春から初夏へと移り、夜の外出が容易になった季節に注目を集める昆虫が蛍である。日本人には古くから親しまれていて最古の記録では『日本書紀』に記され、清少納言の『枕草子』には「夏は夜。つきのころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる」とも紹介されていて夏の名物が月夜と闇夜の蛍であることは平安時代には既に知られていたことだった。また、中国では象形文字にも「蛍」が登場していることも確認されている。そして卒業式の定番である『蛍の光』にも歌われるような生活に近い存在でもあるのだ。
時代は下って江戸時代になると、蛍狩りや蛍合戦など庶民は初夏の夜を蛍と共に楽しんでいたが明治時代からの近代化によって日本は急激な環境変化が起こり、都市部から蛍が消えてしまった。このような苦しい時代を越えて現在は蛍が環境学習と繋がり保護の活動が始まっている。
さて、滋賀県は琵琶湖を守るために日本国内でも早い時期に環境問題に取り組み始めた。それは今も続いているが、一つの成果として多くの場所で蛍が目撃されるようになっている。三島池や天野川そして守山市などでは一定の成果があり蛍の名所にもなっている。
このように現代では保護活動を行ってやっと観ることができる蛍だが前述したように江戸期以前は日本の多くの場所で当り前の用に飛んでいた。つまり戦国武将にとって蛍は当たり前の光景だった可能性が高い、城主であれば居城に舞う蛍で宴を行っていたかもしれないのだ。こう考えたとき、佐和山城址に蛍が存在するのかが気になった。
鳥居本では矢倉川に蛍の生息が確認されている。もう少し踏み込んで城のすぐ側での蛍を私が意識するようになって今年で三年目となった。そして佐和山城内堀跡とされる地では少ない数ながらも蛍が確認できた。その数は本当に少なく、儚い光は佐和山城落城により命を失わざるを得なかった石田家中の人々の魂の光にも見えてしまう。
たぶん石田三成も観たであろう蛍がまるで石田一族の悲運を表しているような様子を醸し出していて城の歴史の語り部であると感じた。これに伴い私は「佐和山城下に舞う蛍を『治部蛍』と呼びませんか?」との活動を行っている。歴史好きの多くが「治部」という言葉を耳にすれば石田三成を想像する。その三成に「蛍」という言葉を付けるだけで感傷に浸る言葉になってしまう。今後、武将蛍が各地に登場するきっかけになるかもしれない。
治部蛍の数は本当に少ない、見学に行くというよりは探しに行く蛍である。そしてその環境は決して蛍に優しい場所ではないそうなのだ。だからこそ皆で優しく見守って行けないだろうか?
余談ではあるが、蛍が舞う一時間ほど前大手口に行くと城址の後ろにマジックアワーが広がる。この風景も一見の価値があった。
時代は下って江戸時代になると、蛍狩りや蛍合戦など庶民は初夏の夜を蛍と共に楽しんでいたが明治時代からの近代化によって日本は急激な環境変化が起こり、都市部から蛍が消えてしまった。このような苦しい時代を越えて現在は蛍が環境学習と繋がり保護の活動が始まっている。
さて、滋賀県は琵琶湖を守るために日本国内でも早い時期に環境問題に取り組み始めた。それは今も続いているが、一つの成果として多くの場所で蛍が目撃されるようになっている。三島池や天野川そして守山市などでは一定の成果があり蛍の名所にもなっている。
このように現代では保護活動を行ってやっと観ることができる蛍だが前述したように江戸期以前は日本の多くの場所で当り前の用に飛んでいた。つまり戦国武将にとって蛍は当たり前の光景だった可能性が高い、城主であれば居城に舞う蛍で宴を行っていたかもしれないのだ。こう考えたとき、佐和山城址に蛍が存在するのかが気になった。
鳥居本では矢倉川に蛍の生息が確認されている。もう少し踏み込んで城のすぐ側での蛍を私が意識するようになって今年で三年目となった。そして佐和山城内堀跡とされる地では少ない数ながらも蛍が確認できた。その数は本当に少なく、儚い光は佐和山城落城により命を失わざるを得なかった石田家中の人々の魂の光にも見えてしまう。
たぶん石田三成も観たであろう蛍がまるで石田一族の悲運を表しているような様子を醸し出していて城の歴史の語り部であると感じた。これに伴い私は「佐和山城下に舞う蛍を『治部蛍』と呼びませんか?」との活動を行っている。歴史好きの多くが「治部」という言葉を耳にすれば石田三成を想像する。その三成に「蛍」という言葉を付けるだけで感傷に浸る言葉になってしまう。今後、武将蛍が各地に登場するきっかけになるかもしれない。
治部蛍の数は本当に少ない、見学に行くというよりは探しに行く蛍である。そしてその環境は決して蛍に優しい場所ではないそうなのだ。だからこそ皆で優しく見守って行けないだろうか?
余談ではあるが、蛍が舞う一時間ほど前大手口に行くと城址の後ろにマジックアワーが広がる。この風景も一見の価値があった。