長野県の重要な拠点とも言える松代は、大きな戦が行われた土地として知られています。
その戦は、川中島の戦い。
戦国の有力大名の武田信玄と上杉謙信が、通説では5回戦った場所でした。
特に4回目の戦いでは、両軍の正面きっての突撃や、大将同士の一騎討ちがあったという話が有名になっています。
これらの事については様々な考え方があり、定説が必ず正しいとは言い難い所も多々ありますが、ここではそれを語る場ではありませんので、行った報告のみをお知らせします。
そんな両雄対決の地には一騎討ちの像もあります。

さて、そんな川中島の戦いで、武田信玄が拠点にしたのが海津城でした。

江戸時代に入った後の元和8年(1622)、そんな海津城に城主として入り、真田家10万石の祖となったのが真田信繁(幸村)の兄・信之だったのです。
三代藩主幸道の時には、地名を「松代」と変えました。

城は石垣と再建された建物があります。天守台に登って川中島の戦いを広い視野で思い浮かべるのもこの地ならではの醍醐味です。
真田家の菩提寺は城下の長国寺ですが、ここの本堂は面白い屋根をしていて見ごたえがあります。

そんな松代藩の七代藩主は真田幸専、その父の名は井伊直幸だったのです。
という訳で、現地で真田幸専について質問すると、以前の大野城訪問の時同様に詳しい調査はあまりなされていませんでした。
真田と言えばやはり幸隆・昌幸・幸村の三代が有名で、ここに信之を加えたとしても戦国期の活躍がほとんどを占めてしまいます。
その上で、真田家には八代目に幸貫という藩主が登場し、幸貫は松平定信の子で佐久間象山を登用した名君としても名高いのです。
「幸専という藩主が居た事は前から解っていましたが、その実績はやっと調査が始まったばかりです」と真田宝物館の学芸員さんに教えていただきました、ただ「幸専は、松代藩祖真田信之の顕彰をするように動き始めた人物」だったそうです。
これからどのような事が出るのか?もしくは出ないのか?注目していきたいですね。
さて、先ほど名君と紹介しました幸貫の業績として藩校・文武学校の創設が挙げられます。
これは父親の寛政の改革に倣った物と考えられますが、今でもその建物の全容が分かるように残っているのが注目です。


弓道場や剣道・槍道の道場もそのまま観れます。

多くの藩校が、学校に変わり、その建物が学校教育の中で改築されていく中で、このように残った事は奇跡と言っていいのかもしれませんね。
そして幸貫が登用した佐久間象山。


松代城下に生まれ、多くを学び、勝海舟や吉田松陰・坂本龍馬などを育て、西洋の技術をいち早く理解し、電信や地震予測機まで作り上げた天才でしたが幕末の混乱の中で帝を彦根城に移す進言をして尊王の志士の怒りを買って、京都三条木屋町で河上彦斎に斬られました。
白馬に乗って京の町を闊歩した学者でありながら、斬った彦斎はそれまで多くの人を斬った経験があるのに「初めて人を斬った気がした」と後に回顧するくらいに気迫のある人物だったのです。
武田の赤備えたちが活躍した川中島
真田信之は、父と弟の助命嘆願を井伊直政にした記録があり
井伊家から養子が入り藩主となり
帝を彦根に移すと進言し殺された佐久間象山
彦根と松代は、時々関わる事があるようですね。
その戦は、川中島の戦い。
戦国の有力大名の武田信玄と上杉謙信が、通説では5回戦った場所でした。
特に4回目の戦いでは、両軍の正面きっての突撃や、大将同士の一騎討ちがあったという話が有名になっています。
これらの事については様々な考え方があり、定説が必ず正しいとは言い難い所も多々ありますが、ここではそれを語る場ではありませんので、行った報告のみをお知らせします。
そんな両雄対決の地には一騎討ちの像もあります。

さて、そんな川中島の戦いで、武田信玄が拠点にしたのが海津城でした。

江戸時代に入った後の元和8年(1622)、そんな海津城に城主として入り、真田家10万石の祖となったのが真田信繁(幸村)の兄・信之だったのです。
三代藩主幸道の時には、地名を「松代」と変えました。

城は石垣と再建された建物があります。天守台に登って川中島の戦いを広い視野で思い浮かべるのもこの地ならではの醍醐味です。
真田家の菩提寺は城下の長国寺ですが、ここの本堂は面白い屋根をしていて見ごたえがあります。

そんな松代藩の七代藩主は真田幸専、その父の名は井伊直幸だったのです。
という訳で、現地で真田幸専について質問すると、以前の大野城訪問の時同様に詳しい調査はあまりなされていませんでした。
真田と言えばやはり幸隆・昌幸・幸村の三代が有名で、ここに信之を加えたとしても戦国期の活躍がほとんどを占めてしまいます。
その上で、真田家には八代目に幸貫という藩主が登場し、幸貫は松平定信の子で佐久間象山を登用した名君としても名高いのです。
「幸専という藩主が居た事は前から解っていましたが、その実績はやっと調査が始まったばかりです」と真田宝物館の学芸員さんに教えていただきました、ただ「幸専は、松代藩祖真田信之の顕彰をするように動き始めた人物」だったそうです。
これからどのような事が出るのか?もしくは出ないのか?注目していきたいですね。
さて、先ほど名君と紹介しました幸貫の業績として藩校・文武学校の創設が挙げられます。
これは父親の寛政の改革に倣った物と考えられますが、今でもその建物の全容が分かるように残っているのが注目です。


弓道場や剣道・槍道の道場もそのまま観れます。

多くの藩校が、学校に変わり、その建物が学校教育の中で改築されていく中で、このように残った事は奇跡と言っていいのかもしれませんね。
そして幸貫が登用した佐久間象山。


松代城下に生まれ、多くを学び、勝海舟や吉田松陰・坂本龍馬などを育て、西洋の技術をいち早く理解し、電信や地震予測機まで作り上げた天才でしたが幕末の混乱の中で帝を彦根城に移す進言をして尊王の志士の怒りを買って、京都三条木屋町で河上彦斎に斬られました。
白馬に乗って京の町を闊歩した学者でありながら、斬った彦斎はそれまで多くの人を斬った経験があるのに「初めて人を斬った気がした」と後に回顧するくらいに気迫のある人物だったのです。
武田の赤備えたちが活躍した川中島
真田信之は、父と弟の助命嘆願を井伊直政にした記録があり
井伊家から養子が入り藩主となり
帝を彦根に移すと進言し殺された佐久間象山
彦根と松代は、時々関わる事があるようですね。