あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

今だからこそやる事

2021-10-27 | 日記
凄まじい勢いで世の中が変化している。
僕自身は今の状況は戦時下だと思っている。
個人の移動の規制、言論統制、警察権の強化、マスメディアによる民衆の洗脳、強制的な個人の自由の剥奪。
戦時下なら全て当たり前のことだ。
それが世界中で起こっている。
今までの戦争と違うところは、具体的な戦場が無い。
目に見えない戦いはあるのだろうが、直接どこかでドンパチやっている戦争は見えない。
誰と誰が戦っている戦争が見えないだけで、やっていることは権力による抑圧だ。
だからこそ自分で考え行動する事が大切なのだと思う。

僕自身が自分に課している事をいくつか書く。
先ずは簡単に良いと悪いを判断しない。
短期的に良い事が長期的に見れば悪いことはいくらでもあるし、逆もある。
ただその状況の中にいると見極めるのは難しく、そこで悪を決めつけてしまうのが楽なのだ。
「あいつが悪いからこんなことになっているんだ」
そうやって魔女裁判が開かれ、多くの人が殺された。
自分は正義で、相手は悪い、という思考の構造は今の世の中でもある。
男女の痴話喧嘩だって、結局のところはそれだ。
ヒットラーが悪かったから戦争が起こった、と考えればそこで思考が止まる。
何故そういう事が起こったのか、という考えに発展しない。
だってあいつが悪いから、それでおしまいだ。
どちらかを善、どちらかを悪というような構造はとてもわかりやすく、ハリウッド映画だって水戸黄門だってみんなそうだ。
先ずはその考えから距離を置くことにより、冷静に考える事ができる。
これが大切なのだと思う。

そして次にやることは、自分の常識を外す。
誰もが自分の常識に沿って生きているが、常識というものは場所や時代によって異なる。
最近は歴史を勉強しているが、今の常識を昔の出来事に当てはめても何も分からない。
それには先ず常識を外して考える必要がある。
これはなかなか難しい作業だ。
だって人は皆、自分の常識に沿って生きている。
それを外すということは、自分の生き方さえ否定される可能性もあるのだ。
じゃあ自分は今の常識を外して、戦国時代の常識でやるから、他人を裏切って殺していく。
そうではない。
それを行動しろと言っているのではなく、物事を考える上での話だ。
自分の常識を外して考えると、相手の立場で考えることができる。
それができると自分というものも見えてくる。
自分自身というものはなかなか自分では見えないものだが、そういう思考をすることにより、自分の立ち位置や心の内側が見えるようになるという話だ。

さらに思考の話を続けると、悲観的に物を考えない。
悲観的な思考からは新しい発想は生まれない。
世の中それから自分を取り巻くと状況は変化し続けるものだ。
特に今はそうなので、新しい発想が必要とされる。
今まではこうだったから、という概念が通じない世界にいるのだと思う。
だから悲観的に考えないことが大切なのだろう。
なぜ悲観的な考えになるかというと、恐怖に心を支配されるからなのだと思う。
そうなると冷静な判断ができなくなる。
もっとひどくなればパニックになる。
今の世の中がまさにそれだ。
以前から何度も書いたが、人間の思考は大元までつきつめれば、愛か恐れかどちらかに行き着く。
自分の心の中を覗き込み、この判断、この行動の根源は愛なのか恐れなのか、そうやって問いかけることに答えがある。

もちろん危機管理は必要だ。
だがそれが本当の危険なのか、作られた危機感なのか。
まずは立ち止まって自分の周囲を見渡す。
その中で自分の存在、立ち位置を俯瞰的に見る。
どちらかに偏り過ぎる事なく、常にバランスを取りながら行動する。
そういう作業が必要なのだろう。

最近聞いてナルホドと思った事。
人間がすべき事で旅をする事、本を読む事、そして人と会う事というのがあった。
これを自分なりに解釈してみる。
まずは旅をする事、これは移動することにより意識の活性化ができる。
環境が変われば文化も生活も人の常識も変わる。
そういう事を見聞きする事で、自分の内部に変化があるのだと思う。
今は簡単に旅が出来ない世の中だが、隣町への小旅行でも、日帰りの山歩きでもそれはできる。
ただ海外旅行のような大きな移動の方が劇的な変化がある分、それが分かりやすいのは事実だと思う。
でも身の回りの小さな移動でも、心次第でそれを感じることは出来る。

そして本を読む事。
これは情報を得る事と僕は考える。
今やネットで情報は溢れているが、第三者が編集した情報にはそれなりの価値がある。
例えばこのブログは僕が書いて僕が編集している。
検閲する人はいないので、偏る可能性もある。
そういう意味でいろいろな人によって出来上がった本を読むことは意味があるのだろう。
ただし本に書いてある事が常に正しいとは思わない。
時代錯誤のものもあるし、意図的に改ざんされたものもあれば、ウソもある。
そこでいろいろな本を読んで、その中から自分なりに選択して取り込む作業も必要だ。
これはネットの情報でも全く同じ事が言える。

最後に人と会う事。
今は移動が制限された時代なので、直接会うことは難しい。
でも画面を通して相手の顔を見るのと、実際に会うのでは大きな違いがある。
人によってはオーラを持っている人もいるからそれを感じることもある。
このへんはスピリチュアルな話になってしまうが、とにかく実際に会うということに意味がある。
時にはそのことにより嫌な気ももらってしまう事もあるが、良い気を貰うこともあるし相手に与えることもできる。
それが僕が大事に思っているライブというものにつながっていく。

長々と書いてしまったが、簡潔に書くと、心に愛を持ってバランスよく生きていけということに尽きるだろう。
そこで一休さんの言葉
「大丈夫だ。心配するな なんとかなる」



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クィーンズタウンの家

2021-10-17 | 日記


南島に季節外れの雪が降った日にクィーンズタウンにやってきた。
酒蔵全黒の若き蔵人のユーマが日本に帰ることとなり、人手が足りなくなり呼ばれたのだ。
若いながら道理と味の分かるヤツで、ユーマだけにウマが合う。
その前の週に奥さんとクライストチャーチに来た時には、自ビールをしこたま飲ませ旨いものを喰わせた。
ワイナリーもこれから忙しい時だが、事情を分かってもらい2ヶ月間の休みをもらった。
期間限定のクィーンズタウン生活である。
今回の宿はクィーンズタウン郊外の友達の家。
家のテラスからは林の先に湖、そして山がドカンと見える。
長くクライストチャーチに居ると、やはりクィーンズタウンは美しい場所だと思う。
山と湖が創りだす立体的な地形はクライストチャーチには無い。
その代わりクライストチャーチは空が広く開放感があり、日照時間が長い。
どちらも一長一短といったところだ。



家には大きな暖炉、それもオープンファイヤーがある。
暖炉特有の暖かさが心地良い。
オープンファイヤーは焚き火と同じで、いわば家の中で焚き火をしているようなものだ。
何か、人類が原始の時代から行ってきた行動をする、そんな感じるのだ。
電気のヒーターとは違う、暖かさの質が違うとでも言えばいいのか、質の違いがある。
暖かさの反対の寒さでも質が違う。
クィーンズタウンの寒さは底冷えのする内陸特有のものだ。
海が近くにあるクライストチャーチでは同じ温度まで冷えても底冷えは無い。



家は木々に囲まれ鳥が多いのも嬉しい。
目の前でパタパタ飛ぶファンテイルを見ていると時間を忘れる。
鳥の声で目を覚ますのも心地良い。
友達のトモコが初めてニュージーランドに来て、森の中の山小屋に泊まった時の事である。
朝になり、鳥達が山小屋の近くで鳴き出した。
あまりに色々な音がするので、トモコはU F Oが来たと真剣に思った。
「どうしようUFOが来ちゃった」と恐る恐る山小屋のドアを開けると、鳥しかいなかった。
確かににツイという鳥は様様な声をだす。
中には機械的な音もある。
何の予備知識も無くこの音を聞いたらそう思うのも無理はない。
いやそれは、やっぱりトモコだからだな。



家の造りは木造で壁や天井が、木そのままなので音が響く。
床も絨毯ではないので、音が吸い込まれる事なく響く。
天井が高いのでエコーのように響く。
自分のギターの腕前が上がったのではないか、と勘違いするぐらいに良い音が出る。
ウクレレでポロポロとやるも良し、ギターをジャーンと鳴らすも良し。
林の中にあるような家だから、大きな音を出しても大丈夫。
バンドのセッションはまだやってないが楽しみだ。



テラスで鳥の声を聴きながらボケーっと山を眺める。
木漏れ日が心地良い。
何となく山に向って手を合わせる。
感じるものはただただ感謝の心。
全ての物事に感謝。
その想いを持ち続ければ、この先に何が起ころうが大丈夫。
そんなことをふと思った。
ありがたやありがたや。
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何もしない神様

2021-10-08 | 日記
タンケンツアーズのクレイグから電話があった。
撮影の仕事がクライストチャーチで1日だけあり、撮影アシスタントが必要だそうな。
雑用、まあ使いっ走りというところか。
「ところでお前、ズームは詳しいか?」とクレイグが尋ねた。
「いいや、全く分からない。そっちに関しては俺は全く役立たずだよ」
「そうか、俺も似たようなものだが、まあ何とかなるだろう」
どんな仕事の内容なのか、聞いてもピンと来ないし僕が準備するようなことは何もないので詳しくは聞かない。
ちなみに僕のズーム経験は、友達とズーム飲み会が1回、その他で1回やったぐらいだ。
仕事の前日に、クレイグ夫妻と僕達夫婦で夕食を共にし、旧交を温め仕事の大まかな話を聞いた。
クライストチャーチ郊外にあるリンカーン大学でズームの講義をする。
リンカーン大学は農業大学で、講義の内容は農業と環境について。
講師がこちらのカメラの前で話し、それを日本の学生達が講義をズームで聴く。
僕とクレイグの他に専門のカメラマンが一人。
僕がやることはほとんどなく、まあ頭数を揃えるぐらいのものらしい。

仕事当日、クレイグと連れ立ってリンカーン大学へ。
カメラマンと落ち合い、機材を運ぶ手伝いをして準備をする。
撮影の準備もカメラマンが一人でテキパキやるので、でる幕はなし。
クレイグは日本のNHKのディレクターとオンラインで繋がり、指示を受け講師に伝える仕事だ。
カメラの準備が済むと、あとは待つだけ。
ここで初の仕事。コーヒーを買ってくる。
コーヒーを飲んでおしゃべりしているうちにテストの時間となり、カメラテスト。
全て順調で問題なし。
ここで本日二つ目の仕事。弁当を買ってくる。
ぼんやりと満開の桜を眺めたり、買ってきた弁当を食べたりしているうちに本番の時間となった。

本番が始まり講師が喋りだすと問題発生。
音声が届いてないという知らせが、クレイグに伝わる。
リハーサルでは完璧で本番で不都合が出るというのはよくある話である。
みんなであれやこれややるが、僕は完全に蚊帳の外。
ズーム経験2回、携帯はガラケーの僕にできることは何もない。
それでも何とか繋がり、多少時間は押したが無事に講義も終了した。
ここで最後の仕事。コーヒーカップをカフェに返しに行った。

神様という概念は宗教によって違う。
キリスト教やイスラム教のように一神教もあれば、多神教もある。
日本はそれこそ八百万もいるので、神話に出てくる神様もいれば物や場所が神様にもなるし、実際に存在していた人が神様になる場合もある。
福の神、貧乏神、疫病神、死神など、現象が神になるものもある。
書いていて思いついたが、今回のコロナ騒動では疫病神がずいぶん頑張ったんだなぁ。
まあそんな具合に雑多な神様がごちゃごちゃいるのが日本で、そういう観点で見ると実に面白い。
ある技術がとんでもなく上手い状態を神業と言ったり、ものすごい人を神と呼んだり、一神教の人から見ればそれこそ罰当たりである。
それぐらい神というものが身近な存在で、どこにでもあるものなのだろう。
八百万の中には特に何もしない、ただいるだけという神様もいるのだそうな。
その神様が何をするわけではないが、そこにいるだけで全部が丸く収まる。
そんな神様がいるのが日本的でとても良い、そんな話をラジオで聞いた。
自分を神様に重ねるのもおこがましいが、その日の僕はまさにそれだった。
ただニコニコしながらカメラの後ろで座って撮影を眺めて、トラブルが起きた時には上手くいきますようにと祈った。
実際にやった仕事はコーヒーと弁当を買いに行ったぐらいだ。
これで少なくない給料をいただいた。
ただひたすら、ありがたやありがたや、と思うばかりである。
ただ、何もしないと言うか実際には何もできないのだが、これはこれで結構大変なのだ。
僕は除く全員がバタバタ動いている中で、ただオロオロと見守るのは精神的に疲れる。
またやりたいか、と聞かれたら即答は出来ない。
神様になるには百年早い、ということなんだろう。
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