廣濱神社の普光廃寺の塔心石
稲枝学区の普光寺町は、その町名の示す通り「普光寺」というお寺が建っていた場所だったと言われています。
普光寺が建立されたのは七世紀後半の白鳳時代(645~710年)の事で、周囲に残る字の地名から考えると、南向きに正門を構えて、東に金堂・西に塔を配置する古代寺院によく見られる“法隆寺式伽藍”だったのではないかと考えられています。
現在は、普光寺町の中にある廣濱神社の境内に塔の心柱に使われたと考えられている巨大な礎石が残っています。
この礎石の大きさは、『新修 彦根市史』によると2.75m×2.70mの不整形な方形(ほうけい)で高さは0.5mになるそうです。
その様な巨大な自然石を平らにして、中央に柱が入るように直径0.85m深さ0.11mの穴が空けられています。
また、ご丁寧にも穴の周囲には溝が作られていて排水の機能を果たしていたのだとか・・・
こういった現存資料から、この礎石は塔の最も重要な柱を支えていたと考えられ、この塔も相当の大きな建物だったようです。
今はそんな礎石しか残っていない普光寺ですが、古い記録を見てみると、鎌倉時代や室町時代には京都の御寺・泉涌寺(みてら・せんにゅうじ)の末寺(まつじ)として信仰を集めていた事が伺えます。
この頃の建物が、白鳳時代と同じ造りだったのかは分かりませんが、900年近くその場に大きな寺院があった事は間違いなさそうです。
しかし、織田信長が近江国内の寺社を焼き払った“元亀の兵火(がんきのへいか)”で焼失しその後、再建される事は無く、現在は菅原道真を祭る廣濱神社がその名残を静かに守っているのですよ。
この付近では軒丸瓦や軒平瓦も出土していて、礎石と共に近江の古代寺院を研究するための重要な手がかりともなっています。
稲枝学区の普光寺町は、その町名の示す通り「普光寺」というお寺が建っていた場所だったと言われています。
普光寺が建立されたのは七世紀後半の白鳳時代(645~710年)の事で、周囲に残る字の地名から考えると、南向きに正門を構えて、東に金堂・西に塔を配置する古代寺院によく見られる“法隆寺式伽藍”だったのではないかと考えられています。
現在は、普光寺町の中にある廣濱神社の境内に塔の心柱に使われたと考えられている巨大な礎石が残っています。
この礎石の大きさは、『新修 彦根市史』によると2.75m×2.70mの不整形な方形(ほうけい)で高さは0.5mになるそうです。
その様な巨大な自然石を平らにして、中央に柱が入るように直径0.85m深さ0.11mの穴が空けられています。
また、ご丁寧にも穴の周囲には溝が作られていて排水の機能を果たしていたのだとか・・・
こういった現存資料から、この礎石は塔の最も重要な柱を支えていたと考えられ、この塔も相当の大きな建物だったようです。
今はそんな礎石しか残っていない普光寺ですが、古い記録を見てみると、鎌倉時代や室町時代には京都の御寺・泉涌寺(みてら・せんにゅうじ)の末寺(まつじ)として信仰を集めていた事が伺えます。
この頃の建物が、白鳳時代と同じ造りだったのかは分かりませんが、900年近くその場に大きな寺院があった事は間違いなさそうです。
しかし、織田信長が近江国内の寺社を焼き払った“元亀の兵火(がんきのへいか)”で焼失しその後、再建される事は無く、現在は菅原道真を祭る廣濱神社がその名残を静かに守っているのですよ。
この付近では軒丸瓦や軒平瓦も出土していて、礎石と共に近江の古代寺院を研究するための重要な手がかりともなっています。