慶応3年(1867)6月12日、坂本龍馬が『船中八策』を後藤象二郎に示しました。
…と、あたかも当然のように書きましたが、実は『船中八策』が誕生した日は6月15日として知られています。この日に龍馬は長岡謙吉に船中八策を清書させて見せていることが中岡慎太郎の日記にあるとの記述が『坂本龍馬海援隊始末記』に載っているからです。
しかし、実際には後藤象二郎らと共に上洛するべく、6月9日に藩船夕顔で長崎を出発した龍馬が、12日朝に兵庫に到着する間のいずれかで後藤に示したものだと考えられます。だからこそ“船中”という文字が入るのでしょう。
でも船中八策はその原本は見つかっておらず、写本もありません。
『坂本龍馬海援隊始末記』に全文の写しがあるのです。
その内容は
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜ク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。
とあります。
大政奉還、二議会制、内閣制度、不平等条約の解消、憲法の制定、海軍拡大、御親兵創設、為替ルート安定という明治政府の根幹ともなるものですが、この前の月(5月17日)に赤松小三郎が福井藩の松平春嶽に提出した『庶政一新に関する意見書』に酷似していて、これが由利公正から明治政府に示され『新政府綱領八策』になった筈が、龍馬伝説のために『船中八策』という新しいフィクションを後世の人が入れたのか、それとも龍馬が小三郎の『庶政一新に関する意見書』を知っていて、それを基に『船中八策』を作ったのか、いずれにしても船中八策は、作成された過程から後世の評価まで、様々な謎を残したままなのです。
…と、あたかも当然のように書きましたが、実は『船中八策』が誕生した日は6月15日として知られています。この日に龍馬は長岡謙吉に船中八策を清書させて見せていることが中岡慎太郎の日記にあるとの記述が『坂本龍馬海援隊始末記』に載っているからです。
しかし、実際には後藤象二郎らと共に上洛するべく、6月9日に藩船夕顔で長崎を出発した龍馬が、12日朝に兵庫に到着する間のいずれかで後藤に示したものだと考えられます。だからこそ“船中”という文字が入るのでしょう。
でも船中八策はその原本は見つかっておらず、写本もありません。
『坂本龍馬海援隊始末記』に全文の写しがあるのです。
その内容は
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜ク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。
とあります。
大政奉還、二議会制、内閣制度、不平等条約の解消、憲法の制定、海軍拡大、御親兵創設、為替ルート安定という明治政府の根幹ともなるものですが、この前の月(5月17日)に赤松小三郎が福井藩の松平春嶽に提出した『庶政一新に関する意見書』に酷似していて、これが由利公正から明治政府に示され『新政府綱領八策』になった筈が、龍馬伝説のために『船中八策』という新しいフィクションを後世の人が入れたのか、それとも龍馬が小三郎の『庶政一新に関する意見書』を知っていて、それを基に『船中八策』を作ったのか、いずれにしても船中八策は、作成された過程から後世の評価まで、様々な謎を残したままなのです。