彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

テーマ展『雛と雛道具』

2007年02月08日 | 博物館展示
今回は、彦根城博物館でこの時期になると展示される、毎年恒例のテーマ展『雛と雛道具』についてご紹介します。

以前、NHKで「美術館にはその場所でしか味わえない物語がある」という印象的な冒頭のナレーションで始まる美術館紹介番組がありました。
お雛様の季節に彦根城博物館で展示される雛道具のメインとなる展示物には、このナレーションこそが相応しい物語が残っています。

物語の主人公は井伊弥千代。
弥千代は、幕末の彦根藩主・井伊直弼がまだ埋木舎で藩主となる自分の運命をも想像ができない時に直弼の次女として誕生しました。
しかし、弥千代より先に誕生した直弼の子どもは夭折していたため、実質的には直弼が最初に育てた子どもとなったのです。弥千代はそんな直弼の愛情を一身に受けて育ったのです。

やがて、運命の悪戯から彦根藩主に就任した直弼は譜代大名筆頭として江戸城に詰める事が多くなりました、この時に直弼と共に勤めていたのが会津藩主・松平容保と高松藩主・松平胤だったのです。
この三家はそれぞれの江戸屋敷に家族ぐるみで出入りする程に仲良く交流していたと言われています。
そこで、弥千代は高松藩主の跡取となる聰(よりとし)と出会い二人は恋に落ちたのです。
参勤交代で高松への往復の途中で聰が弥千代を訪ねて彦根城に寄ったという記録も残っていますので、その交際ぶりが目に浮かぶようですね。

そして弥千代は聰に嫁ぐことになりました。
安政5(1858)年4月21日、二人の婚礼は行われました。
普通、彦根藩井伊家と高松藩松平家の婚礼と聞くと政略結婚のような印象を受けますが、もし、政略結婚なら、深い交流のある家に娘を嫁がせたりすることもありませんので、この二人は政治的な意味が全くない恋愛結婚だったのです。
そんな幸福な結婚をした最愛の娘の為に直弼が揃えた婚礼調度の雛形85件が博物館で展示される雛道具なのです。
婚礼当時、聰25歳・弥千代13歳と年の差がある夫婦でしたが、二人にとっては幸せな日々の始まりとなる筈でした。しかし、時代はこの若い夫婦に平穏な日々を許しませんでした。
婚礼の2日後に弥千代が里帰りとして彦根藩邸に戻る日、父・直弼が大老に任命されたのです。
この後、直弼は幕府最高責任者として厳しい政治を行いました、その中には弥千代の義父となった松平胤に対して、「身内である水戸藩への監督ができていなかった」という理由の厳重注意も行われたのです。

そして、婚礼の2年後に桜田門外の変が起こり直弼が暗殺されると、井伊家に対する幕府の風当たりが強くなったのでした。
彦根藩はこの後、10万石が減俸され、直弼の罪を償い続けたのです。

そんな実家の影響が弥千代の生活にも響きました高松藩士達に追い出されたのか、自ら「高松藩や聰に迷惑がかかる」と口にしたのかは想像の域を出ませんが、弥千代は彦根に戻ってきたのです。
この時、雛道具も弥千代と共に彦根にやってきたのでした。
桜田門外の変で離れ離れになった若い夫婦をよそ目に、世の中は大きな革新の時代を迎えます。

やがて明治維新が起こり、江戸幕府そのものが無くなりました。そして、離縁から9年後、聰はもう一度弥千代を妻に迎えたのです。
二人はその間お互いの事を想い続けていたのでした。
伯爵夫人として迎えられた弥千代でしたが、その再嫁道具の中に雛道具は含まれず、彦根に残されたのです。

昭和41年8月15日、この話が縁で彦根市と高松市は姉妹城都市の提携が行われ、以後深い交流が続いているのです。

毎年、彦根城博物館で行われるテーマ展『雛と雛道具』では、彦根に残された井伊弥千代の雛道具が展示されます。
優雅で繊細な大名文化を楽しむと共に、婚家ではなく実家に残された婚礼調度が見つめた歴史にも思いを馳せてはいかがですか?


平成19年は2月9日~3月18日までです。

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