彦根藩大坂蔵屋敷は、中之島の近くにありましたが、中之島にはしばらく書いていた若江の戦いの木村重成を顕彰した『木村長門守表忠碑』が建っています。
字は日下部鳴鶴が書いていますので、旧彦根藩士が多く関わっているかもしれません。
もともと、中之島に豊国神社があり、その境内に西村捨三が中心となり明治9年(1876)碑を建立しました。
字は日下部鳴鶴が書いていますので、旧彦根藩士が多く関わっているかもしれません。
重成の首が宗安寺に埋まっていることを安藤家が公表したのも明治になってからですので、旧彦根藩士のなかで明治になってから重成の再評価があったのかもしれないですし、重成を討ったことを含めて大坂の陣のあとに彦根藩は15万石(安中3万石は除く)から30万石に加増されたことからも、藩として決して軽く扱ってはいない人物だったかもしれません。
昭和36年(1961)に豊国神社は、大阪城内に遷座しますが重成の碑だけはそのまま残されることになったのです。