写真は、河瀬氏の居城・河瀬城があった場所に建つ法蔵寺
推古天皇22年(614)6月13日、犬上御田鍬を大使とした五回目の遣隋使が派遣されました。
これが遣隋使の最後となるのですが、最後となった理由は日本側にあったのではなく、隋が滅びて唐が建国されたために次に派遣されるのが遣唐使となった為なのです。
ちなみに、舒明天皇2年(630)に派遣された最初の遣唐使の大使も犬上御田鍬でした。
犬上君は、近江国犬上郡を中心に治めた豪族で日本武尊の子孫だとも言われる一方で渡来人の末裔との説もあり、近江という内陸に居ながらにして朝鮮半島や中国大陸との文化交流が盛んな一族だったのです。
このために古代日本では様々な面で活躍を見せ、その最たる例が犬上御田鍬でした。
これは『犬上郡と犬上君』の時にも書いて居ますが、「犬上」という不思議な姓に惹かれたのか?手塚治虫さんの『火の鳥 太陽編』の主人公のモデルにもなった犬上君ですが、その勢力は戦国時代まではっきりと足あとを残したのです。
多賀大社に関わる大神主河瀬氏やそこから別れた甘露氏・連台寺氏などが豪族として活躍しています。
ちなみに、遣唐使としての犬上御田鍬の物と言われている世界最古の旅券(パスポート)が滋賀県内に現存しているとか居ないとか・・・(ウィキペディアにはそう紹介されているのですが確認はできていません、どこから出た説なんだろう?)
推古天皇22年(614)6月13日、犬上御田鍬を大使とした五回目の遣隋使が派遣されました。
これが遣隋使の最後となるのですが、最後となった理由は日本側にあったのではなく、隋が滅びて唐が建国されたために次に派遣されるのが遣唐使となった為なのです。
ちなみに、舒明天皇2年(630)に派遣された最初の遣唐使の大使も犬上御田鍬でした。
犬上君は、近江国犬上郡を中心に治めた豪族で日本武尊の子孫だとも言われる一方で渡来人の末裔との説もあり、近江という内陸に居ながらにして朝鮮半島や中国大陸との文化交流が盛んな一族だったのです。
このために古代日本では様々な面で活躍を見せ、その最たる例が犬上御田鍬でした。
これは『犬上郡と犬上君』の時にも書いて居ますが、「犬上」という不思議な姓に惹かれたのか?手塚治虫さんの『火の鳥 太陽編』の主人公のモデルにもなった犬上君ですが、その勢力は戦国時代まではっきりと足あとを残したのです。
多賀大社に関わる大神主河瀬氏やそこから別れた甘露氏・連台寺氏などが豪族として活躍しています。
ちなみに、遣唐使としての犬上御田鍬の物と言われている世界最古の旅券(パスポート)が滋賀県内に現存しているとか居ないとか・・・(ウィキペディアにはそう紹介されているのですが確認はできていません、どこから出た説なんだろう?)