彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:石清水八幡宮行幸(4月11日)

2013年04月11日 | 何の日?
文久3年(1863)4月11日、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸しました。

1か月前に賀茂社へ行幸したことに続くこのイベントは、将軍家茂が上洛している間に、天皇の権威向上と攘夷を行わせることへの圧力でした。
そのために、将軍や幕臣を従えて都のあちらこちらへ行くことが目的だったのです。

しかしさすがの幕府もそのようなことに従い続けることへの不利を理解していたので、この日は家茂も徳川慶喜も仮病を使って従わなかったのです。
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150年前:弥千代離縁(4月9日)

2013年04月09日 | 何の日?
文久3年(1863)4月9日、井伊直弼の次女弥千代が、離縁されて高松藩から彦根藩の藩邸に戻りました。

井伊直弼が大老に就任する2日前の安政5年(1858)4月21日に婚礼を行い、高松藩世子・松平頼聡に嫁いだ弥千代は、当時では珍しい恋愛結婚だったこともあり、12歳の年の差を超えて幸福な結婚生活を送っていました。
しかし、桜田門外の変が起こり弥千代の実家である彦根藩の立場が悪くなり、文久2年には彦根の中での政変が起こって、直弼に近かった宇津木六之丞や長野主膳そして桜田門外の生き残りなどが処刑されてしまったのです。それでも幕府は彦根藩に十万石減封との処分を下しました。

高松藩重臣・松崎渋右衛門はこの事態を受けて頼聡に「これから朝廷と友好を結ぼうとするなら奥方様の存在ははばかられます」と詰め寄ります。
頼聡は「自分は大老のした事も正しいと思う、ましてや夫婦の絆を切る事は人倫に劣る、離縁はしない」と言い返したのですが、ついには渋右衛門に押し切られる形で離縁せざるを得なくなったのです。

弥千代は静かにこれに従って彦根藩邸に戻ったのでした。

明治2年になり松崎渋右衛門は高松藩士たち14名に「お若く仲睦まじい夫婦を、まるで生木を裂くように離縁させ、己は水戸藩より褒美を受けて私服を肥やした」との理由で暗殺されます。
そして明治5年には頼聡がもう一度弥千代を妻に迎えるのです。
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地域通貨「彦」交付

2013年04月07日 | イベント
今年も、地域通貨“彦”交付の時期がやってきました。

この4月1日からはエコバックを持っていないと買い物に余計な出費がかかるので、便利に仕えそうなひこにゃんエコバッグです。
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150年前:壬生浪士組の金策(4月3日)

2013年04月03日 | 何の日?
文久3年(1863)4月3日、土方歳三らが大坂の平野屋で百両を借り受けました。

借りたといえば聞こえがいいですが、これは尽忠報国のための借財と言う大義を持った一方的な搾取になっています。
記録によって関わってくる人物が変わってくるのですが、大坂の平野屋五兵衛から百両を借りたとして、野口健司・永倉新八・沖田総司・土方歳三の名が見られるものと、新見錦・近藤勇・芹沢鴨の名が上がるものがあるのです。


もともと春の間に上洛し会津藩お預かりになった壬生浪士組は冬物の着物から夏物に変えるための段取りをつけねらず、その過程での金策だったのです。夏には鴻池から二百両も借り受けることになります。

これらの金で、浪士組の隊服を作ることになり、『忠臣蔵』の赤穂浪士が着ている衣装をまねてデザインし、色は浅葱色の切腹用の衣装の色を取り入れ、袖口を山形に白く染め抜いた俗にいう「ダンダラ羽織」を大丸に発注するのです。
ちなみにダンダラ羽織は池田屋事件の頃にはほとんど着られておらず、1年前後しか使われなかった隊服でした。
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