あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

ガンズキャンプに雨が降る。

2010-12-31 | 
雨、雨、雨。
小屋の中は石炭ストーブが赤々と燃えているが、外はバケツをひっくり返したような土砂降りの雨である。
今回の仕事はミルフォード一泊二日。
お客さんをミルフォードサウンドへ送り、夕方4時半の船が出航したら次のピックアックは明朝9時。
それまでは自由。自分の為の時間である。
普通ならミルフォードサウンドにあるロッジに泊まるのだが、ピークシーズンで一杯の為、ホリフォードにあるガンズキャンプに泊まることとなった。
ここには何回か来た事はあったが、一度は泊まりたいなあと思っていた場所だ。こうしたいなあ、と思っていると、とことんそうなるように出来ている。
ガンズキャンプはホリフォードリバーのほとり、原生林に囲まれたところにひっそりとある。ニュージーランドの中でも最も人里離れた場所の一つだ。
ここの開拓者のガンさんの名前からガンズキャンプである。頭上にはマウントガンがあるはずなのだが雨で何も見えない。
夕方5時ごろガンズキャンプに着いた。プライベートキャビン3号室は予約済みである。
プライベートキャビンと聞くと聞こえがいいが、そこはそれガンズキャンプである。
こじんまりとした山小屋は六畳ぐらいの二部屋に別れ、一つは寝室、一つは居間だ。
居間には石炭ストーブ、流し(水は出るがお湯はない)、ソファー、椅子、テーブルがある。寝室には二段ベットが一つ。必要最低限の物はあるが余計なものは何もない。
キャビンの前にはトタン葺きの駐車スペースがある。その前にはホリフォードリバーが流れ、その向こうに森が広がる。
ここで雨の森と川を眺めボケーっとするのも悪くない。
ストーブに火をいれ、頃合を見計らって石炭をくべる。小屋の煙突から煙がもくもくと出て周りの森に消えていく。今晩の自分の城が出来上がった。
この周りもちょっとした散歩道はあるが、この雨では気軽に歩くという気分にもなれない。

椅子を外に出し雨を眺める。
ボクは山小屋のテラスなどで雨を見るのが好きだ。
何百億という雨粒は、あるものはコケを潤し、あるものは岩肌を伝わり、あるものはシダからしたたり、目の前の川に呑まれ大きな流れとなり海へつながる。
おおいなる自然の営みがここにある。
トーマスとこの先のモレーンクリークを歩いたのは何年前だっただろう。森を抜け湿地帯を通り岩肌を上った思い出がよみがえる。息を呑むほど美しい、あの池も今は雨の中だろう。
その時の経験は自分の財産となり自分自身を大きくした。
対岸の森は雨に煙る。この国特有のくすんだ緑色が美しい。見えるものは木々だが、あの下にもシダは生い茂り地表は厚い苔で覆われている。
何億という無数の命にボクは囲まれている。
森のエネルギーをひしひしと感じ深呼吸。体の中にエネルギーが入ってくるのが分かる。
こうなると指先はピリピリとしびれ、木々の一つ一つが浮かび上がって見える。緑色は美しさを増し、雨の匂いが漂ってくる。

目を閉じて音に意識を集める。雨は強さを増し屋根のトタンを叩く。川がゴーッと流れる音が響く。
ボクは今、幸せだ。
幸せとは常にそこにあるものなのだ。
こんな場所でギターがあったらなあ。
ぼくはダメモトで管理人のオフィスに行った。ひょっとしたら誰かが捨てていった、絃が何本か切れているボロボロのギターがあるかもしれない。
「あのう、ここには借りられるギターなんてのはないでしょうか?」
「あら、あなたギターを弾くの?あるけど絃が一本切れているのよ」
「一本?じゃあ5本は残ってるんですね。借してもらえませんか?」
「いいわよ、ちょっと待っててね」
おばちゃんは奥からケースに入ったギターを出してきた。切れているのは6弦だけで、予想に反してちゃんとしたギターだ。
「チューニングは合ってると思うわ。どんな曲を弾くの?」
「マオリの曲なんかを少しね」
「あら、いいわね。私はカントリーをやるのよ。ギターは明日返してくれればいいわ」
「ありがとう。お借りします」
ボクはテラスにすわりギターを弾き始めた。
この景色の中ではマオリの唄だろう。それが一番この景色に合うからだ。
民族音楽と景色とは関連がある。
南米アンデスを旅したときには、『コンドルは飛んで行く』のようなパンパイプの音がアンデスの山々の景色に合った。
南太平洋を旅した時には、沈む夕日にヤシの木のシルエットという景色がウクレレとかハワイアンのような音に合った。
シルクロードを旅した時には、哀しげなびわのような弦楽器の音が、砂埃が舞う砂漠の街の風景に合った。
アルゼンチンではアコーディオンとギターのマイナー調のアルゼンチンタンゴがブエノスアイレスの町の景色に合った。
民族音楽というのはその地で生まれた音楽である。そこの景色にぴったり合うのが当然と言えば当然だろう。
そしてここニュージーランドでは、マオリの唄なのだ。
ギターを弾いて唄を歌う。
ガンズキャンプの親父がボクの曲にあわせ、踊りながら仕事をしていった。
悪くないぞ。全くもって幸せである。
親父が去ってからもボクは歌い続ける。
観客は雨だ。
ボクの歌声は雨に煙るフィヨルドランドの森に消えていった。
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敵さん

2010-12-19 | 日記
ボクは本をよく読む。
子供のころから家にテレビが無かったことも理由の一つだが、とにかく本を読む。
NZに来たばかりの時には、日本語の本が周りになくて淋しい思いをしたが、今ではクライストチャーチの図書館には日本語の本のコーナーもある。
街の情報センターにも日本語の本を置いてあるし、友達に借りるときもある。
インターネットで面白そうな本を買い、こっちに来る友達に持ってきてもらうこともある。
便利な世の中になったものだ。
片っ端から読む中には共感するものもあるし、タイトルで興味を惹かれても読むうちに『何を言ってるんだこいつは』と途中でやめてしまうものもある。
以前は本に書いてあることは全て正しいと思っていたが、今ではそうでないことにも気がついた。薬もあれば毒もあるということだ。
それを読み理解して判断するのは自分だ。

最近読んだ本で、戦争後も日本に帰らずその地にとどまった兵隊達の話があった。
筆者が現地に行き、実際にその人達と会い、話を聞き本にまとめたものである。
いろいろな人がいてそれぞれ事情や思惑があり、戦争が終っても日本に帰らなかったのだが、ボクが一番その本で印象に残った事は、その人達が敵のことを「敵さん」と呼んでいたことだ。
こんなことは教科書にはのっていなかったぞ。
『鬼畜米英』という言葉は知っていたが『敵さん』は知らなかった。
大本営の中で敵さんという言葉が出回っていたと思えない。
しかし現場で命をやりとりしている人達は『敵さん』と呼んでいたのだ。
もちろん全ての人がそうであったとは思わないが、ボクはこの『敵さん』という言葉をえらく気に入ってしまったのだ。
自分の命をかけて殺し合いをする相手に『さん』をつけてしまう。こんなのはユーモア以外にないだろう。
「自分も本当なら人など殺したくない、だが上からの命令には逆らえない。それは相手も同じことだろう。仕方ないから戦うか。」
そんな言葉が聞こえてきそうだ。
現地の兵隊にとっては、遠い本国で作戦を練っている味方よりも、直ぐ近くの茂みに隠れているかもしれない敵の方が身近な存在なのだ。
全ての兵たちが相手を憎み戦争をやっていたわけではない。
自分ではどうしようもない社会のシステムがある。
そんな中から「敵さん」という言葉がでてきた。
哀しいユーモアでもある。
だがこのユーモアのセンスが、欧米を始め世界が恐れている日本の精神性の高さではなかろうか。

欧米は今でも日本を恐れている。なので戦争をふっかけてくる。
戦争とは武器を使って人を殺すものだけではない。
武器を使わない情報戦というものもある。マスコミを利用した捕鯨に関する一連の動きを見ればよく分かる。
土地を奪い合うのだけが戦争ではない。経済という舞台での戦争もある。ジャパンバッシングやバブルがいい例だろう。
中国も韓国も心の奥底で日本を恐れているので、いろいろな出来事が起こる。
気をつけなければいけないことは『どちらかが正しくどちらかが悪いということはない』ということだ。
ケンカというのは両方に原因があるから起こるのだ。それが目に見えないこともあるし、どこか遠くから来ていることもある。
ある出来事だけを見て「あいつは悪い」と言っていれば次の戦いを産む。
人間とは自分が見えないものだから、自分は正しく相手が悪い、と思いがちだ。
どんな出来事であれ、その要因の半分は自分にも責任があることを忘れてはいけない。

戦争を美化する気持ちはない。
戦争とは悲惨なものであり、醜いものであり、人類がやめるべき最たるものだ。
だが過去にフタをしてもいけないと思う。
戦後60年、隠されていた過去が隠しきれなくなり次々と出てきている。
ボク個人でいえば、醜い戦争の中でも敵をさん付けで呼ぶようなユーモアを持った先祖を尊敬するし、そういう高い精神性を持った日本人に生まれたことを誇りに思う。
過去とは過ぎ去ったものだ。
それを知ることは大切だが囚われてはいけない。
僕たちは現在を生きているのだから。
今の僕たちに出来ることは、戦争をする人を批判することではなく、争いの無い世界を強く夢見ることなのではないだろうか。

過去は過ぎ去ったもの。
未来は未だ来ないもの。
現在とは現れ在るものだ。





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ファーンヒル トラック 2

2010-12-12 | 
下りは急だ。松の林の中をジグザグに下る。
松の林は面白くない。下草は生えていないし、どこかしら人工的な感じがする。
ブナの森は木が一本一本違う。木の個性というものがある。
幹の途中からグニャリと曲がっている木には「あれあれ、君の人生には一体どんなことがあったんだい?」などと話かけてしまう。
りっぱなコブをつける木もあれば、『好きに枝を伸ばしたらこうなっちゃったんだ』というような木まで個性が豊かだ。
足元にはコケの中からブナの赤ちゃんが一生懸命そだっているし、シダの世界もある。ランが群生している場所もある。
多種多様な命の育みがある。だからブナの森は好きなのだ。
それに比べると松の林はみんなまっすぐで木の個性は見られない。まるで優等生ばかりの全校集会みたいだ。
そして松がなくなると今度はエニシダだ。この国で一番嫌われている植物だろう。
ちょうど花が咲く時期で、まっ黄色の花をたっぷりとつけている。不気味だ。
エニシダはマメ科で、この花一つ一つがさやになり、その中に種が10粒ぐらいできる。
夏も盛りになると、花が実になり莫大な数の種を落とす。地面に落ちた種は何十年も発芽可能な状態で芽を出すチャンスを待つ。
しかもこの植物は夏と冬、一年で2回花を咲かせる。
別の場所だが一山全部エニシダにおおわれた山を見たことがある。そうなるとその山は牧場にも使えない。
こんなに育つのではこの国で『侵略者』と呼ばれても仕方ないな。
ただしその『侵略者』をこの国に持ち込んだのは人間だ。
正直この区間はあまり歩きたくない。
次に歩くときにはパノラマが見えるところから、同じ道を引き返そう。
その方がよっぽど気持ちいい。

帰りがけに友達のカナちゃんの家に寄る。彼女も数年来の友達で言いたいことを言える人だ。
この人も面白い人でネタになるので今はとっておく。
「ねえカナちゃん、ビールないの?」
「ないわよ。あ、ジンジャービールならあるわ。これ飲みなよ。うちは誰も飲まないから。」
「ジンジャービールかあ、まあいいや、ちょうだい」
ジンジャービールとはジンジャーエールみたいなものだ。
ぼくはフタを開けつぶやいた。
「今日は『大地に』だな。一応ビールだしね」
『大地に』とは、地球の上で遊ばせてもらった時に飲むビールの最初を大地に捧げる、という儀式である。
「大地に」
ボクは外の階段に腰掛けると、ジンジャービールを少し芝生にこぼし、勢いよく飲んだ。
炭酸がほどよく喉を刺激する。よく冷えて美味い。
甘いのが難点だがジンジャービールも悪くないな。
「じゃあこれからビールやめて、ジンジャービールにすればいいじゃん」
という声がどこからか聞こえてきたが、それはそれ、これはこれってことで、まあまあまあまあ・・・・。

カナちゃんが用事を終えて外に出てきた。
今日はカレーをたくさん作ったのでご招待である。
彼女と歩いてクリスの家へ向う。
彼女が住むファーンヒルからクリスの家までは整備された道がある。
「ねえカナちゃん、ここからダムに行く道もあるんでしょ?」
そういえばダムの所で看板をみたっけ。
「あるわよ、行ったことないの?」
「ないよ」
「じゃあ、そっちから行きましょ」
彼女は先をスタスタと歩き始めた。
森に入ってすぐにボクはゴミを見つけてしまった。
ビニール袋と菓子の袋だ。
「まったく何でこういう所に捨てるかなあ」
ブツブツ言いながらビニール袋を拾ってみるとなんか黒い塊りが入っている。
「うへえ、犬のウンコだ~」
だが拾ってしまったがウンのつき。
それを再び捨てることは許されない。それは捨てた人と同じ罪だ。
まあだいぶ古いようだし、ウンがついたと思うことにしよう。
ゴミ拾いをしながら歩くのにビニール袋は必要だ。
森を進むと道は急に細くなり、かなり急な下りとなる。なかなか本格的なトラックだ。
ボクはトレッキングブーツを履いているので平気だが、甘く見てサンダルなんかで来たら痛い目にあうだろう。
さすがニュージーランド。奥は深いぜ。
急な下りを降りきると、さっき通ったダムに出た。ダムは土砂で埋まり歩いて渡れる。
ダムからは渓谷のわきの道を行く。
じめじめした谷間はシダが生い茂る。ファーンヒル、シダの丘なんだな。
ここから家はすぐだ。
家に帰りシャワーを浴びてマイク特製ビールを開ける。
ヤツのビールは当たり外れがあるが今回は当たりだ。ジンジャービールもたまにはいいが、本物のビールはもっと良い。
しばらくすると仕事を終えたキヨミちゃんも帰ってきた。
内面からにじみ出る美人達に囲まれカレーを食う。
この娘達はとてもよく食べる。見ていて気持ちがよい。
大鍋一杯に作ったカレーがほとんどなくなり、次の朝に完全になくなった。

夜、カナちゃんは暗くなる前に歩いて帰り、ボクは庭で一人ギターを弾く。
観客は木々、鳥たち、そしてときおり吹き抜ける風だ。
今日もまた密度の濃い時間を過ごせた。
自分に、自然に、そしてボクを取り巻く全ての人々に感謝。
こんな一日もいいもんだ。



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ファーンヒル トラック 1

2010-12-10 | 
初夏、花が咲き始める時期、ボクは友達のキヨミちゃんの家にお世話になった。
キヨミちゃんは数年来の友達で、以前はルートバーンでガイドをしていた。
マウンテンランニング、マウンテンバイク、バックカントリースキー、スノーボード、ロッククライミングその他もろもろをこなすスーパーウーマンだ。
彼女はバイタリティーの塊り、内面からにじみでる美人で、出会う人を幸せにする力を持っている。
本人にそれを言っても「え~、あたしは普通にやってるだけよ」というのん気な答えが返ってくる。
彼女のパートナーのマイクがこれまた面白い男で馬が合う。
キヨミちゃん以上にありとあらゆるアウトドアをやる。
おかげで一年中擦り傷が絶えない。そのキズを人に見せてうれしそうに話すのだ。自分の怪我をこんなにうれしそうに話すヤツを今まで見たことがない。
ヤツも元ガイドで以前はラフティングのガイドやトレッキングのガイドをやっていた。
話し好きなので会話がいつまでも終らない欠点はあるが、僕らは心の深い所で繋がっている。
二人は去年から自分たちのビジネスを始めた。
ルートバーンでガイドをやっていた経験を活かし、お客さんの車を廻し自分達はルートバーン39kmを走りぬけ反対側で車をピックアップして帰るというものだ。
一週間に何回もこのコースを走るという、彼らにしかできないことをやっている。
マイクの父親クリスがこの家のオーナーだ。
70に手が届くころだろうが、トライアンフのナナハンを乗り回し、週3回スイミング、週2回ヨットのレース、週1回ピアノのレッスン、合間に仕事という多忙なおじさんだ。
この国の元気の良い老人を絵に描いたような人だ。
引き寄せの法則どおりここに居るフラットメイトも明るい光を持っている。
アユミちゃんは以前ミルフォードトラックの山小屋で働いていた。一人でどんどん山歩きに行く行動力のある娘だ。彼女も内面から光っている。
木を基調とした山小屋風の家は市街地の外れにあり、ウォーキングトラックのすぐ脇、ブナの森に半分かかっている。
鳥も多く毎朝ベルバードの鳴き声で目が覚める。庭にいるとケレル、ニュージーランドピジョンという大きな山鳩が飛んでくる。
庭の畑はマイクとクリスが良く手入れをし、野菜が青々と茂っている。
とてもエネルギーの高い家だ。

ある夕方、庭の裏のウォーキングトラックを歩いてみた。
トレッキングブーツをはき森に入る。ここは散歩をする人も多い。
10分も歩くとダムに出る。
ダムと言っても幅10mぐらいの物だが、昔はこれで水をまかなっていたのだ。今は使っていないパイプが下へ延びている。
あたりはうっそうとしてシダが生い茂る。ここはちょっとした渓谷だ。
クリスの話だとこの辺りには土ボタルもいるそうだ。
スカイラインゴンドラとの分岐を越えると、極端に人が減る。
新しく作っているマウンテンバイクのコースを横目に歩く。
まったくパケハ(白人)ってやつは、どうしてこんなに自然の中で遊ぶセンスが良いんだろう。ラフティング、キャニオニング、ケービング、こんなのあげていったらきりがない。
自然の中で遊ぶという能力において、パケハは断然優れている。そのかわり味覚は絶望的だ。
これは民族の持つセンスである。それが森の中のコースに現れている。
こういうのは嫌いではない。

ブナの森をゆっくりと上る。
緑色のランが咲いている。グリーン・フーディッド・オーキッドだ。
「へえ、こんな所にも咲くんだ。」ぼくはつぶやきながら花を見た。
ルートバーンやミルフォードではよく見るが、こんな街の近くにもあるとは思わなかった。
チッチッと小鳥の声がする。視界の隅で動く鳥がいる。ライフルマンだ。
ライフルマンとは軍隊の狙撃隊のことだが、色が軍服の色に似ているというだけでぶっそうな名前をつけられてしまった。
しっぽが短くコロコロと可愛い鳥だ。ピンポン玉ぐらいの大きさで、この国で一番小さな鳥である。
これもルートバーンではよく見るが、街の近くで見るのは初めてだ。
これがニュージーランドの奥の深さなのだろう。
谷の奥で沢を越える。ここで水を補給。
こうやって流れている水をそのまま飲めるなんて。幸せをかみしめる。
あれは南米アンデスでトレッキングをしたときの話だ。
あるきれいな沢を越えた。水は氷河から流れていていかにも美味そうだったが、周りの人にこの水は飲むなと言われた。
たまたまそこだけが悪かったのかもしれないが、山に行ったらそこの水を飲みたい。
その点ニュージーランドは天国だ。
きれいな空気、きれいな水があるというのは豊かなことなのだ。

しばらく上ると急に森が切れ視界が広がる。
そこはタソックなどの亜高山植物帯だ。
道端にブルーベルが咲いている。キキョウの仲間のこの花は咲き始めの時期は青い。時が経つとだんだん白くなってなっていく。
ボクは立ち止まり今しかない、はかない青さをじっくりと眺めた。
道はまっすぐ進むが、脇道にそれると景色は広がる。
タソックの中に座り、一休み一休み。
谷間の奥なので視野は狭くパノラマではないが、湖もよく見える。
この場所の良いところは人工構造物が一切目に入ってこない。トラックからは陰になっているので人が通っても僕がここにいるのは気付かないだろう。
家から歩いて行ける場所に、こんな所があるなんて・・・。
深いぞ、ニュージーランド。
この瞬間を一人楽しむ。
自然の美しさはその瞬間ごとにある。
この瞬間に感じる幸せは永遠のものであり、体験として自分の心に刻み込まれる。
それは心を豊かにし、自分というものを大きくする。
普段こういうことは国立公園などの原生林で感じるが、なかなかどうして街のすぐそばでも行く所へ行けば良い所はいくらでもある。
いや、街のすぐそばだからという盲点でもあるのかもしれない。

のんびりしているといつのまにか影の中に入った。
まだ日は高いが、この場所はベンルモント山の麓にあるのですぐに影に入ってしまう。
この国は日向は暑いが、影に入ったとたんに冷える。用意してきた長袖を羽織る。
そろそろ動くか。
トラックに戻り、しばらく進むと再び視界が広がる。
今度はワイドパノラマで湖が横たわっているのが見える。だが同時に住宅街も目に入る。
さっきまでのひっそりした自然のふところという感じではない。
自分の居場所はさっきの谷の奥だな。
一人で納得する。

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願いはかなうんだけど・・・

2010-12-02 | 日記
このブログでもよく書いているし、人にもよく言う。
こうなればいいな、と思ったことは実現する。
人間はそういう力を持っている。
願いがかなわないのは、それを心から信じていないか、そうすべきタイミングでないから。
まあそんなことを言っているのだが、最近読んだ本で落とし穴に気がついた。
物事は人間が思ったとおりに実現するというのだ。
例えば誰かが「お金持ちになりたい」と思うとしよう。
するとその言葉どおり『お金持ちになりたい状態』になってしまう。
いつまでたっても、お金持ちにはなれないのだ。
どうすればいいか?答えは簡単である。
『お金持ちになる』と思えばいい。
その次には何をするべきか、おのずと道が開けてくる。
こうやって考えると、いろいろとまた見えてくる。

例えば反戦運動。
「戦争は悲惨だ。人間がすぐさまやめるべきものであり、二度と同じ過ちを起こしてはならない。」
その通り、正論である。もっともなことだ。
だが戦争に反対する人々は戦争に意識を向けている。意識は戦争=ダメ、であり。その先の平和という状態に向いていない。
『戦争をやめるべきだ』という想いは『戦争をやめるべき状態』を生む。
その結果、戦争はなくならない。世界のどこかで常に戦争はおきている。
本当に平和を望むならば反戦ではなく平和に意識をむけるべきだ。
マザーテレサも言っていた。「反戦活動には協力できないけど平和運動はします。」
戦争=ダメではなく、戦争は人間が犯してきた過ち、まずこれを受け入れる。
臭いものにフタをするのではない。
それを見つめ、理解し、では今の自分に何ができるか考える。
「戦争はどこかの誰かがやっているものであり、自分ではない。または過去の人がやったことであり、自分に罪はない」
反戦を叫ぶ人に、そういうものが見えてきてしまう。
違う。
戦争とは自分を含めた全人類の責任であり、自分の心の中にも、その一端はある。
自分だけいい子でいるわけにはいかないのだ。
戦争をしている人、していた人を非難することは、『自分は正しく相手は間違っている』という考えそのものだ。それが新たな戦いを生む。
そういったことを認めたうえで、戦争に反対するのでなく、平和な状態のイメージを作り上げる。
争いのない状態、勝ちも負けもなく、すべての人が相手を認めあい、前に向かって明るく生きる世界。
持つ者と持たざる者ではなく、すべての人が望んだものを持てる世界。
そういった世界を人間が望めば実現する。

病気も怪我もそうだと思う。
病気や怪我になったときは気づきのチャンスでもあるのだが、それに気づかずに病気がなくなることを望んでいても『病気がなくなればいいという状態』を生んでしまう。
その病気の根源を見つめ、認め、自分がやるべきことをやり、そして一歩先の健康で笑って暮らすことをイメージする。
時間はかかるかもしれないが、そのイメージを強く持ち続ける事が大切だ。
もちろん病気にかからないに越した事はない。
そんな時は健康でいることのありがたさに感謝をしながら、毎日を明るく楽しく正しく精一杯生きるのだ。

人間は地球上で唯一、思ったことを現実化する力を持っている。
気をつけなくてはならないことは、本人が望んでいようがいまいがそうなってしまうことだ。ポジティブだろうがネガティブだろうが、そのとおりになってしまう。
普段から悪い事ばかり考えている人は、悪い現実をつくりあげている。
悪循環という言葉があるだろう。悪い事はいろいろと重なるものなのだ。
えらそーに書いているボクにもそういう時はあった。
幸いな事に今はもうない。
逆に好循環というものもある。
気持ちは充実し、友が遠くから遊びに来てくれて、体は健康そのもの。
エーちゃんとフリスビーゴルフをすればナイスショットの連発。そのあとにエーちゃんにおごってもらう勝利のビールが美味い。ちなみにこの時のエーちゃんのビールは塩味だそうだ。
その後みんなで食べに行く中華はこれまた旨く、美味い料理美味い酒でワイワイと楽しい時間を過ごせる。
いいことずくめである。
たまに、「そんなに良いことばかりじゃないぞ。調子にのっていると足元をすくわれるぞ」と言うような人も以前はいたが、今はそういう人にも出会わなくなった。
調子の良い時には波のようなものが見える。
一度その波が見えたらサーフィンのようにタイミングを見計らって乗るだけである。
そうすると全てが上手く行く。
「良いことばっかりじゃないぞ」と思ったらそうなるだろうし、「良いことばっかりだぜ、アッハッハー」と思えばそうなる。
僕の周りにいる人は全てこの感覚を共有できる人だ。

まだまだ世の中には暗いニュースがあふれている。
それらは人間の意識がつくりあげているものであり、ボクの心の奥底にも影はある。
だが誓って言えよう。
影よりもはるかに明るい光があり、その光は世界を包む。
君もボクも一緒に。
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