鎌倉幕府成立から間もない建久4年(1193)5月28日、幕府を揺るがせる大きな事件が起こった。工藤祐経暗殺事件、後の世に『曾我兄弟の仇討』として『忠臣蔵』『鍵屋の辻の決闘』と並んで日本三大仇討の一つに挙げられる出来事である。
事件の詳細は複雑であるためここではあまり紹介できないが、かいつまんで記すならば、北条義時や政子の外祖父である伊東祐親が、養父(実際には祖父)の子で義兄となる工藤祐継が没したことを利用し、祐継の子・工藤祐経に娘を嫁がせて後見人となりながらも、経祐を京へ向かわせて平家に仕えさせたのだった。祐経は京で六年間を過すが、その間に祐親は祐経の所領を奪い娘も離縁させてしまう。これを知った祐経は祐親を訴えるが、平家に対しての裏工作を行っていた祐親が勝利し祐経は浪々の身となる。元安2年(1176)祐親は狩りを催し、その最中に祐経が放った二人の郎党に襲われる。祐親は無事だったが嫡男河津祐泰が命を落としたのだ。
こののち、源頼朝と対立した伊東氏は没落、祐親も頼朝に殺され、それと反するように京で教養を得ていた祐経が頼朝に重用されるようになる。ここで問題となるのは祐親の代わりに殺された形になった祐泰に息子がいたことであった。まだ幼かった二人の息子と祐泰の死後に誕生した男児は母が曾我祐信に再婚し「曾我」姓を称するようになるが、源氏の世になっては伊東祐親の嫡孫に風当たりは強く、祐経は源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮で義経を想って舞った舞台で鼓を打って合わせられる程の文化人でもあったため頼朝の信頼が厚く、祐泰の二人の息子は祐経を仇と狙いながらも実行は難しかった。
しかし、兄弟の弟の元服に際し北条時政が烏帽子親になり時の字を与えて「時致」と名乗らせるなど反工藤祐経勢力が曾我兄弟(曾我祐成・時致)に味方し、祐泰殺害から17年が過ぎた建久4年に、頼朝が富士山の裾野で行った狩りの最中に祐経は兄弟に討たれたのだった。曾我兄弟の兄・祐成はその場で討たれ、時致は頼朝の命も狙ったために本陣近くで捕えられ祐経の息子犬房丸の家臣に斬られている。
この曾我時致は19歳で斬られたのだが、その孫が承久3年(1221)の承久の乱では北条軍に属し宇治川の戦いで討ち死した曾我祐重とされていて、この功績により息子祐盛に犬上郡久徳郷曾我の地頭職が補任され同地に曽我城が築城されたと伝わっている。現在では多賀町木曽の曽我城跡地付近に曽我神社が建立され『多賀町史』によれば配祀神に曾我祐成と時致(時宗)も祀られている。しかし19歳で亡くなった時致に29年後戦に出られる孫がいた可能性は極めて低く、系図を調べると「祐信―祐綱―祐重―祐盛」との繋がりがあるため、多賀曽我城に関わる家系は曾我兄弟の養父の子孫とも考えられるのだ。
曽我神社(多賀町木曽)
事件の詳細は複雑であるためここではあまり紹介できないが、かいつまんで記すならば、北条義時や政子の外祖父である伊東祐親が、養父(実際には祖父)の子で義兄となる工藤祐継が没したことを利用し、祐継の子・工藤祐経に娘を嫁がせて後見人となりながらも、経祐を京へ向かわせて平家に仕えさせたのだった。祐経は京で六年間を過すが、その間に祐親は祐経の所領を奪い娘も離縁させてしまう。これを知った祐経は祐親を訴えるが、平家に対しての裏工作を行っていた祐親が勝利し祐経は浪々の身となる。元安2年(1176)祐親は狩りを催し、その最中に祐経が放った二人の郎党に襲われる。祐親は無事だったが嫡男河津祐泰が命を落としたのだ。
こののち、源頼朝と対立した伊東氏は没落、祐親も頼朝に殺され、それと反するように京で教養を得ていた祐経が頼朝に重用されるようになる。ここで問題となるのは祐親の代わりに殺された形になった祐泰に息子がいたことであった。まだ幼かった二人の息子と祐泰の死後に誕生した男児は母が曾我祐信に再婚し「曾我」姓を称するようになるが、源氏の世になっては伊東祐親の嫡孫に風当たりは強く、祐経は源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮で義経を想って舞った舞台で鼓を打って合わせられる程の文化人でもあったため頼朝の信頼が厚く、祐泰の二人の息子は祐経を仇と狙いながらも実行は難しかった。
しかし、兄弟の弟の元服に際し北条時政が烏帽子親になり時の字を与えて「時致」と名乗らせるなど反工藤祐経勢力が曾我兄弟(曾我祐成・時致)に味方し、祐泰殺害から17年が過ぎた建久4年に、頼朝が富士山の裾野で行った狩りの最中に祐経は兄弟に討たれたのだった。曾我兄弟の兄・祐成はその場で討たれ、時致は頼朝の命も狙ったために本陣近くで捕えられ祐経の息子犬房丸の家臣に斬られている。
この曾我時致は19歳で斬られたのだが、その孫が承久3年(1221)の承久の乱では北条軍に属し宇治川の戦いで討ち死した曾我祐重とされていて、この功績により息子祐盛に犬上郡久徳郷曾我の地頭職が補任され同地に曽我城が築城されたと伝わっている。現在では多賀町木曽の曽我城跡地付近に曽我神社が建立され『多賀町史』によれば配祀神に曾我祐成と時致(時宗)も祀られている。しかし19歳で亡くなった時致に29年後戦に出られる孫がいた可能性は極めて低く、系図を調べると「祐信―祐綱―祐重―祐盛」との繋がりがあるため、多賀曽我城に関わる家系は曾我兄弟の養父の子孫とも考えられるのだ。
曽我神社(多賀町木曽)