知り合いの家にお呼ばれされた。
その人の家で一杯やりながら大画面でラグビーを見ようという晩だった。
以前からの知り合いだが普段はめったに会うこともない。
お宅に伺うのも初めてだ。
車を車検に出しているので、バスに乗って街へ出た。
思えばバスに乗るのも何年ぶりか。
たまにはバスに乗るのも悪くない。
車を運転する時には交通というものに意識が向かっている。
それは、対向車、自転車、歩行者、路面の状況、自分の車の運転、交差点、道路標識、その他もろもろ。
信号で止まっている時でも、交通というものを常に意識している。
バスに乗って改めて気づいたのだが、乗客ならその意識を風景に向けることができる。
自分で運転していれば気づかないであろう、今まで何百回も通っている場所が違う景色で見えたりする。
ああ、ここのお店のウィンドウにはこんなメニューが貼ってあったのか。
ここの家にはこんな木が植えてあったのか。
ほう、ここにはこんなお店があるのか、まじまじと見るのは初めてだな。
一人の女の子がバス停で降りてそのまま、すぐ近くのカフェに入っていった。
あの子はあのカフェで誰かと待ち合わせなのだろうか、それとも今からあのカフェで仕事なのだろうか、それとも一人でお茶をするのだろうか。
そんなことを考えながら、人間ウォッチングをするのも良し。
まあ、ぼんやりと景色を眺めるわけだが、自分で運転しているとそのぼんやりがなかなかできない。
ぼんやりということは人生の中でとても大切なことかもしれない、とぼんやり考えた。
地震の後、新しくできたバスターミナルで乗り換えのバスを待つ。
土曜日の夕方とあってバスターミナルは閑散としている。
ここでも人々を眺めながらぼんやりである。
若い時分、旅をしていた時はあちこちのバスターミナルで、こうやってバスを待っていたなあ。
一人旅の時もあったし、誰かと一緒の時もあった。
今は自分が運転することがほとんどで、来るバスを待つなんてことがない。
束の間だが旅情というものを感じた瞬間。
旅というものは非日常のものかもしれない。
それを求めて人々はお金を払い遠くへ出かける。
だが近くでも普段見慣れているはずの場所でも、移動方法を変えたり、物の見方しだいでは旅になりうる。
それは結局のところ、心のあり方なのだろう。
バスを乗り換え、町の中心から少しだけ離れた辺りでバスを降りた。
あらかじめ地図で確認してあったので迷うことはない。
5分ほど歩いて友達の家へ。ここは初めて通る道だ。
こういった場所も車で通ればあっという間だし、それほど注意をはらって景色を見ない。
だが歩いてみると、実にいろいろなものが見える。
同じ町の中でも、自分が住んでいる場所とは雰囲気が全く違う。
知らない街を歩いてみたい という歌い出しの歌が頭に浮かんだ。
夕暮れせまる秋の見慣れぬ街角で、悲しげな曲調はどこまでもせつなくも心に響いた。
家を出てからたかだか1時間ぐらいの移動だが、その間にいろいろな物が見えて、いろいろなことを感じた。
近くにありすぎて見えないものもある。
同じ事をやって同じ様に感じるとは限らない。
たまたま前日に友達から誘われ、そしてたまたま車検で車がなく、たまたま女房が忙しくと、たまたまが重なった。
その結果、忘れかけていた旅をする感覚を思い出した。
非日常というものは遠くへ行けばいいというものではない。
例え遠くへ行っても、ずーっとケータイをいじっていれば旅情もへったくれもない。
その場所に我が身を置き、五感を通して雰囲気を感じる、それには心の中との繋がりも関係する。
特別なことをしなくても、とんでもなく遠くへ行かなくとも、旅はいつでもどこでもできる。
そしてその旅をする感覚があればこそ、日常の営みが愛おしく、がんばろうという気になるものなのだ。
全ては我が心なり。
その人の家で一杯やりながら大画面でラグビーを見ようという晩だった。
以前からの知り合いだが普段はめったに会うこともない。
お宅に伺うのも初めてだ。
車を車検に出しているので、バスに乗って街へ出た。
思えばバスに乗るのも何年ぶりか。
たまにはバスに乗るのも悪くない。
車を運転する時には交通というものに意識が向かっている。
それは、対向車、自転車、歩行者、路面の状況、自分の車の運転、交差点、道路標識、その他もろもろ。
信号で止まっている時でも、交通というものを常に意識している。
バスに乗って改めて気づいたのだが、乗客ならその意識を風景に向けることができる。
自分で運転していれば気づかないであろう、今まで何百回も通っている場所が違う景色で見えたりする。
ああ、ここのお店のウィンドウにはこんなメニューが貼ってあったのか。
ここの家にはこんな木が植えてあったのか。
ほう、ここにはこんなお店があるのか、まじまじと見るのは初めてだな。
一人の女の子がバス停で降りてそのまま、すぐ近くのカフェに入っていった。
あの子はあのカフェで誰かと待ち合わせなのだろうか、それとも今からあのカフェで仕事なのだろうか、それとも一人でお茶をするのだろうか。
そんなことを考えながら、人間ウォッチングをするのも良し。
まあ、ぼんやりと景色を眺めるわけだが、自分で運転しているとそのぼんやりがなかなかできない。
ぼんやりということは人生の中でとても大切なことかもしれない、とぼんやり考えた。
地震の後、新しくできたバスターミナルで乗り換えのバスを待つ。
土曜日の夕方とあってバスターミナルは閑散としている。
ここでも人々を眺めながらぼんやりである。
若い時分、旅をしていた時はあちこちのバスターミナルで、こうやってバスを待っていたなあ。
一人旅の時もあったし、誰かと一緒の時もあった。
今は自分が運転することがほとんどで、来るバスを待つなんてことがない。
束の間だが旅情というものを感じた瞬間。
旅というものは非日常のものかもしれない。
それを求めて人々はお金を払い遠くへ出かける。
だが近くでも普段見慣れているはずの場所でも、移動方法を変えたり、物の見方しだいでは旅になりうる。
それは結局のところ、心のあり方なのだろう。
バスを乗り換え、町の中心から少しだけ離れた辺りでバスを降りた。
あらかじめ地図で確認してあったので迷うことはない。
5分ほど歩いて友達の家へ。ここは初めて通る道だ。
こういった場所も車で通ればあっという間だし、それほど注意をはらって景色を見ない。
だが歩いてみると、実にいろいろなものが見える。
同じ町の中でも、自分が住んでいる場所とは雰囲気が全く違う。
知らない街を歩いてみたい という歌い出しの歌が頭に浮かんだ。
夕暮れせまる秋の見慣れぬ街角で、悲しげな曲調はどこまでもせつなくも心に響いた。
家を出てからたかだか1時間ぐらいの移動だが、その間にいろいろな物が見えて、いろいろなことを感じた。
近くにありすぎて見えないものもある。
同じ事をやって同じ様に感じるとは限らない。
たまたま前日に友達から誘われ、そしてたまたま車検で車がなく、たまたま女房が忙しくと、たまたまが重なった。
その結果、忘れかけていた旅をする感覚を思い出した。
非日常というものは遠くへ行けばいいというものではない。
例え遠くへ行っても、ずーっとケータイをいじっていれば旅情もへったくれもない。
その場所に我が身を置き、五感を通して雰囲気を感じる、それには心の中との繋がりも関係する。
特別なことをしなくても、とんでもなく遠くへ行かなくとも、旅はいつでもどこでもできる。
そしてその旅をする感覚があればこそ、日常の営みが愛おしく、がんばろうという気になるものなのだ。
全ては我が心なり。