あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

日本旅行記 9

2024-07-28 | 
一夜明け、この日は金沢近郊の観光である。
いつものごとく下調べは一切せずに、ガイドのヒデにお任せで連れて行ってもらう。
ヒデは僕がいくというので、どこに連れて行くのか色々と考えてくれていたようだ。
先ずは車で30分ぐらいにある鶴来という街に向かう。
つるぎという名前は元々は剣だったらしいが今は鶴が来る鶴来となったようである。
扇状地の扇の付け根の部分で平野の方から来ると谷がぎゅっとつまったような地形をしている。
綺麗な川が流れ昔の街並みがたたずむ、観光客が少ない僕好みの街だ。
そこにある白山比咩神社をお参り。
参道を登っていく途中で神様のパワーをビンビンと感じ指先がしびれる。
これはすごい所だと一人で昂奮するのだが、地元に住むヒデにとってはあまりに当たり前すぎる場所のようだ。
全国で2000ある白山神社の総本宮というのを知り、ナルホドと感心した。
これを書いていて気付いたのだが神社の写真を1枚も撮っていない。
あまりに強く氣を感じて写真を撮ることを忘れてしまったようである。
もともと写真を撮るのが目的ではないし、写真は残らなくても自分がそこで感じたことは心に深く刻み込まれている。
白山とそれを取り巻く自然環境、そこに長く住む人々の信仰心がこういった神社であり、そこに神が宿る。
今回の旅で何度目だろう、日本は護られている国だと感じ、そしてまた日本は大丈夫なんだろうなぁという思い。
旅を続けるうちに最初に感じた漠然とした想いは、今や強い確信となっていた。



神社で参拝を済ませ、次は近くにある獅子吼高原へ。
そこはゴンドラがかかっていて景色の良い場所なのだが、ゴンドラには乗らずその麓にある獅子ワールド館へ行く。
獅子吼とは仏教用語で獅子が吠える様子、仏の説法で真理を説き邪説を喝破すること、とある。
そんな大層な名前が地名になっているだけあり、そこは獅子頭の産地のようである。
獅子頭とは獅子舞の頭のアレだ。
獅子舞は知っているし生で見たこともないが、それがどこから来たかアジアのあちこちの獅子頭が展示されていて面白い。
そうやって見ると日本という国も、周りの国や民族の影響を受けて長い間に今のようになっていったのだとわかる。
違う角度で物を見る、ということに最近ハマっているのでこのような自分の知らない物事を学ぶのは楽しい。

金沢に戻り、金沢名物チャンピオンカレーを食す。
B級グルメというものが日本中で流行っているが、このカレーもその一つである。
カレー屋は金沢市内にいくつも店舗があるようだが、ヒデが連れて行ってくれたのはその本店で大学の近くにある庶民の味方だ。
店内にはカレー屋の創業当時から現代までの写真などが展示されていて歴史が見える。
味は普通に美味く、毎日食べても飽きのこないほっとする味だ。
日本に来てからの食事は圧倒的に和食が多く、行くとこ行くとこでは当地のご馳走を出してくれる。
もちろんそれは美味しくて又嬉しいのであるが、地元の人が日々の生活で食べるものを食べたいという想いもある。
そんな僕の欲求を満たせてくれた金沢カレー。
そもそもカレーはインドの料理でインドにはカレー粉というものはない。
スパイスを調合して作った料理をカレーと呼び、植民地料理をイギリスに持ち帰りスパイスの調合が苦手なイギリス人用にカレー粉というものができた。
そのカレー粉を日本に持ち込み、日本人の味覚に合うようにしてややとろみをつけたのが日本のカレーだ。
日本人は他所の食べ物を魔改造して美味い物を作り上げてしまうという特性がある。
ラーメン、カレー、アンパン、コロッケ、カツ丼、どれにも歴史があり今に至っている。
そこには食に対する真摯な姿勢と美味い物を食いたいという人間本来の欲求、好奇心や探究心といった遊び心、イチゴを大福に入れるなんて発想だれが思いつくというのか。
それらを全て包括した物が日本食なのではないだろうか。
そこでもう一度問いたい。
カレーは和食か?
僕の答えはまぎれもなくイエスである。



そのまま車で市内観光へ。
本格的な市内観光は次の日に行くということで、この日は街の中心部からちょっと外れた西の茶屋街へ。
金沢には西の茶屋街と東の茶屋街があり、東の方は結構な観光地のようである。
ブラブラそぞろ歩きをして、そこにある甘味処でぜんざいなんてものをいただく。
テーブルに置かれた炭火で餅を焼きぜんざいに入れて、茶店の奥の日本庭園を見ながらほっと一服、風流じゃのう。
金沢の街をヒデが運転する車に乗り感じたことは、どこの家も庭が綺麗だ。
きっちりと木々が剪定されて、手入れが行き届いている。
ヒデの家にも小さな庭が玄関先にあるが、小さいながらも日本庭園の流れが見えてとても好ましい。
北陸という土地柄、冬囲いという事をやらねば雪で木が折れてしまうので最低年に2回は庭の手入れをしなければならない。
これは南国では全く考えなくてよいことだ。
それに加え兼六園という日本三名園があるので、腕の立つ庭師が多いのは想像できるし組合や寄り合いのような職業集団だってあるだろう。
カリスマ庭師の師匠がいて、その技術の惚れ込み弟子入りするなんてのも絶対にあるはずだ。
こういう地域性というものに気がつくのも自分が他所者であり、他の地域と比較をするという事ができるからだ。
これが旅の醍醐味で、違う視点で物を観ることであり、今の世で必要な人文学でメタ認知(そうなのか?)なのである。



晩飯はヒデの家でじっくりと飲む。
北陸の名物といえば押し寿司で、それをリクエストして用意してもらった。
押し寿司と一言で言っても金沢の笹寿司と富山のます寿司と福井の鯖寿司と新潟の笹寿司ではそれぞれに違う。
金沢の笹寿司は笹の葉で包んであり、笹の葉は抗菌作用もあって腐敗を防ぐ保存食にもなる。
先人の生活の知恵というのは素晴らしいものだな。
それから午前中に行った鶴来で奥さんに頼んで買ってもらった手作りコンニャク。
コンニャク自家生産者としては、気になるところだ。
そして日本海の海の幸の甘エビとホタルイカ。
わーい、全部日本酒に合う肴だ。



その肴に合う日本酒、これが凄まじかった。
何がすごかったかって、その酒を飲んだ時に水の美味さを感じ取り、僕は呻いた。
「何これ!これはすごい酒だ!」
長年日本酒に関わってきたが、水の美味さを感じられる酒は初めてだ。
今回の日本の旅で行くとこ行くとこで美味しい日本酒を飲んできたが、間違いなくこの酒がベストだと言い切れる。
その名も手取川。
「手取川という川は今日の朝行った鶴来の所を流れている川だ」とヒデが教えてくれた。
さらに日本酒が好きな僕のために地元の友達に聞いて、それならこの1本だろうということでヒデが調達してくれた酒だ
確かに鶴来の街に行った時に、綺麗な川が流れているなと思った。
そうか、あの川かあ、色々な事が繋がるものだが、こういう物事の繋がり方は大好きだ。
そしてこの川の源流は霊峰白山である。
この酒蔵に行ってみたいと思った。
もちろん利き酒もしたいが、蔵に行ってこの水を飲んでみたいと思った。
水というのは地球上の全ての生き物、人間を始めとする動物や植物や虫や魚に関係なく、生きとし生けるもの全てにとって空気の次に大切なものだ。
当たり前のことだが当たり前すぎて人々はそこをあまり深く考えない。
そして失われた時に初めてその存在を知り、嘆く。



クライストチャーチも地震までは水道水が美味しい都市だったが、地震の後でカルキが入るようになり水が美味しくなくなった。
我が家でも山に行った時に水を汲んできたり、水道水にフィルターをかけたりしてなんとかやっている。
それでもニュージーランドはまだ良い方で、世界の中では水道の水が飲めないという国が圧倒的に多い。
そういう意味でも日本は水に恵まれた国だ。
美味しい綺麗な水が豊富というのは本当の意味で豊かなことなのだ。
自由市場経済を基盤とする資本主義社会では全ての物が商品となりうる、とはプロレタリア万歳の冒頭の言葉であるが昨今はあちこちで水源や水道システムが売られるようになっている。
まあそれもこの世の流れなので仕方あるまい。



そんな美味い酒をヒデの家にあった九谷焼きのおちょこで飲む。
いつものことながら何の事前学習もしなかったので九谷焼きの事は何も知らなかったが、金沢の名産品で市内にはいくつもの九谷焼きに店がある。
一言で言えば派手である。
黄色とか緑とか色とりどりで、書かれている物も鳥とか動物とかドラえもんとか何でもありだ。
わびさびとはエラい違いであるのだが、色々と見てみると何か芯というのか流れというのかがあるような気がする。
西洋の派手さ、中国の派手さとは違う、これはこれで日本の美なんだろうなぁと思うのである。
ヒデの家のおちょこは鶴が3羽描かれた物で、なんとなく気に入って、それをニュージーランドに帰るお土産にもらった。
物との出会いも人と同じでご縁があると思う。
お店で気に入った物を買うのもご縁であれば、友人宅にあった物をいただくのもご縁だ。
九谷焼きのお店を次の日にいくつか回ったがピンと来る物はなかった。
それよりもどういう経緯があるのか知らないがヒデの家で使っていたお猪口が何よりピンときたのだ。
地元の酒を地元の肴をつまみに地元の器で飲む。
ここへきてこれ以上のご馳走はあるまいか。
加賀の殿様もこういう器で酒を飲んだのだろうな。
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2024年7月24日 Porters

2024-07-26 | 最新雪情報
7月も終盤にさしかかるが雪が降らない。
気温はそこそこ冷えているが、低気圧が来ないので雪にならない。
今まで起こらなかった事がこれからも起こらないとは限らない、とは歴史を勉強して強く学んだことだが、今まで起こっていた事柄がこれからも続くとは限らないとは実体験で身を持って学んだことだ。
20年前、30年前にパウダーウハウハで滑っていた時には、まさか将来雪がなくなるなぞとは夢にも思わなかったが今はそうなりつつある。
良い悪いという話は別にして、実際にそうなっているという状況把握、そして認識を持つことは大切だ。
環境の変化は歴史上いつでも起こっていたが人間はその都度それに対応してなんとかやってきて、今の社会がある。
スキー業界で言えば人工降雪機というものができて、文明の力で雪を作りスキー場を運営してきた。
24日時点、この少雪でもスキー場がオープンできるのは人工降雪のおかげであり、それがなかったらとてもではないがスキー場はオープンできない。
実際に人工降雪施設のないクラブフィールドは未だオープンできないでいる。
人工降雪でやっていくためにはそれなりのエネルギーが必要で、電気やディーゼル燃料や労働力というエネルギーを回すにはお金が必要だ。
そのお金を生み出すために会社組織があり、資金運用をするためにリフト券を売る。
この辺は単純に資本主義の話だ。
そう考えるとリフト券が高いというのは当たり前の話で、それができない会社はつぶれる、スキー場は閉鎖となる。
昔はお金を湯水のように使っていたアライというスキー場で働いていたが、そこの会社も潰れ今は別の会社が運営している。
諸行無常だ。
まだスキー駆け出しの頃、長野のとあるスキー場で夜間の人工降雪の仕事をしていたことがある。
大きな扇風機で細かい水の粒を空中に飛ばし雪を作るのだが、気温がマイナス3度ぐらいまで冷えないと雪にならない。
スキー場が1日の営業を終了した後、マシンをセッティングして、さあ雪を作るぞという時点で気温が下がらずに雪にならずそのまま待機ということもあった。
気温が下がらないのなら人工的に気温を下げればいい、ということで囲いを作り空調を効かせ室内スキー場というものも登場した。
こうすれば自然環境に関係なくいつでも雪を作れるが、それに費やすエネルギーの量は跳ね上がる。
要はお金をふんだんに使えば、真夏でもスキーができる環境は作れるということだ。
何をどうすれば良いのかは分からないが、今の自分には雪が降るのを祈ることぐらいしかできない。
次の予報は月曜日に大きいのが来そうだが、期待をすると外れた時にがっかりするので期待しないように期待する自分がいる。


リフト脇のコースはイージーライダー。降雪機のおかげでこの雪の量にしては良い状況である。


7月も後半に成ると下部ゲレンデにも日が当たるようになる。遠くにはクライストチャーチを望む。


スキーパトロールも救助の練習。


名物コース、ビッグママは日当たりが良いのでこの状況。今シーズンは開くのかな。
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日本旅行記 8

2024-07-20 | 
ダイスケのすさまじいほどの盛り上がりっぷりから一晩明け、静かな朝を迎えた。
朝早くに仕事で出かけるアスカを見送り、ぼんやりと桜の花がちらほら舞う庭を眺めていた。
何気ない庭の、ある春の朝の一コマだが妙に心に打たれる情景である。
そこではっきりと気がついた。
桜は散りゆく姿が美しいのだと。
確かに満開の桜は綺麗だし見栄えが良いので、観光客がそれを写真に収めようとするのも分かる。
ただそれは綺麗に咲いた見栄えの良い景色を思いも馳せずにボタンを押しただけのもので、時間の流れはそこに映らない。
プロの写真家が瞬間を切り取るのとはわけが違う。
もっとひどい事を言えば、今の風潮は誰かがどこかで撮った写真を自分がそこにいって写すのが目的で、さらにSNSであげることが最終目標だ。
これは国籍に関係なく、世界中で同じような現象がある。
桜は満開もきれいだが、同時に散りゆく姿に本質があるのだと思う。
そこにあるのは時の流れと共に存在するなくなってしまうという現実、さらにその奥には生きることのはかなさと必ずやってくる死というものに対する死生観である。
これは生き物に限る話ではなく、文明や権力でも同じことを歴史は繰り返す。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。

有名な平家物語の冒頭であるが、平家にあらずんば人にあらず、と言ったぐらいの平家も滅ぶ。
永遠に続くと思われた徳川幕府も滅んだ。
世界に目を向ければ、全ての道はローマに通づると言われたローマ帝国。
ユーラシア大陸を蹂躙したオスマン帝国。
我が辞書に不可能という言葉はないと言ったナポレオン。
7つの海を制した大英帝国。
その他諸々、数え上げればきりがないが、みーんな栄えて滅ぶの繰り返しだ。
諸行無常だな。
桜という花はそれを現している、だからこそ日本でこれだけ愛されている。
そこに侍は死を見出し、いかに死ぬかという答えのない問いに、いかに今を生きるかという答えを出した。
死があるから生があり、生があるから死が来る。
当たり前の事だがあまりに当たり前すぎて誰も考えない。
桜の散る様はそんなメッセージを含んでいる。
そんな当たり前の事に改めて気づかせてくれた、今井家の庭であった。



この日、娘は白馬に戻り僕は金沢へ向かう。
旧知の友人ヒデが金沢に住んでいて「日本に来たら金沢に来てくれ。自分が全て案内するから。とにかく来い。つべこべ言わずに黙って来い」という具合に誘われていて、今回それがようやく実現した。
金沢までは新幹線で行くつもりだったが、エリが神戸に帰るので金沢は通り道だからというので乗せて行ってもらうこととなった。
新潟から富山へ入り親不知を超えたあたりから立山が見えた。
静岡や山梨の人が富士山を心の拠り所とするように、富山の人には立山がその存在なのだろう。
そう考えれば日本各地にある主だった山は山岳信仰の対象であり、山が神様なのである。
ニュージーランドの最高峰はアオラキマウントクックであり、マオリ族の神話に残っているぐらいに神様の山なのだが、やはり日本のそれとは何か違う。
どこがどう違うのか上手く言い表せられないが何か違う。
そしてまたどちらが優れていてどちらが劣っているという話でもない。
ただ単に違うというだけの話であり、僕はどちらも好きだし山を見れば自然に手を合わせ拝んでしまう。
そんな立山を横目に見ながら車を快調に飛ばし金沢に着いた。



ここで神戸へ帰るエリとお別れをして、そこからはヒデに案内をしてもらう。
まずはお昼時ということで、山深い所にある茶屋でニジマスの塩焼きだの山菜だのの御膳を食し観光へ。
向かったのは五箇山という谷間の小さな集落で、合掌造りの家が残る。
合掌造りと言えば白川郷が有名だが、白川郷のある庄川の下流にあるのが五箇山だ。
合掌造り=白川郷というイメージは強く、白川郷がブランド化していて皆がそこへ向かい、そこだけが全てだと思い込んでしまうのは大きな誤りだ。
人間は一部分の情報で全てを把握できるという勘違いをする性質がある。
テカポの星空がブランド化しているのと同じ構造であり、テカポで星空を見ることが旅の目的になっている人も多く、テカポでなければ意味が無い、なにがなんでもテカポという風潮には首を傾げてしまう。
白川郷と違い五箇山は規模が小さいのでそれほど有名ではなく、観光地になりきっていないので人も少ない。
人がうじゃうじゃいる観光地はあまり行きたくない僕にはおあつらえ向きである。



民俗資料館を見学し、ぶらぶらと散策して当時の人々の生活に想いを馳せる。
昔は流刑地だっとされ罪人が流されてきた場所であるが、今はそのおどろおどろらしさは微塵も感じられない。
表面的には日本らしさが残るのどかな観光地だが、過去には暗い歴史が渦巻いている。
こういう見方をするようになったのも、コテンラジオで歴史を勉強して人文学を学んだからだ。
人里離れたというより隔離されたような場所では、戦で重要だった火薬の製造が行われていた。
加賀百万石という北陸では巨大な勢力の末端で、人々は何を想い暮らしていたのだろう。
とある資料館では中で働いていた女性が当時の様子を事細かに説明してくれたが、これが素晴らしかった。
歴史や生活や当時の社会情勢など学問的な話もさることながら、その奥には彼女の郷土愛が根付いており、ガイドというのは本来こういう姿なのだろうと思い知らされたのである。



金沢に戻ってきて夜は街に繰り出す。
白馬や能生といった当たり前に夜は暗い場所から一転して、ネオンが眩い歓楽街へ。
金沢という街は北陸では一番の歓楽街があるようで、富山や福井といったお隣の県からも人が来るそうな。
こういうのも加賀百万石という歴史が関係しているのだろう。
連れて行ってもらったのは『ぴるぜん』という本格的なビール酒場で、ヒデが若い頃によく行った店だという。
ビール好きな僕としては、名前だけで喜んでしまう。
ドイツで生まれたラガービールがチェコのピルゼン醸造所で醸されてできたのがピルスナーというビールであるとか、なぜそこのビールが他所と違うのかはそこの水が軟水だったからだとか、それと同じような製法で作られたビールがアメリカに渡ってバドワイザーになったとか、そんなのを最近勉強したばかりである。
創業1968年というから55年、僕が生まれたのと同じ年だ。
ドイツ風の内装でビールは当然本格派、そして料理もソーセージとかビールに合うようなものばかりで嬉しい。
アナゴのフィッシュ&チップスというのをオーダーしたが、これがまた美味かった。
ニュージーランドのフィッシュ&チップスとは違う、日本のフィッシュ&チップスはやはり日本人シェフが日本人好みに作るのだな。
前日は新潟で海の幸山の幸をご馳走になったが、それとは一転して歓楽街でビール居酒屋。
表面的にはぜんぜん違うものだが、そこに流れる芯は同じである。
自分が好きな店に、この人が喜ぶだろうと連れて行ってくれる。
時に豪華絢爛な食事が最高のおもてなしとなるし、時に一杯のお茶が最高のおもてなしとなる。
それには主人と客人の関係性もあるし、季節や場所や時間といった状況その他諸々でその形は常に変わる。
だが奥にある物事の本質は同じで、それが茶の湯の心であり、和食の真髄なのである
和食が世界遺産になるという話は前回でも書いたが、一体和食とは何かという根本的な問いを考えなくては本質は見えない。
カレーは和食か?ラーメンは和食か?寿司は和食か?
歴史を辿れば寿司だって今僕らが思い浮かべる寿司と原型の寿司とはぜんぜん違う。
表面だけを見ず、その奥にある本質を見極めることで洋風居酒屋が和食の心になる。
ここでも本質とはつまり、大きな人間愛なのだと気付いた金沢の夜。


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2024年7月18日 Porters

2024-07-19 | 最新雪情報
毎年のことながら雪不足で悩まされる。
温暖化という一言で片付けられる話ではないと思うのだが、簡単な理屈づけを人は望むものだ。
ポーターズはオープンして2週間近くになるが、雪不足のためオープンエリアは下部のゲレンデのみ。
そして基本的に山は岩山なので岩や小石が多い。
コース内でも小さな石は転がっており、スタッフが常に石を拾っている。
スタッフは仕事としてやっているが、常にそこで滑っているローカル達や他のお客さんも気づいたら石を拾いゲレンデ外に投げている。
みんなが力を合わせ雪が少ないなら少ないなりになんとかやっていこうという姿勢は、変わりつつある自然界の中で人間社会のあるべき方向性と見るのは考えすぎだろうか。
そういう難しい話は別として、小さいスキー場はローカルが盛り立てている感じが強く、そこが好きなのだ。
リフトは下部だけだが、親にもらった足がある。
リフト終点から1時間半ほど歩き、山頂でゆっくりと自分だけの時間を取る。
また再びこの場所に立てることに感謝の念を抱く。


今シーズン、スキーパトロールとして入ったヤサは、娘の白馬での同僚でありルームメイトでもある。
ヤサが持っているのは誰かが自作で作ったのだろう、ゲレンデで石ころを拾う道具。
日本ではこんな仕事はない、と笑う。


この時期ゲレンデ下部は日陰の中。人工降雪機があるというのは少雪時の強みだ。


歩き始めは日陰の中を黙々と歩く。


途中で日陰から日向へ。このあたりまで登ると雲に覆われたカンタベリー平野も見えてくる。


山頂までもう少し。


山頂は無風快晴。
こういう所に立つと自然の大きさと人間の小ささを実感する。
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2024年 日本旅行記 7

2024-07-12 | 
白馬出発の朝、昨晩の約束通りみんなでお宮にお参りに行く。
オトシの家から歩いて5分もかからない。
ボコっとした、丘とや小山と呼ぶには小さすぎるような、まるでそこだけ突き上げたような地形の中にその祠はあった。
小さいながらも鳥居があり、その奥にひっそりと、まるで息を殺すかのように建っている。
ナルホド、ゲームもスマホもパソコンも何もない子供達が、かくれんぼや鬼ごっこをして遊ぶのには恰好の場所だろう。
そうやってここで遊んだ子供達ご大人になって大きな仕事をする話なんだな。
ふと思い出したが自分の家の近所にも小さな神社があり、そこで草野球だの鬼ごっこだのして遊んだものだったな。
カモメが前の晩に語ったお宮の秘密では、みんなでお参りをしたらカモメが神隠しになり行方不明となってしまうものだったが、そういった事も起こる事なく無事にお参りをした。
祠の周りは冬が終わったばかりだからか、雪の重みで折れて落ちた枝が多いが荒れ果てたという感じではない。
小さいながらもやっぱりここにも氏神様がいるのをひしひしと感じた。



娘が迎えに来てオトシ宅を後にした。
この日は古巣のシャルマン火打で一緒に滑り、その後で友達の家に泊めてもらうことになっている。
白馬から糸魚川までの道は姫川に沿って狭い谷間を走り、糸魚川に近づくと一気に視界が広がる。
ニュージーランドのアーサーズパスからグレイマウスに抜ける国道と似た感覚である。
しばらく走ると左手に日本海が見え、道は海岸沿いを行き能生に入る。
今は合併して糸魚川市になってしまったが、僕がいた頃は能生町(のうまち)だった。
自分の故郷の清水もそうだが、日本中どこでも合併合併で小さな町や村が大きな市に吸い込まれてしまった。
文化というのは狭い地域から生まれるもので、大きな町に吸収されると地域特性は薄まりどこにでもあるようなつまらない街ができあがる。嘆かわしいことだ。
日本海を背にして能生川に沿って谷間をさかのぼっていく。
4月も半ばになると雪もほとんど無いが、谷を進むにつれ雪が出始めて、その奥にスキー場がある。
シャルマン火打というスキー場に居たのは娘が1歳か2歳かそれぐらいだったから20年前か。
僕はその時はニュージーランドで長距離バスドライバーをしていたが、過酷な労働に耐えかね仕事をやめたところだった、
そこに相棒JCの誘いがあり、半年間という期間限定の出稼ぎでシャルマンでパトロールをすることになった。
当時は日本円がまだ強く、1ニュージーランドドルが60円ぐらいだったような気がする。
豪雪地帯で名高い上越地方なので雪の降りかたもすさまじく、仕事はハードだがやりがいのある職場だったし、パウダー目当てで集まる地元ローカルとも仲良くなった。
寮では夜な夜なギターを弾きながら飲むという事を繰り返し、ローカルで楽器が出来る人を集め西飛山ブルースハウスという名前のバンドも結成した。
僕とJCが同じ部屋で、そこがみんなの溜まり場であり、横の部屋にいたのが圧雪係のダイスケだった。
カズヤの事も事細かく書いたから今井ダイスケの事も書かねばなるまい。
僕らが20代の頃、バブル最盛期でマウントハットとかメスベンでブイブイ言わせていた時にカズヤと一緒にいたのがダイスケだった。
僕とJCがその頃セットで動いていたように、ダイスケとカズヤも二人で一組のような間柄だった。
大きく違う所は、僕とJCは対等の関係だが、ダイスケ達は圧倒的な上下関係があり、殿様と家臣のような主従関係なのか軍隊の指揮官と兵卒のようなものかダイスケの言うことには絶対服従であり、まさに体育会系のノリだった。
そんなカズヤにとっては王様のようなダイスケも僕には可愛い弟であり、ニュージーランドでも御嶽にいた時もよく遊んだし、シャルマンの時も毎日一緒に過ごした仲なのだ。
若い頃には本当によく飲んでバカなことをやったものだが、ある日いつものように飲んでいたら誰かがジャンプして軒先の梁に頭をぶつけ、突発的に誰が一番強く頭をぶつけられるか選手権みたいなことが始まり、ダイスケとカズヤがジャンプして頭をぶつけて「痛え!」などと頭を抱え込むのを見てみんなでゲラゲラ笑ったりしたものだった。
よくあの時に死ななかったと思うが、若いというのはバカで無知で分別がなく、途方もなく明るい。
シャルマンではダイスケは隣の部屋で、僕が二段ベッドの下で布団の中で本なぞ読んでると、暇を持て余したダイスケが狭いベッドに潜り込んで来て「ひっぢさ〜ん、遊んでくださいよ」などと言いつつ太ももを擦り寄せ「気持ち悪いなーダイスケあっち行けよ!」とゲイのユーマが聞いたら喜びそうな事もされた。
そんなダイスケに会えるのも9年ぶりだ。





シャルマンに着くとダイスケの妻のアスカが僕ら親子を迎えてくれた。
アスカも同じ時代をニュージーランドで過ごした仲間で、クラブフィールドにも出入りしたし家にも来た事があり、今では週に何日かスキーパトロールをして何日かは雑貨TREEというお店をやっている。
アスカがニュージーランドに来ていた時は娘がまだ3歳か4歳かそれぐらいだったのだろう、アスカは覚えているが当然ながら娘は覚えていない。
今シーズン半ばに娘がシャルマンを滑りに行くというので連絡して、その日は一緒に滑ってくれてその晩にアスカの泊めてもらったという間柄だ。
この日はやはりニュージーランドで一緒の時代を過ごしたエリが来ていて、アスカ、エリ、僕ら親子の4人で滑った。
お互いの近況や共通の友達の話、スキー場の状況や取り巻く人間関係など話は止まらない。
久しぶりに来た昔の職場では滑るうちに、ああ、そういえばここの地形はこんなだったなあ、ここではこんな出来事があったなあ、などと思い出す。
アスカはお昼からお店を開けるというので先に下り、我らは山頂のレストランで昼飯を食い、その後も数本滑る。
若い深雪はせっかく来た他所のスキー場なのでまだまだ滑りたい、エリはのんびり山菜など取りたい、そして僕は山頂からの景色を眺め若い頃に過ごした思い出にどっぷりと浸りたい、と三者三様なのでしばらくは自由行動。
バカな上司の下で働く人生の理不尽さも味わったが、それ以上に楽しい仲間との思い出も多いし、大雪の中で汗だくになって作業をしたことや死人を搬送した事など、酸いも甘いも苦いも辛い経験も全てが鮮明に呼び起こされる。
そういった経験全てが今の自分の心の中核となっている。
ここで働いたのは20年前だが、16年前に僕はイベントで再び訪れている。
ニュージーランドのブロークンリバーとの交流イベントで、当時パトロールだったヘイリーやクラブキャプテンのブラウニー、スキーガイドのヘザー、スキーメーカーのアレックス達と1週間を過ごした。
オフピステを滑るフリーライドの大会の走りのようなもので、これは伝説のイベントとなり同じ顔ぶれで集まることはもうないだろう。
懐かしい顔が揃った写真をオトシが送ってくれたので貼り付けておこう。




午後も早い時間にスキー場を後にして、温泉に浸かり世話になった親父さんに挨拶をして山を下る。
この親父さんも前はシャチョーと呼ばれていたが今では息子に代を譲りカイチョーになったようだ。
夕方まではのんびりと地元の道の駅やアスカの雑貨屋を見て回る。
雑貨屋では手染めのTシャツや手ぬぐいなど扱っていて、手染めのワークショップなどもやっている。
ここも地元に溶け込み地に足がついた暮らしをしている。
当時一緒にバンドをやっていたサイトーデンキという人が、今晩は用事で来れないからとわざわざアスカの店にウィスキーを手土産に来てくれた。
地元の電気屋さんで斎藤電気だが僕はこの人の下の名前をしらない、だが昔の仲間がこうやって会いに来てくれるのは嬉しいものだ。
ダイスケとアスカの家は店から車で5分ぐらいで、大きな家で部屋もたくさんあるので僕も娘も友達のエリもみんなそこに泊めてもらうのである。
海岸からちょっとだけ入った所にあり、海が見える家はサーファーのダイスケにはもってこいなんだろうな、古い家を綺麗に改装してある。
ダイスケは娘が働く八方尾根スキー場で圧雪の仕事をしていて、僕が来る日もひょっとすると仕事かもなんて言ってたが、休みが取れて家で待っていた。
娘はスキーパトロールで昼間の仕事、ダイスケは圧雪で夜の仕事なので面識は無いが、無線の声はお互いに聞いた事があるという関係だ。






ダイスケと再開を祝しビールなど飲んでいると夕方になり地元の友達が続々と集まってきた。
大工のノブさんはスキー好きなローカル代表みたいな人で、20年前からよく知っている間柄でダイスケの家の改装をしたと言う。
そしてパンチ家族。
パンチは僕がパトロールをしていた時に一緒に働いた仲間で、当時からパンチパーマだったのでパンチと呼ばれ今でも愛称はパンチである。
その当時は若くて独り者だったが、今は奥さんと娘二人で幸せそうだ。
他にも山菜を採ってもってきてくれた友達がいたり、魚のお造りを作ってくれた友達もいた。
この日の今井家の食卓はヤバかった。
なにがヤバイって、海の幸山の幸が所狭しとテーブルに並ぶ。
山の幸で言えばコゴミ、タラの芽、タケノコ、その他名前を忘れてしまったが、茹でてあったり、天ぷらにしたり。
旬の物の旨いこと。旬とは季節ごとの食材の一番美味い時であり、四季がある日本ならではのものだ。
そして山菜の旬は悲しいほどに短い。
ある時にはとんでもなくたくさんあるが、時間が経つとあっというまに育ちすぎて食べごろを過ぎてしまう。
その瞬間の旨さを最大限に引き出し、季節ごとの大地の恵みに感謝をする、というのが和食の基本であり日本の芯だと思う。
海の幸は皿に大盛りのカニが何杯分だろうか、それも全部剥いてあって食べる状態で並んでいる。
カニというものは美味いが剥くのに手間がかかり、気がつくとみんな無言でカニを剥く作業に徹するなんてことが宴会ではあるのだが、今回は大工のノブさんが全て下ごしらえで剥いてくれた。
さすが大工だけに手先が器用なのか、前回娘が一人で来たときもカニをたらふくご馳走になったようだ。
そして鯛や地元の魚のお造り、カワハギなのかウマヅラハギなのか刺身をキモを醤油に溶かして食すも美味、甘エビのまた甘いこと、そして食いきれないほどのカニ。
カニはアスカが地元の漁師の子供にスキーを教え、そのお礼にいただいたものらしい。
こんなふうな物と労働力の交換は本来の人間社会では当たり前にあるものだ。
極め付けはワカメ。
ワカメなんてものは実にありふれた食材であり、味噌汁の具がない時に乾燥ワカメを使ったりもする。
ただこの日のワカメはそんじょそこらのワカメと違う。
その日にダイスケが海に入って採ってきたものだ。
旬のワカメがこれほどまでに旨いものとは。まさに感動する美味さであり娘もびっくりしていた。
日本人はもっと海藻を食べるべきだと僕は常日頃から思っている。
食物繊維もビタミンもミネラルも豊富な健康食で、海に囲まれた日本ではどこでも取れる。
今回日本に帰った時も、北海道の昆布のプロに連絡をして昆布をたくさん買ってきたし、アオサやその他の海藻類をお土産に持ってきた。
とにもかくにもそういった食材が食卓に並び、新潟の旨い酒がある、文字通りご馳走だ。
ご馳走とは高い食材を遠くから運んでくることではない。
自分が走り回り、旬の旨いものを用意して客人にもてなすことだ。
ダイスケが自ら海に入って採ってきたワカメ、ノブさんが剥いてくれたカニ、友が作ってくれたお造り、別の友人が採ってきてくれた山菜、地元産の米。
食べ物に囲まれてなんと豊かな土地なんだろう。
貧しいとは物が無いことではなく、有り余るほどの物がありながら足りないと嘆く心の状態を貧しいと言うのだ。





「今日の食材は全部この辺で採れたものなんでよう」ノブさんが自慢気に言った。
こういうおらが自慢は大好きだ。
これだけの食材が取れる土地に根付く友の顔ぶれを見て、僕は今回何度目かの日本は大丈夫だなという気持ちを感じた。
食料自給率が低いと言われる日本だが食べ物が無いわけではない。
要は今の西洋文明主体の生活を続けるのには自給率が低いわけであって、実際に品目別に見ればコメの自給率は100%だ。
だからと言ってパンをやめてコメを食えばいいという短絡的な考えではない。
社会構造の話だが食料自給率が低いからなんとかせにゃいかんと、生産側を変えていく方に目を向けがちだが同時に消費側も考えなくてはならない。
年間2000万トンとも言われる廃棄食材いわゆるフードロスを減らすというのも一つの鍵だが、それには利権にまみれた食品業界の闇に光を当てる必要がある。
基本に戻ってそこにあるものを食う、その時にあるものを食うという当たり前の考え方、これは思考の問題なのでもある。
日本食が世界遺産になる話があるが、世界遺産というブランドでその本来の考え方が薄まってはいないか。
ただ単に美味い不味いという話ではなく、根底には自然をコントロールするのでなく四季の変化に人間が合わせる生活、そして海の恵み大地の恵みを慈しむ心、ひいては人それぞれが持つ生き様、その上で味を追求する探究心や技術の向上、人をもてなすという上での茶の湯の心、そういったもの全てを包括したものが日本食である。
この晩の食卓にはそれら全てがあり、日本食の真髄をまじまじと見せつけられた。
だから日本は大丈夫だと感じたのであり、その根底にあるのは大きな人間愛だ。
それにしてもこの晩のダイスケのはしゃぎっぷりはすごかった。
僕が来たのがそんなに嬉しかったのか、ダイスケ節が炸裂して僕らは大いに飲み食いし大いに笑った。
あまりに笑いすぎてヒビの入った肋骨が折れるかと思ったぐらいだ。



続く
コメント
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