源範頼は、義朝の六男。
母は遠江国池田宿の遊女と伝えられていますが、実は有力者の娘だったのではないか?との説もあります。
池田辺りの蒲御厨で育ったことから、蒲冠者とも呼ばれていて、歌舞伎『女暫』では蒲冠者で悪役として登場します。
兄の源頼朝が富士川の戦いで勝利したときに頼朝陣営に加わりますが、三人の異母弟(阿野全成・源義円・源義経)のような単身に近いような参戦ではなく、甲斐源氏で遠江に攻略した安田義定の兵を率いての参戦だったと考えられ、頼朝と甲斐源氏の仲介者だった可能性もあります。
やがて、鎌倉を拠点にして動かない頼朝の代理として平家追討の大将となり、北条義時や梶原景時、和田義盛、比企能員などを従えて平家と戦いました。義経の活躍が局地的なものとするならば、その活躍が活きるための下地を固めたのが範頼軍と言えるのです。
しかし、鎌倉幕府開幕後の頼朝による甲斐源氏有力者の粛清や、曽我兄弟の仇討に妙な関わり方をしていたために頼朝に疑われ、修善寺温泉の信功院に幽閉され、梶原景時や仁田忠常に討たれたのです。
修繕寺近くの日枝神社は、信功院跡に庚申堂が建てられた場所で、今も庚申碑が残っています。
また、少し離れた場所ですが修善寺温泉の街中に範頼の墓があります。