あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

知らない街を歩いてみたい

2017-05-29 | 日記
知り合いの家にお呼ばれされた。
その人の家で一杯やりながら大画面でラグビーを見ようという晩だった。
以前からの知り合いだが普段はめったに会うこともない。
お宅に伺うのも初めてだ。
車を車検に出しているので、バスに乗って街へ出た。
思えばバスに乗るのも何年ぶりか。
たまにはバスに乗るのも悪くない。
車を運転する時には交通というものに意識が向かっている。
それは、対向車、自転車、歩行者、路面の状況、自分の車の運転、交差点、道路標識、その他もろもろ。
信号で止まっている時でも、交通というものを常に意識している。
バスに乗って改めて気づいたのだが、乗客ならその意識を風景に向けることができる。
自分で運転していれば気づかないであろう、今まで何百回も通っている場所が違う景色で見えたりする。
ああ、ここのお店のウィンドウにはこんなメニューが貼ってあったのか。
ここの家にはこんな木が植えてあったのか。
ほう、ここにはこんなお店があるのか、まじまじと見るのは初めてだな。
一人の女の子がバス停で降りてそのまま、すぐ近くのカフェに入っていった。
あの子はあのカフェで誰かと待ち合わせなのだろうか、それとも今からあのカフェで仕事なのだろうか、それとも一人でお茶をするのだろうか。
そんなことを考えながら、人間ウォッチングをするのも良し。
まあ、ぼんやりと景色を眺めるわけだが、自分で運転しているとそのぼんやりがなかなかできない。
ぼんやりということは人生の中でとても大切なことかもしれない、とぼんやり考えた。

地震の後、新しくできたバスターミナルで乗り換えのバスを待つ。
土曜日の夕方とあってバスターミナルは閑散としている。
ここでも人々を眺めながらぼんやりである。
若い時分、旅をしていた時はあちこちのバスターミナルで、こうやってバスを待っていたなあ。
一人旅の時もあったし、誰かと一緒の時もあった。
今は自分が運転することがほとんどで、来るバスを待つなんてことがない。
束の間だが旅情というものを感じた瞬間。
旅というものは非日常のものかもしれない。
それを求めて人々はお金を払い遠くへ出かける。
だが近くでも普段見慣れているはずの場所でも、移動方法を変えたり、物の見方しだいでは旅になりうる。
それは結局のところ、心のあり方なのだろう。

バスを乗り換え、町の中心から少しだけ離れた辺りでバスを降りた。
あらかじめ地図で確認してあったので迷うことはない。
5分ほど歩いて友達の家へ。ここは初めて通る道だ。
こういった場所も車で通ればあっという間だし、それほど注意をはらって景色を見ない。
だが歩いてみると、実にいろいろなものが見える。
同じ町の中でも、自分が住んでいる場所とは雰囲気が全く違う。
知らない街を歩いてみたい という歌い出しの歌が頭に浮かんだ。
夕暮れせまる秋の見慣れぬ街角で、悲しげな曲調はどこまでもせつなくも心に響いた。
家を出てからたかだか1時間ぐらいの移動だが、その間にいろいろな物が見えて、いろいろなことを感じた。
近くにありすぎて見えないものもある。
同じ事をやって同じ様に感じるとは限らない。
たまたま前日に友達から誘われ、そしてたまたま車検で車がなく、たまたま女房が忙しくと、たまたまが重なった。
その結果、忘れかけていた旅をする感覚を思い出した。
非日常というものは遠くへ行けばいいというものではない。
例え遠くへ行っても、ずーっとケータイをいじっていれば旅情もへったくれもない。
その場所に我が身を置き、五感を通して雰囲気を感じる、それには心の中との繋がりも関係する。
特別なことをしなくても、とんでもなく遠くへ行かなくとも、旅はいつでもどこでもできる。
そしてその旅をする感覚があればこそ、日常の営みが愛おしく、がんばろうという気になるものなのだ。
全ては我が心なり。



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アルバイト

2017-05-23 | 日記
娘がアルバイトを始めたのは1月のことだった。
バイトを始めたいと聞いて、僕は諸手を上げて賛成、どんどんやりなさい、と言った。
社会経験、いいこともあるし、イヤなことや汚いことも、全てひっくるめての勉強だ。
それに働こうという本人の意思。これが大切。
バイトをどこにしようか、あれやこれや迷っていたが、我が家では直接的な手助けはせず、自分でやらせた。
その結果、市内中心部の持ち帰りも店内での飲食もできる寿司屋に決まった。
数ある寿司屋の中では、割と美味しいお店である。
時間は平日夕方5時ぐらいから8時半まで、週2~3回と週末お昼から夕方まで。
仕事はウェイトレス、そして忙しい時はたまに中も手伝う。
本人の様子を見ていると楽しそうに働いているので、まあ良い職場なのだろう。
ただし僕がお店に行くのは嫌なんだと。
そこで何か注文して食べていくなんてのは、絶対に嫌だと。
お願いだからやめて、なんて言う始末だ。
まあその気持ちも分かるので、未だその店に行った事は無い。

僕が子供のころに始めてやった仕事はアルミ缶を集める仕事だった。
たしか小学校5年ぐらいだったと思う。
何のきっかけか忘れてしまったが、父親からアルミ缶を集めてクズ屋に持っていけばお金になると言う話を聞いた。
よしそれなら自分でもやってみよう、と次の日からアルミ缶集めが始まった。
学校の帰りとかに自動販売機の横のゴミ箱からアルミ缶だけ拾って持って帰るのだ。
当時はジュースの缶はアルミ缶とスチール缶が半々ぐらいだった。
そうやって集めた缶はそのままではかさばるので、一つ一つハンマーで叩いてつぶし大きなゴミ袋に入れて貯めていった。
うっかりと自分の指を叩くなんてことも1回や2回ではなかった。
父親は厳しい人だったので家族の協力は一切なかったし、僕も人に甘える気持ちは全く無かった。
隣近所のおばさんたちは「偉いねえ」なんて言って協力してくれるのだが、アルミ缶と一緒にスチール缶ももらった。
まさかスチール缶だけ返すわけにはいかないので、その分ゴミ出しの仕事も増えた。
数ヶ月間そうやって貯めると、大きなゴミ袋がいくつも一杯になり、自転車の荷台にしばりつけてクズ屋に持っていった。
いくらになるのだろう、ひょっとすると2000円ぐらいになるかな、いやいくらなんでもそんなにはならないだろうな、でも高くなったらいいな。
いろいろな事を考えながらワクワクして持っていった結果は300円ぐらいだった。
正直ガッカリした。
「どうだ、金を稼ぐって大変だろう」「うん」
父親の言葉が身に染みた。
だが今、これを書きながら考えれば、それが幾らになるか教えずに(知らなかったのかもしれないが)、子供の僕にクズ屋に直接持って行かせてその場で値段を知らせるというのはいい教育方法だったと思う。
「てゆーか、先に調べればいいじゃん」という声も聞こえるが、調べたらやらなかったとも思う。
やらなかったらこの経験もない。
情報ばかり先走りして頭でっかちになり、行動がついてこない人には分かるまい。
何よりも経験、これこそが大きな財産である。
若い時の苦労は買ってでもしろと昔から言うではないか。
その後、もう空き缶集めは止めたという話が伝わるまでしばらくは、隣近所から空き缶が届けられ(僕が学校に行っている間に置いていくのだ)その分、またゴミ出しの手間が増えたという落ちも付いた。

中学の時にはバイトは禁止だったが、高校に入ると解禁だ。
一応建前上はバイト禁止だが、工業高校の規則なんてあってないようなものだ。
高校3年間は部活をやりながら、常に何らかのバイトをやっていた。
当時の静岡では高校生のバイトの自給が450円、大学生が500円というのが相場だった。
高一の夏休みは酒屋の配達助手。暑い中汗だくになってビールをケースで運んだ。
仕事はきつかったが、配達の合間に先輩と吸う一服はたまらなく、なんか大人の仲間入りをした気にさせてくれた。
早朝の野菜市場で学校へ行く前のバイトなんてこともやった。
朝4時ぐらいに起きて、40分かけて自転車で市場へ行き、伝票を切る仕事を2時間ぐらいかけてやり、そこから20分かけて学校へ行った。
その後、授業、部活、帰宅という毎日。朝飯は毎日授業中に食った。
仕事自体はそんなにきつくはなかったのだが、さすがにこれは長く続かなく数か月でやめた。
飲食関係の仕事もやった。
繁華街でファーストフードのチェーン店、ホットドッグ屋の仕事ではフライドポテトは芋を揚げるのではないということを知った。
駅ビルの地下街の京風ラーメン屋ではよくぞこんなにと思うほど不味いラーメンを作り続けた。
今は亡き母が用事のついでに立ち寄り、あまりの不味さに絶句した。父はその話を聞いて近寄りもしなかった。
郊外のお好み焼き屋では年をごまかして応募したら、知り合いがそこに居て即刻ばれたが、その人のつてで雇ってもらった。
高校3年の夏休みには土方をやり、建築の現場も知った。
それぞれの場所でそれぞれの人間関係があった。
バイト先の女の子と仲良くなったこともあったし、同僚とケンカしたこともあった。
酸いも甘いも苦味もしょっぱさも味わい、社会というものを学んでいった。

高校3年の時にはスーパーのバイトをした。
ここではかなり長いこと働き、店長からも可愛がってもらい、おおまかな仕事を他のバイトに振り分けるバイト頭のような存在だった。
冬休みだったか春休みだったか定かでないが、東京に行っている大学生が休み期間だけバイトで入ってきた。
立教大学に行っているというだけで、そいつは影でリッキョーと呼ばれていた。
オタクを絵に描いたような男で、ボソボソと喋りまともに挨拶もできなかった。
系列会社の重役の子供かなんかなんだろう、戦力としても扱われず、店の中で浮いた存在だった。
このリッキョーが毎日8時きっかりに帰るのだ。
スーパーの閉店は8時で、そこから片付けなどをやると8時5分か10分ぐらいになり、タイムカードを押すのもそれぐらいになる。
リッキョーは毎日律儀に8時になると、幽霊のようにスーっといなくなった。
当然、現場のバイト達からも不満が出る。
「聖さーん、あいつ、今日も先に帰っちゃったんスよ。ずるいッス」
「店長とか他の社員は何か言わないの?」
「見て見ぬふりッス。ガツンと言ってくださいよ」
「うーむ、そうか」
数日後、先に帰ろうとしたリッキョーに倉庫の隅でばったり会った。
「アンタねえ、他の高校生バイトが閉店作業をやっているでしょ。それ見て何とも思わないの?手伝おうとか思わないの?」
リッキョーは下を見てモゴモゴとつぶやくだけだった。
次の日、店長に呼ばれた。
「お前なあ、あんまり大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?あいつ、いつも先に帰るから他のみんなを手伝えって言っただけですよ」
「そうかもしれないけどな。昨日オレが帰ろうとしたらリッキョーが倉庫の隅でシクシク泣いてるんだよ。『どうしたんだ?』って聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』だってよ」
「なに、それ。じゃあオレが悪者みたいじゃん。何、あいつ!」
僕は腹を立てた。
「お前が正しいのは分かるけどな、あまりいじめないでやってくれ」
大学生いじめ事件の噂はその日のうちに店内をかけめぐり、リッキョーはほどなく見なくなった。
仕事を辞めたのか、大人のはからいで他の店に行ったのかは知らない。
僕は僕で、こんなヤツでもどこかの会社に就職するんだろう、と学歴そして学歴重視の社会をバカにする度合いを増した。
それはそれで反対方向に行き過ぎたかなと、今となっては思う。
そこのバイトは高校を卒業するまで続き、ニュージーランドに行くといっても「そんなのやめてうちで正社員になれ」と店長にしつこいくらいに誘われた。
セピア色の想い出である。

そんなバイト三昧の高校生時代と、気が付けば娘が同世代になっている。
楽して金を儲けよう、働かないで金を稼ごう、という考えが多い世の中で、娘はきっちりと労働をしてお金を得ようとしている。
ティーンエージャーの常で親父の言うことは聞かないし聞きたくない。
オヤジの小言は聞かないが、同じことを嵐が言ったら聞くんだろうな。
教訓じみたことを言っても「分かってるよ」と言われてしまうのが関の山。
親父にできることは黙って背中を押してあげることぐらいなんだろう。





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風邪を引いた

2017-05-20 | 日記
風邪をひいて数日間寝込んだ。
思えば風邪を引くのなんて10年ぶりぐらいか、いやもっとかもしれない。
最後にいつ風邪を引いたのか思い出せない。
バカは風邪を引かないのである。
そして馬鹿と天才は紙一重である。
故にめったに風邪を引かないが、こうやってたまーに風邪を引く僕は天才であるということが三段論法で証明されたわけだ。
めでたしめでたし。

ガイドなんて仕事は忙しい時は目の廻るほど忙しいが、仕事の無い時には全く無い。
忙しい時に風邪など引こうものなら、即おまんまの食い上げだ。
なので繁忙期は「風邪か?」と思っても
「いや違う。これは偏頭痛と花粉症の鼻水鼻詰まりで、体がダルイのは疲れが溜まってるからであって、断じて風邪ではない!」
などと言ってプロポリスを飲みマヌカハニーを舐め、生姜湯などを飲み、早く寝て強引に治してしまう。
今回は最後の撮影の仕事でスタッフが風邪を引いたのがうつったのか、シーズンが終わった気の緩みか、季節の変わり目だからか、あっというまに風邪を引いて寝込んでしまった。
まあ仕事も冬まで無いし、家の仕事は数あれど今日明日にやらなくてはというものもない。
1週間ぐらい寝込んだところで大勢に変わりがあるわけでなし、ゆっくりのんびりと寝込んだのだ。

病気になって思う事は健康であることの有りがたさである。
健康が大切なんて、口先で言っても、頭で考えてもダメだ。
病気になって初めて感ずるものだ。
風邪なんてものは、健康であることの大切さを再確認するためにあるのではなかろうか。
僕が今回、風邪を引いたのも自分自身の不摂生、そして健康であることへの感謝が足りなかったからだろう。
健康であるのは当たり前だ。
当たり前であることに対し人は感謝をしない。
空気があるのは当たり前、水が飲めるのは当たり前、ご飯が食べられるのは当たり前、こうやって生きているのは当たり前。
当たり前というのは特別なことではない、そこにそうやって存在して当たり前なのだ。
はたしてそれが本当に当たり前なのか?
本当はすごく恵まれたことかもしれない。
他人や、別の視点から見ればすごく羨ましいことかもしれない。
ひょっとするとものすごい奇跡の上にそれがなりたっているのかもしれない。
でも常にそこにそれがあれば当たり前になってしまう。
当たり前なので感謝という気持ちも起きない。なぜなら当たり前だからだ。
物であれ、人であれ、健康であれ、場所であれ、失って初めて人は気づく。
いや、失わなければ人は気づかないのだ。
その大切さを。
そしてそれが戻った時に感謝を覚える。
その感謝も毎日同じことが続けば忘れてしまい、すべては当たり前になる。
その繰り返しだ。

これまた当たり前なのだが、風邪をひくと味が分からなくなる。
何を食べても旨くない。
不味いものは分かるが旨みや微妙な香りが分からない。
料理人も風邪を引けないわけだな、こりゃ。
それに好きな酒も飲む気にならない。
やっぱり酒は体調がいい時、そうだな、体をバリバリ使って汗をかいた後に飲むビールなんてのが最高だな。
やっとこんなブログもかけるぐらいに回復したので、もうちょっと良くなって旨いビールを飲もう。
できたてのペールエールが開けられるのを待っている。








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自宅の机

2017-05-12 | 日記
夏の仕事を終えてクライストチャーチの我が家に帰ってきた。
そして自分の机に向かってブログを書いているのだが、やはりこの机でないと筆が進まない。
と言っても実際に筆を使っているわけは無く、パソコンでカタカタとやっているのだが、まあその辺は物書きの端くれというわけなので、気分的に筆が進むとする。
僕の机は、もういつ買ったのか覚えていないが、無骨で古い大きなリムの机である。
リム独特の黄色っぽい木の一枚板の机はどれぐらい古いのか、先人のインクの染みやらペンの跡などが残っている。
大きいが故に半分物置のようになって乱雑に色々な物が乗っかっているが、僕はこの机が大好きでブログを書くのもここで書く。
幅は1m近くあり、これだけ大きなリムの一枚板ということは木の幹もそれなりの大きさがあったのであろう。
成長の遅いリムなのでここまで育つには何百年もかかったことだろう。
それを開拓者達が切り出し材木にして職人が机にして、数々の家で使われ今は我が家の居間にどーんと落ち着いている。

今年はゴールデンウィーク明けまで仕事が入っていた。
仕事の締めはテレビの仕事だった。
テレビの撮影と言っても、くだらない芸人がバンジージャンプをやって始終キャーキャーやるような番組もあれば、学術的な番組もある。
これはNHKのBSプレミアムで7月に放映予定の体感グレートネイチャーという番組らしい。
ジーランディアという海の中にある大陸の一部が海面から突き出している。
それがニュージーランドだというまことにもって壮大な話だ。
そのニュージーランドの撮影は、ボスのリチャードがコーディネーターとなり、ほとんどが彼が撮影クルーと一緒に廻った。
彼のスケジュールの都合で最後の数日間は僕が撮影隊と行動を共にしたわけだ。
話を聞いてみると、実に面白そうで今から放映が楽しみである。

久しぶりの我が家はやはり落ち着く。
落ち着くのだがやることもたっぷりと溜まっている。
夏が終わり冬が始まるまでに今までできなかった家の事をする。
天井の電灯が切れているのでその修繕、キッチンの換気扇の新調、車の冬仕様へタイヤ交換などのハード部門。
庭の仕事だって2ヶ月ぐらいは楽にかかるだろう。
そしてこの時期、ニワトリを絞め新しいニワトリを買い、石鹸なども作る。
やることは山ほどあるのだが、そういった作業は嫌いではない。
金にはならないが、すべて人間が生きていく上で大切な仕事なのである。
そして空いている時間にせっせとお気に入りの机でブログを書く。
夏の間にいろいろと考え想いぬいた事柄が山のように僕の頭の中にある。
そういったものを一つ一つ文にしていくのは、これまた嫌いではない。
まあ嫌いだったらここまで続いていないだろうけど。

そんなわけであおしろみどりくろの読者の皆さん。
これからはもうちょっとマメにブログをアップしていくのでお楽しみに。

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