中山道を馬場宿から鳥居本宿に向かう時、琵琶湖を望む絶景となっているのが摺針峠です。
江戸時代には中山道の道として当たり前の様に旅人が往来しましたが、戦国時代以前の中山道は岐阜から琵琶湖に突き当たって南に向かう道が使われていたのです、しかしこれでは回り道になるために織田信長が軍事用道路として整備を行ったのです、つまり、それ以前は人通りの少ない道だったのでした。
そんな摺針峠は何故そんな不思議な名前なのでしょうか? そこには一つの昔話が残っています。
“一人の修行中の若い僧が自分の修行に行き詰まっていました。そんな時に重い足を引き摺りながら登った峠の上で老婆と知り合います。
老婆は、一生懸命に斧を石に擦りつけていました。
僧は不思議そうに「何をしているのですか?」と訪ねると、老婆は「実はたった1本しかない針をなくしてしまい、孫に着物が縫えません、だからこうして斧を削って針にしようと思っています」と答えました。
僧は「そんな大きな斧すぐには針になりませんよ」と言うと「どうしても針が欲しいので」と老婆は答えたのです。
僧はそんな老婆の姿に胸を熱くして、言葉を詰まらせながら「私はどうしても立派な僧になりたい」とこぼしました。
すると老婆は「なれば宜しい」と微笑むとフッと消えたのです。
その僧は修行に行き詰まっていた自分の考えを改め、ついに「弘法大師」と呼ばれる立派な僧となり、この地を「摺針峠」と呼ぶようになったのです。
後年、この地を訪れた弘法大師は、そこにあったお宮さまの境内に杉の木を植え、「道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」と詠んだのです”
さぁ、あなたはこのお話をどう感じましたか?
弘法大師手植えの杉は、ご神木として大切にされ、この木の下に建てられた茶店が望湖堂でした。旅人は杉と琵琶湖を楽しみながら疲れを癒したのです。しかし、昭和56年12月15日明け方、大雪に覆われた杉の木は、その重さに耐え切れずに轟音と共に倒れてしまったのです。
とても残念ですが、今は切り株が残っていますよ。
江戸時代には中山道の道として当たり前の様に旅人が往来しましたが、戦国時代以前の中山道は岐阜から琵琶湖に突き当たって南に向かう道が使われていたのです、しかしこれでは回り道になるために織田信長が軍事用道路として整備を行ったのです、つまり、それ以前は人通りの少ない道だったのでした。
そんな摺針峠は何故そんな不思議な名前なのでしょうか? そこには一つの昔話が残っています。
“一人の修行中の若い僧が自分の修行に行き詰まっていました。そんな時に重い足を引き摺りながら登った峠の上で老婆と知り合います。
老婆は、一生懸命に斧を石に擦りつけていました。
僧は不思議そうに「何をしているのですか?」と訪ねると、老婆は「実はたった1本しかない針をなくしてしまい、孫に着物が縫えません、だからこうして斧を削って針にしようと思っています」と答えました。
僧は「そんな大きな斧すぐには針になりませんよ」と言うと「どうしても針が欲しいので」と老婆は答えたのです。
僧はそんな老婆の姿に胸を熱くして、言葉を詰まらせながら「私はどうしても立派な僧になりたい」とこぼしました。
すると老婆は「なれば宜しい」と微笑むとフッと消えたのです。
その僧は修行に行き詰まっていた自分の考えを改め、ついに「弘法大師」と呼ばれる立派な僧となり、この地を「摺針峠」と呼ぶようになったのです。
後年、この地を訪れた弘法大師は、そこにあったお宮さまの境内に杉の木を植え、「道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」と詠んだのです”
さぁ、あなたはこのお話をどう感じましたか?
弘法大師手植えの杉は、ご神木として大切にされ、この木の下に建てられた茶店が望湖堂でした。旅人は杉と琵琶湖を楽しみながら疲れを癒したのです。しかし、昭和56年12月15日明け方、大雪に覆われた杉の木は、その重さに耐え切れずに轟音と共に倒れてしまったのです。
とても残念ですが、今は切り株が残っていますよ。