あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

命の洗濯

2012-11-16 | ガイドの現場
長いツアーの合間、お昼で終わる仕事があった。
午後はまるまる自由である。
どこかに歩きに行こうと思ったが、山の高い所には雪が積もり、風も強い。
尾根の上では雪が強風に舞い上がっているのが町からも見える。
こんな時に山に登っても、風に吹き飛ばされないよう、身をかがめていなければならない。
自然の中では人間は圧倒的に無力なのだ。
とてもではないが、景色のいい所でまったりできる日ではない。
こういう時にうってつけのコースがある。
僕は友達のノボルとリエを誘い、レイクシルバンへ向った。
クィーンズタウンからのドライブは絶景の中を走る。
NZの中でも指折りの景色の良いドライブだ。
同行したリエはクィーンズタウンで働いているが、こちら側へ行くのは初めてだと言う。
道中から景色に感動しっぱなしだ。
こういう人といると僕もうれしくなる。
以前出会った人はクィーンズタウンの空港に着くと開口一番こう言った。
「ここは何もない所だな」
快晴で山が綺麗に見えている状態でだ。
「そうですね。ここは何もない所なんですよ。田舎ですからね。」
「ふーん、つまらない所だな」
こういう時の僕はとてもつまらないガイドとなる。
同じシチュエーションでも別の人はこう言った。
「ここは山も素晴らしいし、湖もきれいで素晴らしい所ね」
「そうですね。ここは素晴らしい所なんです。この湖は氷河が削った後にできたもので、険しい山に氷河がぶつかって向きを変えていた所なんですよ。このずーっと上流には今でも氷河はあるし、その麓には神秘的なブナの原生林もあるんですよ」
「そうなの。ワクワクするわね」
とまあ会話も盛り上がるわけだ。
何も無い所ととるか、素晴らしい所ととるかは、その人次第である。
バケツを逆さから見れば、底がなくフタが開かない入れ物だ。
感動しっ放しのリエにボクは言った。
「この先、どんどん変わっていくからね。もっともっと美しい世界に入っていくよ」
「ハイ、楽しみです」
彼女の瞳はきらきらと輝き、この瞬間を楽しんでいるのがありありと見える。
彼女とは二周りも年が離れているが、自然の美しさに感動する心に年は関係ない。







レイクシルバンのトラックは僕が一番好きな場所の一つである。
ここには何十回来た事だろう。
お客さんと、友達と、そして一人で。
毎回一緒に歩く顔ぶれが変わるが、何回来ても飽きる事が無い。それぐらい素晴らしい場所だ。
つり橋を渡り森に入るとそこは別世界である。
足元にはコケが生え、ブナが生い茂る。宮崎駿の『もののけ姫』の世界だ。
森が風を遮ってくれるので、外の強風が嘘のように静かだ。
鳥のさえずりは森に響き、頭上の梢が風できしむ。
この山道の良い所は変化に富んでいることだ。
どんなにきれいな場所でも単調だと飽きる。
だがここは森の奥に行くにしたがってどんどん変化する。
コケの種類も変われば、木の生え方も違う。
途中には内側が空洞になったブナの木があり、その中は人間が何人か入れるぐらいの大きさだ。
僕も何回か入った事があるが、木の中に入れるなんてそうそうできることではない。
木の内側は不思議な空間で、妙に心が休まる。
こういうことは子供に体験させるのも良い。
大きなコブを持つ木の側は必ず立ち寄る場所だ。
ブナは時おりコブをつける。
木の幹よりも大きなコブをつける木や、小さなコブをたくさんつける木、これをボクは木の個性と呼ぶ。
そうやって見ると一本一本が全て違う。
大きなコブをどかんとつける木や、小さなどんぶりみたいなコブをポコポコつける木。
木にだって個性はある。
ある人はこういうようなコブを見て、「何か木が苦しんでいるみたいで、取って欲しがっているようだ」、と言った。
それはその人の心の奥にある恐怖、癌やそういうものに対する恐れなのだろう。
ボクはそうは思わない。こういうコブを見て、木が自慢しているような気がする。
「ねえ、見て見て。俺のコブはこんな大きいのができたんだぞ」
「私のコブは小さいけど、こんなにたくさんできたのよ」
「おいらのコブの形を見てよ。いい形してるでしょ?」
そんな木の会話が聞こえてきそうだ。








こういう所を歩いていて大切なのは心を空っぽにすることだ。
森にはエネルギーが満ちていて、人間がそこに行くと森の気をもらうことができる。
森林浴で気持ちがいいと言うのは、人間がエネルギーを受け取っている証拠なのだ。
これも心が空っぽでなければエネルギーは入ってこない。
大統領選挙や株の話をしていたら、意識がそこへ行ってしまい森の気は感じられない。
大きな声で「隣の山田さんが・・・」などと話していたら、かすかな鳥の鳴き声や葉っぱが風でこすれ合う音は聞こえないし、鳥だってどこかへ行ってしまう。
感性を高めて五感を研ぎ澄ませる。
目に見えるものだけではなく、わずかな風の動きを肌で感じる。
靴底を通して伝わる落ち葉やコケの感触、森の匂い、水が流れる音に意識を向ける。
そして美しいものを見たときには「きれいだな」と口に出してつぶやく。
「きれいだ」という言葉を発することによって、人はより多くの自然のエネルギーを受け取ることができる。
自然のエネルギーをたっぷりと受け入れ自分が満ち足りると、人からエネルギーを奪う必要がなくなる。
それどころか他人にそのエネルギーを分け与える事ができる。
人間関係は良好で争いがなくなり、身体は健康、いい事尽くめだ。
今の世の中で問題があるのは、人と自然との繋がりが途切れてしまったことだ。
本来、人は自然から無尽蔵のエネルギーを受け取れるのだが、自然との繋がりが絶えるとエネルギーが足りなくなるので、他の人からそれを奪おうとする。
人間関係のいざこざは全てエネルギーの奪い合いの結果だ。
これからの世の中でキーワードとなるのは自然との繋がり。
これをなくしての将来はありえない。







森を進むと小鳥がでてきた。ロビンである。
ロビンは最も人間に近寄ってくる鳥で、こっちがじっとしていると靴の上にも乗ってくる。
好奇心が旺盛なのだ。
今日は時間がたっぷりあるので、目の前でバードウォッチングだ。
先を急ぐ山歩きだとこうもいかないが、今日のような森林浴ではこれも楽しみなのである。
靴で地面の落ち葉をどかすと鳥がトントンと近づいてくる。
可愛いからといってこちらが手を差し伸べると鳥は逃げてしまう。
逆に一歩引いてあげると、鳥の方から近寄って来る。来る時は来るし、来ない時は来ない。
人間と遊ぶかどうかは鳥が決めるのだ。
この森の住民は鳥であり、僕たち人間はあくまでよそ者だ。
人間本位の考え方では自然の中で遊べない。
この森は鳥が多く、他の場所では見られないような鳥もいる。
100ドル札の裏に印刷されているモフア、イエローヘッドという鳥は飛べる鳥だが、イタチなどの敵が来ると木の穴の奥に逃げてしまうので簡単に捕まって殺されてしまう。
天敵のいない国で育った鳥は逃げ方を知らない。
人間が持ち込んだ動物や自然破壊により、多くの鳥が絶えた。
友人トーマスはそれを何とかしようと、自然を保護する仕事についている。
トーマスの働く場所では、このモフアは一時は絶滅してしまったが、捕食動物を減らしモフアを再び森に放したそうな。
明るいニュースである。世の中、暗いニュースばかりではない。
そんな希少価値のモフアもこのレイクシルバンの森には多い。
頭上でその鳥の鳴き声は聞こえた。だが姿は見えない。
目には見えなくとも、僕はその鳥の存在を声によって感じることができる。
そういうことを人に伝えるのがガイドの仕事である。
森の住民のおしゃべりを聞くのは楽しいものでもある。








さらに進むと人工的な物も出てくる。
台車の車輪だ。
ここは開拓当時、木を切り出していた場所だ。
道は真っ直ぐに進み、枕木の跡もある。レールを敷いて切った木を運んでいた跡だ。
開拓当時、クィーンズタウン近辺には森は無かったので、このあたりのブナの木を建材として使っていた。
ここへ来る途中でも、昔は森だったんだとはっきり分かる場所がある。
今、そこはワラビで覆われているが、遠目に見ればそこだけ森がぽっかりと途切れている。
自然を壊すのは一瞬だが、元に戻るには長い年月がかかる。
ここレイクシルバンの森でも伐採は行われていた。
道の両脇には切り倒された大木の切り株がある。
切り株にはびっしりとコケがついて、言われなければ分からないぐらいだ。
この森も一時は人の手が入ったが、開発は途中で止まり、かろうじて絶滅を免れた。
この森は今後、開発される事はないだろうが、ここと繋がっているルートバーンの森では今も開発の話がある。
ミルフォードサウンドに行くルートはニュージーランド観光の目玉なのだが、いかにせん遠い。
道が一本しか無いので、車で行くには大きく迂回しなければならない。観光客からブーイングも出る。
そこでルートバーンの森にトンネルを掘ろう、という話がある。
全く、いつの世もどこの場所でも、人間の考える事は同じ。
要は人間の欲のため、不必要に自然を切り崩すわけだ。
そこに自然に対する感謝や畏敬の念はない。
開発派は経済効果という伝家の宝刀をすぐに口に出すが、僕から見ればその経済に踊らされている操り人形の戯言だ。
もちろん地元では反対運動がある。当たり前だ。
ここは昔から、やれゴンドラをかけようだの、道を作ろうだのといった話があった。
その度に計画は棚上げになった。
はっきりと中止になったわけではない。
棚上げ状態でなんとか開発を免れていた場所だ。
このトンネルの話もうまく進まないと分かれば、すぐに又、別のルートを作ろうという話が持ち上がった。
何のための世界遺産か全く分かっていない。
世界遺産を食いものにする輩というのは世界中にいる。もちろん日本も例外ではない。
ボクは切り株についたコケを眺めながら、開発を免れたこの森をこうやって歩けることに感謝をし、手を合わせ拝んだ。





森の奥には森に囲まれた小さな湖、レイクシルバンがある。
歩道からちょっと外れた場所には小さなビーチもある。
ボクはここで過ごす時間が好きだ。
正面には氷河を乗せた山がそびえ、雲が風に流されて浮かぶ。
人工構造物は一切ない、文字通り手付かずの自然がある。
ここはなんと豊かな国なんだろう。
街の生活から、わずか1時間のドライブでこんな場所に来れる。
今、この瞬間が全てであり、過去も未来も現在もこの瞬間のなかに在る。
天国も地獄も、自然界も人間界も全ては一つであり、自分もその一部だ。
そしてこの瞬間の幸せを感じることにより、波動は高まり自分を高める。
これをボクは心の充電と呼んでいる。
帰りにはグレーノーキーの昔ながらのパブでビールを一杯。
クィーンズタウンではすでになくなってしまった、古き善きニュージーランドの田舎のパブである。
こういうパブはジャグでビールを売ってくれるのがまた嬉しい。
ノボルはこのパブが気に入ったのか、しきりに感動している。
こいつはレイクシルバンの森よりパブの感動の方が大きいのではないか。
まあそれもよかろう。
森歩きをした後、こういう古臭いパブで飲む一杯のビール。
これまた心の充電なのだから。
自分に納得のいく仕事ができて、その後に森歩きができ、さらに旨いビールが飲める。
全ての物事に、ありがたやありがたや、の1日である。
コメント (4)
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