大阪中之島周辺には、江戸後期に主要な藩の蔵屋敷が並んでいて、米や藩の特産物の取引を行う場でもありました。
南側の交差点から蔵屋敷がある方を見ると資生堂が建っていました。
大坂の町はすべてが幕府の直轄地であったため、各藩は蔵屋敷を所有しているわけではなく名代と呼ばれる人々から借りている形になっていて、自由に移転などは出来なかったそうです。
彦根藩も大坂過書町(北浜)に蔵屋敷がありました。
地図で見ると、淀屋橋より一本東の栴檀木橋の南です。
(地図は、学研『歴史群像シリーズ 城と城下町2「大坂 大阪」』より)
まずは栴檀木橋を目指して、
南側の交差点から蔵屋敷がある方を見ると資生堂が建っていました。
大坂の町はすべてが幕府の直轄地であったため、各藩は蔵屋敷を所有しているわけではなく名代と呼ばれる人々から借りている形になっていて、自由に移転などは出来なかったそうです。
江戸後期は経済の時代になりつつあったので、商人たちと藩との付き合いも大変だったことでしょうね。
余談ですが、彦根藩大坂蔵屋敷の隣は盛岡藩南部家の蔵屋敷でした。
浅田次郎さんの『壬生義士伝』の始まりすぐに「大坂詰の南部藩士たちにとって、さしあたり配慮せねばならぬことは、塀ひとつを経て隣り合わせる彦根藩が、薩摩長州の陣に加わっているという事実である」
とも書かれています。つまりは彦根藩大坂蔵屋敷の隣が、この物語の主人公吉村貫一郎の孤独で壮絶な終焉地になるのです。