凄まじい勢いで世の中が変化している。
僕自身は今の状況は戦時下だと思っている。
個人の移動の規制、言論統制、警察権の強化、マスメディアによる民衆の洗脳、強制的な個人の自由の剥奪。
戦時下なら全て当たり前のことだ。
それが世界中で起こっている。
今までの戦争と違うところは、具体的な戦場が無い。
目に見えない戦いはあるのだろうが、直接どこかでドンパチやっている戦争は見えない。
誰と誰が戦っている戦争が見えないだけで、やっていることは権力による抑圧だ。
だからこそ自分で考え行動する事が大切なのだと思う。
僕自身が自分に課している事をいくつか書く。
先ずは簡単に良いと悪いを判断しない。
短期的に良い事が長期的に見れば悪いことはいくらでもあるし、逆もある。
ただその状況の中にいると見極めるのは難しく、そこで悪を決めつけてしまうのが楽なのだ。
「あいつが悪いからこんなことになっているんだ」
そうやって魔女裁判が開かれ、多くの人が殺された。
自分は正義で、相手は悪い、という思考の構造は今の世の中でもある。
男女の痴話喧嘩だって、結局のところはそれだ。
ヒットラーが悪かったから戦争が起こった、と考えればそこで思考が止まる。
何故そういう事が起こったのか、という考えに発展しない。
だってあいつが悪いから、それでおしまいだ。
どちらかを善、どちらかを悪というような構造はとてもわかりやすく、ハリウッド映画だって水戸黄門だってみんなそうだ。
先ずはその考えから距離を置くことにより、冷静に考える事ができる。
これが大切なのだと思う。
そして次にやることは、自分の常識を外す。
誰もが自分の常識に沿って生きているが、常識というものは場所や時代によって異なる。
最近は歴史を勉強しているが、今の常識を昔の出来事に当てはめても何も分からない。
それには先ず常識を外して考える必要がある。
これはなかなか難しい作業だ。
だって人は皆、自分の常識に沿って生きている。
それを外すということは、自分の生き方さえ否定される可能性もあるのだ。
じゃあ自分は今の常識を外して、戦国時代の常識でやるから、他人を裏切って殺していく。
そうではない。
それを行動しろと言っているのではなく、物事を考える上での話だ。
自分の常識を外して考えると、相手の立場で考えることができる。
それができると自分というものも見えてくる。
自分自身というものはなかなか自分では見えないものだが、そういう思考をすることにより、自分の立ち位置や心の内側が見えるようになるという話だ。
さらに思考の話を続けると、悲観的に物を考えない。
悲観的な思考からは新しい発想は生まれない。
世の中それから自分を取り巻くと状況は変化し続けるものだ。
特に今はそうなので、新しい発想が必要とされる。
今まではこうだったから、という概念が通じない世界にいるのだと思う。
だから悲観的に考えないことが大切なのだろう。
なぜ悲観的な考えになるかというと、恐怖に心を支配されるからなのだと思う。
そうなると冷静な判断ができなくなる。
もっとひどくなればパニックになる。
今の世の中がまさにそれだ。
以前から何度も書いたが、人間の思考は大元までつきつめれば、愛か恐れかどちらかに行き着く。
自分の心の中を覗き込み、この判断、この行動の根源は愛なのか恐れなのか、そうやって問いかけることに答えがある。
もちろん危機管理は必要だ。
だがそれが本当の危険なのか、作られた危機感なのか。
まずは立ち止まって自分の周囲を見渡す。
その中で自分の存在、立ち位置を俯瞰的に見る。
どちらかに偏り過ぎる事なく、常にバランスを取りながら行動する。
そういう作業が必要なのだろう。
最近聞いてナルホドと思った事。
人間がすべき事で旅をする事、本を読む事、そして人と会う事というのがあった。
これを自分なりに解釈してみる。
まずは旅をする事、これは移動することにより意識の活性化ができる。
環境が変われば文化も生活も人の常識も変わる。
そういう事を見聞きする事で、自分の内部に変化があるのだと思う。
今は簡単に旅が出来ない世の中だが、隣町への小旅行でも、日帰りの山歩きでもそれはできる。
ただ海外旅行のような大きな移動の方が劇的な変化がある分、それが分かりやすいのは事実だと思う。
でも身の回りの小さな移動でも、心次第でそれを感じることは出来る。
そして本を読む事。
これは情報を得る事と僕は考える。
今やネットで情報は溢れているが、第三者が編集した情報にはそれなりの価値がある。
例えばこのブログは僕が書いて僕が編集している。
検閲する人はいないので、偏る可能性もある。
そういう意味でいろいろな人によって出来上がった本を読むことは意味があるのだろう。
ただし本に書いてある事が常に正しいとは思わない。
時代錯誤のものもあるし、意図的に改ざんされたものもあれば、ウソもある。
そこでいろいろな本を読んで、その中から自分なりに選択して取り込む作業も必要だ。
これはネットの情報でも全く同じ事が言える。
最後に人と会う事。
今は移動が制限された時代なので、直接会うことは難しい。
でも画面を通して相手の顔を見るのと、実際に会うのでは大きな違いがある。
人によってはオーラを持っている人もいるからそれを感じることもある。
このへんはスピリチュアルな話になってしまうが、とにかく実際に会うということに意味がある。
時にはそのことにより嫌な気ももらってしまう事もあるが、良い気を貰うこともあるし相手に与えることもできる。
それが僕が大事に思っているライブというものにつながっていく。
長々と書いてしまったが、簡潔に書くと、心に愛を持ってバランスよく生きていけということに尽きるだろう。
そこで一休さんの言葉
「大丈夫だ。心配するな なんとかなる」
僕自身は今の状況は戦時下だと思っている。
個人の移動の規制、言論統制、警察権の強化、マスメディアによる民衆の洗脳、強制的な個人の自由の剥奪。
戦時下なら全て当たり前のことだ。
それが世界中で起こっている。
今までの戦争と違うところは、具体的な戦場が無い。
目に見えない戦いはあるのだろうが、直接どこかでドンパチやっている戦争は見えない。
誰と誰が戦っている戦争が見えないだけで、やっていることは権力による抑圧だ。
だからこそ自分で考え行動する事が大切なのだと思う。
僕自身が自分に課している事をいくつか書く。
先ずは簡単に良いと悪いを判断しない。
短期的に良い事が長期的に見れば悪いことはいくらでもあるし、逆もある。
ただその状況の中にいると見極めるのは難しく、そこで悪を決めつけてしまうのが楽なのだ。
「あいつが悪いからこんなことになっているんだ」
そうやって魔女裁判が開かれ、多くの人が殺された。
自分は正義で、相手は悪い、という思考の構造は今の世の中でもある。
男女の痴話喧嘩だって、結局のところはそれだ。
ヒットラーが悪かったから戦争が起こった、と考えればそこで思考が止まる。
何故そういう事が起こったのか、という考えに発展しない。
だってあいつが悪いから、それでおしまいだ。
どちらかを善、どちらかを悪というような構造はとてもわかりやすく、ハリウッド映画だって水戸黄門だってみんなそうだ。
先ずはその考えから距離を置くことにより、冷静に考える事ができる。
これが大切なのだと思う。
そして次にやることは、自分の常識を外す。
誰もが自分の常識に沿って生きているが、常識というものは場所や時代によって異なる。
最近は歴史を勉強しているが、今の常識を昔の出来事に当てはめても何も分からない。
それには先ず常識を外して考える必要がある。
これはなかなか難しい作業だ。
だって人は皆、自分の常識に沿って生きている。
それを外すということは、自分の生き方さえ否定される可能性もあるのだ。
じゃあ自分は今の常識を外して、戦国時代の常識でやるから、他人を裏切って殺していく。
そうではない。
それを行動しろと言っているのではなく、物事を考える上での話だ。
自分の常識を外して考えると、相手の立場で考えることができる。
それができると自分というものも見えてくる。
自分自身というものはなかなか自分では見えないものだが、そういう思考をすることにより、自分の立ち位置や心の内側が見えるようになるという話だ。
さらに思考の話を続けると、悲観的に物を考えない。
悲観的な思考からは新しい発想は生まれない。
世の中それから自分を取り巻くと状況は変化し続けるものだ。
特に今はそうなので、新しい発想が必要とされる。
今まではこうだったから、という概念が通じない世界にいるのだと思う。
だから悲観的に考えないことが大切なのだろう。
なぜ悲観的な考えになるかというと、恐怖に心を支配されるからなのだと思う。
そうなると冷静な判断ができなくなる。
もっとひどくなればパニックになる。
今の世の中がまさにそれだ。
以前から何度も書いたが、人間の思考は大元までつきつめれば、愛か恐れかどちらかに行き着く。
自分の心の中を覗き込み、この判断、この行動の根源は愛なのか恐れなのか、そうやって問いかけることに答えがある。
もちろん危機管理は必要だ。
だがそれが本当の危険なのか、作られた危機感なのか。
まずは立ち止まって自分の周囲を見渡す。
その中で自分の存在、立ち位置を俯瞰的に見る。
どちらかに偏り過ぎる事なく、常にバランスを取りながら行動する。
そういう作業が必要なのだろう。
最近聞いてナルホドと思った事。
人間がすべき事で旅をする事、本を読む事、そして人と会う事というのがあった。
これを自分なりに解釈してみる。
まずは旅をする事、これは移動することにより意識の活性化ができる。
環境が変われば文化も生活も人の常識も変わる。
そういう事を見聞きする事で、自分の内部に変化があるのだと思う。
今は簡単に旅が出来ない世の中だが、隣町への小旅行でも、日帰りの山歩きでもそれはできる。
ただ海外旅行のような大きな移動の方が劇的な変化がある分、それが分かりやすいのは事実だと思う。
でも身の回りの小さな移動でも、心次第でそれを感じることは出来る。
そして本を読む事。
これは情報を得る事と僕は考える。
今やネットで情報は溢れているが、第三者が編集した情報にはそれなりの価値がある。
例えばこのブログは僕が書いて僕が編集している。
検閲する人はいないので、偏る可能性もある。
そういう意味でいろいろな人によって出来上がった本を読むことは意味があるのだろう。
ただし本に書いてある事が常に正しいとは思わない。
時代錯誤のものもあるし、意図的に改ざんされたものもあれば、ウソもある。
そこでいろいろな本を読んで、その中から自分なりに選択して取り込む作業も必要だ。
これはネットの情報でも全く同じ事が言える。
最後に人と会う事。
今は移動が制限された時代なので、直接会うことは難しい。
でも画面を通して相手の顔を見るのと、実際に会うのでは大きな違いがある。
人によってはオーラを持っている人もいるからそれを感じることもある。
このへんはスピリチュアルな話になってしまうが、とにかく実際に会うということに意味がある。
時にはそのことにより嫌な気ももらってしまう事もあるが、良い気を貰うこともあるし相手に与えることもできる。
それが僕が大事に思っているライブというものにつながっていく。
長々と書いてしまったが、簡潔に書くと、心に愛を持ってバランスよく生きていけということに尽きるだろう。
そこで一休さんの言葉
「大丈夫だ。心配するな なんとかなる」