親離れ
2013-12-24 | 日記
タイトルとは全然関係ないが、警察の世話になる、という言葉がある。
こんな僕も若い頃に警察の厄介になったことがある。
今回はその話から。
あれは僕が12才のことだった。季節は春。学校は春休みで僕は家でゴロゴロしていた。
理由は忘れてしまったが、ささいな事で父と大喧嘩をした。
母親がいれば仲裁に入っただろうがあいにく外出していて、僕の怒りはおさまらず家出を決意した。
家出と言っても金があるわけでもなし。所持金は800円ぐらい。
隣町の婆ちゃんの家へ行こうと思ったわけだ。
ボストンバッグに荷物を詰めて家を出ようとした時にちょうど晩飯ができた。
父親特製のスパゲッティミートソース。
我が家ではスパゲッティは熱々で麺が伸びる前に食べなくてはいけない、という決まりがあった。
その時も家出を父に告げるとちょっとびっくりしたようだが「まずはこれが伸びる前に食え」とスパゲッティを出された。
スパゲッティは旨く、お腹がふくれたら家出なんかどうでもよくなってしまった。
『あーあ、なんか面倒くさくなっちゃったなあ。このままマンガでも読んで寝たいなあ。でもさっきはあんなに怒って家を出るなんて言っちゃったしなあ』などと思っていたら父が言った。
「おまえ、どうせ金もないんだろう。これをやるからどこでも好きな所へ行って頭を冷してこい。」
そしてズボンのポケットからお札を出して、僕に手渡した。
一万円札が5枚。
給料日直後だったのか、何故そんなお金がポケットに入ってたのか知らないが、僕は目を見張った。
「どうせ一人でほっつき歩いてたら警察につかまるのが落ちだから、これを書いてやろう」
そして紙に住所や連絡先を書き『こいつには一人で旅をさせています。ほっといてください』というようなことを書いて、ご丁寧にハンコまで押してくれた。
それまでは、『行き先、婆ちゃんち。所持金800円。移動距離、30km。期間1~2日、母が迎えにくるまで。』だったのがいきなり『行き先、自由。所持金50800円。移動範囲、日本国内。期間、春休みが終わるまで。』しかも通行手形まで手に入れた。
先ほどまでの仏頂面はどこへやら、僕は喜び勇んで家を出た。
さてどこへ行こう。西か東か、北か南か。
誰にも束縛されないで全て自分の行動を自分で決めるとはなんと気持ちのいいものだろう。
そんな思いで列車の時刻表を開いた。
当時、僕達小学生男子の間で流行っていたのがブルートレイン。
夏休みの早朝に早起きして友達と写真を撮りに行ったものだった。
よし、あれに乗ってやれ。友達に自慢できるぞ。
時間を調べると、静岡に停車する汽車は深夜12時。
うーん、そんな時間まで時間をつぶすあてもなし。
それこそ家出少年だと思われ捕まってしまうだろう。
一度東京に新幹線で出て、そこからの始発に乗るというのもなんだしなあ
というわけで西へ行く進路は却下。
次に思いついたのは北への進路。
東北本線を見ると、上野発仙台行きの寝台急行というのがある。
うーん、寝台特急じゃなくて寝台急行かあ、ランクが下がるなあ。
でもたぶん青い客車のブルートレインだろうし、時間もちょうどいいしこれにするか。
静岡から新幹線で東京へ、乗り替えて山手線で上野駅へ行き、仙台行き寝台急行に乗り込んだ。
車輪がレールの継ぎ目を通るカタンカタンという音を聞きながら僕は眠りについた。
翌日早朝、ぼくは仙台駅に降り立ち、再び時刻表を開いた。
さてどうすんべえ。
今度は昼間の特急に乗りたいな。
ちょうどいい時間に山形方面に行く特急があるぞ。
よし、これにしよう。その沿線で目についたのが天童。
そういえば昔、まだ小さい頃に家族旅行で天童って行ったなあ、よし行き先はここだ。
午後も早い時間に天童に着き、駅前をぐるっと見ると大きな将棋の駒が目に入った。
天童は将棋の駒が有名な所で、この温泉旅館も大きな将棋の駒を看板にしていた。
ああ、ここは覚えているぞ。家族で来た時もここに泊まったんだ。
よし、今夜の宿はここだ。
僕は宿屋に入り番頭さんを呼んだ。
「すみませーん、今晩泊まりたいんですが、部屋はありますか?」
「はいはい、部屋はありますが・・・。僕、お父さんかお母さんは?」
「いません。一人で旅をしているんです」
事情を説明すると番頭さんは宇宙人を見るような目で僕を見た。
「え?え?え?、じゃあ一人で静岡から来て一人でここへ泊まろうっていうの?」
「はい。ダメですか?料金は先に払ってもいいですよ。」
「いや、あの、ダメじゃないけどねえ。僕、本当に一人なの?」
らちがあかないので伝家の宝刀、通行手形を見せた。
「うーん、じゃあちょっとこっちへ来て。」
僕はオフィスで待たされ、10分後にミニパトで婦警さんが現れ、30分後に天童警察署にいた。
番頭と全く同じ会話を繰り返し、僕は通行手形を出し、婦警さんはご丁寧に実家に電話をかけ、事実が確認できると僕は無罪放免となった。
そして婦警さんは悪いと思ったのか、宿へ送りがてらそのままミニパトで市内観光へつれていってくれた。
幸か不幸か警察のお世話になったのはその時だけだが、色白でほっぺたが赤い、可愛らしい婦警さんだったことを覚えている。
その先は秋田か青森か、青函連絡船で北海道か、と考えていたのだが、何か用事ができて帰ってこいと家から電話が来て、同じルートで家に戻った。
本当はもっと旅を続けたかったのだが、スポンサーの意向にはさからえないし、それこそ本物の家出少年になってしまう。
かくして12才の僕の一人旅は幕を閉じた。
ここでタイトルに戻る。
親離れ。
子供が成長するにつれ、子供はいろいろな判断を自分でするようになる。
一人旅なんてその最たるものであろう。
可愛い子には旅をさせろ、と昔からの言葉にあるとおりだ。
ちなみに僕の初めての一人旅は、7才の時に20キロ離れた婆ちゃんの家へ1日かけて歩いていったものだが、あの時の自分の行動を全て自分で判断して決める快感は今も忘れない。
大人の今ならば、行ったことのない山への単独行に感覚は似ている。
それを許してくれた父の愛。
親離れをするには、まず子離れできる親が必要なのである。
一般的に母親というのは子供を心配する傾向があると思う。
それはそれでかまわないのだが、自分というものをきっちりと持っていないと子供の自立心の芽も摘み取ってしまう。
「一人旅?そんな危ないことはさせません。何かあったらどうするの」
子供が大きくなっても、心配の度が過ぎて受験や就職試験についてくる親がいるという。
親バカはいいがバカ親や自立できない親は救いようがない。
子供は親の加護から離れ学ぶことがある。
今回こんな話を書いたのも娘が一人で日本に行ったからである。
娘は12才、ぼくが東北へ一人旅をしたのと同じ年である。
一人と言っても向こうでは叔母が面倒を見てくれるし、行き帰りの飛行機も僕の友達と一緒なので完全な一人旅ではない。
だが、1ヶ月もの間、親から離れて外国で過ごすことはいい経験だろう。
「ほら、見てごらん。ニュージーランドとはここが違うだろう。」と親に教わるのではなく自分の目で見てニュージーランドとの違いを学んでくるだろう。
それが経験であり、財産なのだから。
今回は冬なので日本のスキー場へも、もう行ったようだ。
というのも女房伝いに娘の近況を聞いたからだ。
ブロークンリバーで生まれ育った娘が日本のスキー場で滑ったらどう感じるのだろうか。
それとも親が思うほど考えることなくリフトやゴンドラでスキーを楽しんでいるのか、いずれにせよ話を聞くのが楽しみである。
こんな僕も若い頃に警察の厄介になったことがある。
今回はその話から。
あれは僕が12才のことだった。季節は春。学校は春休みで僕は家でゴロゴロしていた。
理由は忘れてしまったが、ささいな事で父と大喧嘩をした。
母親がいれば仲裁に入っただろうがあいにく外出していて、僕の怒りはおさまらず家出を決意した。
家出と言っても金があるわけでもなし。所持金は800円ぐらい。
隣町の婆ちゃんの家へ行こうと思ったわけだ。
ボストンバッグに荷物を詰めて家を出ようとした時にちょうど晩飯ができた。
父親特製のスパゲッティミートソース。
我が家ではスパゲッティは熱々で麺が伸びる前に食べなくてはいけない、という決まりがあった。
その時も家出を父に告げるとちょっとびっくりしたようだが「まずはこれが伸びる前に食え」とスパゲッティを出された。
スパゲッティは旨く、お腹がふくれたら家出なんかどうでもよくなってしまった。
『あーあ、なんか面倒くさくなっちゃったなあ。このままマンガでも読んで寝たいなあ。でもさっきはあんなに怒って家を出るなんて言っちゃったしなあ』などと思っていたら父が言った。
「おまえ、どうせ金もないんだろう。これをやるからどこでも好きな所へ行って頭を冷してこい。」
そしてズボンのポケットからお札を出して、僕に手渡した。
一万円札が5枚。
給料日直後だったのか、何故そんなお金がポケットに入ってたのか知らないが、僕は目を見張った。
「どうせ一人でほっつき歩いてたら警察につかまるのが落ちだから、これを書いてやろう」
そして紙に住所や連絡先を書き『こいつには一人で旅をさせています。ほっといてください』というようなことを書いて、ご丁寧にハンコまで押してくれた。
それまでは、『行き先、婆ちゃんち。所持金800円。移動距離、30km。期間1~2日、母が迎えにくるまで。』だったのがいきなり『行き先、自由。所持金50800円。移動範囲、日本国内。期間、春休みが終わるまで。』しかも通行手形まで手に入れた。
先ほどまでの仏頂面はどこへやら、僕は喜び勇んで家を出た。
さてどこへ行こう。西か東か、北か南か。
誰にも束縛されないで全て自分の行動を自分で決めるとはなんと気持ちのいいものだろう。
そんな思いで列車の時刻表を開いた。
当時、僕達小学生男子の間で流行っていたのがブルートレイン。
夏休みの早朝に早起きして友達と写真を撮りに行ったものだった。
よし、あれに乗ってやれ。友達に自慢できるぞ。
時間を調べると、静岡に停車する汽車は深夜12時。
うーん、そんな時間まで時間をつぶすあてもなし。
それこそ家出少年だと思われ捕まってしまうだろう。
一度東京に新幹線で出て、そこからの始発に乗るというのもなんだしなあ
というわけで西へ行く進路は却下。
次に思いついたのは北への進路。
東北本線を見ると、上野発仙台行きの寝台急行というのがある。
うーん、寝台特急じゃなくて寝台急行かあ、ランクが下がるなあ。
でもたぶん青い客車のブルートレインだろうし、時間もちょうどいいしこれにするか。
静岡から新幹線で東京へ、乗り替えて山手線で上野駅へ行き、仙台行き寝台急行に乗り込んだ。
車輪がレールの継ぎ目を通るカタンカタンという音を聞きながら僕は眠りについた。
翌日早朝、ぼくは仙台駅に降り立ち、再び時刻表を開いた。
さてどうすんべえ。
今度は昼間の特急に乗りたいな。
ちょうどいい時間に山形方面に行く特急があるぞ。
よし、これにしよう。その沿線で目についたのが天童。
そういえば昔、まだ小さい頃に家族旅行で天童って行ったなあ、よし行き先はここだ。
午後も早い時間に天童に着き、駅前をぐるっと見ると大きな将棋の駒が目に入った。
天童は将棋の駒が有名な所で、この温泉旅館も大きな将棋の駒を看板にしていた。
ああ、ここは覚えているぞ。家族で来た時もここに泊まったんだ。
よし、今夜の宿はここだ。
僕は宿屋に入り番頭さんを呼んだ。
「すみませーん、今晩泊まりたいんですが、部屋はありますか?」
「はいはい、部屋はありますが・・・。僕、お父さんかお母さんは?」
「いません。一人で旅をしているんです」
事情を説明すると番頭さんは宇宙人を見るような目で僕を見た。
「え?え?え?、じゃあ一人で静岡から来て一人でここへ泊まろうっていうの?」
「はい。ダメですか?料金は先に払ってもいいですよ。」
「いや、あの、ダメじゃないけどねえ。僕、本当に一人なの?」
らちがあかないので伝家の宝刀、通行手形を見せた。
「うーん、じゃあちょっとこっちへ来て。」
僕はオフィスで待たされ、10分後にミニパトで婦警さんが現れ、30分後に天童警察署にいた。
番頭と全く同じ会話を繰り返し、僕は通行手形を出し、婦警さんはご丁寧に実家に電話をかけ、事実が確認できると僕は無罪放免となった。
そして婦警さんは悪いと思ったのか、宿へ送りがてらそのままミニパトで市内観光へつれていってくれた。
幸か不幸か警察のお世話になったのはその時だけだが、色白でほっぺたが赤い、可愛らしい婦警さんだったことを覚えている。
その先は秋田か青森か、青函連絡船で北海道か、と考えていたのだが、何か用事ができて帰ってこいと家から電話が来て、同じルートで家に戻った。
本当はもっと旅を続けたかったのだが、スポンサーの意向にはさからえないし、それこそ本物の家出少年になってしまう。
かくして12才の僕の一人旅は幕を閉じた。
ここでタイトルに戻る。
親離れ。
子供が成長するにつれ、子供はいろいろな判断を自分でするようになる。
一人旅なんてその最たるものであろう。
可愛い子には旅をさせろ、と昔からの言葉にあるとおりだ。
ちなみに僕の初めての一人旅は、7才の時に20キロ離れた婆ちゃんの家へ1日かけて歩いていったものだが、あの時の自分の行動を全て自分で判断して決める快感は今も忘れない。
大人の今ならば、行ったことのない山への単独行に感覚は似ている。
それを許してくれた父の愛。
親離れをするには、まず子離れできる親が必要なのである。
一般的に母親というのは子供を心配する傾向があると思う。
それはそれでかまわないのだが、自分というものをきっちりと持っていないと子供の自立心の芽も摘み取ってしまう。
「一人旅?そんな危ないことはさせません。何かあったらどうするの」
子供が大きくなっても、心配の度が過ぎて受験や就職試験についてくる親がいるという。
親バカはいいがバカ親や自立できない親は救いようがない。
子供は親の加護から離れ学ぶことがある。
今回こんな話を書いたのも娘が一人で日本に行ったからである。
娘は12才、ぼくが東北へ一人旅をしたのと同じ年である。
一人と言っても向こうでは叔母が面倒を見てくれるし、行き帰りの飛行機も僕の友達と一緒なので完全な一人旅ではない。
だが、1ヶ月もの間、親から離れて外国で過ごすことはいい経験だろう。
「ほら、見てごらん。ニュージーランドとはここが違うだろう。」と親に教わるのではなく自分の目で見てニュージーランドとの違いを学んでくるだろう。
それが経験であり、財産なのだから。
今回は冬なので日本のスキー場へも、もう行ったようだ。
というのも女房伝いに娘の近況を聞いたからだ。
ブロークンリバーで生まれ育った娘が日本のスキー場で滑ったらどう感じるのだろうか。
それとも親が思うほど考えることなくリフトやゴンドラでスキーを楽しんでいるのか、いずれにせよ話を聞くのが楽しみである。