あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

ガイドの現場

2011-11-26 | ガイドの現場
1週間のツアーが終わった。
ブログも更新していなかったので、勘の良い人は僕が忙しかったのかと思うだろうがその通りである。
テカポ、マウントクック、クィーンズタウンで仕事をし、合間に人と会い酒を飲み、クィーンズタウンではフリスビーゴルフでエーちゃんをぎゃふんと言わせ、という事をしていたのだ。
新しい会社にも慣れつつ、新しいコラムも始まった。
ガイドの現場からというコラムを書こうかなと社長に話をして、一つ話を書いたらあれよあれよという間にブログが登録され、ツアーから帰ってきたらすでに自分のコーナーが出来ていた。
肩書き『人間』Kiwi Way 名物ガイド 男 Hijiri 熱くニュージーランドを語る。
http://www.kiwiwaynz.com/index.html
http://ameblo.jp/kwhijiri/
もちろん自分でこのタイトルをつけたわけではない。
こんなの自分では恥ずかしく書けるわけがない。
なんとまあ、ずいぶんとたいそうなタイトルをつけられたものだ。
面白そうなのでそのままにしておこう。

今、僕は大きな波に乗っている。
さえぎるものは何もない。
もしそれがあるとしたら、それは自分の心だ。
「そんなのいつまでもうまくいくわけがない」とか「そのうちに足をすくわれるぞ」というような声がどこからともなく聞こえてくる。
確かにこの先に壁や困難はでてくるだろう。
だがそれはその時に考えればよい。今はそれを考える時ではない。
もしそういうことがあれば、100%の力でそれに対処するのだ。
その覚悟があれば何も怖れるものはない。
恐れ、怯えは自分の心から来る。
今はただ己を信じ、自分の胸の奥底にあるピンとくる物を信じる。
疑いは無い。
そして毎日を全力で楽しく前向きに過ごすのだ。
そうやって生きていると引き寄せの法則どおり、次から次へと嬉しい出会いがやってくる。
今回の仕事で出会ったお客さんも皆良い人で、短い時間の間でもかなり深いレベルで話ができた。
この人に会うために今回のスケジュールが組まれたのかなと思うような出会いもあった。
お客さんは皆、口をそろえて「ニュージーランド気に入りました。又来ます」と言ってくれた。
ガイド冥利につきるというものだ。

新しいコラムではガイドの現場から生の声を書くつもりである。
「あおしろみどりくろ」では毒も多少吐くが、「ガイドの現場」では毒は薄めるつもりだ。
少量の毒は薬にもなる。
それよりも楽しいこと、素晴らしいこと、美しいことに焦点を当てて話を書いていこうと思う。
ニュージーランドという素材は素晴らしく、その素材の旨みを最大に引き出すのがもてなしの心だ。
その考えを持って行動すれば、山や湖、氷河や森、全ての自然の営みが自分に味方してくれる。
そして唱える言葉はいつも「ありがたや、ありがたや」なのである。
そんなわけで新連載『ガイドの現場』 乞うご期待。
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新しい波

2011-11-17 | 日記
夏の仕事が始まった。
何をやっているかというとガイドである。
「ガイドをやめたんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだが、その通り、一度は辞めた。
2月のクライストチャーチの地震、そして3月の日本の地震以来、仕事は全く無くなった。
ガイドを辞めようと思っていたのでちょっと早くその時が来た、ぐらいに僕は思っていた。
冬の間は多少の仕事はあったが、NZの冬は短い。
春が来ても僕は無職のままだった。
その間にやったことと言えば、コンクリートを打って、木を切り根っこを掘り起こし畑を広げ野菜を育て、ニワトリの世話をし、石鹸を作り、犬小屋を作った(まだ未完成だが)ことぐらいだ。
幸い、うちは女房がフルタイムで働いているので何とかやっていけた。
仕事が無くなって、あせりや不安は無かった。
そのタイミングが来れば忙しく働くという漠然とした予感は常にあったからだ。
だがそれが何かはその時は分からなかった。
ただ与えられる仕事をしよう、自分が求められる事をしよう、という意気込みは常に持ち続けていた。
その瞬間ごとに自分がやるべきことをしようという思いだ。
それは時には野菜を作ることであったり、友達の味噌を売ることであったり、納豆を作って買ってもらったりと様々だ。
ある時、配達業務の人を募集している広告を見て応募をした。
ピンと来たわけではないが、ひょっとするとこれかなぐらいの思いがあった。
本当にその仕事がやりたいのかどうか気持ちは不安定だったが、その結果を待つ間、山に滑りに行った時に心が決まった。
どんなことであれ、自分に与えられた事を一生懸命にやろう。
決心をして、心が軽くなった。
数日後、その会社から連絡があった。
不採用だった。
落胆はしなかった。
僕がそこの会社で働くタイミングではないのだなと感じ、同時に別の場所で自分が求められるのだなと感じた。
これは9月の段階だったが、まだ自分が何をするのか見えていなかった。

ある人と仕事について話をしたが、その人はこう言った。
「仕事とは金を稼ぐもので、それ以外のものは全て趣味だ」
確かにそうかもしれないが、それはその人の考えである。
僕の考えは違う。
野菜を作るのも、石鹸を作るのも、トイレ掃除をするのも、料理を作るのも、外に出て働くのも全て人間が生きるためにありがたくさせてもらう仕事である。
石鹸は友人達も喜んで使ってくれるし、野菜や卵は多く取れれば知り合いに分ける。
自分の家族だけではなく、広い意味で人間が生きるためにする仕事なのだ。
お金をもらうということは二次的なもので、お金が生まれないからといって手を抜くものではない。
もちろんこの世はお金がなければやっていけないようにできている。
だからといってお金を稼ぐことだけに焦点をあてたくない。
お金は仕事をやった結果ありがたくいただくもので、荒く稼ぐものではない。
その人はことあるごとに自分が60になった時に働きたくないと言う。
今自分が働いている状況に喜びを見出せないのだろう。可哀そうだが仕方が無い。
僕は60になっても70になっても、その時に自分ができる仕事をしたいと思っている。
仕事とは年に関係なく、その時に自分ができることを喜びを持ってするものである。

ガイドを辞めた時に思った。
求められる場所で仕事をしよう。
仕事は皿洗いでも掃除でもドライバーでも何でもよい。
何をするかではなく、人間としてどうあるべきが大切なのだから。
ただどんな人でも、向き不向きはある。僕にIT関連の仕事をしろといっても無理な話だ。
同時に自分にしかできない仕事というものもある。
人が自分を求めるのならば、それが自分がやるべきことで、何か分からないがそれを一生懸命やろうと思った。
それは多分自分が駆けずり回って得るものではなく、毎日その瞬間に自分がやるべきことをやっていれば自然にやってくるものだとも思っていた。
これは予感というより確信に近いビジョンだ。根拠のない自信を僕は持っていた。
そしてその時は来た。
ある掲示板でドライバーガイド募集の広告を見た。
今回はピンと来た。
その会社の社長とは話をしたことがないが、そこで働いている人を何人か知っていた。皆、良い雰囲気を持った人ばかりだ。
スタッフの一人、ユタカとは先月一緒にブロークンリバーに行った仲だ。
こういう人が働く会社なのだから間違いはないだろう。
数回のメールのやり取りの後、会社の社長と会うことになった。
会って話を聞くと、地震の後スタッフが散り散りになってしまいガイドを探していると。
だがガイドになるといっても誰でもポンとなれるわけではない。
永住権や労働ビザをクリアーし、営業用の運転免許も取らなくてはならない。
この国のことや、旅行業界のことも覚えることはたくさんある。
お客さんをガイドする時の話術や接客態度など全てを教えるとなると大変なことだ。
僕のような経験者なら大助かりだと言う。
求められる所で仕事をしようと思っていた僕はもちろん異存なし、ありがたく受けさせてもらう。
僕は社長に言った。
「僕がガイドとして働くのは、会社のためではなくお客さんを幸せにする為です。それが結果的に会社にも自分にも良い影響を与えると思っています。あくまで優先順位はお客さん。決められた行程内で自分が出来ることでお客さんをハッピーにすることが最優先です。それでいいでしょうか?」
「うちとしてもそういう方針です。その考え方で全く問題はありません。それどころか大歓迎ですよ」
そういうわけでその場で採用された。
向こうは僕のような人が来てくれてありがとうと言う。僕は仕事にありつけてありがとうと言う。
お互いがありがとうという関係は気持ちが良く、システムが健全な証である。
そしてシステムが健全だと関わる人が全てハッピーになる。
自分がハッピーだと人も幸せに出来る。
お客さんにもそれは伝わり、お客さんもハッピーになり、チップもいただく。
仕事の後のビールは美味く、良いことづくめである。
社長、そして奥さんと話をしてみると、次から次へと色々なことが繋がり、まるでジグソーパズルがはまるように繋がっていく。
山やトレッキングが好きなこと。自然や食に関する考え方、人生観、話をするごとにジグソーパズルは埋まっていく。
今まで出会わなかったことが不思議なくらいだ。
だがオノさんの時がそうであったように、出会わないタイミングというものもある。そういう時にはどうしても会えないようにできている。
そしてお互いがその状態になれば、磁石が引き寄せあうように、いとも簡単に出会うものである。

さらに今の段階では詳しくは書けないが、僕の人脈からもっと面白いことが始まりそうな気配もある。
幸せのバイブレーション、波動は同調する人に伝わり、ジグソーパズルはどんどん大きくなっていく。
前の会社を辞めたこと、ニュージーランドと日本の大地震、ある会社に応募して不採用だったこと、全ては繋がり今の僕がある。
そして僕はワクワクしながら毎日の仕事に精を出す。
いったいこのジグソーパズルからどんな絵が出てくるのだろう。
実に楽しみである。

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散歩

2011-11-12 | 日記
最近の日課は犬の散歩である。
朝、日が昇る頃に近所の公園に行く。
朝露で靴がびしょびしょになるので長靴で行く。
街中を歩く時は引き綱をつけて行き、公園の入り口で綱を外す。
犬が喜んで走り回る。幸せそうだ。
散歩のコースは池を1周。大体20分ぐらいか。
遠くに山が朝日を浴びているのが見える。
クライストチャーチは平野なので空が広い。
太陽は低い角度から昇り、低い角度に沈む。
山に囲まれたクィーンズタウンとはえらい違いだ。
昇ってきた朝日が池に写る。
神々しい朝だ。
瞑想をして気功の体操なぞをする。
この時間だとほとんど人に出会わない。
ぼくだって犬がいなかったらこんな時間に散歩などしない。



普段と違う時間帯というのは景色も変わって見える。
以前あるお客さんに聞いた話だが『1mの旅』というものだ。
自分の家を出て1mの間の旅である。
見慣れてしまうと感覚は鈍り、何も感じなくなってしまうが、意識を研ぎ澄ませれば1mの間でも感じること思うことはいくらでもある。
それを1mの旅と、その人は言った。
遠くへ行く珍しい景色を見れば感じることは容易だ。
だが普段自分が住んでいる場所をじっくりと見ることも大切である。
人間の意識は外へ外へと向いている。
個人の話であれば、容姿外見を人は気にするが自分の心の中を追求する人は少ない。
地球上の人類で言えば、意識は地球の外、宇宙へ向かっているが、自分達が住む地球の中がどうなっているのかほとんど分かっていない。
今この時代に必要なのは内なる探求である。
それは当たり前に見える物に意識を向け、一歩深いところで物事を考えることでもある。
当たり前の中に真の美しさはあり、当たり前の中に不必要で無駄なことはある。
要は物事の本質を見極める、ということだ。
散歩をしながらこんなことを考えるのもまた楽し。



散歩をする公園はカンタベリーパークというのだが、ここ1週間ほどその公園がにぎやかである。
11月の第二週末はクライストチャーチでA&Pショーという、ニュージーランド最大の農業祭がある。
その会場がカンタベリーパークなのだ。
このショーは農業に関連するものなら、ありとあらゆる物が展示される。
牛、馬、羊の品評会。その他、鹿、豚、ヤギ、鶏、アヒル、ロバ、ウサギ、アルパカなどの動物も来る。
牧羊犬を使った競技会もあれば乗馬の競技もあるし、丸太を斧でぶった切る競争もやる。もちろん羊の毛がりも欠かせない。
最新トラクターなど農作業機器の展示販売もあれば、昔使っていた蒸気機関の展示もある。
バンドも来るし、飲食のコーナーあり、子供用の簡易遊園地あり、その他出店たくさん。
ショーは水木金の3日間で行われ、金曜日はクライストチャーチは祝日である。
犬の散歩コースにもフェンスが張られ、先々週ぐらいから会場作りが始まった。
ショー前日、娘と犬を散歩に出かけたら大きな農耕馬がつながれていた。
ここに住んでいても農耕馬をこんな間近で見ることなどない。
深雪は大喜びで馬の近くに行き興味深そうに眺めている。
ココは初めて見る大きな動物に怖がって近づかない。
馬は品評会に出すためのものだろう。毛のつやもよくいかにも健康そうである。
別の場所ではアヒルに餌をやるおじさんがいた。
聞くとピクトンでアヒルのファームをやっているそうな。
ショーのためにアヒルを持ってやってきた。
シープドッグを使いアヒル3羽をうまくコントロールする様子は、羊を囲いに追い込むドッグショーのミニチュア版だ。
カメラを持っていないのが残念である。
ふつう近所の散歩にカメラは持ち歩かない。



ショー当日の朝、今度はカメラを持って散歩に行った。
するとショーに使う羊を追いやる風景に出会った。
ニュージーランドでは別に珍しいことではないが、散歩コースでこういうのを見ると普段と違う日なんだなと思う。
シープドッグが仕事をするのを見てココは何を思うのだろうか。
池のほとりで囲みを作り、その中に馬が放されていた。
絵になる風景だ。
「馬というのは本来おとなしい性質なんですが、日本では馬が人に噛み付いたりけっとばしたりと荒いんです。ここニュージーランドではそのおとなしい性質がくっきり現れて、一人で両手に手綱を持って二頭の馬を引っ張っていくんですが、こんなの日本では考えられません」
以前出会った馬の調教師の言葉を思い出した。
確かに馬はおとなしく、娘が恐る恐る顔を触っても、じっとしている。
澄んだ馬の瞳を見ながら、地球上に住むのは人間だけではないんだなと、ふと思った。


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2011-11-07 | 日記
春が色濃くなってきた。
牧場では子羊達が跳ね回り、春の暖かい風が吹き抜ける。
庭の菜園では冬を越した野菜たちが待ってましたと言わんばかりにぐんぐん育つ。
ソラマメは背丈ほどの大きさになり、実をつけはじめた。毎日それが育っている様子を眺めている。
ニンニクも青々と葉を茂らせている。地面の下では球根が育っているのだろう。
シルバービートは食べきれないぐらいに増えてしまい、早いものは花芽をつけ始めた。
春になってから植えた野菜、トマト、ズッキーニも順調である。
去年作った堆肥の中からかぼちゃが勝手に芽を出し始めた。
イチゴも白い花を咲かせ、そこから小さい実が出来てきた。
春は全ての生き物に活力を与える時期である。



庭の一角に菖蒲が群生している。
今まであまり気に留めなかったが、ここ数年で花をたくさん咲かせるようになった。
ボクは今まで花を育てるということに無頓着だった。
何故なら花は食えないからである。
でもこの菖蒲が咲くのを見て単純にきれいだと思った。
そうなると野菜に水をやるついでに花にも水や液肥もあげる。
野菜に話しかけるのと同様、花にも話しかける。
「きれいに咲いてくれたな、ありがとう」
ボクの想いは花に伝わり、育ちは良くなりますますきれいな花をつけるようになった。
きれいに咲いた花を娘が切って花瓶に活ける。
さすが女の子だ。なかなかよろしい。



花を愛でるというものは人に強制されるものではない。
自分の心の中から湧き出る感情だ。
今まで自分の心にそんな余裕はなかったのだと思う。
40も半ばに近づき自分が内部から変わりつつある。
変化というものは未知の物なので、人によっては恐怖を感じる。
新しいことに気づくより、居心地の良いぬるま湯に浸っていた方が楽だ。
だが一歩踏み出すことにより、自分の内側が劇的に変化することもある。
自分というものを冷静に深く見つめる。
肯定も否定もしない。
あるがままに、それを見つめる。
変化があるならばそれに気づき、ただ受け入れる。
その先にはまばゆい光の世界が待っている。
自分が光に包まれると自分を取り巻く環境にも影響を与える。
野菜はたわわに実り、花は美しく咲き、子犬は無邪気に庭を駆け回る。
そしてそれを見て嬉しく思い、さらに自分が高まる。
自分が高まるのと同時に、自分の内なる世界へ深く入っていける。
内と外、陰と陽、ネガティブとポジティブ、光と影。
全ては一つである。



今日も菖蒲は美しい花を咲かせている。
次から次へと新しいつぼみも出てきている。
今まで意識をしなかったがこの菖蒲も我が家の一員である。
一年の内のこの時だけの色を楽しませてもらおう。
ありがたや、ありがたや。
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チキンライス

2011-11-02 | 
うちはかなり美味い物を食う家だと思う。
美味いものと言ってもいろいろあるが、贅沢な食材を金に任せて買い揃えるわけではない。
自分に手の届く範囲で、手間をかけ旨い物を作る。
そして旬の物を食べる。旬のものは安くて美味くて、その物が持つエネルギーも高い。
たまに冷蔵庫に残っている食材でとんでもなく美味い物ができてしまうこともある。
単純なボクは「うお~、オレって天才!」などと叫びながら、自分の作った物を喜んで食う。
自分で作って自分で幸せになれるボクは、とことん幸せ者だ。
このようにアドリブで出来たものは、時間が経てば何を作ったかさえ忘れてしまう。
旨かったという思いは残っているが、「はて、あの時は何を作ったっけなあ」と、はかない陽炎のごとく。
その場で消えてしまうという点では音楽と同じで料理もライブなのだ。
だが1日3回、1年で1095回の食事の中で勝ち残り、記憶にとどまり定番レシピとなる料理もある。
最近の我が家のヒットはチキンライスである。
チキンライスと言ってもアジア風のチキンライスである。
え~、チキンライス?と思われるかもしれない。
たかがチキンライス、されどチキンライス。
これはシンプルなだけに奥が深い。
適当につくればそれなりだし、技法を凝らして作れば究極のご馳走にもなる。
ブログ1回分の話にもなりうるボリューム、とくとご覧あれ。



まず鳥である。
鳥は近くの肉屋で丸ごと買う。
そこにはオーガニックの鳥なども売っているが、値段が倍もする。
なので普通の鳥をまるごと。丸で買うと安いのだ。
それを捌いて骨と身に分ける。
ボクも最初は見よう見まねでやっていたが、回数をこなすうちに鶏の体の仕組みも分かり、うまく捌けるようになってきた。
余った皮はパリパリに焼き油を落とし皮せんべい。味付けは塩のみ。
骨は大鍋でスープを取る。丁寧に灰汁を取りながらスープが透明になるまで煮出す。スープで一緒に煮出すものは生姜とネギ。分量は適当。
このスープをチキンライスに使うのだが、余ったスープは何にでも使える。
中華風スープも良し。野菜を入れて煮込みカレーにしても良し。インスタントラーメンだってこれで作れば美味い。
スープを取ったガラにくっついている肉は、きれいにとっておけばこれでチャーハンができるし、マヨネーズであえても良い。
骨のすぐそばについている肉は魚でも肉でも鳥でも美味い、というのは美味しんぼの山岡司郎も言っている。
皮や軟骨は小さく刻んで鶏の餌に。
全く無駄が無く、しかも美味い。手間は多少かかるが、こういったことは人間が生きるための仕事である。
正しいシステムというものは、全ての面で上手くいくようにできている。



骨を外した身はタレを塗りオーブンで焼く。焼きすぎるとパサパサするので注意。
焼きあがった鳥から出る汁だって無駄にはしない。焼いた鳥を切り、その上に汁をかける。
米はタイ産のジャスミンライス。女房が色々試した結果、これが一番この料理に合うそうだ。
鍋に油を熱し、にんにくのみじん切りをどっさり炒める。
そこにお米を入れ軽く炒め、水の代わりに骨で取ったスープを入れる。
ネギと針生姜、塩とダークソイソース(中国の醤油)を入れてご飯を炊く。
家では普段から炊飯器を使わず土鍋でご飯を炊く。
炊飯器は確かに楽だが鍋で炊いた方が美味い。
慣れれば鍋でも問題なく炊ける。
このチキンライスをやる時は大きめの鍋にお米5~7合ぐらいで作る。
熱々のチキンライスも美味いが、残ったご飯で作るチャーハンもこれまた美味いからである。
パラっとしたジャスミンライスはチャーハンをやってもべたべたしない。
炊き上がったご飯に焼いた鳥を乗せソースをかける。
ソースは2種類。女房殿が開発したオリジナルソースだ。
一つはタイ風。ナンプラー、レモン汁、塩、おろし生姜、みじん切りネギ。上からコリアンダーを好みでふりかける。生の唐辛子なんかあったらなお良し。
もう一つは中華風。ダークソイソース、スイートチリソースを鶏ガラスープでのばす。
どちらで食べても美味い。
一皿でタイ料理と中華料理が両方味わえる。
焼いた鶏から出た汁がさらっとしたジャスミンライスにしみこむ。
ソースの程よい塩加減。
焼きすぎない鶏の食感。
コリアンダーの香り。
全てがバランスよく調和する。
これは旨いぞ。
人間は美味い物を食べると幸せになる。幸せは常にここにある。
ここでもハッピーバイブレーションだ。



全ての物を無駄なく残さず最後まで美味しく食べること。
これが生きていた物への供養である。
死んでしまった鳥に感謝し、タイで作られたお米に感謝し、生姜、ニンニク、コリアンダーなどの野菜たちに感謝。
それらの生の上で僕達は生きる。
そこに有る物を使い、その物の旨みを最大に引き出す。和食の真髄だ。
変に厳しくストイックにする必要はない。
無駄にせずに美味い美味いと笑顔で食うべし。
それが北村家流の供養であり、悟りへの道である。
今日も美味しく命をいただきます。

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