彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの話(10)一橋治済

2025年03月09日 | 史跡
御三卿の一家である田安家唯一の男性であった田安賢丸(定信)が、田安家から奥州白河藩松平家に養子に出されました。

この時期、将軍徳川家治には家基という鷹狩りを好むくらい健康な世子がいて御三卿から将軍候補を迎える可能性は考えられていなかったため、定信が御三卿として部屋住同然の無意味な人生を送るくらいならば、譜代大名になり幕政にすら参画できる資格を得る方が温情であったと言えます。
『べらぼう』のなかでは、御三卿に十万石を与える無駄を嫌った田沼意次が描かれ、田沼意次も定信を白河藩に向かわせることを賛成し、むしろ積極的に進めた感がありますが、実際にこれを推進したのは一橋治済であったとされています。

史の中で黒幕と目される人物は数人挙げられますが、その中でも最大級の黒幕は本当の意味ではほとんど歴史に顔を出さない人物です。
そんな最大級の黒幕と言っていい人物の一人が一橋治済です。

治済の身分としては、御三卿の一家である一橋家の2代当主で、後に11代将軍徳川家斉の父親になります。
一橋家の初代である宗尹の四男として生まれながら、兄が他家へ養子に出たために一橋家当主となったのです。
当時、御三卿は実質的に江戸城に寄生するような存在で、幕府から見れば厄介者であり目に見えるところで将軍職を巡って争うような状態だったので、ここの子どもたちは何かと理由をつけて養子に出されてしまうのが当たり前でした。治済の兄たちが養子に行くのも珍しいことではなかったのです。
そして運命の巡り会わせで一橋家の当主になった治済は相当な野心家だったのです。

田沼意次の弟の意誠を一橋家家老に迎え入れ、意誠の死後はその子意致に続けて家老を任せ、そのパイプを活用して行くのです。この工作のひとつが定信の白河藩行きだったと考えられています。
このために、意次はギリギリまで治済を味方だと信じていた様子すら感じられます。
治済自身、定信を田安家から追い出したのは意次であると定信に信じ込ませたようで、のちに定信は田安家に治済の子を養子として迎え、田安家は一橋家に乗っ取られる形となるのです。

一橋徳川家屋敷跡
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