彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

磐余池の堤跡 現地見学会

2011年12月17日 | 史跡
『日本書紀』に記された人工池“磐余池(いわれいけ)”に使われたと思われる堤防の跡が発見されたとのことでしたので、現地見学に行くことにしました。

場所は、天香具山の麓になります。
天香具山といえば、すぐ近くには藤原京跡もありますので、ちょっと寄り道しました。





史跡を残すために広い敷地が使われているのも、歴史が奥深い奈良県ならではかもしれません。

そして藤原京から天香具山を越えたところが、今回の見学場所である磐余池です。
今は田畑が広がっていますが、飛鳥時代にはここに大きな人工池がありました。

人口池は、堤防を造って水を堰き止める必要があります、そしてその磐余池の堤防に所に聖徳太子の父親である用明天皇が宮殿を設けた記述もあるのです。

今回の発掘では、堤防の跡と掘立柱の塀に囲まれた大きな壁の建物跡も見つかっています。
・深さ3.2mの堤防跡

・掘立柱の跡(杭は、観た人がわかり易いように立てておられたもの)

・大壁建物跡


磐余池は、大津皇子の辞世の句「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」にも登場する場所ですので、今回の発見は、聖徳太子以前の歴史と太子よりあとの『万葉集』の時代を垣間見る大きな手掛かりになるようです。

今回は。現地説明ではなく見学会だったので、専門的なお話を聞くことはありませんでしたが、今後の成果も楽しみですよね。
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12月17日、三十三間堂落慶

2011年12月17日 | 何の日?
長寛2年(1164)12月17日、蓮華王院(三十三間堂)が完成し落慶法要が行われました。



ここには、もともと後白河法皇が院政を行っていた法住寺殿がありましたが、ここに法皇の権力を示すための寺院として建立されたのが蓮華王院だったのです。

このころはお互いに協力し合う仲だった平清盛が建立の一切を差配し、後白河法皇に献上したのです。
建立当時は五重塔もあったそうですが残念ながら鎌倉時代に火災で焼失して、17年後に再建された本堂のみが現在に伝わっています。

さて、三十三間堂を、なぜ後白河法皇は自らの力で建立せずに清盛に造らせたのでしょうか?
実は、摂関政治の時代からの悪癖があったからなのです。
これは、管理人の自説ではなく、井沢元彦さんの説を支持している話ですが、藤原氏は三世一身法・墾田永年私財法を短い間隔で発布することによって自らの荘園を広げることに成功します。そして荘園で収める物を公田よりも安い割合にすることで荘園は拡大し、荘園には“不輸の権”“不入の権”が認められたために、公田は荒れてしまい荒れた土地を開墾すれば墾田永年私財法によって私財となり荘園化するという仕組みで、どんどんと天皇の収入である公田が減って、藤原氏の私的財産である荘園が拡大したのです。
その象徴として、黒澤明監督の『羅城門』に登場する門は都の正門であり、10円玉に描かれた平等院鳳凰堂は藤原氏の別荘であり、それが同じ時代の建物になるのです。
つまり、国家の正門は荒れ果てて家がない人が住む場所になっていて盗賊が出る場所であり、私的な別荘がこの世の極楽を表した場所になるのです。


平清盛の父である忠盛も、そんな制度と地方に赴任する制度を利用して主に西国を中心に材と基盤を築いた人物で、清盛はそれを受け継いでいたのです。
そしてそこで得た利益を朝廷に還元して、その分だけ出世を重ねました。

だからこそ、蓮華王院も清盛が建立し、後白河法皇に献上されるという構図ができあがったのです。
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