地球の物を人間が所有するという概念がおかしい。
僕はこの土地を地球から借りている物と考える。
そうなると有害な化学肥料を使わないとか、除草剤を使わないというオーガニックへの流れは自然なものだ。
庭の手入れをしてきれいにすれば野菜も喜びよく育つ。
人間が傲慢になり自然をコントロールするのか、それとも謙虚な気持ちで自然に逆らわず出来る事をするのか。
今、人類の選択の時は来ている。
この庭はその選択の一つの指針となるだろう。
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今日の夢

2013-10-23 | 日記
夢を見た。
僕はかなりの頻度で、昔スキーパトロールをやっていた頃の夢を見る。
登場人物も一緒に働いていた同僚や友達のオールスターである。
面白い事にイヤなヤツや馬が合わない人は出てこない。
今日の登場人物はJC、そしてタイ、その他友達大勢。
スキーパトロールで出勤する途中でタイがその場にいた牛を仕留めた。
誰かの飼っている物とか野生なのか、そういうのは夢の話なのでどうにでもなる。
みんなでその牛を解体して「しばらく牛肉に困らないねえ」なんて話をしながら仕事に向かった。
その途中で大きな川があり突発的にJCが釣りを始めたら鮭が面白いように釣れる。
一つのラインに3匹も4匹もかかるのだ。夢なのでなんでもありだな。
じゃかじゃか釣って「これでしばらく魚にも困らないねえ」なんて話をした。
そのうちにタイが「今から氷河へ行くヘリが出るんですけど行きませんか?氷河の上はものすごいパウダーですよ」と言い出しみんなでヘリスキーに行ってしまう。
スキーパトロールの話などどこかへぶっ飛んでしまい、最後は支離滅裂に終わる。
BGMは8時だよ全員集合の出だしのコントが終わり歌謡曲へ繋がる時にかかる、あの曲だ。
牛と鮭のつながりはなんなのか。
昨日の晩はビフテキ(死語?)を食ったからか。
そして冷蔵庫にはでっかい鮭が1匹入っていて、今晩それを食うからか。
いずれにせよ夢にまで食い物が出てくるなんて、なんと食い意地のはった自分なんだろうと思った次第である。
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作務衣

2013-10-13 | 日記
作務衣はサムエと読む。
サブウェイでは無いぞよ。
先日は作務衣を着て1日庭仕事をした。
畑を耕し、寝かせてあった堆肥を掘り出した。
鶏の糞を集め穴に埋めて肥やしを作る。
そして畑の雑草を抜き、水をやる。
掃除や洗濯、畑仕事など日常の仕事を修行としてそこから何かを学ぶ。
これが禅の言葉でいう作務であり、その時に着るのが作務衣である。
瞑想をすることは大切だが、瞑想だけしていても野菜は育たない。
瞑想が靜なら作務は動ではないか。
そんなことを漠然と考えながら畑仕事をするのが好きだ。

好きこそ物の上手なれ、という言葉があるが好きであるということは最大の原動力であり、その思いが根底にあれば問題はない。
愛とも繋がっているな。
僕は静岡の出身で雪なんてものは数年に1回、近くの山がうっすら白くなる程度のものだ。
そういう環境で育ったので子供時代はスキーなんて無縁の物だったし、まさか自分がスキーをするなんて思ってもいなかった。
それがいつのまにかスキーを仕事としてやるようになった。
血のにじむような努力はしなかった。
上手くなる為にそれなりの練習もしたが、その練習さえも楽しかった。
そして今も楽しく滑っている。
全て好きというのが根底にあればこその話だ。
畑仕事も同じ事。
好きだから自分の時間をそこで使うことができる。イヤならばやらない。
ネットや本で調べる勉強も好きならば苦にならない。
好きだからあれやこれや考えて行動ができる。
そうやってできる野菜は旨く、自分達だけではなく友人家族も幸せにしてくれる。
この前できた大根は今にも走り出しそうな足をしていた。
なんとユニークではないか。
野菜は工業製品ではないのだぞ。
いろいろな形があってそれでよし。
人も又同じこと。
いろいろな人がいていろいろな考えがある。
自分は自分、他人は他人。
この言葉は読み方によっては、困っている人も助けない自分勝手な人の言い訳にもなるのだが、そうではない。
先ず自分ありき。
自分というものの内側をきっちりと見つめ、自己を確立する。
そして人と比較しない。
さらに相手を否定しない。
合わない人ならば無理に合わせず、合う人ならば杯を交わす。
人との違いを認めつつ生きていく言葉だと思う。

こうして僕は作務衣を着て家の仕事をする。
掃除、洗濯、炊飯、庭仕事、一昨日は半年に1回の石鹸作りもした。
トイレ掃除も、自分でトイレ掃除用の液を作るようになってから苦にならなくなった。
お金にならないが、全て人間が生きるうえで大切な仕事である。
そしてこうやって体を動かして仕事が出来るというのも健康あればこそ。
9月にケガをした時には家の仕事もままならなく、それがストレスにもなった。
今回のケガは健康のありがたさを再確認する意味もあったのだと思う。
10月も半ばになり、まもなく忙しい夏がやってくる。
その前に畑を耕して種を蒔くという楽しい仕事が待っている。
今日も又、僕は生かしてもらっている。
ありがたや。



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鹿肉万歳

2013-10-11 | 
西海岸に住む若き男、タイ。
ヤツがついに念願の鹿を仕留め、その肉を持ってきてくれた。
タイ曰く
「鹿を仕留めて解体していたら、なんか胃袋みたいなのが二つあるんですよ。あとで聞いたらそれは子供が出来かかっているものだって。その時は気が付かなかったんですけどねぇ。ちょっと考えちゃったんですよ、撃たなかったほうがよかったかなあって・・・」
「仕方ないよ。だってその時は分からないだろ?その死んだ鹿、そして生まれかかった子供の命まで美味しくいただきましょう」
可哀そうと言えば可哀そうだし、野蛮と言えば野蛮である。
だが僕達人間は、動物にしろ魚にしろ植物にしろ、他の命を奪って生きる。
僕達にできること、いや、するべきこととは奪った命を無駄にせず美味しく食べることだと思う。
その晩はタイの彼女のキミと共に鹿肉のたたき。
これをしょうが醤油とにんにく醤油でいただいた。
生の肉はほんのり甘く、臭みは一切なく絶品だ。
スモークもやってみたのだが、こちらは火の通し具合が難しく、味は可もなく不可もなくといった具合で、ヒレ肉はたたきに限る、という結論にたどりついた。
その晩は3本目のワインの途中まで記憶があるのだがその後の記憶は完全にふっとび、女房が言うには同じことを100回ぐらい繰り返ししゃべり、全く会話にならず、嫌がるココにちょっかいを出して唸られ、トイレで吐き、あげくの果てにそのあたりで寝てしまうという醜態をさらけだしたそうな。
まさに親父道まっしぐらだな。反省、反省。
翌日、タイとキミは我が家の卵と野菜をどっさり持ち、西海岸に帰っていった。
前回に西海岸に行った時にはヤツの家に立ち寄り野菜を置いて魚と肉をいただいた。
今回は鹿肉と野菜の物々交換。
物々交換というのはお金というものが生まれる以前から人間がやってきていることである。
社会が大きくなり複雑になると難しいが、小さいコミュニティや友人同士ならばこれが一番。
なんといってもお金が付随しない物の行き来というのは気持ちの良いものなのだ。



タイがお土産に持ってきたものは人間用だけでなく、犬のココにもご馳走である。
鹿のスネ肉付き後ろ足2本、そしてすじ肉は2キロ分ぐらいあるか。
前回シャミーの足をそのままあげたら喜んでかぶりついていたが、今回はそれほどではないらしい。
最近は生の肉も好きではないようなのでオーブンで焼いてあげたら喜んで食べていた。
前回シャミーの解体を見ていて思ったのだが、大きな動物を捌くのは楽ではない。
細かい所はもういいや、という気持ちになってしまう。
人間の労働力には限界があるのだ。
犬がいればそれが餌になるのだがタイのところには犬がいないので、うちに持ってきてくれた。
そうやって残ったすじ肉も、もう一手間かけて筋と肉に分けてみたら1キロ近い肉の量になった。
筋は煮込んでココの餌。肉は煮込んでカレー。
残ったのは骨だけで、これもココがガリガリと噛み砕き骨の髄をペロペロと舐めている



その道のプロ、という言葉がある。
ピアノのプロがポロンとならす音と僕がならす音は違う。
ギターのプロが弾くとそのへんのギターでもいい音が出る。
スキーでもトッププロの人の滑りは見ていて感動する。
餅は餅屋、という言葉もあるとおりプロにはそれなりの何かがある。
タイからいただいた鹿肉のバックステーキ、まあ一番美味しい部分がもう1回分残っているので、こいつをプロにやってもらおう。
というわけで友達のマサ一家をご招待した。
マサは現役の板前、こちらで言うシェフ、その道のプロである。
年も同じで、馬が合うというのか気を使わないで家族で付き合える間柄だ。
この日は彼に鹿肉のたたきを作ってもらった。
オヤジ2人で台所に立ち、あーでもないこーでもないと言いながら料理を作るのは楽しい。
「聖さん、ネギある?」
「あるよ。長ネギもあるけどあさつきも庭にあるよ」
「おお、いいね。じゃあ、ちょっとそれを取ってきて。」
「がってん了解」
「長ネギの白いところも使いたいんだけど」
「まかせとけ」
彼のやり方は肉の塊に塩とコショウそしてすりおろしたにんにくをぬりこむ。
熱々に熱したフライパンで肉を押さえつけるように焼き、氷水に入れて熱を取る。
それを薄くスライス。
戸棚から綺麗な皿を出して盛り付け。
口で言うのは簡単だがその動作一つ一つがプロの技である。
それを褒めちぎるとこう言う
「いやさ、そんなのこっちから見れば聖さんがパウダーでエイトだっけ?あれをやるようなものだよ」
そんなもんか。
本日のメインはすき焼き。
庭の野菜は長ネギ、シルバービート、そして春菊。
春菊はこぼれ種からガンガン育ち、雑草のように生えている。
そして、すき焼きと言えば生卵。
卵が新鮮すぎて黄身と白身がよく混ざらない、という超ぜいたくな悩みがある。
肉は近くの韓国人経営の肉屋がすき焼き用の肉を切ってくれる。
ニュージーランドでは日本人も韓国人も中国人も仲良くやっているぞ。
ご飯は友達がわざわざ日本から持ってきてくれた新潟産のこしひかり。
ご馳走である。
ご馳走とはその場にある物で最高の物をだす、もてなしの心。
それが海外で暮らしながらも失わない日本人の魂だ。
料理は旨くワインに合い、(今回は飲みすぎないよう気をつけていたので)会話は弾み、食後はマサ親子とギターとハーモニカのセッションとなった。
マサの子供カイトは子供ながら(失礼な言い方だが)ギターが上手く、ソロなどもガンガン弾ける将来有望なミュージシャンなのだ。
そのうちに彼ら親子、そして謎の日本大好きなブルース爺ちゃんとのセッションもあるかもしれない。
そのときにはきっと話が一つ書けることだろう。



こうやって鹿はココを含め僕らの胃袋に収まった。
ふと思ったのだが、野生の鹿と放牧とはいえ飼育された鹿は同じではないと。
肉の味も違うだろうが、もっと深い意味で肉の持つエネルギーの違いか。
そこにはその鹿が育った環境、今回で言えば僕が大好きな西海岸のあの森。
そしてそれを仕留める為の人間の努力、ライフルの練習や何回も森に足を運ぶ努力。
仕留めた後、解体する人の気持ち。頭だけ持って帰って剥製にするのか、無駄なく食べられる場所は全部食べようとするのか、などなど。
そういったいろいろな要素があり我が家に鹿肉が届けられた。
ありがたや。
言葉に想いが乗ることにより言霊となる。
自動販売機に「ありがとうございます」と言われてもうれしくない。
そうあることが難しいから『有難う』なのだ。
自分を含め家族も友人も様々な事柄に生かされている。
同時に自分も人を育てている。
複雑に絡み合った目に見えない想い。
それは人間だけではなく、動物や野菜、マクロで見れば地球や宇宙までも一つとなるワンネスの思い。
それに気がつけば自分が何をするべきか見えてくるだろう。
庭にはココがかじった鹿の骨が転がっている。
ここまでとことん食えば鹿も成仏できたことだろう。
タイが初めて仕留めた鹿の命、ありがたくいただきました。

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10月5日 Broken River

2013-10-07 | 最新雪情報
20年近くクラブスキー場で滑ってきたが、この時期にクローズするのは初めてである。
いつもは近隣のスキー場では最後まで営業するブロークンリバーも6日の日曜日でクローズする。
普段なら他のスキー場が「雪はあるけど、お客さんも来ないしもういいでしょう」という感じでクローズしてからも、メンバーのやる気で雪がある限りハイクアップをしてでも滑り続けるが、今年はその雪がない。
天候そして地球の動きでも「今までにこんな物は見たことが無い」「こんなのは初めてだ」そういうように前例が通用しない世界に僕らは生きている。
クラブのメンバーやスキー場関係者と話をしても「今年は変な年だったなあ」という会話になる。
振り返ってみれば先ずはシーズンが始まる前の6月の大雪で雪崩の被害があった。
今年はいいのかなあと思いきや、その後はぱったりと降らず。
スキー場というものは安定して雪がある場所に作るものだが、今年はその安定した雪がある場所がスキー場の中腹から上で、どのスキー場もベースエリア付近の雪不足に悩まされた。
そして僕自身の事で言えばケガもしたし、20年以上もパトロールをしている友人も骨を折った。
まあとにかく『変な年』という形容があてはまるシーズンだった。

この日は娘の深雪を迎えに山に上がった。
先週から始まった春休みで、友達のマリリンが孫娘と一緒に面倒を見てくれた。
リンドンロッジに4泊のプチスキー合宿である。
マリリンは娘が生まれる前からの友達で孫娘のリリーとも仲良しなので楽しい時間を過ごしたようだ。
こうやって親元から子供が離れていく。
ちょっと寂しい気もするが、その行く先がブロークンリバーというのが嬉しい。親バカだな。
ボトムに雪がないのでパーマーロッジまで板を担いで歩く。
こうなるとよっぽど好きな人しか来ないので周りは皆顔馴染みばかりだ。
岩を避けて滑り山頂へ。
山頂で一人、僕は拝む。
変な年だったがケガも大した事はなく再びこうやってスキーを履いてここに来られた事、出会ったお客さんが皆喜んでくれた事、娘がこの地で育っている事を山に感謝して「ありがとうございます」という言葉を何回もつぶやいた。

お昼は恒例のバーベキュー。
来る途中で買ってきたアスパラガスを豪快に焼き、鶏の手羽先をつまみにビールを飲む。
ボランティアで1シーズンを過ごしたアキラがカレーパンを出してくれた。
ヤツもシーズン途中で骨折というハプニングがあったが立派にスタッフの一人として最後までがんばった。
そして自分のアイデアで作ったというカレーパンは皆にも喜ばれた。
「自分に出来る事をするんだよ」という言葉の裏には、自分自身を見つめろという意味があるのだが、ヤツなりにそれに気がついたようだ。
ヤツはこの後、メンバーのつてでウェストポートへ行くようだ。
それも一つの縁。
トモ子、タイ、コージ、アキラと日本人のスタッフを見てきた。
人は来て、ここで暮らし、そして去っていく。
戻ってくる者もあれば、なかなか戻れない者もいる。
だが心の根底で繋がった者はどこにいようが問題ではない。
その時が来れば、又この山に戻ってくることだろう。
そして山は暖かく受け入れてくれるだろう。

とにもかくにも今シーズンの冬は終わり、僕は夏に向けて準備をする。
留まってはいない。
流れの中でまた新しい季節が始まる。
「バイバイ、ブロークンリバー」
マリリンが帰りがけにつぶやいた言葉が浮かんで消えた。


深雪の話だとアクセストーは火曜日までは乗れたそうだ。それ以降は毎日ハイクアップ。


山に手を合わせ感謝の言葉を唱える。ありがとうございます。


親元から離れ一人でロープトーにも乗り、子は育つ。


自然の中でのちっぽけな人間の営み。山への敬意をなくしてはありえない。


ケアにえさをやっているのではない。人に慣れたケアが指で遊ぶ。ケアの知能指数はチンパンジー並だ。


今日のお昼は来る途中で買ったアスパラガス。


パーマーロッジでカレーパンを作った人はいない。アキラ、でかした。食べ損ねた深雪が後で文句を言っていた。


あと1日のために雪だしをする。


バイバイ、パーマーロッジ。今シーズンもありがとう


帰りは途中まで滑れる。


そして歩く。


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10月1日 Mt.Olympus

2013-10-02 | 最新雪情報
ニュージーランドでは先週末から夏時間に切り替わり日の入りが1時間遅くなった。
春から夏へ、スキー場もほとんどの場所は後1週間か2週間でクローズするだろう。
クラブフィールドの中ではオリンパスが一番雪が残っている。
駐車場まで滑れるしアクセストー近辺も問題ない。
だがここも後1週間ぐらいだろうか。
今回はオリンパスに泊まりで行ってきた。
山の中での人間の営み、というものについてしみじみと感じるものがある。
人は自然の力なくして生きていけない。
そして人は自然の中で生かされている。
人が人としてどうあるべきか。
山は黙ってそれを見守る。


午後7時。山頂付近はまだ日が当たる。


夕食、メインディッシュの後のデザートの盛り付け。


そしてその後、親父がしみじみと唄う。僕がハーモニカを持っていたのでセッションになった。


ちびっ子も掃除を手伝います。


学校は春休み。子連れの家族が多い。


自然の中で必要最低限の施設。そのバランス取りが大切だと思う。


パンパンに膨らんだバックパックの中は、寝袋、着替え、タオル、洗面用具、本、ハーモニカ。皆必要な物です。


帰りがけに交通渋滞に出くわした。
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10月1日 Mt.Olympus

2013-10-02 | 最新雪情報
ニュージーランドでは先週末から夏時間に切り替わり日の入りが1時間遅くなった。
春から夏へ、スキー場もほとんどの場所は後1週間か2週間でクローズするだろう。
クラブフィールドの中ではオリンパスが一番雪が残っている。
駐車場まで滑れるしアクセストー近辺も問題ない。
だがここも後1週間ぐらいだろうか。
今回はオリンパスに泊まりで行ってきた。
山の中での人間の営み、というものについてしみじみと感じるものがある。
人は自然の力なくして生きていけない。
そして人は自然の中で生かされている。
人が人としてどうあるべきか。
山は黙ってそれを見守る。


午後7時。山頂付近はまだ日が当たる。


夕食、メインディッシュの後のデザートの盛り付け。


そしてその後、親父がしみじみと唄う。僕がハーモニカを持っていたのでセッションになった。


ちびっ子も掃除を手伝います。


学校は春休み。子連れの家族が多い。


自然の中で必要最低限の施設。そのバランス取りが大切だと思う。


パンパンに膨らんだバックパックの中は、寝袋、着替え、タオル、洗面用具、本、ハーモニカ。皆必要な物です。


帰りがけに交通渋滞に出くわした。
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