彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

源平墨俣川の戦い

2022年03月10日 | 史跡
治承5年(1181)3月10日、墨俣川の戦いで源義円らが討死しました。


源義円は、源義朝の八男、母は常盤御前で平治の乱で義朝が殺害されたあとで常盤御前が平清盛に捕われたときに連れていた三人の男子(今若、乙若、牛若)の一人、乙若丸です。
常盤御前の子は寺に入ることで助命を許され、乙若丸も園城寺で出家し父の名から「義」をとって「義円」と名乗ったとされています。

源頼朝が挙兵したのち、成長した三人の男子はそれぞれに頼朝陣営に加わります。
義円は、叔父源行家の挙兵に加わり頼朝に面会する前に討死したとの話もありますが、最近は頼朝陣営に加わったのちに頼朝の代理として行家軍と共に戦ったとの説もあります。

治承5年閏2月15日、平清盛死後に跡を継いだ宗盛は、平重衡に源氏討伐軍を進軍させ、3月10日、墨俣川(長良川)を挟んで両軍が対陣したのです。
行家は夜襲策を決行しますが、重衡らに見破られ源氏軍が渡川して戦いが始まり、義円は行家に指揮権を握られない為に自ら先頭に飛び出して名乗ったために平盛綱に討たれたのです。
享年25歳
この戦いでは、行家の子光家も討死していて行家自身も矢作川まで逃れますが、重衡は深追いせず軍を引いたのです。

これらの結果を見て、源義仲は木曽で挙兵し一気に軍を進めたとの説もあり、平家は勝利しましたが滅亡を早めたとも考えられるのです。

墨俣川古戦場には、義円を供養する地蔵堂や供養塔があり義円公園になっています。






すぐ近くには、義円の墓もあります。








コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 工藤茂光の子孫 | トップ | 源範頼の墓と終焉地 »
最新の画像もっと見る