あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

何故僕らは野菜を育てるのか。 家庭菜園をする理由。

2024-02-03 | 


庭で野菜を育て始め十数年になる。
自分が若い時にはまさか自分がそんなことをするなんて思いもしなかったが、なんとなく今までやってきて、たぶんこれからも死ぬまでやり続けることだろう。
何故自分は野菜を作るのだろうか。
自分が野菜を作らなくても生きていける。
ちゃんと働いて、自分の時間と労働力を資本家に売って代償に金を貰えば、その金で野菜は買える。
世の中には自分で野菜を作っていない人の方がはるかに多い。
生産者と消費者が分かれることにより、社会を維持する効率が上がる。
分業は人類の歴史を見ても社会の発展に欠かせない。
例えば日本で言えば江戸という消費型の大都市ができ、それを支える生産社会が周囲にできた。
生産と消費が分かれ、さらに陸運や海運という流通システムが進んだ。
生産者と消費者をつなぐものは金であり、金融のシステムも発展していった。
漠然と、本当に漠然とだが、そうやって社会が進化したとも言える。
では何故その流れに乗らずに自分は野菜を作るのか?
物事を論理的に考えることで、自分の内側を観ることができる。
あるポッドキャストでうまく言語化したものがあったので、それを元に自分なりに考えてみた。




家庭菜園をやる動機は一つだけでなく、複数の動機から成り立っている。
それぞれの動機が占める割合は人によって違う。
先ずはつらつらとその動機を挙げてみよう。
・お金の節約の為
・美味しい物が食べたいから
・安全で健康な物を食べたいから
・絶対的な善行
・社会的意義
・見栄 世間体
・健康の為
・楽しい 面白いから
ざっと思いつくのはこんなところかな。
ではそれぞれに自分なりの考えを述べてみる。




先ずはお金の節約の為に家庭菜園をする。
これは何も間違っていないし、自分のできることで生活費の支出を減らすということを古今東西人間はやってきた。
ただしお金の節約を最優先にしている人の場合、長くは続かないような気がする。
逆を返して言えば、お金があるならやらないということだ。
よく人に言われるのが「卵や野菜にお金がかからなくていいですね」というセリフだが、そこに関わる労働力や時間や様々な支出を考えると、自分で作っているからと言って完全にタダというわけではない。
人がいかに物事の一面だけをみて全体を把握するかという話でもある。



次に挙げたのが美味しい物を食べたいから。
僕の場合はここがかなりの割合を占める。
基本的に食いしん坊で凝り性なので、美味しい卵かけご飯を食べたいという理由で鶏を飼い始めた。
取りたてで新鮮な野菜や卵の美味さは作った人の特権である。
作る人だから知る、野菜や果物の一番美味い瞬間というものがあるのだ。
そして似た話で安全で健康な物を食べたい。
これは美味しい話に繋がるが、食の安全という観点で自分が作った物ならそれがはっきり見える。
これも家庭菜園という少量多品目だからこその話でもある。
自分のところではキャベツを作っているが、数が少ないので青虫などは自分で探し出して鶏のエサにしてしまう。
だが見渡す限りのキャベツ畑でそれができるかと問われれば答えは否である。
そうなったら薬をまくしかない。
たまに化学肥料や農薬を全否定する人がいるが、今の社会はそういう物事の上に出来上がっている。
全てをオーガニックにして今の世界の人口を養えるとは思えない。
僕個人で言えば否定も肯定もしない。
自分で作っていない野菜は八百屋で買うが、作っている農家には敬意を払うというところだ。



次に挙げたのが絶対的な善という概念。
善は良い物であり悪は悪い事なので良い事をしましょう、という勧善懲悪的なおかつ単純な二元性で社会はできているわけではない。
この人にとって良い事は別の人にとって悪い事という例えはいくらでもあるし、「人は善い行いをしながら悪い事をして、悪行の中で善い行いをするものだ」と鬼平も言っている。
歴史を学んで分かったことだが、ある出来事がこの時代では良かったが別の時代では悪いこととなりさらに次の時代では良くなるなんてこともある。
つまり良い悪いという概念は、時代や社会や立場によってコロコロ変わるものなのだ。
そんな中で、人間が食べる物を生産するという行為自体は何の後ろめたさもない絶対的に正しい事であり、良いことであり善行なのだ。
家庭菜園で野菜を作っていると言えば、全ての人に褒められ、けなされたことは一度もない。
まるで神様が後押ししてくれるような心地良さ、それが絶対的な善なのであり、それを行う快感のようなものがある。



社会的意義。
これは善と重なるところもあるが、自分がそれをすることによって人に与える影響があるという話。
白馬に住むカズヤ宅や北海道のガイドの山小屋宅でも庭の畑で野菜を作っているが、モデルになったのは我が家の畑だと言っていた。
自分だって人がニワトリを飼っているのを見て「ああ、これならうちでもでもできそうだなぁ」とイメージが湧いた。
そのようにまだやっていない人に、やる勇気を与えるという一面もある。
とかく人は勝手に「そんなのむずかしいんじゃないか」というハードルを作るが、そのハードルを下げる役割とも言えよう。
友達からそういう話を聞くと、まあ自分がやっていることも単なる自己満足ではなく、社会的意義もあるのかと納得するのだ。



はいそして見栄や世間体。
「こういうことを自分はやっているんですよ。どうです、すごいでしょう」というような見栄は自分にもある。
でもそれが全くないとしたらそれはそれで人間臭くなくてつまらないじゃないか。
誰もがそういう想いを持っているから、SNSでも家庭菜園のコミュニティもあるし、庭自慢みたいな投稿もある。
「みんなもっと褒めて、もっと認めて!」と承認欲求の固まりになったら嫌味だが、ほどほどにそういう気持ちを持つ分には人間らしさという感じで良し。これまたバランスだな。



健康の為。
人は土に触れることで免疫力が高まる、という話をどこかで読んだことがある。
そういうこともあるかもな、と漠然と思った。
最近ではエビデンスを出せとか科学的根拠は?とか言う輩が多いが、なんとなくそう思うというのは理由としてありだと思う。
そして適度な運動は体に良いのはわかりきっている。
これまた程度の問題でもあるが、気持ち良く働くのは精神的にも良い。
これが仕事として農業をやるとなれば話は別で、時にやりたくない作業をしたり働き過ぎで体調を崩すこともあるかもしれない。
だがたかが家庭菜園、いやいややるとか自分の体調を崩してまですることではなかろう。
嫌ならやらなきゃいい、あくまで自分の気持ちでという精神的な健康面はある。



最後に楽しいから面白いから
ある時にうちの畑を見た人が羨ましそうに言った。
「ずいぶん面白そうな事をやっているなあ」
その人は農業関係で働いているが、最近ではシステムを回す仕事が増えて実際に現場での仕事は少ないと言う。
農業に関わる人が畑を見れば、その人の考え方、実力、行動力、果ては生き方や世界観まで見えるだろう。
僕が畑をやっているのも面白いからというのが最大の理由である。
自分の目の届く範囲で色々な実験をやっているような感覚だ。
時に上手くいくし時に上手くいかない。
上手くいかない時にはどうしてかと考えたり、情報を探したりという自主的な勉強もする。
上手くいった時には嬉しいし美味しいし、自然に大地に感謝をする感情が芽生える。
そういうの全てひっくるめて面白いのである。
人間誰しも嫌いな事はやりたくないし、楽しい事はいつまでも続けていられる。
だけど生きていくためには嫌いな事もやらなくてはならないのも事実だが、そのバランスをとりながら人は生きていく。
自分が楽しくて、なおかつそれが世のため人のためになるならこんなすばらしい事はない。
人が行動を起こすのは常に複合的な理由がある。
畑をやるのも理由はたくさんあり、その割合も人により様々であるし、同じ人でも時間が変わればそれも変わる。
こうやって構造的に物を考えると、自分が今どれぐらいの位置にいるんだろうと俯瞰で物を見ることができる。
そんな事をぼんやりと考えながら、たぶんこれからも野菜を作り続けるのだろうな。



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コンニャクの花

2023-12-05 | 
今更ながら半世紀という時間を生きてきた。
その間に色々な経験をしたものだ。
どうでもいいような経験もあるし、自分の軸を作り上げるような貴重な経験もした。
ちなみに自分は徹底現場主義であり、現場で行うことがこの世の全てだと思っている。
これは自分の思想なので、そう思わない人に無理やりこちらを振り向かせるつもりはない。
ただ世の中で、知った気になっている人があまりに多いので、今回は一言物申す。
例えば何か知らない事があったとしよう。
そうするとすぐにググって答えを見つけ、あたかもそれが自分の知識のようにエラそーな顔をする。
確かに知識を身につけるのは良いことであるが、何か違うような気がするんだよなあ。
そうやって取って付けた知識と、身を持って体験した知識は明らかに違う。
全ての知識を自分の経験から得るのではとても足りないので、人は外から知識を得る。
知識を得ることでも、例えば1冊の本を読んである事象について語るのと100冊の本を読んで事象を語るのでは違う。
本当に100冊の本を読めば、ともすれば正反対の事が書いてあるかもしれない。
それらの情報を自分でふるいにかけ、自分が信じるものを選ぶという事をやっているのだ。
これは知識の厚みとでも表現すればいいか。
スマホでちゃっちゃと得る情報とはわけが違う。
そして又、人は家族がやっていた事や、自分の所属した組織でやっていた事を、自分の経験と混合してしまう節がある。
A君は僕の家でニワトリを飼っているのを見て「うちの爺ちゃんちでも飼っていた」としたり顏で言ったがそれは文字通り爺ちゃんが飼っていたものであり、A君がやった事ではない。
ニワトリの雛を買ってくるのか自分で孵すのか、そして雛から成鳥になるまで大事に育て、卵を産むようになったら殻を強くするためにカルシウムなど餌に混ぜ、卵を産まなくなったらその鳥を殺すところまで。
それは爺ちゃんがその時々で判断して起こした行動であり、その責任は爺ちゃんにあるのだが身内という事でA君は自分でやった気になってしまったのだろう。
B君はうちの庭を見て、農業高校の実習でやったから自分は農業のことは分かります、とこれまたしたり顔で言った。
確かに実習では作業をしたのであろうし、農業の事は勉強したのであろう。その自負が自分は知っています的な態度に表れていた。
学校でやる事はカリキュラムに沿って行う実習であり、この時期にはこれをやりなさいという事を先生が教えてくれる。
誰がレールを敷いたかは考えず、敷かれたレールの上を走り自分が全てやった気になってしまう。
こういう勘違いをする若者に送る言葉はこれだな「農業は毎年一年生」
これは何十年も専業で農家をやってきた人が言う言葉だから重みが違う。
トライアンドエラーのエラーから学ぶ事は多いのだ。
経験を積みあげて自信も付き、なんとなく分かるようになった頃に考えられなかったような出来事が起こり失敗する。
これは農業に限らず、どの仕事でも生活でもあることだ。
そうやって失敗をするから経験値が上がるのだが、結果至上主義の世の中は失敗を負の面でしか見ない。
だから料理のサイトでも「失敗知らずの⚪️⚪️」などという言葉が使われる。
失敗は低評価の元であり出世の妨げであるので、失敗をしない事を前提とした実につまらない人間が出来上がる。
一つ失敗をしたら何故そうなったのか冷静に分析し研究しそうならないように工夫するのが人間だ。
そしてそれでもうまくいかない事が起こるのが農業なのではないだろうか、と思う。



タイトルとは全く違う方向に話が行ってしまったのだが、今回言いたい事は経験を積め!である。
我が家ではコンニャク芋を育てて数年経つが、今年初めてコンニャクに花が咲いた。
コンニャクの花は『悪魔の舌』と異名が付くように、細いグロテスクな棒状の花であり、お世辞にも綺麗とは呼べない。
そして又、臭いのである。
どんな臭さかと言うと、動物の屍体の匂いである。
温室の中でこの匂いがした時には壁の向こうでハリネズミが動けなくなって死んでいるのかと思った。
壁の向こうの隙間なのでどうしようもなく、そのまま分解されるのを待つしかないと諦めてもいた。
だがなんとなく違うぞと思い始め、さらに日中の温度が高くなると匂いが強くなることも分かった。
何かの拍子でコンニャクの花の根元に顔を近づけると、あの腐乱死体の匂いがした。
これかあ、この花の匂いかあ、と思いそこからコンニャクと花のキーワードで検索すると、コンニャクの花にはそういう匂いがすると出ている。
実体験を持ち、それをネットで検証するという、時代に反逆するようなやり方でコンニャクの花は臭いという知識を僕は得た。
コンニャクの花が臭かろうがどうだろうと実生活には全くもって影響を与えず、本当にどうでもいい情報である。
ただこういう事を体験として知ることで、自分の人間性の厚みが0・001ミリぐらい厚くなったであろう。
情報には自分が実際に経験した第一次情報と、出処が分かって検証もされている二次情報と、出処の分かっていない三次情報とがあある。
僕がガイドをやっていて喜ばれるのは自分の経験、すなわち一次情報の厚みであろう。
山を歩いたことがない人がどれだけ知識をつけようが、実際に山を歩いている人の言葉の重みにはかなわない。
若い世代に常に言っている「若い時の経験は人生の財産」というのはそういうことだ。
コンニャクの花は臭いという、本当にどうでもいいことでブログの話がまた一つできた。
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近況と庭の話

2020-11-01 | 
普段ならそろそろ夏の仕事でクィーンズタウンへ行く時期である。
だが今年は日本からのツアーの仕事は全く無い。
3月にロックダウンが始まった時に、なんとなくそうなるのかなぁ、と思っていたのだがやっぱりそうなった。
こういう勘が当たってもあまり嬉しくない。
今の状態だと日本にも気軽に帰れない。
親父もいい歳だが、死んでも葬式にも出られないわけだ。
去年帰った時に「俺も簡単にパッと帰って来れるわけでない、だけど今死ねば俺があんたの葬式に出られるぜ。今夜あたり、三途の川を平泳ぎで渡ってみたらどうでしょう」なんてことを言ったのだが、シャレにならなくなった。
まあ今でも電話では「美味い物を好きに食べてポックリ死ね」と親父には言っている。
ともあれクィーンズタウンでのツアーの仕事は無くなった。
酒蔵の仕事もそれほど忙しいわけではなさそうだ。
別の仕事の誘いもあることはあったのだが、色々と考えこの夏はクライストチャーチに居ることに決めた。
脳天気に見えて色々と考えるのである。
今は細々と仕事を探しながら、農業兼主夫の毎日である。
主夫と書いたが元々の言葉は主婦であり、その後で主夫という言葉が出来てきたのだろう。
昔は女が家の事をやり、男は外で働くという公式があった。
今は世の中が変わってきていて、女が外で働くのは当たり前になっている。
それでいて家事や育児もするのだから女の人は大変だ。
もちろん旦那もそれなりに手伝いをするのだろうが、家の中の事は奥さんがやるのが一般的だ。
だから奥さんの事を家内と呼ぶのであろう。
看護婦は看護師になったが、主婦は主夫で主師にならない。
種子なのか主旨なのか主枝なのか朱子なのか殊死なのか、分からなくなるから無いのか。
それとも心の奥底で女は家にいろ、と男尊女卑の考えがあるのかどうかは知らん。
とにかく『しゅふ』は主婦であり主夫なのである。
主夫の主だった仕事では毎度毎度の炊事であろう。
もともと料理をするのは好きなので、炊事は苦にならない。
最近の我が家での流行りは、ピリ辛ローストナッツ。
ピーナッツやカシューナッツ、アーモンドやクルミなどをクミン、スモークパプリカ、カイエンペッパーなどで和え、オーブンでカリカリに焼く。
これだけの物だが絶品でありビールによく合い、食べ過ぎキケンである。
そしてザワークラフト。
キャベツを塩でもみ、瓶に詰めて2週間ほど発酵させる。ただそれだけ。
材料はキャベツと塩だけだが、これだけのものが文句なく美味い。
発酵食品万歳である。



普段は夏はクィーンズタウンに居るので庭のことがほとんどできない。
今年はちょっと気合を入れて野菜も育ててみようと思っている。
野菜作りはあくまで自分そして家族ありきなので、自分が好きな食べ物を作るのが基本だ。
女房の大好物がソラマメなので、毎年ソラマメは大量に作る。
冬を越したソラマメが大きくなって食べ頃である。
人間誰しも好きなものばかりではない。
嫌い、もしくは苦手なものもあるが、そういう野菜は気持ちが乗らない。
それは無理に作る必要は無い。
体に良いから、というだけの理由で野菜を作りたくはない。
美味しくて体に良いから、というなら有りだろう。
畑を見ていれば、何が旬なのか自ずと分かる。
旬の野菜は先ずなんといっても美味い、そして体に良いのだ。
旬の物を食べていれば、そうそう病気になることもない気がする。

野菜を作る上で大切なのは土作りである。
今までも土作りをやっていたが、今年はコンポスト置き場を拡張した。
トタンの板を安く買ってきて支えを立て、外側は庭から掘り出した大きい石と粘土で固めた。
そこにある物を上手く使うというのが好きなのだ。
左右二層式で片方の土を使う間に、もう片方で土を作る。
庭木を切った葉っぱや小枝、芝生を刈ったものなどは今まではゴミとして出していたが、今ではそのゴミもなくなった。
雑草はニワトリのエサになった後でコンポストへ。
調理の時に出る野菜クズや残飯も、もちろん土になる。
鶏糞は良い肥料だ。
EM菌によるボカシも自分で作っているので、堆肥の分解は格段に早い。
ミミズも多量にいるし、その他の微生物も多い。
山積みにした堆肥があっというまに沈んでいく様は見事である。
微生物のおかげで僕らの暮らしが成り立っていると言っても過言ではない。
そうやって自分の庭で消費と生産を循環させるのが、何となく心地良い。
それには色々な作業が必要なのだ。
そういった作業を喜んで楽しんでやるのか、もしくは面倒臭いけど仕方なくやるのか。
その意識の持ち方で結果も変わってくるのだと思う。



庭の野菜は大きく分けて二通りある。
種を蒔いたり苗を買ったりして、きちんと植えて育てる物。
そしてこぼれ種から雑草状態で育っていくもの。
こぼれ種はシルバービート、春菊、コリアンダー、ごぼう、大根菜、セロリ、人参、シソ、パセリなどがある。
こういった物は植物が発芽する時期を知っているのだろう。
何と言っても強い。
畑の脇とか雑草の中とか思いもよらない場所でも育つ。
そこに植物の意思のような物を感じるのである。
植物に意識は無いという意見もあるだろうが、それは人間の思い上がりだ。
植物にも動物にも意識はある。
野菜を育てるのに声をかけるなんてバカバカしい、と思う人とは友達になれない。
その行為をするかどうかは自分で決めるが、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいの感覚を持つ人とつきあっていきたい。
霊の存在を信じるかどうか、と言い換えても同じことである。
ちなみに僕はミミズにさえ話しかける。
畑以外の雑草を抜いている時に大きなミミズが出てきたりすると、「君はこっちで働いてください、ありがとね」と言ってコンポスト置き場に入れるのだ。



雑草状態で生えてくる物と別に、きっちりと手入れをしてあげる野菜がある。
例えばトマトなどは放っておくと脇芽が育ち茂みになり、結果的に実が小さくなってしまう。
そら豆は茎を支えてあげるし、蔓系の豆はネットに絡まらせて育てる。
暑いのが好きなもの、ある程度寒さに強いもの、風に強いもの弱いもの、日当たりが悪くても育つもの、雑草の中でも育つもの。
これは植物の種類によって様々だ。
そういった個性を知り、それにあった環境を作ってあげる。
植える場所も色々と考えてやるのである。
今年は山芋(長芋)を頑張って育ててみようと思い、トタンの波板の端切れを地面に埋め込んだ。
山芋は掘るのが大変ですぐに折れてしまう。
そこでトタン板を地面に斜めに埋め込み、それに沿わせて植えてみた。
さてどうなることやら。



そうやって野菜を作っていると家族では消費できないぐらいの量ができる。
それはそのまま友達家族の食卓にも行き渡る。
物事は奪い合えば足りなくなるが、分け合えば余るのだ。
マウントクックに住むタイの娘アイリは3歳になるが、きゅうりを見ると僕のことを思い出すらしい。
去年の夏にうちのきゅうりを食べてよっぽど美味かったのだろう。
きゅうり=ヒッジさん、という公式が彼女の中で出来上がったようだ。
ようし、それなら今年はもっと美味いヤツを作ってご馳走してあげよう、と色々なきゅうりを植えてみた。
子供に美味しくて健全な食べ物を食べさせるのは大人の役目だ。
人の子は地球の子。
子供は世界の宝と言うではないか。
アイリよ、もうすぐ美味いきゅうりを食わせてあげるからな、首を洗って待ってろよ。
ん、なんか違うか。





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そうだ!軒を造ろう。

2018-10-01 | 
庭の一角に雑木林がある。
物置の陰にあり日当たりが悪い場所だ。
木々の間に穴を掘り堆肥を作っているが、それ以外は手入れもせず、雑草が生えるのに任せてある。
前々から一輪車やらスコップやらを置く場所が欲しかった。
物置の壁を利用して軒をつくり、道具置き場にしてはどうか。
僕の庭仕事は思い付きで突発的に始まり、ある程度進んだところでいつも後悔する。
草ぼうぼうの時の写真を撮っておけばよかったと。
なので今回は、まず写真を撮るところから、パチリ。



まず向かったのは車で10分ぐらいの所にあるエコショップ。
この店は市内のゴミセンターに集まる物で、使える物を再利用するお店だ。
ガラクタも多いが、充分に使える物もあるし、自分で直せば使える物、工夫して別の使い方をする物など様々である。
市内にある店で、ここより安い店はない。
昔はスーパーシェッドというだだっ広い倉庫があり、そこでは扱っている物の半分がガラクタだった。
今はそのスーパーシェッドが無くなり、もうちょっとガラクタ率を下げ、エコショップとなった。
家から近いということもあるが、週に一回ぐらい訪れ掘り出し物を探すのが好きだ。
広い敷地内は建築材料、家具、食器、電化製品、庭の道具、子供用のおもちゃ、スポーツ用品などなど。
30年ぐらい前の新品同様のノルディカのスキーブーツがあったりして面白い。
ここでトタン板を発見。
これは使えるなと思ったらすぐに買う。
欲しいものが常にそこにあるとは限らない。
トタン板2枚で10ドル。
ダイニングチェアが普通なら5ドルのところをその日のスペシャルで1ドル。
庭で使うように2つ購入。

さて庭を見ながらあれこれ考える。
基本はできるだけ新しいものを買わずに、そこであるものでなんとか組み立てる。
こういうことを考えるのが好きである。
金を出して新しい材料を買ってきて組み立てるなら誰でもできる。
そこをアイデアを振り絞り、なんとかする創意工夫、そして行動力。
庭の片隅の温室もそうやって作った。
物置の壁にコンクリート舗装の時に使った木材を打ちつけて、その上にトタン板を載せよう。
木を切ってスペースを作り柱を立てようか、と思ったがまっすぐに生えてる木をそのまま柱にしちまおう。
トタン板を支える木材は、以前温室を造った時の残りの材でいける。
柱の木と桟を繋ぐ直角の金具は、ハイエースを売る前にばらしておいた内装の金具がそのまま使えるぞ。
裏庭にたくさんある10cmぐらいのコンクリートブロックを敷き詰めれば、簡易舗装で床もできる。
方針が決まれば、後は行動である。
やるかやらないか、行動が全てだと思う。
金が無い、時間がない、忙しいを理由に行動をしない人は、金があっても時間があってもやらない。
やる人は金が無かろうが時間が無かろうがやる。
やらない人というのはなんだかんだ理由をつけて、自己正当化し言い訳をするものだ。
♪なんもやってねーでやってらんねーはねーだろ。
やってらんねーのはなんもやってねーからだろ。
と竹原ピストルも唄ってる。



庭の畑仕事の合間にコツコツと作業をして、それなりの軒ができた。
こうやって少しずつでも庭が変わっていく。
その進化を見ていくのが好きだ。

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瑞穂です。

2017-02-07 | 
みなさん、こんにちは。聖君の姪の瑞穂です。
あ、うちではお父さん以外、みんな叔父さんのことを聖君って呼んでいるんだよ。
昔からそうだったので今でも瑞穂は聖君って呼んでるよ。
9月にしぞーかからニュージーランドに来て、もう5ヶ月になるんだね。
最初にこのブログに出たのはポーターズのスキーからブロークンリバーデビューまで。
あれから瑞穂はどうしていたかと言うと、クィーンズタウン近辺をちょっくら旅をして、バンジージャンプもしたしルートバーンにも連れて行ってもらったよ。
ガイドをしてるって聞いたけど、聖君はこうやって仕事してるんだなあ、とちょっと感心したっけ。
その後でグレイマウスのバッパーで年末年始は働いてたよ。
財布を落としてあわくってたら親切な地元の人が届けてくれたりとハプニングもあったけど、色々と楽しかったっけ。
グレイマウスの仕事を終えて、西海岸とワナカを旅して先週アロータウンにやってきたよ。
グレイマウスは良い所だったんけーが、雨が多くてやるせなくって、この辺りの乾燥した感じは嬉しいやあ。
アロータウンではとりあえず聖君のフラットに転がり込んでいろいろやったさー。
聖君をてんだってビールも造ったもんで、ここでもビールはたくさん飲んだよ。


最初にやったのはジャガイモの収穫。
食べられるのを採って、そこに土をかけておけばまたできるなんてことも初めて知ったよ。


10分ぐらいで、たんと取れたよ。いかいのもあった。


取れたての芋でポテトサラダに。茹でて皮をむいて塩と酢で下味をつけたよ。


ポテトサラダの下ごしらえをしたら、ちょっくらサイクリングに行かざあ。


近くにこんな素敵なサイクリングコースがあるよ。


自転車でつり橋を渡るなんて初めて!


途中でラズベリー発見。バカ美味いよ!


バンジージャンプ並みの高さのつり橋もあって、下を見るとけっこう怖いよ。


翌日は天気も良くて、ごせっぽかったもんで山へ。


こんな所も登ったよ。


そして絶景ポイントへ。


後ろから聖君を撮ったよ。


こんな所を通るからちょっと怖かったっけ。


晩御飯はドラム缶の燻製器でスペアリブの燻製。


美味しそうって言うと「美味しそうじゃないんだ。美味いんだ」って言われちゃう。


付け合せはポテトサラダと庭のレタスのシーザーサラダ。
もちろんどれもバカ美味いらー。

今は聖君がしばらくクライストチャーチの家に行っているので、その間アロータウンの家に住ませてもらっているよ。
アロータウンの家は山小屋風で居心地がいいし、家の前には大きなプラムの木があって、あきゃー実がたんとなってるもんで毎日プラムの実を取ってパクパク食べてる。
このプラムの実が甘くて美味しいだよー。
聖君が言ってた、木で熟したフルーツは美味しいって、こういうことかと思ったね。
これからはクロムウェルあたりでフルーツピッキングの仕事でもしようかな、なんて漠然と考えているよ。
まだまだこの先どうなるか分からないけど、どうにかなると思えばどうにかなっゃうんだよね。
そんな瑞穂でした、またね~。
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庭の話、あれこれ。

2016-07-01 | 
家事仕事と庭仕事の毎日である。
スキー場のオープン予定は先週末だったのだが、雪が無くオープンは延期。
まあ無いものは仕方あるまい7月になったら降るさ、と楽観的に考えているのである。
おかげで庭仕事が進むこと、この上ない。
庭にあった大きな柳を切り倒しファイヤーウッドにして、それを友達のサムの家へあげた。
我が家には暖炉はないので、もらっていってくれると助かる。
木を切る作業、それを片付けて薪にする作業は楽ではないが、こういった作業は嫌いではない。
我が家にあった根っこが腐って傾いだ柳の木。
放っておいたら倒れてフェンスを壊してしまうだろう。
そうでなくても夏の間に大きな枝が落ちて隣家との間のフェンスを壊したのだ。
被害はたいしたことなかったので修理したが、放っておいて向こう側に倒れたら目も当てられない。
その木が薪になり、友達の家庭を暖めてくれる。
僕にとっては自分の家も友達の家も同じこと。
野菜を作るのも、ガイドの仕事をするのも、薪にするのも、どれも大切な仕事なのである。
仕事という自分の行動を自分だけのためにするのか、それとも広い範囲で人間のためにするのか。
その人間のためというのは友達もそうだが自分も含む。
意識をどこに置くかで、同じことをやるにしても結果は変わる。
サムから薪のお返しにと、彼の家でいらなくなったレンガを80ばかりもらってきた。
これで庭にかまどを作ろうと思っている。
行く行くはピザオーブンなんかいいな。

りんごの木を植えたのは数年前になるか。
今年もよく実をつけた。
何年か前には鳥よけにネットをかぶしたのだが、今はやめた。
その時は鳥に食われること=損するという考えだった。
今は共存と言うかおすそ分けと言うか黙認と言うか。
全部食われて自分たちの取り分が無くなったらそれはそれで困るが、そういうこともなく、まあ鳥もほどほどに食べている。
そして鳥の食いかけを取ってみると、それがまた旨いのだ。
今までは食われるのがもったいないので一斉に収穫したのだが、今は赤くなったものから食べる分だけ木から取って来て食べるようにした。
りんごもやはり新鮮なものは美味い。
我が家のりんごの品種はフジなのだが、中に蜜がたっぷり入って甘く、適度な酸味とのバランスがよい。



先日ニュージーランドでは、というか南半球では冬至を迎えた。
これから冬に向かっていくのだが、太陽が出る時間は長くなっていく。
今まで日陰になっていた場所もこれから日が当たったいく。
今年は大木をばっさりと切ったので、日当たりも今以上に良くなるはずだ。
2週間ぐらい前に植えたニンニクがぼちぼちと芽を出し始めた。
ニンニクは冬至に植えて夏至に収穫というのが暦の上での目安だ。
今年も150株ぐらい植えただろうか。
今年は普通のニンニクに加え、空いている場所にエレファントガーリックを10株ぐらい植えてみた。
エレファントガーリックとは巨大ニンニクで味はややマイルド。
粒がでかいので料理にも使いやすい。
はてさてどんなのができることやら。

最近は木の引越しもした。
フィジョアという果物をご存知だろうか。
そう、あの緑の、中はクリームっぽく、やや甘いし酸味もある、あのフルーツ。
これを知らない人に伝えるのに何と言えばいいのか長いこと迷っていたが、ある所で「バナナとパイナップルの中間のような果物」という形容を読んだ。
なるほど言いえて妙、その例えは近いな。
でもバナナよりクリームっぽいし、パイナップルほどジュクジュクではないし、フィジョアはやっぱりフィジョアなのだ。
このフィジョアと言う木は熱帯のものだが寒さにも強い。
というわけでクライストチャーチあたりでも良く育つ。
我が家はみんなこれが好きなので、何本か苗を買って植えてみたのが数年前。
その時には初代ニワトリのヒネが死んだので、土に埋めてお墓代わりに木を植えた。
名前をつけたら食べれなくなっちゃうからね。
二世代目のニワトリのプクが死んだ時に、またその横にもう1本フィジョアを植えたのだが、これが大きくなって手狭になった。
そう、木というのは植える時は小さいものだから、どうしても間隔を狭く植えてしまう。
木がもっと大きくなると移植をするのが難しくなるので、まだ若いうちに移動しておくのだ。
柳の木の奥にスペースができたのでいずれはその辺りを果樹園にしようか。
ワナカのケンさんからビワの苗木をもらってきてあるので、それも土地に植えられるのを待っている。
ビワは以前から欲しいなあと思っていたのだが、この国にあるのは知らなかった。
3月にネルソンに行った時にモツエカの友達の家に行った時にそこで初めて見た。
いいなあ、そのうちにガーデンセンターで見たら買おうかな、なんてことを考えていたらケンさんの所に苗木があり、それを頂いた。
欲しいと思うものは常に手に入る。
そういう風にできている。



温室の中ではトマト、きゅうりが寿命を終え、今はレタスやほうれん草が育っている。
去年の春に植えた唐辛子が未だに元気で、まだまだ実をつけている。
多量に唐辛子が取れたし、ラー油は以前作ったものがまだ残っているのでタバスコ作りにでも挑戦しようか。
今は便利なものでネットでちょっと検索すればタバスコの作り方だって出ている。
それほど難しいものではなく、タバスコもお酢による醗酵食品だと知る。
新しいことを知り、やってみるのはいつもワクワクする。
大切なのは走り続けることではない、走り始め続けることだと竹原ピストルも唄っている。
新しいことを始めるのと同時に継続もまた大切。
庭の土作りは継続的な仕事であり、こういう目に見えない仕事をおろそかにしては野菜作りなどできない。
そういったもろもろの物事が複合的に重なって、庭という空間で輪廻の世界がある。
生き物が育ち土に還る。
その間で我らは生きる。
そんなことを庭仕事の合間に考えた。









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全く子供ってヤツは世話がやけるぜ。

2016-06-18 | 
今は冬が始まる前に色々な家の仕事をする時期である。
大体、秋と春に2回石鹸作りであったり、土作りであったり、そういったイベントがあるのだが1年に1回のイベントもある。
ニワトリの入れ替えである。
まあ簡単に言うと古くなったニワトリを絞めて食っちまって、新しく買ってくるのだ。
まず古いヤツ、と言っても一昨年買ったヤツを絞めるところから始まる。
もう卵を産まなくなって久しいので可哀想だがあの世にいってもらおう。
捕まえる前に手を合わせ感謝の意をブツブツと唱える。
「今まで美味しい卵を産んでいただきありがとうございます。君の命は余すことなくいただきますので、ちょっと怖いだろうけど堪忍ね」
そして鶏を捕まえて足を縛り、木にぶら下げて頭に血を昇らせる。
犬のココは既に察したのか興奮しているが、家の中に閉じ込めておく。
ガラス越しに外に出たそうにして恨めしそうにこちらを見ているが、ニワトリの貴重な命はココのおもちゃではない。
しばらくして鶏がぐったりとしたら、首元の血管をナイフでザクッと切る。
毎度のことながらあまり気持ちの良いものではないが、これもまた避けては通れない道である。
手を合わせお経でも唱えてあげたいところだが、あいにくお経を知らないのでナンマイダナンマイダと唱える。
鶏は血をたらーっと流して時折痙攣したが、やがて静かになった。
人間も動物も鳥も死ねば全てホトケ様、ここからは作業である。
先ず羽根を毟るのだが、そのために熱い湯に浸す。
もう死んでしまったから犬が来ても恐怖を感じないだろうと、出たがっていた犬を出したら、そののココがやってくれた。
僕が家の中でお湯を汲んでいるわずかな隙にニワトリの首元をかじっていたのだ。
「あー、このバカ!お前、それはフライングだぞ!」
ココの頭に拳骨をゴツン。
あたりは既に毛が散らばり、噛み千切られた胃袋から未消化の餌がこぼれた。
きれいにやらないと、後片付けが大変なのだ。
まずお湯に浸し毛穴が開いたところから毛を毟っていくのだが、ココは毟った毛の根元を噛んだり食べたりしている。
あらかた毟ったところで頭を切り落とし、そこに転がしておくと、ココは尻尾を振りながら、バキッガキッと食い始めた。
まあ食うのは勝手だがそれを見たくないので背中を向けて作業を続ける。
次に足を切り落とすと、それも生のままバキバキとやっている。
よく犬に鳥の骨を与えるのは悪いなどと聞くが、我が家の場合、これで死んだらそれが寿命だと思ってあきらめてもらおうという方針だ。
なので鳥の骨も豚の骨も鹿の足も魚の頭も全部与える。
食えるものは自己責任で食え。
手羽も元から切り落としたら、細かい羽根ごと食っちまった。
ワイルドだなあ。
さてここからは家の中での仕事だ。
はらわたを出す作業は肛門の周りを切り取り、腸を傷つけないように手で掻きだす。
何回もやるうちにコツを掴んできたのだな、今回はレバーも崩れないように出来た。
レバー、心臓、砂肝は人間用にとっておいて塩焼き。
モツは中のウンコを洗い流し、卵管や卵巣、その他の何か分からない器官と一緒に茹でたらココが喜んで食った。
あとは骨から肉を外しガラにする。
肉はとても固いので後から叩いてつくねにしよう。
ガラはスープを取りカレーにした。
その鶏ガラもココが喜んで食う。
こうやって名無しの鶏一匹、跡形も無く消滅した。
これでいいんだと思う。

さて残りは1歳のニワトリ3羽。
ここに3羽買い足すのだ。
女房と一緒に家から30分ぐらいのドライブでアカロアへ行く途中のリトルリバーという所へ行く。
ギャラリーを覗き気に入った小物を買い、こ洒落たカフェでコーヒーとケーキの後で養鶏場へ。
養鶏場と言っても牧場の一角にあり、建物の中ではなく放し飼いである。
女の人が慣れた手つきでニワトリを箱の中へ押し込む。
「はいはい、そんなに暴れなくていいわよ。新しいお家へ引っ越すんだから」
なんかほのぼのしてていいなあ。
今回買ったニワトリは生まれて3ヶ月ぐらいのもの。
ちなみに気になるお値段は1羽$28なり、3羽で$84毎度あり~、ちーん。
この種のニワトリは卵をたくさん産む種類で、1日1個毎日産む。
2歳近くまで産み続けるから400から500個ぐらいの卵を産むだろうか。
多い時には1日6個の卵である。
家で食べきれない時には近所や友達へおすそ分け。
我が家だけでなく友達家族をも幸せにしてくれる。
その投資として考えれば安いものだ。

さて無事に我が家へ着き、ニワトリ達が恐る恐る箱から出てくる。
そうそう最初に羽根を切らなきゃ。
ある程度大きくなってからだが重くなると飛ぶのをあきらめるが、若くて軽いうちは習性なんだろうな、高いところへ飛ぼうとする。
ニワトリエリアに植えてあるいちじくの木の枝の、上の方へ上の方へと行きたがる。
いちじくの木に登るぐらいならかわいいものだが、飛んでフェンスを飛び越えたら、そのままココの餌食になってしまう。
なので羽根を切るのだ。
そして毎回恒例だが、いじめ問題。
ニワトリの世界にもいじめはある。
これはもうどうしようもない。
どこぞの教育委員会のように「君たちいじめはいかん。やめなさい」などと言ってもやめるわけがない。
なので本人達でなんとか解決してもらうしかないのだ。
先輩方は後輩が餌をつつくのが気に入らないようなので、最初のうちは餌をふんだんに与える。
そうするとだいたい1週間ぐらいで逃げ方も上手くなり、そのうちに仲良くやるようになるのだ。
人間の世界でもこれぐらい上手くやってくれたらなあ。
よく人間の世界でのいじめは「いじめられる方は悪くなくいじめる方が悪い」と思われがちだがそれは違うと思う。
どちらが悪いという考え方では解決しない問題だろう。
極論で言えば、どちらも悪くなくどちらも悪く、どちらにも責任はある。
僕も昔いじめられたこともあるし、いじめたこともある。
一つの事柄を被害者は善で犯人は悪という考えではなく、双方で一つの事柄を起こしたという考え方。
ちなみにこの考え方は今の世の中ではあまり受け入れられない。
人間は表面だけ見て全てを把握したいのだが、目に見えないことが鍵になっているということはいくらでもある。
もっと言えば目に見えない物事の方が大切なのに、人間はそこから目を背けている。
話が脱線したな。
夕方になると先輩方はさっさと止まり木に登り寝る体制になるのだが、若い奴らは鳥目の癖に宵っ張りなのか、新居になれていないのか、いつまでもうろうろしている。
そいつらを捕まえて止まり木に止まって寝ることを教えてやるのだが、そのままちょこんと座る物もあるが、落ち着かないヤツもいる。
落ち着かないヤツは先輩方の方へ行き、つつかれることもあるし、時には先輩を止まり木から下ろしてしまうこともある。
暗くなってからニワトリ小屋へ行き、下で寝ているヤツを止まり木の上へ乗せてあげる。
真っ暗になるとさすがに下が見えなくて観念するのか、そのまま寝る。
これまた慣れるのに1週間ぐらいかかる。
全く子供ってヤツは(人間でも動物でもニワトリでも)世話がやけるもんだぜ。
そこが可愛いんだけどね。



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鶏糞肥料

2015-10-06 | 
土作りは農業の基本であるが今回は肥料の話。
我が家ではニワトリを飼ってその糞を肥料にしている。
毎朝ニワトリ小屋の中の糞を拾いそれを貯めておいて、貯まったら土の中で寝かせる。
その作業を1年に2回、秋と春の仕事が忙しくない時にやる。
オガクズと鶏糞を混ぜ容器の中で半年、そして土の中で半年。
一年後にはいい肥料ができあがる。
この時間を掛けるというのがコツだと思う。
鶏糞もオガクズもそのままでは畑に使えない。
時間をかけることによって微生物に分解されいい土になる。
パッとやってサッと出来上がるのを求めるのが現代社会の特性のようだが、時間が必要なものもある。
さらに土の中で熟成させることで何か分からないが良い影響が出るような気がする。
我が家の庭には他にも堆肥用の大きな穴が3つ、犬の糞用の穴が一つある。
犬の糞は肥料にせずにそのまま土に還してしまう。


半年間地中で寝かせた土は臭みは全くない。


それを掘り起こして袋詰め。


穴は空になり、半年分の肥料ができた。これらは物置で保管。必要に応じて使う。


ニワトリ達はこの横木の上で寝るので朝にはこの下に糞が固まる。


オガクズと一緒に糞を拾い容器の中で貯めるのが半年。


それを一輪車で運びEMボカシを多少混ぜて穴に投入。


こんな具合で容器は空になり、ニワトリ達は周りの小さな虫を食べる。


穴はいっぱいになりまた半年間熟成だ。

この一年に2回の作業がわりと好きで、サイクルの中に自分がいるのが実感できる。
ニワトリ小屋もきれいでニワトリも(たぶん)喜ぶ。
良い肥料で野菜も喜び、美味しい物ができ人間がそれを食べて喜ぶ。
健全なシステムでは誰も不幸にならない。
それに関わる人も物も全て幸せになる。
それには自分の行動ありき。
行動をすれば結果はついてくる。
そしてこういった仕事に終わりはない。
次はニワトリ小屋の中にまくオガクズを仕入れて、それを袋詰めにして保管という作業が控えている。
僕はこういった作業の中に自分の存在を見つけ喜びを感じる。
仕事とは本来は楽しく生き生きとやるものである。
さて、今日は何をしようかな。


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にわにはごわにわとり

2015-07-24 | 


ニワトリを買ってきた。
前は4羽いたのだが僕が日本に行っている間に犬のココに襲われ、1羽死亡。
もう1羽も毛をむしられショックで卵を産まなくなってしまったので、締めて食っちまった。
残ったのは2羽。
これらはまだ卵を産んでいるが、今までのスペースに2羽はちょっと寂しい。
なので3羽買って合計5羽。
2羽飼うのも5羽飼うのも手間は変わらない。
今まで買ったのは生後2~3ヶ月ぐらいのもので、体も小さく古株にいじめられていた。
鳥の世界でもいじめはあるのだ。
今回は生後4ヶ月。
体もある程度大きく、先輩達に追い回されることもなく平和にやっている。
やはりある程度にぎやかなのがいいなあ。
思えばニワトリを飼い始めたのが5年前。
こんな話も書いたっけなあ。

庭には二羽ニワトリ

あれから5年、初代と二世代目のニワトリは名前をつけたので死んだ後、庭に埋めて木を植えた。
それからのヤツは我が家で食べてしまった。
庭も変わり、ニワトリコーナーにはイチジクと梨の木が育っている。
娘もそれなりに大きくなり、ブログに載せられるのも恥ずかしい年頃になった。



というわけで今年は5羽。
うまくいけば毎日5個の卵がとれる。
ちなみに卵は1日1個までというのは古い話らしいね。
それが単に古い話なのか、もしくは裏があるのか知らないが、1日2,3個食べても大丈夫。
それでも自分の家だけではとても食べきれないので、友達や近所にもおすそ分け。
卵はたいていの家で喜ばれる。
我が家の卵と共に幸せの波は広がる。
今年は新しい卵料理でも作ってみようかな。





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にんにく

2015-06-25 | 
梅雨時の日本からニュージーランドに帰ってくると真冬の寒さだった。
最低気温はマイナス5度にも下がり、あわててダウンジャケットを引っ張り出した。
二ヶ月も留守にしたのだから、帰ってきてからもやることは山積みにある。
ニワトリ小屋の糞の掃除をして、新しいオガクズを入れた。
僕の留守中にニワトリが脱走して犬のココにかみ殺された。
こういう出来事は必ずと言っていいほど僕がいない間に起こる。
襲われたのは四羽のうち二羽でもう一羽は首の辺りの毛をむしられたがなんとか生きている。
ただこういう事が起こるとショックで卵を産まなくなってしまうことがある。
そうなったらしょうがない、我が家で美味しく食べてあげよう。
日本の友達に美味しい鶏の食べ方を教わってきたのだ。

日本にいた時から気になっていたのがニンニクの植え付け。
ニンニクは冬至に植えて夏至に収穫というのが基本だ。
いつもは5月ぐらいに早々と植えるのだが、今年はちょうど冬至の頃にやる。
雑草を抜き取り、ニワトリコーナーへ捨てるとニワトリ達が食べてくれる。
土を耕し、寝かせておいた鶏糞を混ぜて均す。
去年収穫したニンニクのうち、粒の大きい物を選んで等間隔で植えていく。
こういった作業を黙々とやる。

やり始めて感じた。
ああ、この感覚、これが労働なんだと。
二ヶ月の間、体を使って働いたのは、山小屋の家の近くの草刈をして溝を掃除したくらいだ。
自分で動き、じかに手で土を触る感覚。
僕の場合これが基本になっている。
作業をしながらもいろいろな事を考える。
日本の事、世界の事、自分の人生の事。
答が出ないことを知りつつなおかつ考えるのが禅問答なのだが、農作業をしながら僕は考える。
そうするうちに心は澄み渡り、土にニンニクに目に見えない微生物に愛着が湧く。
そして湧き出る感情は感謝である。
感謝は強制されてするものではなく、心の奥から込み上げる感情だ。
そしてまた他人にそれを求めてもいけない。
土も水も空気もニンニクも自分も一つになる。
これがワンネスだ。
一種の瞑想のようなものだが、作業をしながらそれを行うのが作務なのである。

作業がひと通り終わったら水をかけて語りかける。
「さあさあみなさん、起きる時間ですよ~。大きなニンニクに育ってくださいね~」
これってけっこう大切だと思うな。
かくして今年のニンニクの植えつけも無事終わり、ひと安心。
芽が出た状態で冬を越し、夏にはまた収穫祭りをするのだろう。
季節は巡りその中でぼくらは生きる。
冬の仕事場であるスキー場にも雪が降り、今週末にオープンする。
冬になれば雪が降るのが当たり前だったのだが、その当たり前の雪が去年は降らなかった。
夏は暑く冬が寒いという当たり前もこの先は分からない。
先が分からないので、今ある状態を当たり前と思わずに感謝をしつつ日々を過ごしていけばと、ニンニクを植えながら思うのであった。







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